校舎とは校庭を挟んで反対にある屋外プールのプールサイドを、裸足で歩く。
その時、落ちていた小枝を踏んでしまい、足裏にチクッとした痛みが走った。
「いたっ」
俺の隣を歩いていた三年の水泳部副部長兼ひとつ上で幼馴染の山内くんが、クールビューティーの切れ長な目を俺を向ける。
「ほら、気を付けないとだぞ、和田っち」
俺と山内くんは食べても太らない体質のせいで、二人揃って痩せぎすだ。その上身長も平均身長とほぼ横ばいの為、二人並ぶと「マッチ棒が二本歩いてる」と言われる。うるせえ。
ちなみに、より色白なのは山内くんのほうだ。俺は少しだけマシ。
なお、俺は高校に入るまで、水泳とは無縁の生活を送っていた。だけど入学したその日、隣の家に住む山内くんが俺の教室まで来て「このままだと水泳部の存続が! 必要人数の四人まであとひとりなんだ、頼む和田っち!」と半泣きで縋りつかれた結果、唯一の二年水泳部員としてここにいる。
「自分はビーサンを履いてるからって……」
口を尖らせながらぼやいたけど、聞こえないふりをされた。
普段はプールサイドはビーサン禁止だから今日もダメなのかと裸足できたら、「ビーサン持ってきてないのか? 足の裏怪我するぞ!」だもんな。それもこれも、適当な情報伝達をしてきた部長のせいだ。きちんとやってくれよ。
そんな今日は、六月第三週の土曜日。学校のプール開きを前に、水泳部が清掃に駆り出された。報酬は、体育の授業よりも先にプールを使えるというものだ。……まあ、一番はちょっと嬉しいかも。
そんないかにもアオハルなイベントだけど、現在俺の気分は下がりまくっていた。
――何故なら。
「うわあ……沼色」
「言うな、和田っち」
山内くんが、鼻栓を装着しながら返す。さっきから自分ばっかり狡い。
「息をしたら肺の中までカビ菌が入ってきそう」
「だから言うな、和田っち」
デッキブラシを手にした俺と山内くんは、緑色の絵の具をドバドバ入れたような色をしたプールを覗き込んだ。
二十五メートルの長さがある四レーンのプールからは、すでに水が抜かれている。
床と壁面に付着した緑色の色鮮やかさに、眩暈がしてきた。
今からこれを掃除するのか……?
腐敗した独特のツンとした臭いに顔を顰めながら、深い溜息を吐いた。そうしたら、鼻腔と体内にえげつない臭いが充満した。
うぐ……臭すぎて目眩が。
とその時、校庭にある桜の木からミーンミーンという、気の早い蝉の鳴き声が響いてくる。
山内くんが、わざとらしい笑顔を俺に向けた。
「和田っち、夏が来たな!」
「まだプール開きもしてないでしょ」
遠い目をしながら答えると、山内くんが細く白い手で部Tを着た俺の背中を叩く。痛い。
「和田っちさあ、こういう時はノッてくれよ! 折角頑張ってやる気を出そうとしてるんだからさ!」
「まあ気持ちはわかるけど」
喋りながらも、それ以上俺と山内くんの身体は動かない。どちらが先に中に入るのか、目で牽制し合っている状態だからだ。
ふと、一番ここにいなければいけない人の存在を思い出した。
「……そういえば、部長は?」
「……ちょっと昨日、喧嘩しちゃって」
山内くんが、気不味げに目を逸らす。
「ええ……この大事な時に」
「ごめん、ちょっとね」
苛立ちを含んだ笑顔を見せる山内くん。この様子を見るに、キレたのは山内くんのほうらしい。
でも、納得している自分がいた。何故なら、この部長というのがとにかく自由人な上に気分屋だからだ。
部長と山内くんは、小学校の頃からの腐れ縁だ。優等生タイプだった山内くんが自由人な部長の面倒を見ている間に、いつの間にか周囲からはセットとして見られるようになったのだとか。
山内くんは小学校から水泳を続けている部長に誘われ、中学校から水泳部に入った。それまではカナヅチだったそうだけど、今ではちゃんとフリー(クロール)、ブレ(平泳ぎ)、バッタ(バタフライ)、バック(背泳ぎ)の四種類全てを泳げるようになった努力の人なんだよね。その点は本気で尊敬している。俺はまだまだ問題点が多々あるし、頑張らないとだ。
で、そんな部長は明るくていい人だけど、とにかく気分屋で面倒臭がりだった。どういうものかというと、やりたくないことは堂々としないタイプ。
部Tを作るのだって言い出したのは部長なのに、結局何もしないで山内くんが全て手配していたもんなあ。今日の清掃の中途半端な連絡も然りだ。
それにしても、滅多にマジギレはしない山内くんをここまで怒らせるなんて、一体何をやらかしたんだあの人は。
山内くんは、普段は黒縁眼鏡で目立たない。だけど眼鏡を取ると、透き通るような美少年になるんだよね。そんな人が笑顔でキレている姿は、凄みがあって怖い。
ちなみに眼鏡を取った状態の山内くんといたら、俺も一緒にナンパされることがある。クールビューティ恐るべし、な逸話だ。
「ちなみに顧問は?」
「腰が痛いから職員室で待機してるって。水を入れる時に呼んでって言ってた」
「どいつもこいつも……」
思わず毒吐くと、山内くんが俺の肩にポンと手を置いた。
するとその時だった。背後から、「春助せんぱーい!」という明るい声が俺の名を呼ぶ。
俺と山内くんは、同時に勢いよく振り返った。二人ともこれ以上ないというくらいの笑顔だ。
「来光!」
「和田っち! 僕たちの救世主が来たぞ!」
とてもいい笑顔で駆け寄ってきているのは、俺たち弱小水泳部の四人目の部員である、一年の来光渡だった。
先輩が卒業し、三年の部長と副部長、二年の俺の三人になってしまった今年の春。
最初は何人か見学に来たのに、不機嫌だった部長のせいで入部してくれなかったんだよね。
この時も山内くんと部長は喧嘩して、居た堪れなくなった俺は勧誘のプラカードを持って一年の教室がある辺りをフラフラしていた。
でも、新入生はもう大体仮入部を済ませている時期だ。来るわけないよなあ……と凹みまくった俺がプラカードを持ってしゃがみこんでいたら、「あの、大丈夫ですか……?」と声をかけてきてくれたのが新一年生の来光だったという訳だ。
そこで俺は「水泳部の存続が云々」という、昨年自分が山内くんから受けたのと同じ説明を口にした。
すると来光は何故か目をキラキラさせながら、「俺、ブランクあるんですけどそれでもいいなら」と俺の手を握って入部してくれたんだ。
あの時は後光が射していると思ったよ。来光だけに、なんてな。
ブランク。そう、来光は元々スイマーだった。だけど中学時代の怪我と手術のせいで、私立のスポーツ推薦を受けられなかったそうだ。
勉強面でも遅れが出たこともあり、無難中の無難であるこの公立高校に入ってきたらしい。
入部を請け負った後、来光が聞いてきた。
「あ、でも、男女合わせて四人でもいいんです?」
「は?」
来光の謎質問の意味を暫く考えた後、俺はようやくここで来光が俺のことを女子だと思っていたと気付いた——というおまけ付きだ。
「あは、滅茶苦茶可愛いからてっきり女子かと! ……ま、どっちでもいっか」
なんて呟いていたけど、お前先輩に向かって——なんてことは、その時は言えなかった。だって部員が欲しかったし。
ちなみに部室に来光を連れて行くと部長が胡乱げな目で来光を見たけど、奥に連れていかれてボソボソ何やら話した後は意気投合し、本入部までトントン拍子に進んだ。
あれはなんだったんだろうと小首を傾げていると、山内くんが「……うん、まあ知らなくていいかな」と言っていたのが、今でも記憶に残っている。
そんな来光が、足の速度を緩めると俺の目の前で立ち止まった。
「遅くなってすみません! ビーサンがなかなか見つからなくて!」
「大丈夫大丈夫、これから始めるところだったから」
山内くんが笑顔で返した。
来光の爽やかなツーブロックは、塩素で焼けて赤茶けている。甘く整った顔はアイドルさながらで、学校中の女子生徒だけならず、他の高校の女子に待ち伏せされ告白されるほどのモテっぷりだ。
只々羨ましいしかない。
と、来光が俺の足元を見て目を見開く。
「春助先輩、サンダルないんですか!?」
俺が裸足で爪先立ちをしているのを見た瞬間、来光が驚くべき速度で俺の腰に腕を回して抱き上げてきた。ぐわんと仰け反りそうになり、慌てて来光の首にしがみつく。
「おわっ! お前、いきなり何すんだよ!」
「春助先輩、かっる! ちゃんと食べてます?」
後輩にあっさりと抱え上げられるなんて、先輩の威厳もあったもんじゃない。ジタバタ暴れていると、「春助先輩、危ないから」とギュッとされてしまう始末。
くそう、先輩の威厳! それにさ、毎度毎度こいつの距離が近すぎるんだよ!
来光が、眩い笑顔を俺に向けてきた。
「あ、春助先輩! 食べるといえば、今日これが終わったら一緒に駅前のファミレス行きましょうよ! 決まりね先輩!」
「俺はいいなんてひと言も——」
「シャインマスカットパフェ奢りますよ」
「いく」
俺はすこぶるフルーツに甘かった。
なおこの間、山内くんは「またやってるよ」といった呆れた目で俺たちを見るだけだった。
以前、俺にだけやたらと懐いてくる大型犬みたいな来光の行動を諌めてくれと頼んだら、「和田っち同様ひ弱な僕に止められるとでも?」と怯えるポメラニアンみたいな目をして言われてしまったんだよね。
うん、まあ言ってみただけ。来光、部長並にでかいし、筋肉あるし。
と、ここで来光が今初めて気付いたかのようにキョロキョロと周囲を見回す。
「——て、あれ?『ま』の人は?」
「こら、『ま』の人言うな」
ぺちんと茶色い頭を叩くと、来光が楽しそうにくしゃりと笑った。
「あは」
ちなみに『ま』の人とは、今日は来ていない部長、真野先輩のことだ。
真野の『ま』、山内の『や』、来光の『ら』、和田の『わ』ときているので、この間来光が「あと『を』と『ん』がきたらこの水泳部消滅しそうっすね」と笑えない冗談を口にしていた。
「やめろ縁起でもない」と肘で小突くと、爆笑していた。いや、笑い事じゃないから。
なお、その後こっそり検索したら、どちらの苗字も存在しないという結果になった。実質終わりじゃないかと思ったけど、忘れることにした。俺たちの水泳部はまだ生きているし、うん。
「部長と山内くんが喧嘩しちゃったんだって」
「ええー……また痴話喧嘩っすか?」
来光が呆れ顔になった。
「また言うな。痴話喧嘩じゃないし」
山内くんが来光を軽く睨む。
「春助先ぱーい、副部長がこわーい」
来光が俺の腹に頬をぐりぐり押し付けてくる。だから、お前は犬か?
「こら、甘えるな!」
ぽかりと頭を叩くと、来光が嬉しそうに笑った。……全く。
「さ、揃ったし始めるぞ!」
「はーい」
それから数時間、俺たちは頑張った。滅茶苦茶頑張った。鼻が曲がりそうになりながら、ツンとした刺激に涙を滲ませ吐き気を抑えながら、それはもう懸命にプールを清掃していった。
「あっつ」
腕で額から垂れ落ちる汗を拭う。
首の後ろに当たる太陽光が、ジリジリと肌を焼いていた。この日差しの強さだ。このままだとTシャツ焼けするな、と俺と来光はとっくに上を脱いでいた。
だけど山内くんだけは頑なに脱がない。
Tシャツだって、緑色に染まりとんでもない状態なのにな——そう思って、何気なく山内くんのほうを見ていた時だった。
腕を持ち上げ肩で汗を拭った山内くんの脇腹が見える。数カ所が赤くなっていて、滅茶苦茶痒そうだ。
「山内くん、そこ、虫刺されすごいよ!?」
「えっ、どこ!?」
「脇腹のところ」
「えっ、あっ、う、うん……あははっ」
山内くんはわざとらしい笑い方で笑うと、慌てた様子でTシャツをぐいぐい下げた。
「……あんにゃろ、こんなところまで」と小声で呟く声が聞こえてくる。ん? どういうことだろう。
不思議に思っていると、来光がなんともいえない表情を浮かべながら、俺の元にやってきた。
屈んで、俺の耳元で囁く。
「後でファミレスで教えてあげますから、触れないであげて」
「わ、わかった」
触れないで? なんだろう。ちっともわからない。
不思議に思いながらも、清掃にラストスパートをかけた俺だった。
◇
プールに水を溜めるには、半日程度かかるそうだ。
シャワーを浴びてさっぱりした俺たちは制服姿に戻ると、夕日の眩しさに目を細めながら、一緒に校門を出た。
山内くんが、ファミレスがある駅前のほうに足を向けた俺たちに手を振る。
「じゃ、明日は朝九時にプール集合な。二人とも、お疲れ様!」
「あれ、山内くんは行かないの? ファミレス」
「はは、来光の目が怖いから行かない」
「へ?」
何を言っているんだと思いながら隣の来光を見上げると、にっこにこの笑顔の来光が俺の首に腕を回してきた。……だから、距離。
「春助先輩、行きましょ! 副部長、明日は部長を引っ張ってきて下さいね。俺も後が怖いから」
「……わかったよ」
山内くんが嫌そうな顔をして答える。全然意味がわからない。多分俺だけがわかっていないこの感覚が、なんか物悲しい。
山内くんとはそこで別れ、今日のプール清掃について二人で笑い合いながらファミレスへ向かった。
ファミレスは平日よりも空いていて、すぐ席に案内される。とにかく腹が減ったので俺はミックスグリルとライス大盛り、後はシャインマスカットパフェを、来光はミートドリアとマンゴープリンを注文した。
俺がちょっと物欲しそうな顔になったら、「マンゴープリン、ちゃんとひと口あげますから」と笑われた。う……っ、見抜かれている……!
料理が届き、バクバクと口に運んでいく。
夢中で食べていると、ふと視線を感じて目線を上げた。
するとミートドリアが載ったスプーンを優雅に口に運びながら、来光が笑顔で俺を見つめているじゃないか。
「……春助先輩って、すごく美味しそうに食べますよね」
「お、おう」
……やめろ。そのなんか慈愛に満ちた目はやめろ。居た堪れなくなるから。
じっと見つめられモゾモゾしながらも食事が終わり、デザートが出てくるまでの時間。
来光はキョロ、と周囲を見渡した後、サッと立ち上がり俺の隣へやってきた。
「おい——」
「大きな声じゃ言えないから」
「お、おお……」
来光が大きな身体を屈めて顔を近付けてきたので、俺も上目遣いになって顔を来光に近付ける。
来光の熱い息が、俺の耳元に吹きかかった。
「さっきのですけど——春助先輩、あれが虫刺されだと思ったの?」
「え? う、うん。痒そうだなって」
「あれ、違うよ」
「え?」
顔を来光のほうに傾けると、少しでも動いたら唇同士が触れ合いそうな距離に来光の整った微笑がある。
ドクン! と何故か跳ねる俺の心臓。だ、だからこいつは、どうしてこういつも距離が近いんだよ!
「あれはね、キスマーク」
「へ? キ……キスマークぅ?」
予想もしていなかった答えに、俺の目が点になった。キスマークってあれだろ? 唇でジュッて吸って鬱血させるやつ。やったことはないし、されたこともないけど。
「ええ……、でも、山内くん、彼女はいなかった筈……」
「彼女はね」
「へ? どういうことだよ」
もどかしい問答に来光を小さく睨むと、来光がテーブルに頬杖を突いてにこりと笑いかけてきた。
「だって、山内副部長と真野部長、付き合ってますよ?」
「は——はあっ!?」
思わず立ち上がろうとすると、腕を掴まれてすぐに引き戻される。
山内くんと部長が!? つ、付き合ってるって交際してるってことだよな!?
でも男同士だし、いや、でも部長はいっつも山内くんにベタベタしては怒られて……て、え、えええっ!?
来光が、悲しそうな顔になった。
「……春助先輩は、男同士は反対だったりします?」
「へ!? い、いや!? そこはほら、好き同士なら全然、うん、いいと思うぞ!? ただ、全く想像もしてなくて……!」
「そっか、よかったあ!」
何故か安堵したような笑みを浮かべる来光。そっか、お前は知っていたんだもんな……鈍感な俺が何も気付かずにいる間も、ずっと二人の関係を知ってやきもきしていたんだな。悪いことをしちゃったな。
と、来光が頬杖を突いていないほうの手を俺の耳に伸ばし、人の耳たぶを指で挟みフニュフニュしだす。く、擽ったい……!
「今年の春さ、入部希望の奴らがとことん辞めていったでしょ? あれ、なんでか知ってます?」
「え? 部長が反対したからでしょ?」
身を捩って逃れようとしたら、うなじをガッと掴まれてしまった。お、おい……!
「正解。じゃあなんで反対したかの理由は?」
「え……わかんないな。不真面目だったとか?」
「部長も不真面目なのに?」
「……降参。わかんない」
下唇を少し出すと、来光がフッと笑って目を細める。
「入部希望が、部活紹介で舞台で水着姿になっちゃった山内先輩目的だったからだよ」
「……あー、あったね、そんなこと」
俺は音響のほうをやっていたから舞台には上がってないし斜め後ろからしか見てないけど、「新入部員はもういいんじゃね?」という部長の反対を押し切って、山内くんがひとり舞台に上がったんだよね。
「俺はタイプじゃないからふーんだったけど、色白で華奢でスタイルいいし、しかもあの時は眼鏡を外してゴーグルを額にしてたでしょ? 一年男子、結構ざわついてたよ」
「マジでか」
まあ、あのクールビューティだもんなあ、と納得する。
「うん。で、あわよくば山内先輩とっていう邪な気持ちで入部希望してきた奴が部長の逆鱗に触れたんだって」
「あー」
なるほど、そういうことだったのか……。
だけど、そうしたら気になるのは来光のことだ。
「じゃあお前はなんで入部許可が出たんだ? あの時は部長、全員入部拒否してたんだろ?」
これには、来光があっさり答える。
「俺も最初は疑われたけど、ほら、すぐに部長に呼び出されたでしょ?」
「うん」
「その時に、俺の狙いは春助先輩です、揺らがないので安心して下さいって言ったらあっさり」
「——は?」
思わずぽかんとすると、来光が俺の頬を手のひらで覆い、下唇を親指で弄りだした。だ、だから距離……っ。
そして何故かときめく俺の胸。く……っ!
来光が、キラキラした目で俺の目を覗き込んでくる。
「先輩、自分の代で水泳部を潰すの嫌でしょ?」
「は? そ、そりゃそうだけど」
突然の方向転換に、目を瞬く。山内くんに誘われただけとはいえ、自分なりに一年間頑張ってきた部活だ。俺の不甲斐なさで人数不足により閉部は、さすがに悲しすぎる。
来光が、切なそうに眉毛を揺らした。お、俺の心臓、収まれ……!
「でもさ、俺は先輩が自分のものになってないと不安だから、部長と同じことをすると思うんだ」
「へ……っ?」
自分の耳を疑った。え、それってまさか……でも、え?
来光が悔しそうに唇を噛み締める。
「実はさ、同じクラスの奴も、水泳部出身者がいて。勧誘すれば多分きてくれるんだよね。今は帰宅部で、暇そうにしてるし」
「ほ、本当か!?」
立ち上がりかけると、今度はうなじを掴む手に力が込められた。あ、はい。
大人しく再び座る。
今度は両手で頬を挟まれた。絶対に逃がすまいという意思を感じる。
「俺、春助先輩が喜ぶ顔は見たい。でも嫉妬したら、何をするかわからない自分が怖い」
「ぐふっ」
ここまで言われたら、さすがに鈍感な俺だってわかる。ら、来光は、俺のことを……。
正直、ちっとも嫌じゃない自分がいた。だって来光は優しいし格好いいし頼り甲斐もあるし、それになにより一緒にいて楽しい。
距離が近くて困っていたのは、近すぎると俺の心臓が爆発しそうになってどうしていいかわからなくなるからだ。
思い返せば、最初から来光の距離は俺にだけずっと近かった。山内くんはいつもそんな俺たちを呆れ顔で見ていたし、それは部長もだ。
つまり、みんな知っていたんだ。わかっていなかったのは、俺だけだった——。
全てのピースがはまった途端、俺の全身がカアァッと熱く火照り始めた。と、その様子を間近で観察していた来光が、嬉しそうに笑う。
「あ、俺が先輩を大好きな気持ち、やっと伝わった?」
「す、す、す」
や、やっぱりそうだったのか……! うわあ、今まで気付かず「近い近い!」なんて恥ずかしがっていた自分の鈍感さが恥ずかしい……!
来光が、蕩けた笑みを見せる。
「うん。俺、先輩が好き。大好き。ね、俺と付き合ってよ。そうしたら俺は先輩の為になら水泳部存続へ向けて頑張れるし、なんなら来年はインターハイだって目指す」
「インターハイ……!?」
そう、来光は怪我をしていたとはいえ、とても速かった。半フリという五〇メートル自由形では、なんと驚きの二十三秒台を叩き出している。なのに春の春季大会では、「部長がリレー出たがってたから」という理由で、リレーしか出場しなかったんだよな。勿体ない。
「先輩。俺の彼氏として、俺を応援してくれませんか? 俺、先輩の為なら頑張れる」
キュルンとした大型犬のような目で見つめられた俺は。
「う……うん」
気が付けば、顔を真っ赤にしてそう返事をしていたのだった。
◇
翌日。
プールサイドでちっとも懲りてなさそうな笑顔の部長とまだ少し怒っていそうな山内くんと合流して早々、来光は満面の笑みで俺の肩を抱き寄せ、言った。
「部長、副部長! この度、俺と春助先輩は無事恋人になりましたあー!」
「お、やっとか! おめでとなー」
安心したように笑顔で言ったのは、部長だ。山内くんは、腰のキスマークに貼られた絆創膏を先程から剥がそうとしている部長の手をパン! といい音を立てて弾きまくっている。
ちなみに一昨日二人が喧嘩した理由は、山内くんが見えるところに痕をつけるなと言っていたにも関わらず、部長が我慢できずにつけたことにあったらしい。
部長に個人DMを送って確認した来光が、そう教えてくれた。
なお、「まあ、独占欲の現れですからね。俺も気持ちはわかりますよ」という言葉を添えていた。添えなくていい。照れちゃうから。
で、改めて今日の山内くんを見てみたら、確かに首元と太腿の内側にも絆創膏が……うわ、うわわ。
部長の耳たぶを掴んで引っ張り始めた山内くんが、心配そうな目を俺たちに向ける。
「おめでとう——と言いたいところだけど、僕たちは水泳部だから、このアホみたいに、見えるところに痕をつけたりしないよう節度を持ってね」
「わかってますって! つけるなら見えないところにしますから!」
え、キスマークをつける気満々なのか……? と、にっこにこの笑顔で答える来光をぎょっとした目で見ると。
「な? シュン」
付き合った直後から突然「春助先輩」から「シュン」に呼び方を変えた来光が、とてもいい笑顔で俺に笑いかけてきた。
え、なんて答えたらいいの、こういうの。だって、触るななんて言いたくないし。
「は、はは……」
とりあえず笑って誤魔化そうと思ったら、「あ、誤魔化そうとしてる」と来光が唇を尖らせた。
次の瞬間。
「——!」
来光の長い腕が後頭部を掴んだな、と思った時には、唇が重なり合っていた。柔らかくて温かい感触に、ゾワッと心地よい鳥肌が立つ。
「こら、来光! 節度を守れ!」
山内くんの怒りの声も意に介さず、来光はにやりと笑った後、ぺろっと俺の唇を舐めた。カアァッと身体が一瞬で火照る。
「ら、ら、ら……っ」
「あは、シュン、顔真っ赤で可愛い」
来光が、実に嬉しそうな笑顔を見せた。
「来光ーッ!」
「節度ーッ!」
俺と山内くんが叫ぶと同時に、各々の恋人が恋人を抱き上げる。
そのまま勢いよく、まだ冷たい初夏のプールの中へと飛び込み、大きな水しぶきを立てたのだった。
その時、落ちていた小枝を踏んでしまい、足裏にチクッとした痛みが走った。
「いたっ」
俺の隣を歩いていた三年の水泳部副部長兼ひとつ上で幼馴染の山内くんが、クールビューティーの切れ長な目を俺を向ける。
「ほら、気を付けないとだぞ、和田っち」
俺と山内くんは食べても太らない体質のせいで、二人揃って痩せぎすだ。その上身長も平均身長とほぼ横ばいの為、二人並ぶと「マッチ棒が二本歩いてる」と言われる。うるせえ。
ちなみに、より色白なのは山内くんのほうだ。俺は少しだけマシ。
なお、俺は高校に入るまで、水泳とは無縁の生活を送っていた。だけど入学したその日、隣の家に住む山内くんが俺の教室まで来て「このままだと水泳部の存続が! 必要人数の四人まであとひとりなんだ、頼む和田っち!」と半泣きで縋りつかれた結果、唯一の二年水泳部員としてここにいる。
「自分はビーサンを履いてるからって……」
口を尖らせながらぼやいたけど、聞こえないふりをされた。
普段はプールサイドはビーサン禁止だから今日もダメなのかと裸足できたら、「ビーサン持ってきてないのか? 足の裏怪我するぞ!」だもんな。それもこれも、適当な情報伝達をしてきた部長のせいだ。きちんとやってくれよ。
そんな今日は、六月第三週の土曜日。学校のプール開きを前に、水泳部が清掃に駆り出された。報酬は、体育の授業よりも先にプールを使えるというものだ。……まあ、一番はちょっと嬉しいかも。
そんないかにもアオハルなイベントだけど、現在俺の気分は下がりまくっていた。
――何故なら。
「うわあ……沼色」
「言うな、和田っち」
山内くんが、鼻栓を装着しながら返す。さっきから自分ばっかり狡い。
「息をしたら肺の中までカビ菌が入ってきそう」
「だから言うな、和田っち」
デッキブラシを手にした俺と山内くんは、緑色の絵の具をドバドバ入れたような色をしたプールを覗き込んだ。
二十五メートルの長さがある四レーンのプールからは、すでに水が抜かれている。
床と壁面に付着した緑色の色鮮やかさに、眩暈がしてきた。
今からこれを掃除するのか……?
腐敗した独特のツンとした臭いに顔を顰めながら、深い溜息を吐いた。そうしたら、鼻腔と体内にえげつない臭いが充満した。
うぐ……臭すぎて目眩が。
とその時、校庭にある桜の木からミーンミーンという、気の早い蝉の鳴き声が響いてくる。
山内くんが、わざとらしい笑顔を俺に向けた。
「和田っち、夏が来たな!」
「まだプール開きもしてないでしょ」
遠い目をしながら答えると、山内くんが細く白い手で部Tを着た俺の背中を叩く。痛い。
「和田っちさあ、こういう時はノッてくれよ! 折角頑張ってやる気を出そうとしてるんだからさ!」
「まあ気持ちはわかるけど」
喋りながらも、それ以上俺と山内くんの身体は動かない。どちらが先に中に入るのか、目で牽制し合っている状態だからだ。
ふと、一番ここにいなければいけない人の存在を思い出した。
「……そういえば、部長は?」
「……ちょっと昨日、喧嘩しちゃって」
山内くんが、気不味げに目を逸らす。
「ええ……この大事な時に」
「ごめん、ちょっとね」
苛立ちを含んだ笑顔を見せる山内くん。この様子を見るに、キレたのは山内くんのほうらしい。
でも、納得している自分がいた。何故なら、この部長というのがとにかく自由人な上に気分屋だからだ。
部長と山内くんは、小学校の頃からの腐れ縁だ。優等生タイプだった山内くんが自由人な部長の面倒を見ている間に、いつの間にか周囲からはセットとして見られるようになったのだとか。
山内くんは小学校から水泳を続けている部長に誘われ、中学校から水泳部に入った。それまではカナヅチだったそうだけど、今ではちゃんとフリー(クロール)、ブレ(平泳ぎ)、バッタ(バタフライ)、バック(背泳ぎ)の四種類全てを泳げるようになった努力の人なんだよね。その点は本気で尊敬している。俺はまだまだ問題点が多々あるし、頑張らないとだ。
で、そんな部長は明るくていい人だけど、とにかく気分屋で面倒臭がりだった。どういうものかというと、やりたくないことは堂々としないタイプ。
部Tを作るのだって言い出したのは部長なのに、結局何もしないで山内くんが全て手配していたもんなあ。今日の清掃の中途半端な連絡も然りだ。
それにしても、滅多にマジギレはしない山内くんをここまで怒らせるなんて、一体何をやらかしたんだあの人は。
山内くんは、普段は黒縁眼鏡で目立たない。だけど眼鏡を取ると、透き通るような美少年になるんだよね。そんな人が笑顔でキレている姿は、凄みがあって怖い。
ちなみに眼鏡を取った状態の山内くんといたら、俺も一緒にナンパされることがある。クールビューティ恐るべし、な逸話だ。
「ちなみに顧問は?」
「腰が痛いから職員室で待機してるって。水を入れる時に呼んでって言ってた」
「どいつもこいつも……」
思わず毒吐くと、山内くんが俺の肩にポンと手を置いた。
するとその時だった。背後から、「春助せんぱーい!」という明るい声が俺の名を呼ぶ。
俺と山内くんは、同時に勢いよく振り返った。二人ともこれ以上ないというくらいの笑顔だ。
「来光!」
「和田っち! 僕たちの救世主が来たぞ!」
とてもいい笑顔で駆け寄ってきているのは、俺たち弱小水泳部の四人目の部員である、一年の来光渡だった。
先輩が卒業し、三年の部長と副部長、二年の俺の三人になってしまった今年の春。
最初は何人か見学に来たのに、不機嫌だった部長のせいで入部してくれなかったんだよね。
この時も山内くんと部長は喧嘩して、居た堪れなくなった俺は勧誘のプラカードを持って一年の教室がある辺りをフラフラしていた。
でも、新入生はもう大体仮入部を済ませている時期だ。来るわけないよなあ……と凹みまくった俺がプラカードを持ってしゃがみこんでいたら、「あの、大丈夫ですか……?」と声をかけてきてくれたのが新一年生の来光だったという訳だ。
そこで俺は「水泳部の存続が云々」という、昨年自分が山内くんから受けたのと同じ説明を口にした。
すると来光は何故か目をキラキラさせながら、「俺、ブランクあるんですけどそれでもいいなら」と俺の手を握って入部してくれたんだ。
あの時は後光が射していると思ったよ。来光だけに、なんてな。
ブランク。そう、来光は元々スイマーだった。だけど中学時代の怪我と手術のせいで、私立のスポーツ推薦を受けられなかったそうだ。
勉強面でも遅れが出たこともあり、無難中の無難であるこの公立高校に入ってきたらしい。
入部を請け負った後、来光が聞いてきた。
「あ、でも、男女合わせて四人でもいいんです?」
「は?」
来光の謎質問の意味を暫く考えた後、俺はようやくここで来光が俺のことを女子だと思っていたと気付いた——というおまけ付きだ。
「あは、滅茶苦茶可愛いからてっきり女子かと! ……ま、どっちでもいっか」
なんて呟いていたけど、お前先輩に向かって——なんてことは、その時は言えなかった。だって部員が欲しかったし。
ちなみに部室に来光を連れて行くと部長が胡乱げな目で来光を見たけど、奥に連れていかれてボソボソ何やら話した後は意気投合し、本入部までトントン拍子に進んだ。
あれはなんだったんだろうと小首を傾げていると、山内くんが「……うん、まあ知らなくていいかな」と言っていたのが、今でも記憶に残っている。
そんな来光が、足の速度を緩めると俺の目の前で立ち止まった。
「遅くなってすみません! ビーサンがなかなか見つからなくて!」
「大丈夫大丈夫、これから始めるところだったから」
山内くんが笑顔で返した。
来光の爽やかなツーブロックは、塩素で焼けて赤茶けている。甘く整った顔はアイドルさながらで、学校中の女子生徒だけならず、他の高校の女子に待ち伏せされ告白されるほどのモテっぷりだ。
只々羨ましいしかない。
と、来光が俺の足元を見て目を見開く。
「春助先輩、サンダルないんですか!?」
俺が裸足で爪先立ちをしているのを見た瞬間、来光が驚くべき速度で俺の腰に腕を回して抱き上げてきた。ぐわんと仰け反りそうになり、慌てて来光の首にしがみつく。
「おわっ! お前、いきなり何すんだよ!」
「春助先輩、かっる! ちゃんと食べてます?」
後輩にあっさりと抱え上げられるなんて、先輩の威厳もあったもんじゃない。ジタバタ暴れていると、「春助先輩、危ないから」とギュッとされてしまう始末。
くそう、先輩の威厳! それにさ、毎度毎度こいつの距離が近すぎるんだよ!
来光が、眩い笑顔を俺に向けてきた。
「あ、春助先輩! 食べるといえば、今日これが終わったら一緒に駅前のファミレス行きましょうよ! 決まりね先輩!」
「俺はいいなんてひと言も——」
「シャインマスカットパフェ奢りますよ」
「いく」
俺はすこぶるフルーツに甘かった。
なおこの間、山内くんは「またやってるよ」といった呆れた目で俺たちを見るだけだった。
以前、俺にだけやたらと懐いてくる大型犬みたいな来光の行動を諌めてくれと頼んだら、「和田っち同様ひ弱な僕に止められるとでも?」と怯えるポメラニアンみたいな目をして言われてしまったんだよね。
うん、まあ言ってみただけ。来光、部長並にでかいし、筋肉あるし。
と、ここで来光が今初めて気付いたかのようにキョロキョロと周囲を見回す。
「——て、あれ?『ま』の人は?」
「こら、『ま』の人言うな」
ぺちんと茶色い頭を叩くと、来光が楽しそうにくしゃりと笑った。
「あは」
ちなみに『ま』の人とは、今日は来ていない部長、真野先輩のことだ。
真野の『ま』、山内の『や』、来光の『ら』、和田の『わ』ときているので、この間来光が「あと『を』と『ん』がきたらこの水泳部消滅しそうっすね」と笑えない冗談を口にしていた。
「やめろ縁起でもない」と肘で小突くと、爆笑していた。いや、笑い事じゃないから。
なお、その後こっそり検索したら、どちらの苗字も存在しないという結果になった。実質終わりじゃないかと思ったけど、忘れることにした。俺たちの水泳部はまだ生きているし、うん。
「部長と山内くんが喧嘩しちゃったんだって」
「ええー……また痴話喧嘩っすか?」
来光が呆れ顔になった。
「また言うな。痴話喧嘩じゃないし」
山内くんが来光を軽く睨む。
「春助先ぱーい、副部長がこわーい」
来光が俺の腹に頬をぐりぐり押し付けてくる。だから、お前は犬か?
「こら、甘えるな!」
ぽかりと頭を叩くと、来光が嬉しそうに笑った。……全く。
「さ、揃ったし始めるぞ!」
「はーい」
それから数時間、俺たちは頑張った。滅茶苦茶頑張った。鼻が曲がりそうになりながら、ツンとした刺激に涙を滲ませ吐き気を抑えながら、それはもう懸命にプールを清掃していった。
「あっつ」
腕で額から垂れ落ちる汗を拭う。
首の後ろに当たる太陽光が、ジリジリと肌を焼いていた。この日差しの強さだ。このままだとTシャツ焼けするな、と俺と来光はとっくに上を脱いでいた。
だけど山内くんだけは頑なに脱がない。
Tシャツだって、緑色に染まりとんでもない状態なのにな——そう思って、何気なく山内くんのほうを見ていた時だった。
腕を持ち上げ肩で汗を拭った山内くんの脇腹が見える。数カ所が赤くなっていて、滅茶苦茶痒そうだ。
「山内くん、そこ、虫刺されすごいよ!?」
「えっ、どこ!?」
「脇腹のところ」
「えっ、あっ、う、うん……あははっ」
山内くんはわざとらしい笑い方で笑うと、慌てた様子でTシャツをぐいぐい下げた。
「……あんにゃろ、こんなところまで」と小声で呟く声が聞こえてくる。ん? どういうことだろう。
不思議に思っていると、来光がなんともいえない表情を浮かべながら、俺の元にやってきた。
屈んで、俺の耳元で囁く。
「後でファミレスで教えてあげますから、触れないであげて」
「わ、わかった」
触れないで? なんだろう。ちっともわからない。
不思議に思いながらも、清掃にラストスパートをかけた俺だった。
◇
プールに水を溜めるには、半日程度かかるそうだ。
シャワーを浴びてさっぱりした俺たちは制服姿に戻ると、夕日の眩しさに目を細めながら、一緒に校門を出た。
山内くんが、ファミレスがある駅前のほうに足を向けた俺たちに手を振る。
「じゃ、明日は朝九時にプール集合な。二人とも、お疲れ様!」
「あれ、山内くんは行かないの? ファミレス」
「はは、来光の目が怖いから行かない」
「へ?」
何を言っているんだと思いながら隣の来光を見上げると、にっこにこの笑顔の来光が俺の首に腕を回してきた。……だから、距離。
「春助先輩、行きましょ! 副部長、明日は部長を引っ張ってきて下さいね。俺も後が怖いから」
「……わかったよ」
山内くんが嫌そうな顔をして答える。全然意味がわからない。多分俺だけがわかっていないこの感覚が、なんか物悲しい。
山内くんとはそこで別れ、今日のプール清掃について二人で笑い合いながらファミレスへ向かった。
ファミレスは平日よりも空いていて、すぐ席に案内される。とにかく腹が減ったので俺はミックスグリルとライス大盛り、後はシャインマスカットパフェを、来光はミートドリアとマンゴープリンを注文した。
俺がちょっと物欲しそうな顔になったら、「マンゴープリン、ちゃんとひと口あげますから」と笑われた。う……っ、見抜かれている……!
料理が届き、バクバクと口に運んでいく。
夢中で食べていると、ふと視線を感じて目線を上げた。
するとミートドリアが載ったスプーンを優雅に口に運びながら、来光が笑顔で俺を見つめているじゃないか。
「……春助先輩って、すごく美味しそうに食べますよね」
「お、おう」
……やめろ。そのなんか慈愛に満ちた目はやめろ。居た堪れなくなるから。
じっと見つめられモゾモゾしながらも食事が終わり、デザートが出てくるまでの時間。
来光はキョロ、と周囲を見渡した後、サッと立ち上がり俺の隣へやってきた。
「おい——」
「大きな声じゃ言えないから」
「お、おお……」
来光が大きな身体を屈めて顔を近付けてきたので、俺も上目遣いになって顔を来光に近付ける。
来光の熱い息が、俺の耳元に吹きかかった。
「さっきのですけど——春助先輩、あれが虫刺されだと思ったの?」
「え? う、うん。痒そうだなって」
「あれ、違うよ」
「え?」
顔を来光のほうに傾けると、少しでも動いたら唇同士が触れ合いそうな距離に来光の整った微笑がある。
ドクン! と何故か跳ねる俺の心臓。だ、だからこいつは、どうしてこういつも距離が近いんだよ!
「あれはね、キスマーク」
「へ? キ……キスマークぅ?」
予想もしていなかった答えに、俺の目が点になった。キスマークってあれだろ? 唇でジュッて吸って鬱血させるやつ。やったことはないし、されたこともないけど。
「ええ……、でも、山内くん、彼女はいなかった筈……」
「彼女はね」
「へ? どういうことだよ」
もどかしい問答に来光を小さく睨むと、来光がテーブルに頬杖を突いてにこりと笑いかけてきた。
「だって、山内副部長と真野部長、付き合ってますよ?」
「は——はあっ!?」
思わず立ち上がろうとすると、腕を掴まれてすぐに引き戻される。
山内くんと部長が!? つ、付き合ってるって交際してるってことだよな!?
でも男同士だし、いや、でも部長はいっつも山内くんにベタベタしては怒られて……て、え、えええっ!?
来光が、悲しそうな顔になった。
「……春助先輩は、男同士は反対だったりします?」
「へ!? い、いや!? そこはほら、好き同士なら全然、うん、いいと思うぞ!? ただ、全く想像もしてなくて……!」
「そっか、よかったあ!」
何故か安堵したような笑みを浮かべる来光。そっか、お前は知っていたんだもんな……鈍感な俺が何も気付かずにいる間も、ずっと二人の関係を知ってやきもきしていたんだな。悪いことをしちゃったな。
と、来光が頬杖を突いていないほうの手を俺の耳に伸ばし、人の耳たぶを指で挟みフニュフニュしだす。く、擽ったい……!
「今年の春さ、入部希望の奴らがとことん辞めていったでしょ? あれ、なんでか知ってます?」
「え? 部長が反対したからでしょ?」
身を捩って逃れようとしたら、うなじをガッと掴まれてしまった。お、おい……!
「正解。じゃあなんで反対したかの理由は?」
「え……わかんないな。不真面目だったとか?」
「部長も不真面目なのに?」
「……降参。わかんない」
下唇を少し出すと、来光がフッと笑って目を細める。
「入部希望が、部活紹介で舞台で水着姿になっちゃった山内先輩目的だったからだよ」
「……あー、あったね、そんなこと」
俺は音響のほうをやっていたから舞台には上がってないし斜め後ろからしか見てないけど、「新入部員はもういいんじゃね?」という部長の反対を押し切って、山内くんがひとり舞台に上がったんだよね。
「俺はタイプじゃないからふーんだったけど、色白で華奢でスタイルいいし、しかもあの時は眼鏡を外してゴーグルを額にしてたでしょ? 一年男子、結構ざわついてたよ」
「マジでか」
まあ、あのクールビューティだもんなあ、と納得する。
「うん。で、あわよくば山内先輩とっていう邪な気持ちで入部希望してきた奴が部長の逆鱗に触れたんだって」
「あー」
なるほど、そういうことだったのか……。
だけど、そうしたら気になるのは来光のことだ。
「じゃあお前はなんで入部許可が出たんだ? あの時は部長、全員入部拒否してたんだろ?」
これには、来光があっさり答える。
「俺も最初は疑われたけど、ほら、すぐに部長に呼び出されたでしょ?」
「うん」
「その時に、俺の狙いは春助先輩です、揺らがないので安心して下さいって言ったらあっさり」
「——は?」
思わずぽかんとすると、来光が俺の頬を手のひらで覆い、下唇を親指で弄りだした。だ、だから距離……っ。
そして何故かときめく俺の胸。く……っ!
来光が、キラキラした目で俺の目を覗き込んでくる。
「先輩、自分の代で水泳部を潰すの嫌でしょ?」
「は? そ、そりゃそうだけど」
突然の方向転換に、目を瞬く。山内くんに誘われただけとはいえ、自分なりに一年間頑張ってきた部活だ。俺の不甲斐なさで人数不足により閉部は、さすがに悲しすぎる。
来光が、切なそうに眉毛を揺らした。お、俺の心臓、収まれ……!
「でもさ、俺は先輩が自分のものになってないと不安だから、部長と同じことをすると思うんだ」
「へ……っ?」
自分の耳を疑った。え、それってまさか……でも、え?
来光が悔しそうに唇を噛み締める。
「実はさ、同じクラスの奴も、水泳部出身者がいて。勧誘すれば多分きてくれるんだよね。今は帰宅部で、暇そうにしてるし」
「ほ、本当か!?」
立ち上がりかけると、今度はうなじを掴む手に力が込められた。あ、はい。
大人しく再び座る。
今度は両手で頬を挟まれた。絶対に逃がすまいという意思を感じる。
「俺、春助先輩が喜ぶ顔は見たい。でも嫉妬したら、何をするかわからない自分が怖い」
「ぐふっ」
ここまで言われたら、さすがに鈍感な俺だってわかる。ら、来光は、俺のことを……。
正直、ちっとも嫌じゃない自分がいた。だって来光は優しいし格好いいし頼り甲斐もあるし、それになにより一緒にいて楽しい。
距離が近くて困っていたのは、近すぎると俺の心臓が爆発しそうになってどうしていいかわからなくなるからだ。
思い返せば、最初から来光の距離は俺にだけずっと近かった。山内くんはいつもそんな俺たちを呆れ顔で見ていたし、それは部長もだ。
つまり、みんな知っていたんだ。わかっていなかったのは、俺だけだった——。
全てのピースがはまった途端、俺の全身がカアァッと熱く火照り始めた。と、その様子を間近で観察していた来光が、嬉しそうに笑う。
「あ、俺が先輩を大好きな気持ち、やっと伝わった?」
「す、す、す」
や、やっぱりそうだったのか……! うわあ、今まで気付かず「近い近い!」なんて恥ずかしがっていた自分の鈍感さが恥ずかしい……!
来光が、蕩けた笑みを見せる。
「うん。俺、先輩が好き。大好き。ね、俺と付き合ってよ。そうしたら俺は先輩の為になら水泳部存続へ向けて頑張れるし、なんなら来年はインターハイだって目指す」
「インターハイ……!?」
そう、来光は怪我をしていたとはいえ、とても速かった。半フリという五〇メートル自由形では、なんと驚きの二十三秒台を叩き出している。なのに春の春季大会では、「部長がリレー出たがってたから」という理由で、リレーしか出場しなかったんだよな。勿体ない。
「先輩。俺の彼氏として、俺を応援してくれませんか? 俺、先輩の為なら頑張れる」
キュルンとした大型犬のような目で見つめられた俺は。
「う……うん」
気が付けば、顔を真っ赤にしてそう返事をしていたのだった。
◇
翌日。
プールサイドでちっとも懲りてなさそうな笑顔の部長とまだ少し怒っていそうな山内くんと合流して早々、来光は満面の笑みで俺の肩を抱き寄せ、言った。
「部長、副部長! この度、俺と春助先輩は無事恋人になりましたあー!」
「お、やっとか! おめでとなー」
安心したように笑顔で言ったのは、部長だ。山内くんは、腰のキスマークに貼られた絆創膏を先程から剥がそうとしている部長の手をパン! といい音を立てて弾きまくっている。
ちなみに一昨日二人が喧嘩した理由は、山内くんが見えるところに痕をつけるなと言っていたにも関わらず、部長が我慢できずにつけたことにあったらしい。
部長に個人DMを送って確認した来光が、そう教えてくれた。
なお、「まあ、独占欲の現れですからね。俺も気持ちはわかりますよ」という言葉を添えていた。添えなくていい。照れちゃうから。
で、改めて今日の山内くんを見てみたら、確かに首元と太腿の内側にも絆創膏が……うわ、うわわ。
部長の耳たぶを掴んで引っ張り始めた山内くんが、心配そうな目を俺たちに向ける。
「おめでとう——と言いたいところだけど、僕たちは水泳部だから、このアホみたいに、見えるところに痕をつけたりしないよう節度を持ってね」
「わかってますって! つけるなら見えないところにしますから!」
え、キスマークをつける気満々なのか……? と、にっこにこの笑顔で答える来光をぎょっとした目で見ると。
「な? シュン」
付き合った直後から突然「春助先輩」から「シュン」に呼び方を変えた来光が、とてもいい笑顔で俺に笑いかけてきた。
え、なんて答えたらいいの、こういうの。だって、触るななんて言いたくないし。
「は、はは……」
とりあえず笑って誤魔化そうと思ったら、「あ、誤魔化そうとしてる」と来光が唇を尖らせた。
次の瞬間。
「——!」
来光の長い腕が後頭部を掴んだな、と思った時には、唇が重なり合っていた。柔らかくて温かい感触に、ゾワッと心地よい鳥肌が立つ。
「こら、来光! 節度を守れ!」
山内くんの怒りの声も意に介さず、来光はにやりと笑った後、ぺろっと俺の唇を舐めた。カアァッと身体が一瞬で火照る。
「ら、ら、ら……っ」
「あは、シュン、顔真っ赤で可愛い」
来光が、実に嬉しそうな笑顔を見せた。
「来光ーッ!」
「節度ーッ!」
俺と山内くんが叫ぶと同時に、各々の恋人が恋人を抱き上げる。
そのまま勢いよく、まだ冷たい初夏のプールの中へと飛び込み、大きな水しぶきを立てたのだった。



