『サヤームの鈴  日本人義勇隊の軍師になった男』



 一夜明け、スコールが嘘のように晴れ渡ったアユタヤの空は、残酷なほどに蒼かった。

 だが、日本人町の空気は、湿った重い(よど)みとなって地面にへばりついている。

 チャオプラヤ河の水面は、数日降り続いた雨水と泥を巻き込んで茶褐色に濁り、不気味なうねりを上げていた。

 かつて六百人以上の長政の義勇隊が象や馬に乗り、軍装も鮮やかに練り歩いた目抜き通りには、もはや往時の活気はない。

 軒を連ねる長屋の窓越しに、住人たちが怯えた瞳で外を(うかが)い、ある者は刀を研ぎ、ある者は呆然と河を渡ってくる熱風に身を任せていた。

 レックは、町の中心部にある「日本人町評議会」の町会所|《まちがいしょ》へと足を運んだ。

 建物の周囲は、純白のジャスミンの木々に囲まれている。

 シャムでは「母の愛」を象徴するこの花が、甘い芳香を放ちながら、主を失った日本人町を静かに包み込んでいた。

 かつて故郷を捨てて海を渡った日本人が、この異国の白花に救いを見出し、自分たちの暮らしのなかにその香りを馴染ませていった証でもあった。

 町会所には、日本人町の交易を牛耳(ぎゅうじ)る有力な商人と、町の防衛を指揮する武士団の幹部たちが集まっていた。

 後方では、昨夜死闘を演じたばかりのお滝とハナが、互いの震える指をぎゅっと握り合っている。

「……昨夜、私たちは刺客に襲われました。カラホムはすでに、個々の暗殺から、この町全体の根絶へと策略を練っています。軍勢は王宮の守りを固め、我らを三方から包囲しつつあります」

 一同は昨夜の騒ぎをすでに耳にしていたが、レックの冷淡な宣言に顔を強張らせた。

 レックは机の上に当時の海図と古地図を広げ、思わず息を呑んだ。

 四百年後の正確な衛星写真や現代地図が脳裏にある彼にとって、海岸線の形も河の流れも微妙に異なる過去の”現代地図”の歪みに眩暈(めまい)を覚えたからだ。

 気を取り直し、レックは落ち着いた口調で話し始めた。

「……今ならまだ、北のピッサヌロークへ抜ける道が開いています。あそこは、ソンタム前王の出自の地であり、王家ゆかりの権威と、長政さんの義勇隊の影響力が根強く残る土地だ。一度撤収し、軍を立て直して反撃の機を伺うべきです。今ここで戦うのは無駄死にです!」

 長い沈黙が流れた。

 だが、それは侮蔑と、凝り固まった自尊心を揺さぶられたことへの静かな反撥(はんぱつ)だった。

「撤退だと? ……小僧、貴様は日ノ本の武士が、シャムの兵に背を向けて逃げろと言うのか」

 武士団の長、角倉友助(すみのくらともすけ)が吐き捨てるように言った。

 オランダ兵を易々と斬首したという曰く付きの男の、顔に刻まれた深い傷跡が醜く歪む。

「我らは、関ヶ原や大坂の陣を潜り抜けてこの地に流れ着いた者たちだ。この町は、我らが汗と血で築き上げた城も同然。それを“座して死を待て”とでも言うのか。そんな恥辱、死んでも選べぬわ!」

「わしらの商売も同じだ、レック殿」

 大坂の商人、今津寛三郎(いまづかんざぶろう)恰幅(かっぷく)のいい初老の男が苦虫を噛み潰した顔で続けた。

「ここに積み上げた鹿皮も、鼈甲(べっこう)も、すべてを捨てて逃げろやて? そんなことしたら、わしらの信用は地に堕ちて、二度とこのアユタヤで商いはできまへんがな。長政様が生きてはったら、決して逃げろとはおっしゃらんやろう」

 今津の言葉に、レックは理解を示し、何度も頷いた。

「しかし、長政さんなら、あなたたちが生き延びることを第一に考えるはずだ!」

 レックは身を乗り出し、粘り強く説得を試みた。

「角倉友助殿、誇りで腹は膨れない。今津寛三郎殿、信用も命がなければただの紙屑だ。カラホムは本気で我が日本人町を焼き払う気だ。火が放たれてから、煙のなかで後悔しても遅いのです!」

 だが、彼らにとってのレックは、長政に重用されただけの「予言めいた知恵を吐く得体の知れない居候」に過ぎなかった。

 平和な時には面白がられたその知識も、この期に及んで、彼らの根強い「武士道」や「商魂」を突き破ることはできなかった。

「……ああもう、なら勝手にしてください!」

 レックは吐き捨てるように町会所を出た。

 外に出ると、夕暮れ間近のチャオプラヤ河が、黄金色(こがねいろ)に輝きながら、すべてを飲み込むように流れていた。

 夕陽が沈む河辺の桟橋に、ハナが独り座っていた。

 レックは隣に腰を下ろし、流れる水面をぼんやりと見つめた。

「ああ……誰も、聞いてくれない。歴史は、どうしてもこの町を焼き尽くしたいらしい……」

 “歴史”という言葉が思わず口に出てしまった。

 ハナは何も言わず、ただ怪訝(けげん)そうにレックの横顔を覗き込んだ。

 その不思議そうな眼差しが、かえってレックの心のダムを決壊させた。

 有希を失い、時を超え、ここでもまた大切な人々を救えない無力感が溢れ出した。

「ハナ……信じないかもしれないけど、聞いてほしいことがあるんだ」

 レックの声は、情けないほど震えていた。

 一抹の迷いが脳裏を横切るが、もう止まらなかった。

「ハナ、僕は今から四百年も先の世界から来たんだ。鉄筋のビルが立ち並び、空を飛ぶ鉄の塊があり、誰もが手元のガラス板で世界を知ることができる、そんな未来の世界から……」

 ハナは黙って、まるで迷子をなだめるような、慈しむような微笑を浮かべた。

 彼女の冷えた指先が、レックの熱い頬にそっと触れる。

「レックさん。あなたは、とても不器用な人なのね……」

「ハナさん……信じないのか」

 ハナはゆっくりと河面を見つめた。

「四百年後の世界なんて、私には想像もつかない。でも、今のあなたの言葉は、まるで幼い頃に母から聞いた、別世界の御伽噺(おとぎばなし)のようだわ」

 ハナの言葉をレックは溜息をついて聞き流した。

「……やはり信じてくれないよね」

 未来人としての優位性など、この泥臭い現実の前では、まさしく“現実逃避”にしか聞こえない。

 ハナは、レックが霧の中から現れた、あの日のことを忘れてはいない。

 だが、それを敢えて今ここで口にしなかった。

 彼女にとって大事なのは、レックがどこから来たかではなく、いま、ここにいる彼が歴史の狭間でどれほど苦しんでいるか、それだけだった。

「レックさん、いいのよ。たとえ、あなたが未来から来た妖人の妄想だとしても。……あなたが、私たちのことを大切に思ってくれている。それだけで、私は嬉しいのです」

 レックは絶句した。

 ハナは「妄想」として優しく受け流すことで、皮肉にもレックをこの現実の世界に繋ぎ止めていたのだ。

 二人の影が、桟橋の上に長く伸びていく。

 対岸の林の向こうでは、重い鉄の車輪が泥を噛む軋み音が、鈍く河面を流れて来た。

 カラホムが呼び寄せた大砲の列が、じりじりとその口をこちらへ向けようとしている。

 レックは立ち上がり、ハナの手を取った。

「帰りましょう。お滝さんが夕飯を作って待っている、いや、ちょっと待って……」

(“おとぎばなし”……幼い頃に母から聞いただと……?)

 桟橋を去る二人の背後に、ジャスミンの甘く重い香りが、夕刻の湿気と共にまとわりついていた……。