『サヤームの鈴  日本人義勇隊の軍師になった男』



 その週末。

 レックは、今にも息絶えそうなオンボロバイクで、通称アジア・ハイウェイと呼ばれる、国道一号線を北へとひた走っていた。

 バンコクの喧騒を抜け、景色がコンクリートの壁から鮮やかな緑と起伏のない平坦な田園風景へと変わる頃、空気の質が微妙に変化した。

 アユタヤ ― バンコクの北約70キロに位置する地方都市である。



 14世紀から18世紀にかけて、東南アジア随一の国際都市として繁栄した王都。

 中国、日本、ヨーロッパ諸国との交易で栄え、世界有数の貿易拠点として名を馳せた。

 しかし17世紀後半、宿敵ビルマ軍の侵攻により徹底的に破壊され、アユタヤ王朝は滅亡した。

 壮麗を誇った宮殿や寺院は炎に包まれ、街は廃墟と化した。

 現在のアユタヤは、周辺に工業団地が広がり、多くの日系企業が進出し、自動車産業をはじめとするアジアの生産拠点の一角を担っている。

 かつての栄華を物語る、朽ち果てた遺跡群は「アユタヤ歴史公園」として整備され、ユネスコ世界遺産に登録されている。



 太陽は天頂にあり、地面を白く焼き付けていた。

 時が止まったように、熱い空気だけが耳を圧迫している。

 遠くの雲の上を飛ぶ、ドンムアン空港発のジェット機のエンジン音がエコーのようにこだまする。

 レックは、白い門壁に「日本人村」の看板が掛けられた入口でバイクを止め、入場料の50バーツを払い、長時間の運転でしびれるお尻を摩りながら、歴史展示館へ向かって歩き出した。 

 子供用のサッカーグラウンド程度の広さの“跡地”には、今では「日本庭園」のような様相に様変わりしていたが、日本人が住んでいたような当時の家屋跡もなく、無機質な建物の土産物が一軒あるだけだ。

 ただ中央の広場には「アユチヤ日本人町の跡」という石塔があり、涼し気な木陰には休憩所が設けられている。

 観光客はまばらで、そのほとんどは日本人観光客と思われた。

 また、日本ブームにのった日本好きのタイ人の若いカップルが、園内にディスプレイされたレプリカの鳥居や提灯、商店街のアーケードにあるような樹脂製の桜の木の前でSNS用の写真を撮っている。

 日本人村は、チャオプラヤ河の左岸に面して存在したらしいが、現代に至ってもこの付近で日本人が使っていたと思われる生活用品などが出土した話は聞いたことがない。

 チャオプラヤ河の反対岸にはポルトガル人村や、イギリス人村、オランダ人村などがあったとされ、当時、アジア随一の貿易で栄えた、国際色豊かだった当時の王朝の名残だろう。

 レックは首にかけたカメラの重みを感じながら、河沿いまで歩くと、舳を少しもたげた「ロングテールボート」(เรือหางยาว)が爆音を上げながら河の中央を遡っていくのを見た。

「煩いなぁ‥‥当時のアユタヤにはこんなやかましい舟などなかったはずだよな……」

 そう呟きながら、サヤームの高級武官の衣装に身を包んだ「山田長政(やまだながまさ)像」に一礼をして、小さな祠に線香を立て、賽銭箱に20バーツ紙幣を一枚入れて、歴史展示館へと足を踏み入れた。

 冷房の効いた館内の静寂が、火照った肌に心地よい。

「ふぅ…まずはここでゆっくりと涼みながら、夜まで時間を潰そうか……」

 ロビーの壁には、今夜開催される『アユタヤ世界遺産登録35周年記念』の巨大な広告幕が垂れ下がっていた。

 黄金にライトアップされた遺跡を背景に、歴史劇の役者たちが象に跨り、剣を振り上げている。

「幻想的な光と音のショー」という文字。

「……35周年か。当時のアユタヤは、こんな演出がなくても、街全体が黄金に輝いていたんだろうな」

 レックは皮肉混じりに独りごちて、奥へと歩を進めた。

 壁に沿って並ぶ日タイ交流の年表。

 その先には、波を切り裂く朱印船の模型や、貿易の品々、泥の中から引き揚げられた日本の陶磁器(とうじき)、鈍い光を放っていたであろう錆びた武士の刀が、静まり返った空気の中で整然と並んでいる。

 そして、山田長政の肖像画。

(山田長政……沼津の六尺(駕籠かき)からサヤームの上級官位「オークヤー・セーナーピムック(戦の神)」にまで登り詰めた男。だが、最後は王位継承の争いに巻き込まれ毒殺された。……結局、歴史の歯車には勝てなかったんだよな……)

 レックは肖像画の鋭い眼光と、しばし視線を合わせた。

 正確な知識は、時として残酷なほど冷笑的な視点を生む。

 彼にとって歴史とは、すでに結末が記された「不動の遺跡」に過ぎなかった。

 だが、その一角。

 特別展示の小さなガラスケースの前で、レックの足が止まった。

「……なんだ、これ」

 そこには、茶褐色に変色し、所々が虫食いになった一通の手紙の断片があった。

 四百年近く前の日本人町で書かれたとされる、未投函の恋文。手慣れた筆運びの草書体だが、一文字一文字に、祈るような力強さが宿っている。

 レックは無意識にガラスへ顔を寄せた。日本留学で叩き込まれた古文書の読解力が、(かす)れた崩し字を意味へと変換していく。

『……長政様……村の皆は、北へ逃れる準備を整えております……どうか、ご無事で……』

 そこまでは、迫りくる戦乱の予感を伝える悲劇的な恋文だった。

 しかし、結びの一文を目にした瞬間、レックの心拍が跳ね上がった。

『――未来(さき)から来た男に、この奇なる猫の鈴を託されました。彼は今、私の隣で、貴方の影となって戦っています』

「未来から……来た男?」

 あり得ない。四百年前の人間が、決して記すはずのない言葉。

 その困惑を切り裂くように、ジーンズのベルト通しに引っ掛けたバイクの鍵束が、意志を持ったかのように激しく震えだした。
 
 チリリッ、チリリリリッ!

 有希との形見であるはずの、キーホルダーに付いた色褪せたキティちゃんの鈴。

 それが、館内の静寂を突き破らんばかりの、鋭く、高い音量で鳴り響く。

「うわっ、なんだ、なんだよ!」

 レックが慌てて鈴を手で押さえた瞬間、資料館の床が、底なしの泥沼のように深く沈み込んだ。

 視界が急速に歪み、展示品の色が溶け出して、巨大な渦となって彼を飲み込んでいく。

 意識が遠のく中、耳の奥で、確かにあの懐かしい声が響いた気がした。

「有希……有希なのか?」