
お滝が命を賭して引き起こした、巨大な火柱。
その紅蓮の幕を強引に切り裂き、朱色の鎧が躍り出た。
白馬・富士の嘶きが、逃げ惑う兵たちの耳を劈く。
「長政だ……。朱い悪魔が、地獄の底から這い上がってきたぞ!」
誰かの上げた悲鳴が、さざ波のように、瞬く間に敵陣の末端まで震えさせた。
当時のアユタヤにおいて、戦場に這い出す亡霊や悪霊の類は、目に見える刀剣よりもはるかに生々しい「霊障」そのものとして信じられていた。
レックは刀を振るわない。
ただ、富士の背で刀尖を高く天に掲げ、面頬の奥から「ウォーウォー」と妖気のような低い声を絞り出した。
正面から敵軍の真っ只中へと突っ込む。
それだけで、最前線の兵たちは腰を抜かし、踏み留まろうとする味方を突き飛ばして逃げ惑った。
陣形は瓦解し、カラホムの軍勢は内側から崩れ、統制を失った散兵へと成り果てていく。
レックは、矢傷と弾傷の激痛で白く霞む眼で、敵の配置を視界に焼き付けていく。
「蔵人殿! 前方、敵の右、あの旗が動いている場所を叩け! 権兵衛殿は左へ! 敵の動きを止め、町民の避難の道を塞がせないことだけを考えよ!」
その淀みのない差配は、周囲の者たちに、もはや妖魔と化した、長政の執念を見せつけていた。
本陣でこの光景を見ていたカラホムは、屈辱に震え、椅子の肘掛けを握り潰さんばかりだった。
「……理解できぬ。拙僧の謀算を亡霊となってまで狂わすというのか!」
彼は苛立ちをぶつけるように、明国の商人から献上された高価な茶器を床に叩きつけた。
「構わぬ、町を焼き尽くせ。日本人どもを一人も残さず、灰にするのだ。犠牲は厭わぬ……」
カラホムは感情を殺した声で命じると、何事もなかったかのように、ゆったりとした歩調で王宮の奥へと消えていった。
*
ハナたちがいる養生所を死守するため、レックは執拗に敵の注意を引きつけ続けた。
だが、養生所のすぐ手前まで辿り着いたその時、一筋の鋭い風切り音が空を裂いた。
――ガツッ。
戦の華々しさなど、どこにもなかった。
混迷を極める乱戦の中、誰が放ったかもわからぬ一本の迷い矢が、朱塗りの鎧の中央を、深く、深く貫いた。
レックの視界が、急激に白く濁り始める。
富士の鬣を掴む指から力が失せ、世界が霧のかかったような靄の向こう側へと吸い込まれていく。
富士は主人の異変を悟ったように、悲痛な嘶きを上げながら養生所の敷地へと駆け込んだ。
レックは馬の背から滑り落ち、硬い土の上に崩れ落ちた。
異変を察して駆け寄ったハナが、朱に染まったレックの背中を見て絶叫した。
「レック様! しっかりしてください、今すぐ手当てを、誰か!」
彼女の手が、震えながら鎧の紐にかけられる。
レックの呼吸は浅く、掠れていた。
口の端から溢れる血が、土に吸い込まれていく。
「……ハナ、さん……。もう、いいんだ……。僕を、これ以上……」
「何を、何を仰るのですか! 死なせない、私がお守りすると決めたのに!」
面頬を外したレックの顔は、死人のように青白い。
だが、その瞳だけは、夕凪のような穏やかさでハナを見つめていた。
彼は傷だらけの手を震わせ、腰に結びつけた「鈴」へと指を這わせた。
血がこびりつき、戦火の煤を被りながらも、その鈴は決して砕けることなく、そこに在った。
レックは、ハナの小さな掌を借りるように、その小さな金属を押し当てた。
キーホルダーの金具が、微かに彼女の肌を弾く。
「未来のこと……もっと、たくさん……君に……伝えたかった……。もっと……一緒に……」
震えるレックの指先から、熱が失われていく。
ハナの涙が、煤と泥にまみれたレックの頬に、幾つも零れ落ちた。
「伝えてください、レック様! 未来の話を……お滝さんと、三人で……!」
レックは、掠れた笑みを微かに浮かべた。
もはや言葉は形にならなかった。
レックはゆっくりと目を閉じた。
かつて有希を喪ったあの日、自分はただ震えながら見送るしかなかった。
四百年を越えてもなお、あの瞬間の無力さに立ちすくんでいた。
だが今、瞼の裏に浮かぶのは有希の幻影ではない。
十七世紀のアユタヤで共に命を懸けて戦った――「ハナ」という一人の女性だ。
有希が「生きて」と託したこの鈴を、今、彼は自分の手でハナへ託した。
それは過去の呪縛を解き、目の前の彼女を選び取った、彼なりの終着点だった。
「……ハナ、さん……」
最期に消え入るように、その名だけを呼んだ。
ハナは、掌の鈴を祈るように胸にあてた。
この鈴が鳴るたびに、彼女は思い出すだろう。
次元の裂け目に落ち込んだ一人の青年が、愛し、守り抜いたのは、この時代を共に駆け抜けた自分だったということを。
愛する人の温もりに包まれながら、レックは静かな闇へと溶けていった。
昇り始めた朝の光がチャオプラヤ河の水面を眩しく照らし始めた……。
(第十二章へつづく)



