『サヤームの鈴  日本人義勇隊の軍師になった男』



 オランダ商館が三日を待たずして撤退を開始したという報は、瞬く間に日本人町へ広まった。

 町は、祭りのような喧騒に包まれていた。

 通りにはどこから運んできたのか酒樽が幾つも並べられ、町の人々や、義勇隊の武士たちは高笑いを上げながら、溢れる酒を盃に受けていた。

 彼らにとって、レックは言葉だけで異国の軍勢を追い払った英雄であり、奇跡をもたらした“軍師”として称賛された。

「レック殿、一杯どうだ! おぬしがいなけりゃ、今頃この町はオランダの火砲で瓦礫(がれき)の山でござった」

 屈強な男たちに代わる代わる肩を叩かれ、何度も酒を勧められる。

 だが、レックの喉を通る酒には、陶酔(とうすい)昂揚(こうよう)もなかった。

 称賛の言葉が飛んでくるたびに、自分が犯した歴史改変の代償が、じわじわと胃の奥を()く。

 レックは独り、喧騒を離れて町の端にある船着き場へと足を向けた。

 祝祭の篝火(かがりび)が、遠く背後でパチパチとはぜる音を立てている。

 その光が届かない闇の向こう側、チャオプラヤ河の対岸に広がる暗い茂みに目を凝らした。

 ――誰かがいる。

 湿り気を帯びた夜気の中に、針のように鋭い視線が混じっている。

 シーウォラウォンが放った監視か、あるいは気を(うかが)う刺客か。

 オランダという盾を自らの手で排除したことで、日本人町はアユタヤの王朝中枢において、突出した武力勢力として恐れられる存在となった。

 自分の知恵が、自分たちの首を絞める準備を整えてしまった事実に、鋭い寒気が背筋を走った。

 不意に、背後で枯れ草を踏む音がした。

 反射的に身を固くし、懐の短刀へ手をかけようとしたその時、聞き慣れた声が届いた。

「レックさん、ここにいらしたのですね」

 ハナだった。

 彼女は町の騒ぎを避けるように、小さな包みを大事そうに抱えて立っていた。

 レックは息を吐き出し、張り詰めていた肩の力を抜いて表情を緩めた。

「皆が探していますよ。……日本人町を救った“軍師”さまが、こんな暗がりにいらっしゃるなんて」

「“軍師”などではないですよ。僕は、いや、拙者はただ、嫌な予感を形にしただけですよ」

 自称が「僕」から「拙者」へと滑り落ちたことに、自分でも戸惑いを覚えた。

 この時代の空気に馴染(なじ)もうとする本能か、それとも現代の自分を捨て去ろうとする覚悟か……。

「相変わらず、いつも難しいことばかりおっしゃる」

 ハナは着物の袖で口元を隠して笑った。

 出会った頃の警戒心が薄れ、彼女の言葉遣いは日を追うごとに丁寧になり、尊敬の念が混じるようになっていた。

 彼女にとっても、レックの存在は、もはや海を越えてきた迷い人ではなく、この過酷な乱世を切り拓く導き手となっていた。

 ハナはレックの隣に腰を下ろすと、抱えていた包みを解いた。

 中からは、まだ微かな温もりを帯びた握り飯が現れた。

「これ、まだ何も召し上がっていないでしょう。少し、塩気が足りないかもしれませんが…」

 差し出された“おにぎり”を、レックは受け取った。

 米の甘みと、少し強めに効かされた塩昆布の味。

 それは、二十一世紀のコンビニで買える無機質な味とは違う、人の手で握った生身の味だった。

 横に座るハナの横顔を見る。

 篝火の遠い光を反射して、彼女の瞳の中で小さな火が揺れていた。

(……ああ、そうか)

 レックの中で、一つの実感が湧いてきた。

 なぜ自分は、歴史を改め、さらに王位簒奪(さんだつ)を企むシーウォラウォンに“敵視”されてまで、この日本人村を守ろうとしたのか。

 未来を正すためでも、自らが歴史に名を残そうと思ったわけでもなかった。

 ただ、この隣にいる女性の、飯を握るその指先を、非業(ひごう)の血で染めたくなかっただけだ。

 彼女の(つつ)ましい日常が、戦火に踏みにじられるのを、ただ見過ごすことだけはできない。

 「現代」で亡くした最愛の女性、有希の面影を重ねる必要はもうないのだと悟った。

 今、隣にいるハナの体温を感じることで、レックしようやく、この「一六二八年」という過去の“現代”を生きていることを自覚した。

 それは執着であり、同時に初めて抱く、この時代に生きる女への、紛れもない恋心だった。

 だが、ハナを愛おしいと想えば想うほど、彼女が自分の隣にいることの危うさに、レックの指先が微かに震える。

 闇に潜む「()」は、今も自分たちを逃さず捉えているはずだ。

「レックさん?どうかしましたか?」

 不思議そうに覗き込むハナの頬に、篝火の影が揺れた。

 その柔らかな頬に、有希と同じ位置に小さな笑窪が浮かんでいる。

 張り詰めた心が僅かに穏やかになる一瞬。

「……ハナ。その君の笑窪、私の故郷では『幸せの賽銭箱(さいせんばこ)』って呼ばれているんだ」

「賽銭箱……?」

「そう。そこに今のこの時間を投げ入れたよ。これでもう、みんな幸せになれる」

 ハナは一瞬、きょとんとした顔をしたあと、可笑しそうに白い歯を見せて笑った。

「また、そうやって子供をからかうようなことを、ふふふ」

 有希も、レックがくだらない冗談を言うと、そうやって少しだけ鼻を膨らませて笑ったものだ。

 冗談を交わし合う数秒間だけ、夜の重さに一つ灯りがともる。

 レックは精一杯の微笑みを彼女に返し、手元の握り飯をもう一度頬張った。

「本当に、美味しいよ。ありがとう、ハナ」

 レックはふと、懐の鈴が肌に触れた。

 何の反応も見せない、ただの真鍮(しんちゅう)の塊。

 歴史をこれほど大きく(いが)めたというのに、未だ沈黙を守っている。

 掌に感じるその微かな重みは、有希と過ごした、あの楽しかった“未来”には戻れないことを、淡々と突きつけてくるだけだった。

 懐の鈴をなぞる指を離し、レックは隣で微笑んでいるハナを見つめた。

 (上等だ……)

 未来を告げる鈴が鳴らないのなら、この時代の激流の中で生き抜くまでだ。

 その時、対岸の茂みから一羽の夜鳥が勢いよく飛び立った……。

(第七章へつづく)