『サヤームの鈴  日本人義勇隊の軍師になった男』



 お滝が命を()して引き起こした、巨大な火柱。

 その紅蓮の幕を強引に切り裂き、朱色の鎧が躍り出た。

 白馬・富士の(いなな)きが、逃げ惑う兵たちの耳を(つんざ)く。

「長政だ……。(あか)い悪魔が、地獄の底から這い上がってきたぞ!」

 誰かの上げた悲鳴が、さざ波のように、瞬く間に敵陣の末端まで震えさせた。

 当時のアユタヤにおいて、戦場に這い出す亡霊や悪霊の類は、目に見える刀剣よりもはるかに生々しい「霊障」そのものとして信じられていた。

 レックは刀を振るわない。

 ただ、富士の背で刀尖(きっさき)を高く天に掲げ、面頬(めんぽう)の奥から「ウォーウォー」と妖気のような低い声を絞り出した。

 正面から敵軍の真っ只中へと突っ込む。

 それだけで、最前線の兵たちは腰を抜かし、踏み留まろうとする味方を突き飛ばして逃げ惑った。

 陣形は瓦解し、カラホムの軍勢は内側から崩れ、統制を失った散兵へと成り果てていく。

 レックは、矢傷と弾傷の激痛で白く(かす)む眼で、敵の配置を視界に焼き付けていく。

「蔵人殿! 前方、敵の右、あの旗が動いている場所を叩け! 権兵衛殿は左へ! 敵の動きを止め、町民の避難の道を(ふせ)がせないことだけを考えよ!」

 その淀みのない差配は、周囲の者たちに、もはや妖魔と化した、長政の執念を見せつけていた。

 本陣でこの光景を見ていたカラホムは、屈辱(くつじょく)に震え、椅子の肘掛けを握り潰さんばかりだった。

「……理解できぬ。拙僧の謀算(はかりごと)を亡霊となってまで狂わすというのか!」

 彼は苛立ちをぶつけるように、明国の商人から献上された高価な茶器を床に叩きつけた。

「構わぬ、町を焼き尽くせ。日本人どもを一人も残さず、灰にするのだ。犠牲は厭わぬ……」

 カラホムは感情を殺した声で命じると、何事もなかったかのように、ゆったりとした歩調で王宮の奥へと消えていった。



 ハナたちがいる養生所を死守するため、レックは執拗に敵の注意を引きつけ続けた。

 だが、養生所のすぐ手前まで辿り着いたその時、一筋の鋭い風切り音が空を裂いた。

 ――ガツッ。

 戦の華々しさなど、どこにもなかった。
 
 混迷を極める乱戦の中、誰が放ったかもわからぬ一本の迷い矢が、朱塗りの鎧の中央を、深く、深く貫いた。
  
 レックの視界が、急激に白く濁り始める。
 
 富士の(たてがみ)を掴む指から力が失せ、世界が霧のかかったような(もや)の向こう側へと吸い込まれていく。
 
 富士は主人の異変を悟ったように、悲痛な嘶きを上げながら養生所の敷地へと駆け込んだ。

 レックは馬の背から滑り落ち、硬い土の上に崩れ落ちた。

 異変を察して駆け寄ったハナが、朱に染まったレックの背中を見て絶叫した。

「レック様! しっかりしてください、今すぐ手当てを、誰か!」

 彼女の手が、震えながら鎧の紐にかけられる。

 レックの呼吸は浅く、掠れていた。

 口の端から溢れる血が、土に吸い込まれていく。

「……ハナ、さん……。もう、いいんだ……。僕を、これ以上……」

「何を、何を仰るのですか! 死なせない、私がお守りすると決めたのに!」

 面頬を外したレックの顔は、死人のように青白い。

 だが、その瞳だけは、夕凪のような穏やかさでハナを見つめていた。

 彼は傷だらけの手を震わせ、腰に結びつけた「鈴」へと指を這わせた。

 血がこびりつき、戦火の(すす)を被りながらも、その鈴は決して砕けることなく、そこに在った。

 レックは、ハナの小さな掌を借りるように、その小さな金属を押し当てた。

 キーホルダーの金具が、微かに彼女の肌を弾く。

「未来のこと……もっと、たくさん……君に……伝えたかった……。もっと……一緒に……」

 震えるレックの指先から、熱が失われていく。

 ハナの涙が、煤と泥にまみれたレックの頬に、幾つも零れ落ちた。

「伝えてください、レック様! 未来の話を……お滝さんと、三人で……!」

 レックは、掠れた笑みを微かに浮かべた。
 
 もはや言葉は形にならなかった。
 
 レックはゆっくりと目を閉じた。
 
 かつて有希を喪ったあの日、自分はただ震えながら見送るしかなかった。
 
 四百年を越えてもなお、あの瞬間(とき)の無力さに立ちすくんでいた。

 だが今、(まぶた)の裏に浮かぶのは有希の幻影ではない。

 十七世紀のアユタヤで共に命を懸けて戦った――「ハナ」という一人の女性だ。

 有希が「生きて」と託したこの鈴を、今、彼は自分の手でハナへ託した。

 それは過去の呪縛を解き、目の前の彼女を選び取った、彼なりの終着点だった。

「……ハナ、さん……」

 最期に消え入るように、その名だけを呼んだ。

 ハナは、掌の鈴を祈るように胸にあてた。

 この鈴が鳴るたびに、彼女は思い出すだろう。

 次元の裂け目に落ち込んだ一人の青年が、愛し、守り抜いたのは、この時代を共に駆け抜けた自分だったということを。

 愛する人の温もりに包まれながら、レックは静かな闇へと溶けていった。

 昇り始めた朝の光がチャオプラヤ河の水面を眩しく照らし始めた……。

(第十二章へつづく)