『サヤームの鈴  日本人義勇隊の軍師になった男』



 レックは吸い寄せられるように、考古遺物コーナーへと足を向けた。

 そこには、アユタヤの王宮文化とは一線を画す、当時の日本人町から出土した素朴な生活雑器が並んでいた。

 手前の小さなガラスケースの中に、一点の「金属の塊」が鎮座していた。

 赤茶けた(さび)に覆われているが、その独特の丸みを帯びた形は、(まぎ)れもなくあの「キティの鈴」だった。

 傍らの解説板が、決定的な事実を突きつける。

『出土:タイ北部ミャンマー国境付近。十七世紀、アユタヤより逃れた日本人町の避難民たちが築いたとされる集落跡より発見。本遺物は、ある町人女性の墓の副葬品であり、鈴は絹の布に包まれ土器の中に収められていた。故人が生涯、これを一族の守護として大切に扱い、共に埋葬されたものと推測される』

 ハナは、レックの「北へ逃げろ」という最期の願いを、その後の長い生涯をかけて守り抜いたのだ。

 あの日、お滝が命を懸けて拓いた北門から逃げ、チャオプラヤ河を遡った生存者たち。

 その先頭に立ってハナは歩き続け、北の辺境の地で「日本の血を引く一族の(いしずえ)」となった。

 これまでレックを縛り続けていたのは、有希を救えなかった自分への、答えの出ない問いかけだった。

 ファインダー越しに世界を切り取ることに汲々とし、隣にいた有希の、言葉にならない微かな震えを無視し続けていたのではないか。

 閉館の時間だった。

 外を流れるチャオプラヤ河に、夕陽が鋭く反射し始めている。

 レックは一眼レフのレンズキャップを外し、光の差し込む出口へと向かった。

 自動ドアが開き、沸き立つような熱気と眩いオレンジの光に目を細めた、その時だった。

「どん……っ!」

 不意に、駆け込んできた女性スタッフと肩がぶつかった。

「あ、すみません!」

 タイの抑揚が混じった日本語で、彼女は丁寧に頭を下げた。

 よろめく彼女の腕を、レックは反射的に支えた。

「ごめんなさい、こちらこそ……」

 レックが声をかけ、彼女が顔を上げた瞬間、その横顔に息を呑んだ。

 陽だまりのように穏やかな瞳、ふっくらとした頬にこぼれた柔らかな笑窪。

 それは、記憶の中の“彼女”と寸分違わぬ、愛おしい顔立ちだった。

 レックが小さく会釈(えしゃく)を返すと、彼女はそのまま足早に館内へと消えていく。

 すれ違いざま、彼女の携帯に付いた根付(ねつけ)から、澄んだ音が微かに響いた。

 ――チリン。

 それは、展示ケースに眠る錆びた塊が、かつて奏でていたはずの音色だった。

 四百年前、ハナに託した鈴と同じ音。
 
 そして彼女が通り抜けたあとに残った、かすかなジャスミンの香り。
 
 レックは振り返らなかった。


 河面を照らす夕陽の空に、見知らぬ水鳥が飛んでいく。
 
 止まっていたレックの時計が、今、確かな鼓動を刻み始めていた……。

(次回エピローグへ)