
先ほどの雷鳴が嘘のように、雲の間から眩い光が差し込み、港の水面を照らしていた。
オランダ商館の岸壁では、既に撤退の準備を命じられたオランダ兵たちが、泥にまみれた長靴を鳴らし、呪詛を吐き散らしながら慌ただしく樽や木箱を船倉へ積み込んでいた。
彼らにとってこの地は、一刻も早く立ち去るべき忌むべき異郷へと変わり果てていた。
その狂騒から少し離れた埠頭の端に、一人の老武士が静かに佇んでいた。
津田又左衛門。
若き日の山田長政がアユタヤの地を踏む前から、日本人傭兵部隊の重鎮としてその名を轟かせてきた男だ。
数々の修羅場を潜り抜けてきたその顔には、熱い太陽の年輪のような深い皺が刻まれている。
長政にとっては、武芸のみならず異国での生き方を教わった、到底頭の上がらぬ大先輩であった。
日本村の精神的支柱でもあった彼が、今回、オランダ船の案内人として同乗し、日ノ本へ還ることになっていた。
「……レック殿。見事なお知恵であった」
又左衛門は、長崎・出島への航路を共にするオランダ人たちの無様な積み込み作業を横目に、レックに向かって深く、重みのある一礼をした。
「わしのごたる戦場育ちには、血ば流さずに国ば一つ追い出すごたる術は、想像もつかんとたい。もはや、槍ば振るうだけの老いぼれの出る幕じゃなかばい。おぬしのごたる奇才がこの村に現れたこと、それ自体が天の采配やったと信じるばい、はっはっはっ……」
その笑い声には、レックへの称賛だけでなく、己の役目が終わったことを悟った者の寂しげな響きがあった。
又左衛門の瞳は、目の前の大河ではなく、その先にある故郷の山河を見つめているようだった。
「わしの役目は、未来の変わりゆく日ノ本の姿ば見届けることたい。……レック殿、アユタヤ日本村の行く末と長政様のことは、おぬしに託したばい! よかか?」
レックは威を正し、又左衛門に向かって深くお辞儀をした。
「又左衛門様、道中どうかご無事でいらっしゃいますよう、伏してお祈り申し上げます。日ノ本の行末を、何卒お見届けください、お達者で」
そこには、レック自身の切実な願いが込められていた。
自分は決して踏むことのできない“過去”の日本の土さえも、この老兵の目に焼き付けてきてほしいという、祈りにも似た想いだ。
又左衛門は、深々と頭を下げるレックを満足げに見つめて、傍らに立つ長政の逞しい肩に、節くれ立った大きな手を置いた。
「……長政殿。おぬしには、ここよりもっと大きな役が待っとるばい。覚悟ばしとけよ」
長政が怪訝そうに顔を上げると、又左衛門は「よか、よか」とだけ繰り返し、それ以上は何も語らなかった。
遡ること数日前、又左衛門は独り、シーウォラウォンの私邸を訪れていた。
アユタヤの政戦を長年見届けてきた老兵の勘は、この国の主が交代する動乱の今、最大の武力を持つ日本村が真っ先に疎まれ、排除の標的になることを既に察知していた。
又左衛門はシーウォラウォンに対し、長政への敵意を逸らすための“妥協案”を自ら進言していたのだ。
『長政は、ただの傭兵頭で終わる器ではござらぬ。あやつを南のリゴールの地へ太守として遣わされては如何に。あの地は反乱の火種が絶えぬ土地でござる。長政ならばその武力をもって鎮め、王国の富も潤すに違いありませぬ。閣下におかれては、厄介な日ノ本の侍どもを王都から遠ざけつつ、南の憂いをも払える……これ以上の妙策はござらぬと存じまするが』
それは、長政を宮廷の泥沼のような政争から引き離し、その命を守るための又左衛門なりの献身であった。
武士として、弟子の出世を期待し、その名を一国の太守として歴史に刻ませたいという、強い愛情の産物でもあった。
オランダ船の船梯子に足をかけた又左衛門が、最後にレックを真っ直ぐに見据えた。
「レック殿。わしはシーウォラウォンに種ば蒔いておいた。あやつは長政を恨んどるわけじゃなか。むしろ、持て余しとるほどに誇りに思っとる。……だがな、誇りと嫉妬は紙一重たい。あとの舵取りは、おぬしの知恵に任せたばい」
長政は聞こえぬふりをして、眩い西日に茜色に染まった仏塔を目を細め眺めていた。
そして、去りゆく老兵の背中に向かっていつまでも頭を下げ続けていた。
*
「お見事だったぞ、レック。おぬしの言葉は、アユタヤから宿敵オランダを追い出したのだ。これからは又左衛門様の仰る通り、我らの新しい役目が始まるのだ」
長政が、誇らしげにレックの肩を叩く。
だが、レックはその掌の重みに、別の戦慄を覚えていた。
歴史を書き換えたという高揚感など、微塵もなかった。
又左衛門が良かれと思って蒔いた「リゴール派遣」(現在のタイ南部ナコンシータマラート県)という種。
それは史実において、長政が政争の果てに毒殺され、日本村が崩壊へと向かうカウントダウンの始まりを意味していた。
救おうとして伸ばした指先が、また一つ、残酷な歴史の歯車を噛み合わせてしまったのだ。
レックは震える指で、懐の中の鈴に触れた。
歴史の修正に反応して、何らかの微動なり、予兆なりが返ってくることを期待して、何度も、何度もなぞる。
何の反応も、共鳴もない。
有希のいた世界との線が、完全に切れてしまったのか……。
答えを返さない鈴の、僅か数グラムの重みが、得体の知れない不安となって心の奥底に沈んでいった。



