
次の日の夕刻。
ぎらつく夕陽もここ数日、チャオプラヤの河面を照らしてはいなかった。
雨に濡れた日本人村は泥濘の底に沈み、水位は限界を超えて、村の至るところで床下まで水が入り込んでいる。
ハナの実家の蒲焼屋も商売あがったりで、軒先には濁った水が虚しく溜まっていた。
膝下まで浸かった土間の、木の椅子に腰かける長政とレック。
その足元を、どこかの樽から逃げ出した鯰が、ぬらりと掠めて泳ぎ去っていった。
お滝が差し出した茶の湯気だけが、かつての平穏な日常の残り香のように、白く頼りなく揺れている。
「……“偽書”、でございますか」
茶菓子を運ぶお盆を持ったお滝の手が、ぴたりと止まった。
その声は、脆く、微かに震えている。
レックはお滝の顔を見られず、手元の煤けた机を見つめたまま、長政に代わり言葉を絞り出した。
「そうです。王弟シーシン親王の擁立派がオランダと内通し、それを支持せぬ日本村を焼き払おうとしている……と。今、この場で私が、その“嘘の真実”を書状にします、お滝さん、墨と筆をお願いします」
お滝の瞳に不安が広がる。
彼女の脳裏には、あの高僧の不吉な“予言”が被さっていた。
(……この王国で日ノ本が栄華を極めたとき、その炎は自らを焼き尽くす紅蓮に変わる……)
「焼き尽くす」という予言、そしてそれが歴史の真実だった。
レックは今、その歴史の軌道を無理やりねじ曲げようとしていた。
史実では、シーウォラウォン自身が「日本村焼き討ち」を仕掛け、日本人を排除する。
だが、その彼が思いつくはずの陰謀を、先んじて「王弟派とオランダの共謀」として捏造し、長官の耳に入れてしまうのだ。
そうなれば、長官はもはや自分の手で村に火を放つことができなくなる。
火を放てば、それは自分が「王弟派と通じている」と認めることと同じになるからだ。
彼は己の野望のために、むしろ日本村を保護する“偽善者”を演じざるを得なくなる。
「お滝さん。これは毒を以て毒を制するための策です。この書状一枚で、シーウォラウォンから“主導権”を奪い取る。彼はこれを見た瞬間、自分の手の内を先に晒されたことに愕然とするはずです」
レックは深く瞳を閉じ、脳裏に浮かび上がる「十七世紀のポルトガル語の書簡」をなぞり始めた。
お滝が以前、スペイン人の商人と鯰の蒲焼と物々交換をした、ガチョウの羽ペンが、鋭い音を立て、羊皮紙に黒いインクを刻んでいく。
彼の筆先から一文字ずつ、異国の言葉が溢れ出す。
「……できた!」
長政が「よし!」と立ち上がった。
しかし、その眼光には、窮地を逆手に取る野心と、己の手を汚す奇策への激しい嫌悪が渦巻いていた。
この偽書を差し出せば、長官は自らの手を汚さず、王弟派の鎮圧を長政に命じるだろう。
それはつまり、長政が「自分たちを陥れようとした」という濡れ衣を着せられた者たちを、自らの刀で始末しに行かねばならない……という血の契約を意味していた。
レックが最後の《《偽りの署名》》を終えた、その時だった。
屋敷の門を激しく叩く怒号が静寂を破り、泥まみれの伝令が飛び込んできた。
「申し上げます! 先刻、王宮より早馬が……! ソンタム王、崩御あそばされました!」
一瞬、全員の呼吸が止まった。
「……日ノ本の“傘”が、折れたか!」
アユタヤ日本人の守護者であり、理解者でもあったソンタム王の死。
それは、宮廷の危うい均衡を保っていた最後の手綱が、ついに切れたことを意味していた。
もはやシーウォラウォンの台頭を阻むものはなく、一気に彼が実権を握る時代が幕を開けたのである。
「レック、急ぎ参ろう。あの男に《《先手》》を食わせてやるのだ」
お滝の、祈るような視線を背中に感じながら、長政は偽書を懐に収めた。
それは、未来の歴史書には決して載らないであろう、最も醜悪で、最も慈悲深い、歴史への反逆の始まりであった。



