『サヤームの鈴  日本人義勇隊の軍師になった男』



 ハナの屋敷は、日本人町の中心部に位置する、質素ながらも手入れの行き届いた高床式の建物だった。

 階下の軒先では母親のお滝が、炭火焼きの鯰の蒲焼を忙しなく売り捌いている――立ちのぼる香ばしい煙が路地に溶け、行き交う人々の足を自然と引き留めていた。

 高価な日本の鰻に代わり、タイの運河で獲れる鯰を工夫して調理したもので、現地の香辛料で作った甘辛いタレが絡んだ身は驚くほど柔らかく、町一番の繁盛店のようだった。

 夕刻になると、町人たちが足を止めては一串を頬張り、屋敷の帳場では奉公人が忙しく算盤を弾いていた。

 屋敷の土間には陶器や絹織物が整然と並び、香辛料や鹿皮、鮫皮が積み上げられている。

 商家でありながら屋台の活気を抱え込むその佇まいは、日本人町でも指折りの富を蓄えていることを物語っていた。

 ハナに連れられ、炭火の煙が立ち込める長屋の奥へ足を踏み入れたレックは、その光景に息を呑んだ。

 薄暗い広間、上座にどっしりと胡坐をかいているのは、紛れもない山田長政だった。

 脇には、抜き身の刀のような鋭さを放つ老狐、津田又左衛門が控えている。

(……本物だ。歴史の教科書が、目の前で呼吸している)

 レックの脳裏には、彼が知る「結末」が走馬灯のように駆け巡っていた。

 リゴールへの左遷、負傷、そしてカラーホームの放った刺客による毒殺――。

「……おめえ、名は、レックと言ったか。まあ、座れや。おめえの身なり、確かにこのシャムの都じゃ見ねえ代物だら。一体どっから来ただ?」

 少し「ラオ・カーウ」(白酒・焼酎)が回り始めた長政が、少し頬を紅潮させて、お国訛りの駿河弁になった。

 レックは拍子抜けし、長政の生の姿を暫し茫然としていた。

 しかし、長政の瞳は凄まじいオーラを秘めた眼差しで、レックの眼を見据えたままだ。

「私は……。長政様、単刀直入に申し上げます。リゴールへは行ってはなりません。パッタニー軍の討伐命令はカラホームの罠です」

 思わず口を突いて出た言葉に、一座が凍りついた。

 又左衛門が、盃のラオ・カーウをグイと飲み干した。

「な、なんば言いよっか、お主は! 長政様は、カラホーム、シーウォラウォン長官殿から直々に全権ば託されたったぞ。一気に蹴散らして、アユタヤに武名ば知らしむる絶好の機ばい。どこの馬の骨とも分からん男が、軍略に口ば出すな!ばってん、あの雄鶏は美味かったばい!」

 酔いが回って、又左衛門は気に障ったのか、声を荒げた。

だがレックには「雄鶏は美味かった」としか理解できなかった。

 レックは手酌で白酒を(あお)る又左衛門を一瞥し、長政に向き直った。

「軍略ではありません! これは、あなたの命に関わることなのです!そこへ行けば、あなたは二度とアユタヤへは……」

 長政は右手を振ってレックを制しながら、鯰の蒲焼を一口齧った。

「おめえの言いてえこたぁわしにもわかるだに。でもよ、こればっかりはお上のご命令だら、又左衛門さんの面子(メンツ)もあるでな……」 

―長政の声が上ずったように響いた。

 それは、あまりにも大きな自信に裏打ちされた、余裕すら滲む響きだった。

「シーウォラウォン長官殿は拙者を信じて、国の憂いを託してくれただ。武士が主君の言いつけ受けて戦場へ向かう、そりゃあ当たり前のことだら。何の疑いがあるだがや。おめえの言う『罠』とやらが何だろうと、拙者の剣で叩き斬るまでのことだに……」

 長政の飄々(ひょうひょう)とした言い方にレックは戦慄した。

 長政にとって、シーウォラウォンはまだ「共に王朝を支える戦友」なのだ。

 裏切りを予言するレックの方が、この場では「狂人」に過ぎない。

(言えない。……『彼は後にあなたを殺す男だ』なんて、今の彼に言っても届かない)

 レックは唇を噛み、黙り込んだ。

 現代の知識が、四百年前の「信頼」という名の不条理に完敗していく。

 そこへ、ハナが盆を持って入ってきた。

「はいはい、物騒なお話はおしまい。熱いうちに食べなさいよ」

 差し出されたのは、追加のラオ・カーウの徳利と、香ばしく焼けた鯰の蒲焼だった。

「ほら、レックさんも。あんた、さっきから顔色が真っ青よ。この酒でも飲んで、少しは正気に戻ったら?」

 ハナの差し出した盃を受け取ったレックの手は、小刻みに震えていた。

 長政は無造作に蒲焼を頬張り、豪快に笑った。

「はっはっは、うめえ! いいかレック、案ずるな。拙者が戻った暁にゃあ、おめえを正式に召し抱えてやるだ。……又左衛門殿、さっそく支度いたそうか」

合点(がてん)! 準備は万端ばい。こぎゃん不吉な事ば抜かす野郎は、放っておきんしゃい」

 そうして二人はほろ酔い気分で店を出て行った。

 後戻りのできない刻限が、静かに刻まれていく。

 レックは冷めた白酒を煽り、泥のような苦みを感じた。

 そして独り、裏庭へ出てチャオプラヤ河に沈みゆく夕陽を見つめた。 

 片付けを終えたハナが、柱に背を預けてレックを冷ややかに見つめていた。

「……あんた、長政様に何を吹き込んだの?」

「……ちょっと気になったことを話しただけだよ、でも、聞き入れてもらえなかったよ」

 ハナは、鼻で笑った。

「当たり前じゃない。あの方は、あんたの『まやかしの呪術』で動くような人じゃないわ」

 ハナの言葉は、レックの胸に鋭い棘のように刺さった。

「……あの方を救うつもりかもしれないけれど、下手をすれば、あんたが命を落とすわよ」

 ハナはそれだけ言うと、鯰の焼ける匂いが染み付いた暖簾(のれん)をくぐり玄関先へと消えた。

 アユタヤの湿った夜風が頬を撫でた。

 レックは腰の鈴に手をやった。

 キティの鈴は、もう鳴らなかった。

 その代わりに、運命の歯車が軋んだ音を立てて回り始めたのを、彼は確かに聞いた。

(第三章へつづく)