『サヤームの鈴  日本人義勇隊の軍師になった男』



「……うぁ……」

 強烈な眩暈(めまい)と、吐き気に襲われ、レックは地面に突っ伏した。

 鼻を突くのは、排気ガスの臭いではない。

 焼けた土、むせ返るような水の匂い、そして、得体の知れない獣と香辛料の香り。

 ゆっくりと目を開けたレックは、その光景に言葉を失った。

 目の前にあるのは、資料館のタイルではない。

 硬く踏み固められた乾いた土の道だ。
 
 そしてその寺壁の先にそびえ立つのは、崩れかけた遺跡ではなく、金箔が陽光を浴びて神々しく輝く、威風堂々(いふうどうどう)とした巨大な寺院――ワット・プラシーサンペットだった。
 
 屋根には色鮮やかな釉薬を塗った瓦が並び、回廊の柱には緻密な彫刻が施されている。

 かつてレックが「不動の遺跡」と切り捨てた死の風景は、今、極彩色の命を宿して彼の網膜を灼いていた。

「嘘だろ……。これ、幻覚か?」

 フラフラと立ち上がったレックの横を、象を連れた男たちが悠然と通り過ぎていく。

 周囲を行き交う人々は、上半身を裸にしたタイの民や、奇妙なほど見覚えのある装束に身を包んだ人々だ。

 マゲを結い、腰に刀を差し、筒袖の薄手の着物に半袴。

「日本人……?」

 間違いない。

 それは江戸時代初期、関ヶ原を生き延び、傭兵としてサヤーム(シャム=現タイ王国)へ渡ってきた日本人たちの姿だった。

「おい、そこの不審な身なりの男! 止まれ!」

 鋭い日本語の怒号が響いた。

 振り返ると、三人の男たちが刀の柄に手をかけ、レックを包囲していた。

 彼らの眼光は鋭く、全身から本物の殺気が漂っている。

 胸元に”Who”と書かれたTシャツとジーンズというレックの姿は、彼らの目には異端の極みに映ったに違いない。

「お主、何処からまいったのか。キリシタンのならず者か、それともビルマの密偵かっ!」

「あ、いや、俺は……俺はただのドキュメンタリー作家で……」

 パニックに陥りながらも、レックは必死に日本語で答えようとした。

 だが、現代の日本語は彼らには通じていない。

「えーと、あのー、ここでこのアクションカメラで動画を撮って、SNSに上げて……そのぅ」

 言葉の端々に混ざる現代語が、さらに彼らの警戒心を煽る。

「お主……それは南蛮語(なんばんご)か? 訳の分からぬ口を叩くな。斬り捨てて検分するぞ!」

 一人が刀を抜き放った。

 白刃が午後の陽光を反射し、レックの網膜を刺す。

(死ぬ。俺の人生、こんなところで、何の意味もなく終わるのか――)

 レックが絶望に目を閉じた、その時だった。

「待ってください! その方は……その方は、私の知っているお方です!」

 凛とした、しかしどこか焦燥を含んだ声が響いた。

 レックが恐る恐る目を開けると、一人の娘が男たちの間に割って入っていた。

 抜き放たれた白刃を、臆することなくその身で遮っている。

 南国の強い陽射しを浴びて輝く、濡れたような黒髪。

 そして、意思の強そうな大きな瞳。

「……有希?」

 レックの口から、無意識にその名が漏れた。

 外見は、亡き恋人に驚くほど似ている。

 だが、その佇まいはもっと力強く、大地に根ざした野生の美しさを湛えていた。

 彼女はレックの異様な風体を一瞬だけ凝視したが、すぐに男たちを睨みつけ言い放った。

「この男は、私が預かります。長政様に伝えねばならぬ大事な役目を持って、遠方から参ったのです。……刀を収めてください」

 娘のあまりに堂々とした物言いと、長政様という名に、浪人たちは毒気を抜かれたように顔を見合わせた。

 ハナの視線が、レックの腰で静かに鳴り続ける「キティの鈴」に一瞬だけ釘付けになる。

「お立ちなさい。……死にたくなければ、私について来なさい」

 娘はレックの腕を無造作に掴み、強引に立たせた。

 その手のひらは驚くほど熱く、レックの知る有希のそれよりもずっと固い「今を生き抜く者の手」をしていた。 

 そう、彼女こそがあの「恋文」の主――日本人の娘、ハナであった。

 レックはまだ知らない。

 この「有希に似た娘」による咄嗟の嘘が、彼を単なる歴史の傍観者から、血煙の舞うアユタヤの「運命の不条理」に巻き込まれていく、長い旅の始まりであることを……。