
次の日から、日本人町を囲うようにバリケードの構築が始まった。
手に残る鎌の重み、杭を打ち込む槌の音、ハナの心は落ち着く暇がなかった。
それらすべてが、すぐそこに迫っている敵の襲来を予感させ、肌を粟立たせる。
ハナは時折手を止めては、遥か南の空を仰いだ。
そこには、数年前にこの町へ現れて以来、彼女が敬愛してきた山田長政がいる。
かつて、アユタヤへ着いたばかりの二十歳の長政を初めて見た日のことを、ハナは今でも鮮明に覚えている。
シャムの装束を纏っても隠しきれない質実剛健な体躯と、六尺の長身、そして南国の強い陽光を跳ね返すような涼やかな目鼻立ち。(六尺は約180センチ)
その凛々しい姿を目にした瞬間、まだ幼さの残っていたハナの胸には、熱い恋心が宿った。
あの日から、私たちの町を、そして自分を守ってくれるのは、あの眩しいほどに強い太陽のようなお方しかいないと、ハナはずっと信じていた。
(長政様……どうかご無事で。一刻も早く、アユタヤへ戻ってください)
その一方で、泥にまみれ、図面を広げて町衆たちに指示を飛ばすレックの姿が、ハナの胸を複雑にざわつかせていた。
霧の中から現れたあの日、彼がこの時代の人間ではないという確信めいた違和感は、今も消えていない。
眩しい太陽のように町を照らす長政と、その光が届かない足元を、月のように蒼白くそっと照らし出すレック。
ハナは、その対極にある二つの輝きの狭間で、答えの出ない問いを抱え続けていた。
だが、現実は答えを待ってはくれない。
―その時だった。
アユタヤ正規軍の軍装とは異なる、二十名ほどの異形の集団が、細長い平底船に乗り、チャオプラヤ河の上流から突如姿を現した。
上半身をはだけ、胸から背中にかけて真っ黒な刺青を隙間なく彫り込んだ男たちだ。
呪術的な文様が刻まれたその肌は、汗と脂でどろりと光っている。
手にする武器は、錆びついたシャム刀、農具を改造した大鎌、そして中にはポルトガルから流れてきた旧式のマッチロック式銃(火縄銃)を誇示するように掲げている者もいる。
名のある武士の多くが長政に従ってリゴールへ出征し、日本人町が手薄になった隙を突いて、「金と女」という生々しい欲望のために土足で踏み込んできたのだ。
町に残った老若男女全員が“戦闘態勢”に入った。
「……来たぞ! 南側の平地からだ! 手筈はよいな!」
見張りの老武士、吉田弥五郎の声が響いた。
だが、その声が途切れるのと同時だった。
空を裂く鋭い音がして、弥五郎の胸に深々と矢が突き刺さった。
「弥五郎さん!」
ハナの悲鳴が上がる。
弥五郎は、崩れ落ちる間際まで町への通路を塞ぐ杭を離さなかった。
かつて長政に拾われ、この町を「終の住処」と決めていた老兵は、最期までその約束を果たすかのように、ただ静かにその命を町へ捧げた。
日本人町自衛団、最初の《《殉職者》》だった。
略奪者どもが、怒声を吐きながら次々と土手へ這い上がって来る。
「レック様、どうすればよいでしょう!?」
ハナが焦りを隠せず、息を切らせて叫んだ。
レックは地図から顔を上げ、町家の軒先に掲げられた松明を指差した。
「落ち着いて! 計画通り動くのです。ハナ、お滝さん。……あそこの火を!」
敵の先鋒が、切り倒されたジャスミンの木で作られた不格好な柵を嘲笑いながら突っ込んでくる。
だが、彼らが柵の隙間に足を一歩踏み入れた瞬間、そこは火炙り地獄へと変わった。
柵の下には、巨大なプラー・ブック(メコンオオナマズ)の脂肪を煮詰めた「魚の油」が撒かれていた。
ハナとお滝が震える手で投げた松明が落ちると、粘つく油に火が走り、炎の壁が猛烈な勢いで立ち上がった。
呉服屋の長次郎が「生かして帰すか! 悪党どもめ!」と叫びながら、さらに松明を投げ込む。
燃え移った炎に包まれた男が、断末魔の叫びを上げながら土手下へと転がり落ちていった。
「火だ! 下がれ、道が塞がれているぞ!」
右往左往する敵の眼前に、土面の中から牙のような「逆茂木」が姿を現した。
先端を鋭く削り、槍のように尖らせた木の枝。
それを外側へ向けて何重にも組み上げ、土深く固定したその柵は、踏み込もうとする者の肉を裂く。
逃げ場を失い、炎の熱風に炙り出された敵の群れ。
その正面、逆茂木の合間に、弓を携えた老武士たちと、火縄銃を構えた男たちが双方から息を殺して待ち伏せている。
「皆さん、ここは堪えてください! 敵を脅すだけでよいのです!」
レックの狙いは、無益な殺生ではない。
日本人町の圧倒的な抵抗力を示し、戦意を挫くことにあった。
だが、刺青の一人の男が、懐からポルトガル銃を取り出し、最前線で松明を手にしたハナへ銃口を向けた。
「この、小娘がぁ!」
火薬が爆ぜる音が、ハナの耳元に響いた。
弾丸が風を切る音が頬をかすめ、彼女は反射的に目を閉じて身を伏せた。
直後、重なり合うようにしてもう一発、鋭い乾いた音が響く。
恐る恐る顔を上げたハナの視界に入ったのは、立ち上る白い硝煙だった。
ハナのすぐ後ろにはレックが、火縄銃を構えて立っていた。
その銃口の先では、先ほどの悪党が心臓を正確に貫かれ、糸が切れた人形のように崩れ落ちた。
レックは自分の手が激しく震えていることにすら、気づいていないようだった。
「レック様……」
ハナは喉の奥が熱く引き攣り、それ以上、声を出すことができなかった。
命を救われた安堵と恐怖が入り混じった、激しい動揺が彼女を支配していた。
混乱は一刻近く続き、敵の指揮官は血に染まった数少ない部下を引き連れ、這々の体でカラホムのいるアユタヤ王宮の方角へと逃げ去っていった。
もちろん、日本人町にとっても無傷の勝利ではなかった。
弥五郎の身体は冷たくなり、数人の若者が血を流して手当てを受けていた。
「レック様、大丈夫ですか……? その怪我、早く見せてください」
ようやく口が利けるようになったハナが駆け寄った。
レックは火の粉で頬を焦がし、擦り剥いた手からは血が滲んでいる。
「私は全然平気です、他の皆さんの手当てを急いでください」
彼はハナの問いに視線すら合わせず、逃げていく敵の土煙をじっと見つめていた。
その瞳には、次に来るであろう軍勢をどう迎え撃つかという、炎のような執念だけが宿っていた。
この人は、私たちの世界を救うために、自らの手を汚すことを決めたのだ。
その孤独な覚悟が、ハナの胸を激しく締め付けた。
だが、町の平穏はかろうじて保たれているに過ぎない。
カラホムの影は、さらに巨大なうねりとなって日本人町を飲み込もうとしていた……。
(長政さん、どうかご無事で……)



