『サヤームの鈴  日本人義勇隊の軍師になった男』



 王宮を後にした長政とレックは、小舟に乗り込みロッブリー川を下った。

 チャオプラヤ川の本流へと合流する地点、水面に突き出すようにして、その異質な建築群が現れる。

 オランダ東インド会社、アユタヤ商館である。

 それは、周囲の竹や木で組まれた高床式の民家とは明らかに異なっていた。

 鈍い赤茶色のレンガを積み上げた二階建ての石壁。

 漆喰(しっくい)で固められた白い窓枠。

 屋根には焼成された重い瓦が載り、その(いただき)にはオランダを象徴する三色旗が風に(あお)られている。

 商館の周囲には堅牢な木柵が巡らされ、その隙間からは最新鋭の火器を担いだ衛兵の鋭い視線が突き刺さる。

 熱帯の湿った風景の中に、欧州の建築様式が無理やりねじ込まれたような、冷徹な美しさと拒絶の気配が同居していた。

 この商館は単なる商取引の場ではない。

 欧州の力がこのアジアの一王国に打ち込んだ、列強国の「(くさび)」そのものであった。

 長政は、門番に会釈をし、レックを従えその重厚な門をくぐった。

 石造りの廊下を歩くと、ひんやりとした冷気が足元から伝わってくる。

 アユタヤの熱気から隔絶されたその空間は、まるで異界へ通じているようだった。

 通された応接室には、商館長ヴァン・フリーストが待ち構えていた。

 彼は苛立(いらだ)ちを隠そうともせず、パイプの煙を執拗に吐き出していた。

不躾(ぶしつけ)な訪問だな、ナガマサ殿。我ら東インド会社は、この国の法を遵守し、正当な税を納めている。王の崩御に伴う混乱に、金輪際(こんりんざい)、我々を巻き込まないでもらいたい」

 ヴァン・フリーストの、通辞を介したポルトガル語による牽制。

 レックはそれを、表情一つ変えずに受け流した。

「まずは、先の不始末についてお詫びせねばなりません」

 レックが、通辞を差し置いて流暢なポルトガル語で直接語りかけた瞬間、ヴァン・フリーストの眉が大きく跳ねた。

「エスパニア船との和平交渉を貴国が邪魔した際、我が義勇隊の角倉(すみのくら)が貴国の兵を斬首した件です。血気盛んな武人の暴走とはいえ、礼を失しました。……しかし、それゆえにこそ、事態は謝罪だけで済む段階を越えてしまったのです」

 レックは、謝罪を「譲歩」ではなく、対話を強引にシーウォラウォンからの書状へと移行させるための「足がかり」とした。

 長政が重苦しい沈黙を保ち、室内の空気をその威圧感で支配する中、レックは(ふところ)から一通の書状を取り出し、机の上に滑らせた。

「商館長。巻き込まれるか否かを決める段階は、既に過ぎ去りました」

 レックの声が、外交交渉の猶予を奪うほど冷やかに響いた。

「これは、崩御されたソンタム王の弟君であるシーシン親王(しんのう)から、貴館へ送られたとされる密約状です。内容は、この度の“斬首事件”の報復として、日本人村の焼き払いを許可する条件に、独占的な通商権を付与すると……」

 レックが流暢なポルトガル語で続けた。

「これが昨日、シーウォラウォン長官の手に渡りました」

 ヴァン・フリーストの顔から、急速に血の気が引いていく。

「馬鹿な……そのような心当たりはない! それは、シーウォラウォンが仕組んだ罠だ!」

「その真偽は、重要ではありません!」

 重苦しく淀んだ空気の中、ヴァン・フリースト館長は天を仰いだ。

「重要なのは、シーウォラウォン長官がこれを『(まこと)』として扱うと決めたことです。現在、王宮の近衛兵たちは、貴館がシーシン親王に加担した嫌疑でこの商館を包囲する準備を整えています。全財産の没収、そして乗組員全員の処刑。アユタヤの法の下では、反逆罪に慈悲はありません」

 商館長は、言葉を失い、机を叩こうとした手を空中で止めた。

 レックは、相手の表情が戦慄に変わる瞬間を見計らい、遂に本題を切り出した。

「ですが、長官は賢明な御仁だ。不毛な流血を望んではおられない。そこで、我々は貴館に『名誉ある撤退』を提案いたします……」

「『名誉ある撤退』だと……?」

「はい、直ちに商館を閉鎖し、王国から速やかに退去することです」

 ヴァン・フリーストの声が震える。

 レックは、相手の逃げ道を決死のロジックで固めていった。

「商館長、貴殿の帳簿は既に悲鳴を上げているはずだ。バタビアの本部からは、収益の上がらぬシャム貿易に見切りをつけ、日ノ本の長崎、あるいは台湾、高砂の国、いや、フォルモサのゼーランディア城の維持に注力せよという訓令が届いているのではないですか?」

 赤毛の巨漢はパイプに火を入れ直し、椅子に深く沈み込んだ。

 なぜ、この若者がバタビアの本部でも最高機密に近い極秘情報のことを知っているのか。

 レックが口にした「ゼーランディア城(熱蘭遮城)」という具体的な名称は、商館長にとって、目の前の男が未来を見透かしているかのような錯覚を抱かせるに十分だった。

 ここで意地を張れば全てを失うが、今引けば長崎という次なる利益へ資産を移せる。

「ここで反逆者として腹を切るか、それとも、長官に和平の賠償として銀を積み、商船を連れて長崎へ向かうか。……決断するのは、ヴァン・フリースト館長、あなたです」

 長政が腰の太刀に手をかけ、椅子を鳴らして立ち上がる。

 その鉄の鳴る音が、ヴァン・フリーストの最後の虚勢を打ち砕いた。

「……三日だ。三日以内にこの国を去るがよかろう、ではこれにて失礼いたす」

 交渉は成立した。

 史実におけるオランダ東インド会社の「アユタヤ撤退」という事実は、レックが仕掛けた言葉の罠によって、この瞬間に三十年も前倒しで“史実”となってしまった。

  底知れぬ不安と焦りがレックの胸の奥から湧き上がってきた……。