
≪富士と英雄≫
南の防壁が崩れ、黒煙が上がった。
日本人町の北を守る竹柵の裂け目から、猛然とカラホム軍の先遣、近衛隊が雪崩れ込んでくる。
長政の屋敷の重い門が開いたのは、その直後だった。
長政が姿を現した。
朱塗りの大鎧を纏っているが、その足取りはおぼつかない。
重松と河村の肩を借り、右足を引き摺るようにして一歩ずつ踏み出すのが精一杯だった。
河村が膝をついて長政の左の具足を抱え上げ、ようやく愛馬「富士」の背へとその身を押し上げた。
「富士」は、長政の故郷、駿河の灰土を宿す脚と、富士の冠雪の白背を誇る葦毛の牡馬だ。
主人の身を焦がす高熱を背に感じたのか、富士は硬い地面を蹄で叩き短く嘶いた。
「長政様、なりませぬ。今出ればお命が……!」
駆け寄ったレックが、富士の轡に手をかけるが、長政はそれを采配の一振りで払いのけた。
「……案ずるな、軍師。拙者は、まだ、山田長政である!」
兜の奥に沈んだ眼が、刃のようにレックを貫いた。
自らの最期を悟った男の、凄まじい執念がそこにあった。
「さあ、行くのだ、富士!」
長政の一喝とともに、鞭が富士の後躯を打った。
白馬が矢の如く駆け出す。
防壁の裂け目から侵入した敵軍の前に、炎を揺らす朱い影が差した。
「長政様、長政様だ! 我が頭領がお出ましだぞ!」
「今だ、押し返せ!」
武器を手にした商人や町の若者たちが、その「朱塗りの大鎧」を目にした瞬間、喉を潰さんばかりの喚声を上げた。
長政は馬上で日本刀を抜き、焦点の定まらぬ視界のまま、近づく敵を次々と斬り伏せていく。
富士は主の意志を汲み取るように、突き出される槍の林をかいくぐり、敵陣の奥深くへと突き進んだ。
だが、その勢いは長くは続かなかった。
敵の一斉射撃の銃先が馬上の長政に向けられた。
騒乱を裂き、火縄銃の乾いた破裂音が響き渡った。
――パン、パパン!
数発の鉛の弾が朱塗りの小札を砕き、長政の身体を激しく揺さぶる。
富士が前脚を高く上げ、天に向かって悲鳴のような嘶きを上げた。
その直後、長政の六尺の姿態は翻筋斗を打って宙を舞い、土面へと叩きつけられた。
「長政様っ!」
傍らで太刀を振るっていた重松の絶叫が空に消える。
泥を撥ね上げ、地に落ちた朱色の鎧。
英雄の首を狙い、色めき立ったカラホムの兵たちが我先にと殺到する。
守護神の陥落を目の当たりにした日本人たちは、信じがたいものを見たかのように絶望に包まれた。
レックは硝煙が渦巻く中、長政の側へと全力で走った。
背後を抜ける矢の風切り音も、傍で土を噴き上げる砲弾の震動も、今の彼には届かない。
たどり着いた泥土の中に、長政は横たわっていた。
顔の半分が黒土に汚れ、首元からは絶え間なく鮮血が溢れ出している。
長政は、震える手でレックの襟元を掴み寄せた。
喉の奥から絞り出すような声が、レックの耳を打つ。
「……奴らに見せろ。……拙者、山田長政は、まだ、死んでいないと……」
指から力が抜け、長政の瞳から光が失われていく。
背後からは、手柄を確信した敵兵の足音が、一歩、また一歩と迫っていた。
レックは震える手で、主の血で生温かく濡れた、鎧の紐へと指を掛けた。
≪鎧の継承≫
勢いに乗ってカラホムの軍勢が、象牙の柄の短剣を振りかざして迫ってきた。
近衛兵たちは黒漆に金箔を貼った長盾を構え、中央には三つ首の蛇の精霊の柄がうねっている。
レックは膝をつき、横たわる長政の体に手をかけた。
朱塗りの小札には、まだ熱い赤黒い血が粘りついている。
背後で風を切る音がし、矢が一本、傍らに突き刺さった。
「軍師殿、急がれよ!」
重松が数人の手下とともに円陣を組み、必死に敵の先鋒を食い止めている。
だが、それも長くは持たない。
敵兵の野太い叫び声は、すぐそこまで迫っていた。
レックは震える指で、大鎧の紐に指をかけた。
長政の血を吸った組紐は、焦れば焦るほど結び目が固く締まり、容易には解けない。
レックは腰の短刀を引き抜くと革紐を力任せに断ち切った。
引き剥がした胸当ての裏側から、鉄錆と混じり合った生々しい血臭が立ち昇る。
鎧を纏うべく、レックは邪魔な上着を剥ぎ取った。
その拍子に、懐から小さな「鈴」がこぼれ落ち、赤く染まった水溜まりへ沈んだ。
有希との形見――この世界で唯一、自分が何者であるかを繋ぎ止めてきた拠り所、キティの鈴をつけたキーホルダーだ。
レックはそれを片手に掴み取ると、朱の鎧の腰紐にねじ込み祈るように固く結びつけた。
肌に直接、生暖かい鎧の重みがのしかかる。
「レック殿、何をしておる! 敵が押し寄せてくるぞ!」
重松が返り血を浴びながら叫ぶ。
レックは転がる兜を掴み、深く被った。
面頬を締めた瞬間、視界は朱に染まり、町が火の海へと変わった。
立ち上がったレックの正面に、一人のシャム兵が躍り出た。
手柄を確信し、短剣を振り上げた兵の動きが唐突に止まった。
血みどろの中から、討ち取ったはずの「長政」が再び立ち上がったのだ。
レックは足元に転がる長政の刀を拾い上げ、一気に振り下ろした。
重い刀身が、易々と敵兵を切り裂いた。
その時、自分でも聞いたことのない怒号がほとばしった。
「山田長政、ここにあり! 命の惜しくない奴は前に出ろ!」
その一喝に敵軍が凍りついた。
呼応するように、倒れていた富士が後肢を蹴って跳ね起きる。
レックは白馬の鬣を掴み、その背へと飛び乗った。
富士が荒々しく嘶き、戦場を駆けだす。
その激しい振動に合わせ、腰の鈴がひび割れた音を立てて震え続けていた。
一度は壊れたはずのその音色が、今は修羅の道を行く男の、唯一の伴奏のように聞こえていた。
≪紅蓮の道標≫
富士の背で刀を掲げるレックの目に、南の避難路を塞ぐ巨大な壁が映った。
カラホム軍の切り札、戦象部隊である。
町家や上屋を薙倒しながら進む象の群れは、その先にある、ハナたちの養生所へと迫っていた。
養生所では、凄まじい振動に薬瓶を鳴らしながらも、ハナが負傷者の処置を続けていた。
「ハナ様、早く逃げねば象に踏み潰されます!」
誰かが叫んだ。
しかし、ハナは凛とした声で遮る。
「いいえ、レック様が……長政様が、あそこで今、戦っておられます。影となって、この町を守るために。私が先に逃げるわけにはいきません!」
ハナの細い肩は、レックが“長政の影”として立つ覚悟を、誰よりも強く感じ取っていた。
その頃、レックは敵の軍勢に阻まれ、ハナたちへ近づけずにいた。
「そこを退け! 退かぬ奴は叩き斬る!」
レックの怒声に呼応し、重松蔵人が左右を固め、河村権兵衛率いる騎馬武士たちが風となって敵陣を切り裂く。
「長政様に続け! 臆した者からあの世行きぞ!」
河村の叫びとともに、馬蹄が泥を跳ね上げ、カラホムの兵たちを蹴散らしていく。
だが、戦象の巨躯を前に、騎馬隊の進撃も限界を迎えつつあった。
歯を食いしばるレックの耳に、激しい騒乱を突いて、重い車輪の軋む音が聞こえた。
お滝だった。
伊三郎の形見の具足を無理やり纏い、南蛮火薬の樽を山積みにした荷車を引いて、彼女は戦象の足元へと突き進んでいた。
「軍師殿! そのまま前だけ見てな!」
その叫びが、火炎に拒まれ足掻くレックの耳に響いた。
お滝の燃えたぎる眼光は、赤い鎧の中身が誰であるかをとうに察していた。
彼女は、影武者となったレックを死なせぬ道を選んだ。
「お滝さん、戻れ! 戻ってください!」
レックの声は、喉を焼く火炎と、兵たちの怒号にかき消される。
お滝は戦象の鼻先までたどり端に、迷いなく松明を樽へと突き入れた。
「ハナ、生きて、強い女になりなよ! ……軍師殿、娘を、この町を、頼んだよ!」
刹那、白濁の閃光が夜の闇を塗りつぶした。
――ドーン! ドォーン!
凄まじい爆炎が渦を巻き、戦象の断末魔を飲み込んでいく。
崩れ落ちる巨躯、開かれた進路。
その光の中に、お滝の姿はもうなかった。
衝撃波で富士が大きくしなり、レックの体は激しく揺さぶられた。
その時、視界が歪み、景色が白くかすんだ。
「なんだ、このめまい……」
レックは頭を振り、“長政”の鬨の声で押し潰した。
「進め! 道は開かれた!」
富士が火の海を蹴り、お滝が命を賭して示した空白へと突っ込む。
腰に結んだ鈴が、爆音の余韻の中で、ひび割れた高い音を立てて震え続けていた。
その不協和音は、散っていった者たちの魂が、彼の背を激しく押しているかのようだった。
朱炎の慟哭が、燃え崩れるアユタヤ日本人町の夜を容赦なく染めていった……。



