『サヤームの鈴  日本人義勇隊の軍師になった男』



 ソンタム王が崩御(ほうぎょ)した。

 一六二八年、雨季が明けた十二月半ばのことである。

 季節の変わり目を告げる、乾いた北風が吹き始める頃であった。

 一点の曇りもない青空の下、田植えを待つ広大な水田は、まるで巨大な鏡のように静まり返っていた。

 泥水に反射する、天を突く椰子の木のシルエットだけが、水面に刻まれている。

 しかし、その長閑(のどか)な風景の裏側で、王国の安寧(あんねい)は今まさに崩れようとしていた。

 アユタヤの宮廷と日本人町を結んでいた細い、だが強固な絆は、ソンタム王の死を境に急速に緩み始めた。

 王宮の回廊は、弔いの黒装束(くろしょうぞく)に身を包んだ廷臣(ていしん)たちで埋め尽くされていた。

 誰もが信心深い顔をして、手向けの言葉を口にしながら、その裏では主を失った玉座を誰が奪うのか、あるいは誰に縋れば生き残れるのか、互いの出方を探り合っている。

 そんな軽薄なすすり泣きの声が、逆に静寂のなかの不気味さを際立たせていた。

 王宮の北を流れるロッブリー川の対岸。

 喧騒から隔絶されたシーウォラウォンの豪奢(ごうしゃ)な私邸。

 川面を渡る風が、ひんやりと湿った空気を運んでくる。

 シーウォラウォンは、金箔に縁どられた重厚な椅子に深く腰掛け、レックが認めたポルトガル語の書状を、傍らの従者に読み上げさせていた。

「なるほど……王弟シーシン親王がオランダを抱き込み、自らの即位を邪魔立てする日本村を焼き払おうとしている、か」

 シーウォラウォンの声には、まるで感情が通っていなかった。

 彼はこの書状の内容が、自らが胸の内に描いていた「日本村排斥」という企みを封じるための、長政とレックによる意図的な“演出”ではないかと疑った。

 だが、一度公の場にこの書状が示され、長政が証拠として突きつけてきた以上、彼はこの“演出”を真実にして利用するほかなかった。

 今、日本村を攻撃すれば、彼自身が「王弟派と通じている」と宮廷中に宣言するようなものだからだ。

 レックは、シーウォラウォンが最も嫌う「恥辱(ちじょく)」という鎖で、その両足を縛り上げたのである。

 シーウォラウォンは、長政の背後に控えるレックへ、ゆっくりと視線を移した。

 射すくめるような、毒蛇のそれにも似た眼光。

 レックは、その視線に晒されながら、背中を伝う冷や汗を必死に抑えていた。

 この“演出”がばれるのではないかと、心臓の鼓動が鳴り続ける。

 だが、レックは冷静に頭の中にある、かつて文献から詰め込んだ「歴史の真実」をゆっくりとなぞった。

 本来の史実では、この崩御の混乱に乗じて、シーウォラウォン自らが軍を遣り、日本村へ火を放つ。

 それによってアユタヤ最強の日本人義勇隊を壊滅に追いやり、自らの覇道を確かなものにするはずだったのだ。

 その凄惨な結末を回避するために、レックは歴史の改竄(かいざん)という、史実を欺く命懸けの“脚本”を仕上げたのだ。

「軍師よ……」

 シーウォラウォンが、皮肉じみた声を噛みしめるように問うた。

「軍師、と呼んでもよいであろう。……貴殿には、今のオランダがどう見えている?」

 シーウォラウォンは、もはや長政を視界に入れていなかった。

 未来を予見するような言葉を操り、自分の思考を、まるで掌を見るように先回りし続けるこの若者。

 彼こそが、自分の野望を阻む《《脅威の根源》》であると確信したのだ。
 
 レックは、膝の震えを悟られないよう一歩前へ出た。

 震える声を無理やり理性で抑え込み、自分が知っている当時の情勢を、揺るぎない事実として淡々と述べた。

「オランダは、強力な軍事力を備えた貿易商団です。彼らにとって、今はアユタヤで細々と手に入る鹿皮や香辛料よりも、台湾や長崎といった北の貿易拠点の拡大を優先したい時期にあります。勝ち目の薄い王弟派に与し、日ノ本やエスパニアと無益な戦をすることは、彼らの帳簿を赤字に染めるだけの愚行に他なりません。商人は、負ける賭けには乗りません」

 それは、シーウォラウォンが狙っていた「外国勢力を利用して政敵を掃討する」という選択肢を、一つずつ丹念に握りつぶしていく作業だった。

 レックは言葉を継ぐ。

「長官殿、この書状を盾に、オランダへ嫌疑をかけるのです。王弟派と内通した罪を問い、シャム国での特権剥奪を警告すれば、彼らは損を避けるために早々に身を引くでしょう。戦わずして、王弟派の最大の後ろ盾を剥ぎ取るのです。これこそが長官にとって、日本村を守ったという圧倒的な“大義”を手に入れつつ、政敵を完全に孤立させる最善の策となります……」

 この注進さえ、レックにとっては精一杯の挑発だった。

 実際、当時のオランダが、アユタヤの内紛に関与する余力がなかったことを、レックは未来の記録から剥ぎ取り、シーウォラウォンが拒めない“ロジック”として張り付けたのだ。

 レックは、シーウォラウォンの冷たい瞳の奥に吸い込まれるような錯覚を覚えた。

 自分の思考の数手先を読み、最も合理的で、かつ抗弁させない逃げ道を用意する。

 シーウォラウォンは、レックを奇才の軍師として認めながらも、いつか必ず息の根を止め、この世から消し去らねばならぬ「正体不明の魔物」として、その名を脳裏に深く刻み込んだ。

「……面白い。その知恵、拝借させていただこう」

 シーウォラウォンは、一切の感情を排した顔で立ち上がった。

「では、オランダ商館へ向かうがよかろう。このシーウォラウォンの名において、我が意向を伝えに行くがよい。不義理な商人どもに、この国の主が誰であるかを教え込んでやるのだ」

 その時だった。

 乾季の青く透き通っていたはずの空が、俄かに不吉な鉛色の雲に覆われた。

 先ほどまで吹き抜けていた乾いた北風がぴたりと止み、肌に粘りつくような湿気が室内を満たす。

 ――ゴロゴロと、地の底を這うような重苦しい雷鳴が轟いた。

 季節外れの雷光が、シーウォラウォンの冷徹な横顔を微かに白く浮かび上がらせる。

 それは、アユタヤを飲み込もうとする未曾有(みぞう)の濁流が、ついに決壊した合図であった。

 レックは懐の中で震える自分の手で、鳴らない鈴を強く握りしめた。