『サヤームの鈴  日本人義勇隊の軍師になった男』



 リゴールからの帰路、山田長政はかつてない窮地(きゅうち)に立たされていた。

 パタニ軍の残党は、領国を蹂躙(じゅうりん)された怒りに燃え、数千の兵が地の利を活かして長政の背後に執拗(しつよう)に食らいついていた。

 小高い丘で小休止をとりながら、馬上で長政が(うめ)いた。

 「ううっ……」

 右足の矢傷は、どす黒い腫れとともに、心臓の鼓動に合わせ、(きり)で突き刺すような激痛を全身に撒き散らしていた。

 長政は朦朧(もうろう)とする意識の中、視界が熱帯の陽光に焼かれ、白く(かす)む。

 退軍ルートの先には、大河パクパナン河が横たわっている。

 進軍時には乾季の名残で、馬の膝を濡らす程度の浅瀬が広がっていた場所だ。

 だが、南部の変わりやすい天候が牙を剥いた。

 行軍の最中、この辺りはスコールが七日間も降り続き、河は見る影もなく増水していた。

 渦を巻く濁流は、一歩踏み込めば人も馬も飲み込み、二度と浮き上がらせぬ(よど)みと化している。

 本来なら、一旦海上に出るか、内陸部を大きく迂回すべきだが、長政にはその猶予はない。 

 アユタヤでは、恩義あるソンタム王が遺した二人の王子が、簒奪者(さんだつしゃ)カラホムの手によって無惨に葬り去られた。

 その卑劣な暴挙を思い出すたび、腸が煮えくり返るような怒りが傷の痛さを上回る。

 一刻も早く戻らねば、日本人町の皆が、そしてお滝やハナが、あの男の毒牙にかかる。

「このままでは、ここで全滅か……。だが、死ぬわけにはいかぬ。皆が待っている……」

 前方には濁流、背後には迫りくる敵の軍勢。

 丘の上に立つ長政は、文字通り、崖っぷちへと追い詰められた。



 同じ頃、アユタヤ日本人町。

 先刻までの晴天が嘘のように、入道雲が鉛色に変色し、空を覆い尽くしていた。

 熱風が吹き抜け、不意に、針のような冷たい雨粒が頬を打つ。

 嵐の前触れだった。

 町会所の奥で、レックは嵐に急かされるように、まだ()えぬ手で筆を動かしていた。

 ハナが「レック様、怪我を診させてください」と声をかけるが、彼は聞こえないかのように紙に食らいついている。

 レックの頭の中には、かつて見たリゴール郊外の風景が、二〇二六年の詳細な地図データとして投影されていた。

 “その”湿地帯は現代では県立大学のスポーツ競技場として見事に整備されている。

 そこに(たたず)む、かつて日本人義勇隊が追撃戦で苦杯をなめたことを記す、古い石碑の文言を思い出していた。

(……頼む。気づいてくれ。あの袋の中の手紙を読んでくれ!)

 実は出征の朝、レックは長政が腰に下げた薬入れの革袋の中に、一枚の折り畳んだ羊皮紙(ようひし)を忍ばせていた。

 そこには、万が一、退軍時にこの湿地帯に追い詰められた際の戦法が記されていた。



 リゴール、パクパナン河の岸辺を見下ろす高台。

 長政が強行渡河(とか)の覚悟を決め、傷の痛みを散らす薬を求めて革袋に手を入れた時、指先に奇妙な紙の感触が触れた。

 引き出したのは、見覚えのない羊皮紙。

 その包みの表には、筆の跡も新しい文字でこう記されていた。

『いきはよいよい、かえりはこわい♪』

 不吉な歌の文句に、語尾に添えられた場違いな音符の印。

 レックが現代でSNSを打つ際に無意識に添える、あの奇妙な癖だった。

「……なんじゃ、これは?」

 長政は怪訝(けげん)そうに呟きながら、切り傷だらけの荒れた手で紙を広げた。

 そこには、蛇がのたくったような奇妙な曲線が密集する、見たこともない図解があった。

『長政様、この線が重なり合う場所は、泥の下に固い岩盤(がんばん)が走っています。強行に渡河を装い、この“浅瀬”を一直線に駆け抜けてください。追撃してきた敵を、沼の深みへ誘い込むのです』

「“いきはよいよい、かえりはこわい……” ああ、なるほど。そういうことか!」

 長政は思わず膝を打った。

 雨季の増水までも予見し、泥底に隠されたかつての古道の跡――砂礫(されき)が固まり、周囲より一段高くなっている浅瀬の底道を、レックは的確に指し示したのだ。

 長政の口元に、確信の笑みが浮かぶ。

 彼は馬首を翻し、全軍に向けて号令を発した。

「全軍、右の林を抜け、対岸へ前進せよ! 泥沼に足を取られるな。我らが通るべき道は、あの河の底にある!」

 雷鳴が轟くと同時に、日本人義勇隊が河へと突入した。

 追撃してきたパタニの残党兵たちは、勝利を確信して歓声を上げた。

「日本人どもが捨て身になって川に飛び込んだぞ!」と。

 彼らもまた、獲物を逃すまいと、長政たちの後を追って水に飛び込んだ。

 だが、次の瞬間、絶叫に変わったのは敵軍の方だった。

 長政の軍勢は、まるで見えない橋の上を駆けるように、濁流の中を驚異的な速度で進んでいく。

 対して、後を追った敵兵たちは、一歩踏み込むごとに底なしの泥に足を取られ、重い防具とともに水底へと引きずり込まれていった。

「今だ、放て!」

 レックの図解通り、高台へと迂回させておいた別働隊が、混乱する敵を見下ろすように姿を現した。

 頭上から降り注ぐ弓と火縄銃の猛射。

 逃げ場のない水中で、敵軍は水に落ちた羽虫のごとく、なす術なく撃ち落とされていった。

 一発の銃声が響くたび、泥水が赤く染まっていく。
 
 —わずか半刻。

 数倍の兵力を誇った残党軍は、レックが指し示した「沈んだ古道」という知略の前に完膚(かんぷ)なきまでに叩きのめされ、撤退を余儀なくされた。

 パクパナン河を無事渡り切った対岸で、長政は息を弾ませ大きく息を吐いた。

「こわいながらも……とおりゃんせ、とおりゃんせ……か」

 長政は、生まれ故郷の村の境内で流行っていたわらべ歌を思い出した。

「レック軍師殿……今回もあなたの知恵に助けられたましたぞ」

 だが、渡河成功の余韻に浸る間はない。

 アユタヤまでは、ここから少なくともあと五日の強行軍が必要だ。

 長政は激しく(うず)く足の傷を荒縄で固く縛り上げ、手綱を握り直した。

 一刻も早く、アユタヤへ戻るのだ。そして、守るべき町へ。

 はやる気持ちと、傷口の痛みに(うな)される意識。

 長政は、土煙を上げる馬列の先頭で、沈みゆく夕陽を見つめていた。

 その眼差しには、アユタヤを血に染めようとするカラホムへの、静かな、しかし烈火のごとき戦意が宿っていた……。