
降りしきるスコールの激しい雨音が、土路に生えたバナナの葉を叩きつけ、その重い音だけが町に響き渡っている。
長政のいない日本人町は、守護神を失った抜け殻のように暗い。
レックは雨の帳を突き抜け、独り、お滝とハナの屋敷へ急いだ。
屋敷の土間では、二人が静かに遅い夕食の準備をしていた。
聞こえるのは、藁葺きの屋根を叩く凄まじい雨音と、時折、雨樋から溢れた泥水がどさっと地面に落ちる重低音だけだった。
レックは二人に歩み寄り、その雨音をかき消すように、鋭い声で命じた。
「お滝さん、ハナ、手を止めてください。……奴らが来ます。一人じゃない、黒尽くめの刺客が少なくとも四人はこの目で確認しました」
ハナとお滝の手が止まった。
だが、そこに「怯え」の表情は感じられない。
彼女たちは長政を見送ったその瞬間から、この事態を予期していた。
長政という後ろ盾を失った今、自分たちが「標的」になることを、直感で理解していたのだ。
二人の瞳には、生き延びるための静かな殺気が宿っていた。
「お滝さん、部屋の隅にある魚醤の瓶を入り口近くまで転がしてくれ。ハナは台所の唐辛子と胡椒を全部出し、竈の熱湯を桶に移して。……奴らはそこまで来ています。私たちがここで倒れたら、長政さんが守ろうとしたこの町は、カラホムの野望の中に消えてしまう」
レックは、かつて日本の時代劇で見た“殺陣”のシーンを手繰り寄せた。
闇に紛れ、身の回りの道具を凶器に変え、法の届かぬ悪を裁く仕置き人たちの無慈悲な技。
陰の暗殺者を相手に、素人が刀を振り回しても勝ち目はない。
視界を奪い、足場を乱し、不意を突く“戦法”に賭けるしかない。
お滝とハナが“戦闘準備”を整えた頃、レックは高床式家屋の柱を這い上がるような、微かな軋みを感じた。
そして目を閉じ、意識を床下へと集中させた。
(床下に二人、裏の勝手口に二人……奴らはそこまで来ている)
その時、竹を組んだ床板の隙間から、銀色に光る槍の穂先が音もなく突き出された。
レックの足元、わずか数センチの場所を鋭い刃がかすめる。
「――今だ! ぶち抜け!」
跳ね退いたレックの合図とともに、お滝が唸りを上げた。
「あたいの家で、好き勝手させやしないよ!」
お滝が、中身の詰まった巨大な陶器の瓶を、槍の突き出た床板めがけて力任せに叩きつけた。
――メキメキッ! ガシャァァン!
凄まじい破壊音とともに、瓶の重みで薄い床板が爆ぜるように崩落した。
溢れ出した大量の魚醤と陶器の破片が、床下に潜んでいた刺客の頭上へと降り注ぐ。
「うひゃあああっ!」
絶叫と共に異臭の中に押し潰される一人の刺客。
間髪入れず、ハナが崩れた床の穴へ向かって、沸騰した熱湯をぶちまけた。
「主の留守を狙うたぁ、薄汚い真似しやがって! とっとと失せやがれ!」
熱湯が刺客の皮膚を焼き、唐辛子の粉が粘膜を灼く。
床下は一瞬にして絶叫の渦巻く地獄と化した。
「お滝さん、外へ! 床下の奴らを掃き出せ!」
レックの指示を受け、お滝は勝手口から雨の中へ飛び出した。
彼女が手にしたのは、日頃から担ぎ桶で鍛え上げた、厚みのある堅い天秤棒だ。
「長政様の留守中に、ひとんちへ泥足で上がり込むんじゃないよ!」
お滝は床下のもう一人の刺客の背後から、天秤棒を真横にフルスイングした。
――バシッ!
水しぶきと共に放たれた一撃は、刺客の脇腹を文字通り撥ね飛ばした。
「な、なんだこの女! 女侍か!」
床下で混乱する刺客たちを、お滝は再び天秤棒を槍のように振り下ろして、次々と泥濘の中へ叩き伏せた。
その時、残りの二人が木窓を破って室内に飛び込んできた。
レックは叫んだ。
「ハナ、今だ! 油を!」
ハナが、跳びかかろうとしてきた刺客の一人に、手桶の灯油を浴びせた。
そこへレックが竈の残り火を迷わず投げ込む。
――シュゴオォォォ!
激しい火柱が吹き上がり、魚醤の油分と混じり合って床下へ堕ちて行った。
すると、最後の一人、リーダー格の男が、抜き放った刀でレックの喉元を狙う。
「死ね、異邦の小僧!」
黒装束から剥き出しの眼だけが異常に血走っている。
レックは長政から授かった短刀を咄嗟に引き抜いた。
(滑る……この床なら行ける!)
レックは魚醤で滑りやすくなった床上を走り、相手が踏み込む瞬間に懐に潜り込んだ。
体勢を崩した刺客の喉元へ、レックは初めて抜く刃を無我夢中で突き立てた。
だが、刃先が喉笛を貫く直前、レックは動きを止め、刺客の首筋に冷たい刃を押し当て、獣の咆哮のように唸った。
「命が惜しければ、お前を雇った主に伝えろ。我ら日本人町の“女侍たち”を甘く見るな、とな」
刺客たちは仲間を抱え泥にまみれて、命からがら逃げ去っていった。
静寂が戻る。
聞こえるのは、三人の激しい胸の鼓動と、変わらぬスコールの雨音、そして半分崩れた床下から漂う魚醤と油の焦げた匂いだけだった。
レックは震える短刀を握りなおし、崩れた床穴を見つめていた。
カラホムが仕掛けた暗殺劇は失敗に終わった。
レックは、ゆっくりとハナとお滝を見た。
「二人とも、怪我はないですか」
レックの声に、二人が我に返り同時に振り向く。
「この家、どうしてくれるんだい!床に穴まで開けちまってさ!」
お滝は刺客に襲われた恐怖より、自分の屋敷が壊れてしまったことに、むしろ腹を立てているようだった。
「レックさん……これで、終わりじゃないんだよね」
ハナが、掠れた声で問う。
その瞳は、刺客を追い払った安堵ではなかった。
レックは短刀を鞘に収め、雨の帳の向こうを見据えた。
「奴らはまた来るでしょう。……次はあんな刺客じゃない、カラホムの軍勢がこの町を焼き払いに来るはずだ」
傾いた屋敷の床に、三人の荒い呼吸だけが共鳴していた。
静寂の中、お滝はひび割れた天秤棒を握り直し、ハナは指の震えを空の桶に押しつけた。
レックは自分の手の震えを止めるように、短刀の柄を強く握りこんだ。
アユタヤ日本人町を照らすはずの路肩の松明が、降り続く雨脚の向こうで、歪に不気味に揺れている。
日本人町への包囲網は、今この瞬間も狭まり続けていた……。



