
アユタヤ王宮の最奥、シーウォラウォンの私邸は不気味なほど静寂だった。
磨き上げられた漆黒の床が、窓外の雨を鏡のように映し出し、その中央に置かれた麻袋から、じわりと赤黒い染みが這い出している。
「……見事なものだ、長政殿」
宮内長官シーウォラウォンは、手にした扇子をパチンと閉じ、その先端で袋の口をわずかに押し広げた。
無造作に転がり出たオランダ人士官の首を、彼は眉ひとつ動かさず、まるで出来の悪い骨董品でも値踏みするように眺めている。
「オランダの赤鼠どもには、私も手を焼いていた。我が王国の秩序を乱す無法者を、貴殿の義勇隊が掃除してくれたわけだ。……長政殿、骨を折らせたな」
労いの言葉とは裏腹に、その双眸には冷徹な計算だけが宿っている。
外面では称賛し、裏ではオランダへ「報復」の許可を出しているであろうこの男の底知れなさに、レックは吐き気を堪えた。
「滅相もございません。スペイン船との交渉は、あくまで商いの一環。それを邪魔立てしたオランダ側が、先に銃を向けたまでのこと……。部下の働きは、自衛のための偶発的な事故にございます」
長政は堂々と言い放った。
暴走した部下の始末を“自衛のため”とすり替え、正当防衛という名の綱を渡りきる。
その胆力に、隣に控えるレックは、濡れた指先の震えが止まらない。
「偶発、か。良かろう、角倉とやらを罪には問わぬ」
シーウォラウォンは薄笑いを浮かべ、這い寄るように長政を覗き込んだ。
「だが、長官殿。今、病床のソンタム王を悩ませているのは外の鼠だけではない。チェーター皇子の継承を邪魔立てし、柱の下をかじる内の蜥蜴ども……。その巣を掃き清めるのに、貴殿の“義勇隊”の力を借りたいのだよ」
殺せ、とは言わない。
だが、それは紛れもない「粛清の駒」になれという宣令に等しかった。
王宮からの帰り道、激しさを増した雨が二人の肩を叩きつける。
先行する長政の背中を、レックは引き攣るような焦燥とともに追う。
「……長政様。どうしても、腑に落ちぬことがございます」
長政は足を止めない。
雨のカーテンに霞む王宮の尖塔を睨みつけたまま、重い足取りで歩き続ける。
「オランダの動きが早すぎました。奴らは、我々がデル・ロサリオ号に乗り込む時刻を、正確に知っていた。日本人町に裏切り者がいるとは思えません。……誰が、情報を売ったのですか」
「あの夜の官吏だ」
吐き捨てられた答えに、レックの思考が凍りついた。
ソンタム王の書状を届けに来た感情のない男。
あれもすべて、シーウォラウォンが放った「目」だったのか。
「彼は、長官のスパイ、いや、“密使”だったというのですか?」
「密使というほど大層なものではあるまい。ただ、お主がそこにいたこと。わしが何を決断したか。それを見届け、主人へ報告した。シーウォラウォンは、その情報を直ちにオランダへ横流ししたのだ。……わしらと赤鼠を、海の上で食い合わせるためにな」
震えが止まらなかった。
外交も、命がけの交渉も、シーウォラウォンにとっては、日本人とオランダ人の間に、消えない“血の溝”を作るための仕掛けに過ぎなかったのだ。
「長官は、最初から我々を破滅させるつもりです!」
レックは雨音に抗うように声を張り上げた。
胸の内に溜まった“未来の史実”が、濁流となって口を突いて出る。
「長政様、狂言だと思って聞いてください。私が知っている歴史の……いえ、未来の結末では、日本村はシーウォラウォンの軍勢によって焼き払われます。あなたも、お滝様も、日本人全員が彼に裏切られ、このアユタヤから消し去られるのです!」
長政が、初めてその足を止めた。
振り返ったその眼光は、嘘や迷いを一瞬で切り裂くほどに鋭い。
「……レックよ、お主、ついに気が触れたか?」
「日本村は、焼き討ちに遭うのです。長官にとって、政敵を排除した後に残る強大な脅威――我ら日本人は葬り去るべき外患となります。恩を仇で返し、根絶やしにする。それが、シーウォラウォン長官の企みなのです」
狂人の戯言と切り捨てられてもおかしくない言葉だった。
長政はレックを射抜くように見つめたまま、動かない。
脳裏に、お滝がかつて漏らした不吉な言葉が蘇ったからだ。
『……かつて高僧が予言したのです。この地で日ノ本から来た民が栄華を極めたとき、その炎は自らを焼き尽くす紅蓮に変わると』
(あの僧の言葉と、この若造の予言が、一本の線で繋がるというのか……!)
長政の中で、バラバラだった疑惑が現実へと変わる。
目の前の青年が持つ“異世界の知性”の正体が、単なる博識ではなく、運命を見通す“眼”であることを、彼は直感で受け入れた。
「……いいだろう。信じよう。お主の不吉な眼に見えているものを……」
長政の瞳には、獲物を狩る虎のような、冷徹な光が宿っている。
「ならば、長政様。長官の描いた策略を、こちらで塗り替える必要があります。彼は我らを政敵排除の“道具”にするつもりでしょうが、逆にその立場を《《利用》》するのです」
レックは一歩踏み出した。
雨に濡れたその顔から、かつての清廉な輝きは消え失せていた。
「長官が欲しがっているのは、政敵……王弟シーシン派を皆殺しにするための“大義名分”です。ならば、こちらでそれを“捏造”して献上してやるのです。――『シーシン派がオランダと内通し、日本村を焼き討ちにしようとしている』と。実際に我々が焼かれるという未来を、そのまま奴らの《《陰謀》》として、長官に売りつけるのです!」
確定した過去を、今を生き延びるための毒牙に変える。
歴史が自分たちを滅ぼそうとするなら、その筆を奪い、ここで書き換えてやる。
「……お主、もはや“魔界の妖人”ではいられぬな」
長政の唇が、歪んだ笑みの形を作った。
レックは今、自らの意志で血塗られた二人のシナリオに連署した。
降りしきる雨の向こう、遠くで寺の鐘が雨脚に溶けて響く。
それは一人の青年が清廉な知を捨て、泥沼の「策」へと堕ちていく戯曲の調べであった。



