『サヤームの鈴  日本人義勇隊の軍師になった男』



 船外で響いた一発の銃声は、士官室の緩んだ空気を、冷えた刃で切り裂くようにして奪い去った。

 長政が持ち込んだ日本酒の香りが漂っていた室内は、一瞬にして鉄と硝煙(しょうえん)の匂いに支配される。

 シルバ司令官が跳ねるように立ち上がり、腰のサーベルの柄を強く握りしめた。

 酒で赤らんでいた顔が、一瞬で蒼白な軍人のそれへと戻る。

 その瞳には、戦闘本能と落胆が入り混じった鋭い色が宿っていた。

「オランダの赤鼠どもか!」

 シルバが吐き捨てるように叫び、部屋を飛び出す。

 長政とレックもそれに続いた。

 甲板へ駆け上がると、そこには視界を拒むような乳白色の霧が停滞していた。

 だが、その霧を割り、チャオプラヤ川の下流から、オランダ東インド会社の三色旗を掲げた武装カッター数艘が、獲物を狙う鮫のようにデル・ロサリオ号の舷側(げんそく)へと迫っていた。

 彼らにとって、スペインと日本人が密談しているという事実は、アユタヤにおける貿易独占権の崩壊――すなわち“撤退”を意味する。

 長政が甲板の縁に走り寄り、銃を構えて応戦体制に入ったスペイン兵たちへ怒号を飛ばした。

「¡No debes atacar!(ノー・デベス・アタッカー)――攻撃をするな!」
 
 しかし、デル・ロサリオ号の右舷では、護衛のために河面で待機していた日本人町の小舟が、すでにオランダ武装船と鼻先を突き合わせ、水面下で激しい火花を散らしている。

「撃つな! 応射してはならぬ!」

 今度は日本語で大声を張り上げた。

 長政の必死の制止だった。

 ここで引き金を引けば、それは単なる小競り合いではなく、二つの帝国の全面戦争、そしてアユタヤを火の海にする地獄の引き金になる。

 長政はそれを熟知していた。

 だが、その叫びは、最前線の狂気には届かなかった。

 霧の中から、乾いた銃声が立て続けに数発響く。

 オランダ側からの威嚇射撃、むしろ先制攻撃に近い。

 チャオプラヤの重苦しい空気が振動し、鉛の弾丸が、小舟で待機していた浪人武士の一人、角倉兵衛(すみのくらひょうえ)の左頬をかすめた。

 細い一筋の血が流れた、その瞬間だった。

 戦国時代の敗残兵――関ヶ原や大坂の陣を経て、行き場を失い、血を流すことでしか己を証明できない“浪人武士”たちにとって、オランダの威嚇は、この上ない「開戦の合図」として響いてしまった。

「笑止千万、南蛮の赤鼠どもが! 我らが吉継殿の無念、その身に刻んでくれん!」

 大漢(たいかん)の角倉が吠えた。

 彼はデル・ロサリオ号の甲板へと投げ込まれた接舷用の鉤縄(かぎなわ)を、あえて避けるどころか、むき出しの左手で掴み取った。

 麻縄が掌を焼く摩擦音を無視し、全体重をかけてグイと引き寄せる。

 相手のカッターが、磁石に吸い寄せられるように舷側へ激突すると、彼は背負った三尺三寸の野太刀(のだち)を抜き放った。

 白刃が朝霧を切り裂く。

 角倉は、足場も定まらぬ小舟から小舟へと、重力を無視したような動きで吸い込まれるように飛び移った。

「兵衛殿、待て! 斬るな! 斬らないでくれ!」

 レックの絶叫が河面を走るが、それは湿った重い空気に呑み込まれ霧散していく。

 レックの視界に入ったのは、未来の歴史書に書かれた「一六二八年の小競り合い」という、わずか五文字の無機質な記述ではない。

 狭いカッターの上、逃げ場のない空間で振り下ろされる、重き鉄の一撃。

 防御しようとしたオランダ兵のマスケット銃の銃身が、角倉の一撃によって、まるで飴細工のように易々と断ち切られた。

 火薬の匂いと、金属が削れる甲高い音が鼓膜を突く。

「おんどりゃぁ!」
  
 角倉の獣じみた咆哮が河面に轟く。

 次の瞬間、鈍い、濡れたような音が響いた。

 肉を斬り、骨を砕き、命を奪うという行為が、そこでは極上の娯楽のようにすら見えた。

 鮮やかな赤い飛沫が乳白色の霧を毒々しく染め上げ、オランダ側の小舟からは、人のものとは思えない悲鳴が次々と上がる。

 数分後―

 地獄のような悲鳴が止み、代わりに不気味なほど重苦しい静寂が河面に戻ってきた。

 デル・ロサリオ号の甲板に、一人の男が縄梯子(なわばしご)を伝ってゆっくりと這い上がってきた。

 全身、返り血で真っ赤に染まった角倉だ。

 その瞳は興奮で異様にギラつき、呼吸は獣のように荒い。

 彼は勝ち誇ったような歪んだ笑みを浮かべ、右手で泥にまみれた髪を掴んでいた「それ」を、事もなげに長政の足元へと転がした。

「長政様! 敵の将、しかと討ち取ったり!」

 ゴロリ、という重々しい肉塊の音が板張りの甲板に響き渡る。

 それは、つい数分前まで生きていたはずの、青白い顔をしたオランダ人士官の生首だった。

 見開かれた瞳には、死の瞬間の驚愕が張り付いている。

 レックは胃の底からせり上がる猛烈な嘔吐感に耐えきれず、口元を押さえてその場に崩れ落ちた。

(……嘘だろ。こんなこと、どの歴史資料にも、論文にも載ってなかったぞ……)

 長政とレックで練り上げた繊細な外交計画が、たった一人の「戦馬鹿《いくさばか》」の狂気によって、修復不可能なほど粉々に砕け散った瞬間だった。

 平和への橋は、一瞬で血に染まり崩壊してしまった。

 長政は、足元の生首を無言で見つめていた。

 長政の視線の先には、霧の向こうの王宮で薄笑を浮かべるシーウォラウォンの影があった。

「……レック。しかと見たか。これが教文(きょうもん)にはない“(まこと)”じゃ」

 長政の声は、驚くほど静かで、そして刃のように冷徹だった。

 彼はその生首の髪を、汚物を扱うような素振りも見せず無造作に掴み上げると、傍らに控えていた従者に短く命じた。

「これを持って、直ちに王宮へ走れ。シーウォラウォン長官へ届けろ。――『日本人義勇隊、我が物顔で“悠久の大河”を荒らすオランダの不埒者(ふらちもの)を、王宮に代わって成敗せり』とな」

 レックは身震いした。

 長政は、この破滅的な暴走を嘆く時間は一秒も要らなかった。

 即座にこれを「シーウォラウォンの懐に潜り込むための供物」とし、逆にオランダを悪者に仕立て上げる一手に変えたのだ。

 だが、それは同時に、オランダという巨人を完全に敵に回すことを意味する。

 この後、誠実な日ノ本の商人の顔をしてアユタヤの土を踏める日々が、急速に遠のいていくのをレックは感じていた。

 そして、激しい動悸の中で、懐に入れたあの「鈴」が、小刻みに震え続けていたことにさえ、気づいていなかった。
 
 それは未来からの警告か、あるいは歴史が修正不能な地点を越えたことを告げる弔鐘(ちょうしょう)だったのか。
 
 霧の向こう側から、オランダ艦隊が鳴らす復讐の鐘の音が、重く、低く響いてきた……。