『サヤームの鈴  日本人義勇隊の軍師になった男』



 アユタヤの朝は、水蒸気と腐葉土、そして何かが焦げる匂いから始まる。

 アユタヤ日本人町の片隅。

 高床式のハナの家の軒先で、レックは所在なげに立ち尽くしていた。

 昨夜、一人で客間に残され、供されたラオ・カーウ(白酒)をしこたま飲んだ挙句、そのまま板張りの床で泥のように眠りこけていたらしい。

 頭の芯に残る鈍い痛みと、南国の湿った熱気が、容赦なく現実を突きつけてくる。

 目の前を流れる、運河の濁った水面を見つめながら、レックは昨夜の光景を|反芻《はんすう
》した。

 馬上から射貫くような視線を投げかけてきた山田長政。

 あの圧倒的な威容は、歴史の教科書という薄っぺらい紙の上に閉じ込められるような代物ではなかった。

(あれが幻覚でないなら……俺は本当に、取り返しのつかない場所に来ちまったんだな)

 ほんの数日前までの自分なら、むさくるしいバンコクの安アパートでスマホのアラームに叩き起こされ、採用される見込みのないドキュメンタリーのプロットを書き散らし、唯一の生命線であるデリバリーアプリの配送依頼通知に一喜一憂する日々。

 交通渋滞の排気ガスと、液晶画面から流れる無機質な情報の洪水。

 それがレックの知る「世界」のすべてだった。

 しかし今、足元に触れるのはアスファルトではなく、ぬらりとした湿った土の感触だ。

 耳に届くのは自動車のエンジンの咆哮ではなく、名も知らぬ熱帯の鳥の鳴き声と、どこか遠くで響く木槌(きづち)の乾いた音。

 西暦1628年、仏歴2171年初頭。

 自分がその「過去」という名の異界に着地してしまったという事実が、未消化の酒とともに、重い鉛のように胃の底へ沈んでいた。

「……ちょっと!いつまで、死んだ魚みたいな目をして突っ立ってるんだい!」

 背後から、甲高い、しかし芯の通った声が突き刺さった。

 レックが弾かれたように振り返ると、そこには立ち昇る白い煙を割って、一人の女が仁王立ちしていた。

 ――お滝。

 ハナの母親であり、日本人町で一際繁盛している「(なまず)蒲焼(かばやき)屋」を切り盛りする女主人だ。

 彼女が年季の入った団扇(うちわ)を大きく振るうたび、炭火の上で脂の乗った鯰がパチパチと音を立てる。

 甘辛い醤油が焦げる香りが、レックの空腹を暴力的なまでに刺激した。

「母さん、この人まだ寝ぼけてるのよ。牢屋でプラ・ラーを食べさせたときは、あんなに威勢がよかったのに……」
 
 奥からハナが、呆れたような、それでいてどこか楽しげな笑みを浮かべて顔を出した。
 
 レックはお滝の顔をまともに直視できなかった。
 
 ハナが亡き恋人・有希(ゆき)の面影を宿しているなら、このお滝は、有希がそのまま過酷な時を重ね、異国の泥にまみれて魂の骨格を太くしたような、圧倒的な存在感を放っていたからだ。

「あんた、名は?」

「あ、あの……レック、です」

 お滝は娘のハナから聞いている筈なのに…

 彼女は手を止めずに網の上の鯰を素早く裏返した。
 
 その無駄のない手つきには、長年この町で生き抜いてきた女の凄みが宿っている。

「レック? シャムの人かい? “小さい”って意味だね。似合わない体格(がたい)をしてるじゃないか。ハナから聞いたよ。又左衛門様の前で、妙な《《呪術》》を使ったんだって?」

「呪術なんて、そんな大層なものじゃ……。ただの、言葉のまやかしです」

 レックは、以前仕事の合間に携帯で観た、タイの時代劇の主人公を思い出し、あえて語尾を丁寧に、かつ古風な響きを持たせたタイ語で答えた。

 その瞬間、お滝の持つ団扇がぴたりと止まった。

 彼女の瞳に、言い知れぬ驚きと、深い霧の奥から何かを探り当てるような鋭い色が浮かぶ。

「……あんた、今のその言葉、どこで覚えたんだい?」

 お滝の追及は、先ほどまでの世間話とは明らかに温度が違っていた。

「どこって……その、昔の伝承とか、その、あの……」

 “携帯でタイの時代劇を観て覚えました” などと言ったら、あの脂ぎった大きな団扇で頭を叩かれるのは目に見えていた。

「ふん。はぐらかす気かい。だがね、その節回し、言葉の選び方……。単なる商人や野良犬の使う言葉じゃない。昔、この町を訪れ、怪我や病に苦しむ民を救ったという、初老の僧侶の話を聞いたことがあるのさ……」

 お滝は煙を振り払うように団扇を一度大きく仰ぎ、物思いに空を見つめた。

「あのお方は、今の王位争いさえも悲しげな瞳で予見されていた。あんたの言葉には、あのお方と同じ、この時代の人間が知らない、不思議な響きがあるね……」

 お滝は黙って団扇を置き、焼き上がったばかりの鯰の一串と、もち米の詰まった《《竹筒》》(ガティップ・カオ)をレックの前に突き出した。

「さぁ、食いな!」 

 レックは差し出された串と竹筒を受け取った。

「いやぁ、あの、それは違うんです。そうじゃなくてあのぅ……」

「何をぶつぶつ言ってんだい。あのさ、うちはまだまだ働き手が足りなくてね、あんたのその図体、うちの"便利屋”として役立ててみるかい?」

 立ち昇る熱気とともに、口に含んだ鯰の脂は、昨夜の腐敗臭のするプラ・ラーとは対照的な、強烈で力強い生命の味がした。

「ああ……お、お願いします。何でもやります!」

「よし。じゃあ、まずはその薄汚い格好をどうにかしな。今日からあんたは、うちの看板息子として働いてもらうよ!」

 お滝の不敵な笑みは、有希が時折見せた、勝気で眩しい表情そのものだった。

「それと最近はなんだか王宮周辺が物騒になってきて、町にもシャム人の武官や官吏が出入りするようになってきたんだよ。あんた、何かあった時の用心棒だからね!」

 レックは何も言わず、ただただ首を上下に動かし頷くだけだった。

 1628年のアユタヤ—レックの《《異界》》での生活は、一軒の鯰の蒲焼屋の煙の中から、静かに、しかし抗いようのない勢いで動き出した。