『サヤームの鈴  日本人義勇隊の軍師になった男』



 深夜の王宮は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、松明(たいまつ)の炎だけが石造りの回廊に不気味な影を落としていた。 

 通されたのは王宮の奥深く、四方を厚いチーク材の壁に囲まれた私的な諮問(しもん)の間だった。

 床には大理石が敷き詰められ、壁には仏教説話を模した極彩色の壁画が、揺れる灯火に照らされて蠢いている。

 中央の豪奢な円卓には、王室の重臣(オークヤー)の衣装を(まと)った長政が、彫像のように動かず座していた。

 その隣には、眉間に深い(しわ)を刻んだシャム人の高官が一人。

 そしてもう一人、日本人町の重鎮であり、武闘派として知られる津田又左衛門(つだまたざえもん)が、抜き身の刀のような鋭い殺気を(はら)んで畳ならぬ石床にどっかと胡坐をかいていた。

(リゴール行きの沙汰(さた)か……?)

 レックは喉の乾きを覚えながら、冷たい床に膝をついた。

 部屋を支配しているのは、香木の重苦しい香りと、松明の火花が弾ける音だけだ。

 だが、長政の口から出た言葉は、予想に反して例の“浮遊要塞”の話だった。

「レック、夜分にすまぬ。……あのエスパニアのガレオン船のことだ。ポムペット要衝の鼻先に居座りおって、一向に動く気配がない。又左衛門殿は『即刻、火船を放って沈めるべし』と息巻いておられるが、お主はどう見る?」

 長政の目は、深夜とは思えないほど鋭く光っている。

 レックは一言も話す間もなく、又左衛門が苛立った口調でレックを睨みつけた。

「何を迷うことがある! 八年前、マカオでの勝利に乗じて遡上してきたエスパニア船を、我ら日本人部隊が焼き払ったことを忘れたか。あの勝利こそが長政様の、我らの地位を揺るぎないものにした。今こそ再び奴らを沈め、エスパニアに奪われた、全ての商権を我らの手に取り戻す好機ではないか!」

 又左衛門の言葉は“正論”だった。

 過去の成功体験に基づいた、最も確実な忠義の意志。

 だが、レックの脳裏にある歴史認識は、別の答えを弾き出していた。

 レックは衣を整え、ドキュメンタリーの構成を述べるように冷静に語った。

「……あのガレオン船、沈める必要はありません!」

 レックの言葉に、又左衛門が激昂した。

「何だと! 臆したか、小僧!」

「いえ。あの船は、アユタヤを襲撃に来たのではありません。……“ブラフ(威嚇)”ですよ。それも、スペイン、いやエスパニア本国やルソン島(マニラ)からの命令ではなく、あの船の艦長、シルバ司令官独自の焦りによるものです」

 レックは現代で読み耽った大航海時代の欧州の歴史と、当時のスペイン帝国の内情を背景に、大胆な推論を重ねた。

「なんだと?”ブラフ”…いったいなんじゃそれは?」

 長政が首をかしげながら、「ブラフ、ブラフ……」と口の中で音を転がす。

「はい、えーとそれは、つまり“はったり”ですね。本当は戦争を仕掛けるつもりはないのです、単なる“脅し”のつもりなのです」

 何度も小さく頷く長政を横目に見ながら、レックは又左衛門に向き直った。

「又左衛門殿、八年前とは状況が違います。今、エスパニア本国は欧州での“三十年戦争”に忙殺され、アジアへ回す余力は底をつきかけています。あの船は最新鋭に見えますが、船体の塗装が剥げ、帆も継ぎ接ぎが目立ちます。補給が滞っている証拠です」

「補給が滞っている証拠だと?」

 又左衛門は開け放たれた木窓から流れ込む、湿った夜の空気を深く吸い込んで訊き返した。

「はい、彼らはアユタヤに戦争を仕掛けるつもりはないのです。勢力を伸ばすオランダに怯え、失った商権を強引に奪い返そうと、瀬戸際の“チキンレース”を仕掛けているだけです。王朝への脅威ですらありません」

 レックは又左衛門を完璧に“論破(ろんぱ)”したつもりだった。

 だが、今度は「チキン」という単語に、又左衛門はさらに眉を吊り上げた。

「チキン……何だと? 鶏の話などしておらん!」

 レックは思わず舌打ちをしそうになったが、我に返って笑みを浮かべながら言った。

「……失礼。“臆病者比べ”ですよ。こちらが過剰に反応して発砲すれば、彼らの思うツボです。彼らは“自衛”を名目に大義名分を得て、ルソン島の本隊を呼び寄せ、、日本人村へ攻めてくるでしょう。ですが、もしこちらが兵糧攻め……つまり、彼らを“無視”し続ければ一ヶ月も経たずに自滅します。彼らには、長期戦を戦うだけの資金も食料もありません!」

 レックの言葉が、高い天井に静かに反響する。

 長政はニヤリと口角を上げた。

 又左衛門の勇猛さよりも、レックの冷徹な状況分析を「《《面白い》》」と取ったのだ。

「聞かれたか、又左衛門殿。この男は、戦わずして敵を追い出すと言っている」

 又左衛門は屈辱に顔を歪めたが、論理的に武装されたレックの言葉に反論する術を持たなかった。

 シャム人の官吏は、鋭い目つきを翳して「ふん」と呟いて顔を逸らし、合掌もせずに部屋を辞した。

 長政はゆっくりと立ち上がり、小さく深呼吸をして、懐から一通の書状を卓上に広げた。

 部屋の隅、影に溶け込むように座していた二人の武士が、音もなく立ち上がり、部屋の唯一の出入り口である重い扉を内側から閉ざした。

「人払いですか……」

 レックの問いに長政は答えず、(あご)で書状を指した。

「……これを読んでみよ」

 長政の声には、重く乾いた響きがあった。

 卓上の松明が爆ぜ、二人の影が大理石の壁の上で巨大な怪物のように踊っている。

 レックは促されるまま、その墨痕鮮やかな草書体の書状に目を落とした。

 一行ずつ読むにつれ、文字が波打ちレックの心臓の鼓動が高まる。

 まるで戦の早鐘が、静寂を切り裂き鳴り響くかのように……。