『サヤームの鈴  日本人義勇隊の軍師になった男』



 アユタヤ王宮「サーンペット・プラーサート宮」を支配していたのは、すべてを塗り潰さんばかりの、重々しく淀んだ「黄金」だった。

 第二十五代国王、チェーター。

 わずか十五歳で玉座(ぎょくざ)に据えられた少年王の戴冠式(たいかんしき)は、(まばゆ)い金箔の装飾と香油(こうゆ)の匂いに満ちていた。

 だが、レックには、その過剰な芳香(ほうこう)は、かえって崩壊の予兆を隠す虚飾に感じられた。

 レックは長政の数歩後ろで平伏しながら、床に映る百官の影を盗み見た。

 居並ぶ重臣たちの視線は、玉座の少年王を素通りし、その(かたわ)らで摂政として静止する男——オークヤー・カラホム・シーウォラウォンへと吸い寄せられている。

 いまや最高官位であるカラホム(国務大臣)に昇進し、数多の要職を兼ねる彼は、この国の絶対権力者として玉座を侵食していた。

「……王よ、万歳。アユタヤに永遠の繁栄を!」

 シーウォラウォンの朗々たる祝詞に合わせ、官吏たちの唱和が大合唱となって広間を揺らす。

 それに応えるように、場を埋め尽くさんばかりの僧侶たちが放つ重低音の読経(どきょう)が、黄金の堂内に低く、地鳴りのように響き渡った。

 だが、その中心で、チェーター王は重すぎる王冠の重みに耐えかねるように時折青白い顔を歪め、浅い呼吸を繰り返していた。

 その姿は、彼が「真の王」ではなく、次の覇者が現れるまでの「生贄(いけにえ)」であることを如実に物語っていた。

 式典が形式的な祝辞に移った時、その静寂を破ったのは長政だった。

 彼は、亡き先王ソンタムから受け継いだ「オークヤー・セーナー・ピムック(戦の神)」としての誇りと、愚直(ぐちょく)なまでの「義」を、この最悪の盤面で発動させてしまった。

「チェーター王の御治世、心よりお慶び申し上げます!」

 長政の低く太い声が、読経の余韻を切り裂いて黄金の壁に反響する。

「しかし、王の御身もまた、我ら臣下にとっては至宝。万一、天が王を早う召されるようなことがあれば……その時は、亡き先王の次子、アーティッタヤウォン様を正統なる後継としてお守りすることこそが、このセーナー・ピムックの誓い。日本人町は、王室の血筋を乱す不忠、断じて許しませぬ」

 長政は、カラホムの眼差しに潜む「王座の簒奪(さんだつ)」という野望を既に感じ取っていたのだ。

 その瞬間、宮廷内の空気が文字通り凍りついた。

 レックは心臓が口から飛び出しそうな衝撃に襲われ、必死に顔を伏せた。

(……長政さん、それだけは言っちゃダメだ! (きば)を剥き出しにして、相手を真っ向から拒絶するなんて……!)

 カラホム・シーウォラウォンにとって、チェーター王、そして王弟アーティッタヤウォンこそ、自らが王権を握るために根絶やしにせねばならない最大の障害だ。

 長政の言葉は、カラホムの内なる計画を白日の下に晒し、「我は貴様の敵に回る」と公式に宣言したも同然だった。

 カラホムは黄金の冠を、ゆっくりと長政へ顔を向けた。

 その口元に、慈悲深い仏像の仮面を被ったような、それでいて冷徹な微笑を浮かべている。

「……セーナー・ピムック・ナガマサ殿の忠義、まことに天に届くほど。王弟殿下へのその御覚悟、しかと、このシーウォラウォンの肝に銘じておこう」

 彼は憤るどころか、深く、優雅に頷いてみせた。

 だが、レックはその微笑の奥に、長政を死へと(いざな)う緻密な「粛清の筋書」が確定した音を聞いた。

(あいつ……今、決めたんだ。チェーター王を葬る時期と長政さんを確実に始末する手筈を!)

 戴冠式の華やかな旋律が、レックの耳には弔鐘(ちょうしょう)のように鳴り響く。

 歴史の修正力という名の巨大な意志が、アユタヤ最強の武力である日本人町を「排除」し、覇道を完成させるための最終段階に入ったのだ。

 王宮を出る際、長政はどこか清々しい顔をしていた。

「これでいい。筋だけは通したずら」と笑うその背中を見つめながら、レックは懐の鈴に触れた。

 脳裏をよぎるのは、指先に血を滲ませ一心不乱に旗を縫っていたハナの姿だ。

 彼女が祈りを込めて作り上げた、あの日の丸に白象の旗印。

 それは長政を勝利へ導く旗などではなく、日本人町という共同体を、戦火の中にさらすための「標的」にするのではないか――。

 アユタヤの太陽は、黄金の王宮を背に、レックたちの足元へ長く、鋭い、逃げ場のない影を刻みつけていた。 

 懐の奥で、指先に触れていた鈴が、不意に小刻みな震えを始めた。

 チリとも鳴らず、ただ不気味な脈動のように指を弾く。

 それは、これから始まる壮絶な歴史のうねりを前に、レックの指先だけに届いた、最期の警告であったのかもしれない……。