『サヤームの鈴  日本人義勇隊の軍師になった男』



「ああああ、また没なのか……俺ってやっぱ才能ないのかなぁ……」

 レックは湿り気を帯びたシーツの上で、絞り出すような溜息をついた。

 昨晩、歴史資料の山を前に力尽き、カーテンも閉めずに寝落ちした報いだ。

 乾季特有の暴力的なまでの朝陽が、安アパートの薄い窓ガラスを透過し、容赦なく網膜(もうまく)を焼きにくる。

 バンコクの朝。

 地平線から昇ったばかりの太陽が、林立する高層ビルの鏡面に反射し、街全体が巨大な電子レンジに放り込まれたかのような熱を発し始めている。

 レックは、寝ている間に無意識に蹴り落としたタオルケットを探す気力もなく、皮を剥かれたエビのようにベッドの上で丸まっていた。

“ビーッ”

 枕元でスマートフォンのバイブレーションが、死刑宣告を告げるブザーのように震えた。

 レックは舌打ちをしながら、目ヤニの付いた顔で画面を弄る。

『レック様。今回の持ち込み企画は残念ながら採用致しませんでした。貴作は史実の裏付けこそ正確ですが、ドキュメンタリーとしての「人間への洞察」、そして観客の魂を揺さぶる「ドラマ」が決定的に欠けています。次回の応募をお待ちしております』

 大手出版社、そして映像制作会社からのテンプレ回答に少量の毒を混ぜたような不採用通知。

 鳴かず飛ばずのドキュメンタリー作家のレックにとって、これはもはや朝食前の恒例行事だった。

 日本留学時代、彼は狂ったように日タイ交流史の研究に没頭した。

 戦国時代の余波を受け、新天地を求めてサヤーム(現在のタイ王国)へと渡った浪人侍たちの足跡。

 その情熱を映像に昇華しようともがいてきたが、現実は無情だ。

「記録としては優秀だが、物語がない」

 その評価は、レックという人間の生き方そのものを否定されているようだった。

「有希、また、駄目だったよ。情けねぇな、俺って……」

 重い体を引きずり、洗面台へ向かう。

 鏡の端には、浅草の雷門の前で微笑む二人の写真が貼られていた。

 有希(ゆき)

 日本留学中のレックを支え、そして不慮の事故でこの世を去った最愛の女性。

 彼女を失ってから、レックの時間は止まったままだ。

 彼は「撮影者」としてレンズを覗くことで、世界から一歩引いた安全圏に身を置き続けている。

 自分の人生という名の「ドラマ」を動かす勇気を持てず、過去という名の泥濘(ぬかるみ)に足を取られていた。

“ビーッ”

 再びスマホが鳴る―今度は配達アプリのアラートだ。

「ちっ、今度は何だよ……」

 画面には「カオトム(タイ式粥)1点。至急配送」の文字。

 歴史への情熱とは対極にある、日銭を稼ぐための過酷な現実。

 レックは無造作に「受ける」を押し、英国のロックバンドの名前が入ったTシャツを頭から被って部屋を飛び出した。

 外に出れば、そこは“天使の都”という美名とは裏腹な、交通渋滞の地獄だった。

 社会の急成長にインフラが全く追いついていない。

 排気ガスの熱気に包まれながら、レックは大家から、タダで借り続けているオンボロの125ccバイクを操り、車と車の間のわずかな隙間を縫うように走らせる。

 ふと、頭上を走るBTS(高架鉄道)の車両広告が目に留まった。

『アユタヤ世界遺産祭りに行こう! 400年前の息吹が今、蘇る』

「アユタヤか……嫌味かよ」

 排気ガスの煙に巻かれながら、不意に記憶の底が疼いた。

 資料室の埃っぽい空気の中で読み耽った、アユタヤ王朝時代に存在した日本人村の記録。

(日本人村の頭領・山田長政。そして、異国の地で散った日本人義勇兵。……あの時代、奴らは間違いなく、今の俺には想像もつかないほど強烈な「ドラマ」を生きていたはずだ)

「よし、この週末、行ってみるか」

 この閉塞感から逃げ出せるなら、行き先はどこでもよかった。

“ビーッ!”

「なんだよ、いったい!」

 後ろのピックアップトラックからの鋭い警笛。

 信号はいつの間にか青に変わっていた。

 レックは「すまない」と軽く左手を挙げ、エンジンの不規則な振動を股ぐらに感じながら、熱気に満ちた交差点を右折していった。

 その鍵束には、かつて有希と揃いで買った、古びたハローキティの鈴が、チリリと小さく鳴っていた……。