『サヤームの鈴  日本人義勇隊の軍師になった男』



 アユタヤの夕暮れは、空を熟したマンゴーのような色に染め、チャオプラヤ河の川面に黄橙の影を落としていた。

 日本人町の喧騒から少し離れた、河畔の木陰。

 そこには、西日に背を向けて一心不乱に針を動かすハナの姿があった。

 レックは、お滝に頼まれていた町外れの生簀(いけす)から、(なまず)雷魚(らいぎょ)の入った重い魚籠(びく)を担いで店に戻るところだった。

 ふと見れば、いつもは忙しく立ち働いているハナが、珍しく木陰で静かに縫い物をしている。

「おや……ハナさん、こんなところで何をされてるのですか?」

 声をかけると、彼女は跳ねるように顔を上げ、すぐにいつもの笑窪を作った。

「あら、レックさん。お仕事お疲れさま!」

 ハナは手に持っていた大きな絹布(シルク)を、誇らしげに広げて見せた。

 それは日の丸を基調としながらも、その中心にシャムの象徴である白象をあしらった、独特の意匠だった。

「見てください、あともう少しなんです。長政様がリゴールへお持ちになる一番大きな軍旗なんです。このお役目、私が任されたんです!」

 ハナの瞳は、まるで宝物を手に入れた子供のように輝いていた。

 指先を見れば、慣れない細かな刺繍(ししゅう)に何度も針を刺したのだろう、小さな赤黒い点々がいくつも残っている。

 だが、彼女はその傷跡を、名誉な勲章であるかのように愛おしげに見つめていた。

 レックは、着物の懐にある「それ」を握りしめた。

 数日前、お滝から「明日は、ハナが生まれた頃のはずだよ」と、曖昧な、だが確信に満ちた“推定誕生日”を聞かされていた。

 せめて現代的な習慣で彼女を驚かせ、自分も少しは意識してほしい。

 レックがその“かんざし”を求めたのは、日本人町からもほど近い、ワット・ヤイ・チャイ・モンコンの門前に広がるバザールだった。

 かつてナレースワン大王がビルマを退けた戦勝記念に建てられたという、天を突く巨大な仏塔がそびえるその寺院の周辺には、今日もあらゆる異国の言葉と熱気が渦巻いている。

 穏やかな微笑を浮かべた巨大な涅槃仏(ねはんぶつ)の足元、その陰にまでひしめく露店には、オランダのガラス細工、明の絹織物、そして遠く日本の江戸から朱印船(しゅいんせん)で運ばれてきた流行の最先端の品々が並んでいた。

 レックはそこで、周囲の賑わいとは不釣り合いなほど、繊細な小さなピンクの梅の模様が入った銀のかんざしを見つけた。

 それは遠い祖国の梅林(ばいりん)を想い起こす意匠で、ハナの黒髪によく映えるはずだった。

 そんな淡い下心で、そのかんざしをなけなしの金で買い求めていたのだ。

「ハナさん。実は、今日……」

 懐からそれを取り出そうとした時、ハナの顔に、今まで見たこともないような最大級の笑顔が咲いた。

「レックさん、聞いてください! 長政様は本当にすごいお方です。リゴールを治めるということは、このシャムの国の最南の地を治められるということでしょう? 義勇隊のお侍様も、長政様のためなら命を捨てると張り切っています。だから私も、この旗が皆の守りになるように、一針ごとに祈りを込めているんです!」

 レックは、喉まで出かかった言葉を無理やり飲み込んだ。

 ハナが縫っているのは、単なる絹布ではない。

 それは彼女にとって、手の届かない憧れの英雄である長政と自分を繋ぐ、たった一つの(とうと)い「(きずな)」そのものだった。

 レックが贈ろうとしたかんざしは、ただハナを飾るための華やかな道具だ。

 だが、今の彼女が心底欲しているのは、女として着飾ることではなく、一人の日本娘として、憧れの男の役に立ちたいという“忠義(ちゅうぎ)”という名の奉公だった。

「……綺麗な旗ですね。ハナさんが、全部一人で?」

 レックは懐の奥に手を入れ、“猫”の鈴を指先で弾いた。

 ヂリヂリ、と小さな、情けない音が響く。

 歴史という大きな歯車を前にしても、自分のささやかな恋心ひとつ、彼女の心に届かせることはできない。

 山田長政という、あまりに(まぶ)しい太陽の影で、自分の存在が薄く透けていくような錯覚に陥る。

「ああ、それは長政様に喜んでいただけるといいですね……」

「はい! きっと!」

 ハナはレックの折れかけた心など露ほども知らず、再び猛然と針を動かし始めた。

 その没頭する姿は、周囲の景色さえ見えていない。

 ただ一点、遠い空の下で戦うであろう男の背中だけを追いかけているようだった。

 レックはそっと立ち上がり、彼女の視線から外れるようにして、独り小さく呟いた。

「……誕生日、おめでとう。ハナ」

 その声は、河面を渡る湿った風に吸い込まれ、誰に届くこともなかった。

 指先で弾いたはずの鈴は、今はもう、石のように冷たく黙り込んでいた……。