『サヤームの鈴  日本人義勇隊の軍師になった男』



 1628年、仏歴2171年の8月―。

 アユタヤは重苦しい雨季の最中にあった。 

 ねっとりと肌にまとわりつく熱気と、降り続く雨がチャオプラヤ川を濁った琥珀色(こはくいろ)に変えている。

 だが、この朝の川面を支配していたのは、すべてを覆い隠すような乳白色の霧だった。

 その霧を切り裂くように、一艘の小舟が舳先に日の丸を立てて、水面に不気味なほど巨大な影を落とす

漆黒(しっこく)の城壁」へと近づいていく。

 スペイン艦隊旗艦(かんたいきかん)、『デル・ロサリオ号』。

 全長四十メートルを超えるであろうその巨躯は、長政とレックが乗る木造の小舟を押し潰さんばかりの威圧感で迫ってきた。

 漆黒の船体に施された金箔の聖母|《マリア》像は、ところどころ剥げ落ち、湿った朝日に鈍く光っている。

 船首楼から突き出たカノン砲の銃口が、まるで獲物の鼻先を嗅ぐ獣のように、まっすぐにこちらを覗き込んでいる。

「……レック、お主、(ふる)えておるのか?」

 (とも)に立つ長政の声は、驚くほど静かだった。

 彼は正装である朱印船貿易商(しゅいんせんぼうえきしょう)の羽織を完璧に着こなし、腰には黄金の柄の太刀を佩いている。

「……いえ。まさか、こんな殺気立った場所だとは……」

 レックは乾いた喉を鳴らし、見上げた。

「なんだ?未来の本にはそうは書いてないのか?ははは」

 長政は冗談か本気か分からないような奇妙な笑い声をあげた。

 レックは思わず口に出そうになった。

“歴史の文献には『長政、スペイン船にて和睦(わぼく)を成す』としか書いてありませんでしたから……”

 小舟が舷側(げんそく)に近づくと、頭上の甲板から「ガシャリ」という無機質な金属音が響いた。

 数十挺のマスケット銃が、霧を切り裂いて自分たちに向けられたのだ。

 火蓋が切られる寸前の、張り詰めた沈黙。

 だが、長政は笑った。

 それどころか、両手を広げて、朝の空気に染み渡るような朗らかな声を響かせた。

「おーい、わしらには敵意はない! 日本人町の頭領、ヤマダ・ナガマサだぁ!シルバ司令官に、日頃のキリシタンへの厚遇を感謝しに参った!さばーいでぃまーい!」
【注:「さばーいでぃまーい!」はタイ語で「元気ですかぁ!」の意】

 レックは思わず目を疑った。

(……感謝だと? この状況で、その挨拶かよ)

 歴史書にある「外交」という言葉から、もっとこう、互いの利害を軍師が調整するような冷徹な儀式を想像していた。

 だが、目の前の男がやっているのは、まるで近所の家に挨拶にでも行くような、あまりにも無防備で厚かましい《《人たらし》》の直談判だった。

 小舟が戦艦に接すると、厳重な警戒の中で縄梯子(なわばしご)が下され、二人は甲板へと引き上げられた。

 待ち構えていたのは、煤けた軍服に身を包んだディエゴ・デ・シルバ司令官である。

 彼は抜き身のサーベルを手に、疑念に満ちた眼差しで長政を射抜いた。

「……日本人よ。わざわざ殺されに来たのか。それとも、泥船のオランダを見捨てて我らに降伏を申し出るのか?」

 シルバの声は低く、そして憔悴していた。

 レックは気づく。

 司令官の背後に控える士官たちの軍服は擦り切れ、ボタンが欠けたまま糸が垂れている。

 甲板の隅には、磨き残された赤錆がこびりついている。

 世界帝国スペインの威光など、この東南アジアの湿気と孤立の中では、とうにボロボロに朽ち果てていたのだ。

 長政は、シルバの剣先など見えていないかのように、柔和な笑みを崩さなかった。

「降伏? 滅相(めっそう)もない。ただ、我が日本人町には貴国のデ・ウスケ神父をはじめ、多くの敬虔な信徒がおります。司令官殿が、彼らを慈しむ騎士道精神の持ち主であると聞き、ぜひ我が町の極上の地酒と、心ばかりの品を届けたいと思いましてな、はっはっはっ!」

 長政は白い歯を見せて笑い、レックに目配せをした。

 レックは震える手で、持参した贈答品の目録を差し出す。

「……酒だと?」

 シルバの頬が、わずかにピクリと動いた。

「ええ。アユタヤの熱気には、日ノ本の冷えた酒が一番です。我らは商人。争いよりも、平和な交易の杯を交わしたい。そうは思いませぬか?」

 シルバ司令官は、しばらく長政を睨みつけていたが、やがてふっと肩の力を抜いた。

 そしてゆっくりとサーベルを鞘に収めた。

「……貴公、正気か? 我々は今、王宮からもオランダからも敵視されているのだぞ!」

「ははは! 友人と酒を飲むのに、どこの誰の許可がいりましょう。我ら日本人は、義理を重んじます。キリストの教えを信じる同胞が世話になっている以上、その親玉である司令官に挨拶に来るのは、当然の道理でござる!」

 甲板に漂っていた殺気が、霧が晴れるように霧散した。

 士官室に案内され、日本から持ち込まれた清酒の樽が手際よく開けられた。

 澄んだ液体がガラス杯に注がれる。

 シルバは一口それを啜ると、驚いたように目をみはり、次いで深く長い溜息をついた。

「……悪くない。いや、驚くほど澄んでいるな、この酒は実に美味い!」

「そうでしょう!日ノ本の清く澄んだ雪解け水のような味です!」

 酒が回るにつれ、室内の空気は急速に緩んでいった。

 長政は、まるで長年の友人のようにシルバと笑い合い、キリスト教の教義について(付け焼刃とは思えないほど詳しく)語り、日本人町がいかにスペインとの貿易を待ち望んでいるかを情熱的に説いた。

 レックは傍らで、その様子を見ながら呆然としていた。

(これが……これが歴史の真実なのか)

 緻密な戦略や計算なんてどこにもない。

 ただ、腹の底を見せ、美味い酒を振る舞い、「お主らの事情は分かっている」と肩を叩く。

 現代の資料や文献には一行も書かれない、この男の底知れない「愛嬌」と「胆力」こそが、大帝国を動かしている。

 自分が持ってきた知性やロジックが、なんだかひどく小っぽけなものに思えてきた。

 だが、安堵したのも束の間、窓の外、霧の向こう側で動く不穏な影が見えた。

 チャオプラヤ川を下ってくる、複数の小型船。

 そこには、独占権を奪われることを何よりも恐れる、オランダ東インド会社の紋章が揺れていた。

「……長政様」

 レックが低く呟く。

「……ああ、分かっている。客人が来たようだな」

 酒杯を掲げたまま、長政の目が一瞬だけ、獰猛な武士のそれへと戻った。

 この和平の宴こそが、オランダという巨大な獣を誘い出すための「撒餌(まきえ)」であることに、スペイン側はまだ気づいていない。

「司令官、どうやら無粋な連中が、我らの酒盛りを羨んでいるようですぞ!」

 長政の言葉と同時に、船外で鋭い銃声が響いた。

 平和な宴の幕が、血の臭いを伴って引き裂かれようとしていた……。