「君を愛することはない」と言われて三年、そろそろ白い結婚をやめようと思います

「――奥方の誕生日に帰宅しなかったんだって?」

 不意に話題を振られ、ユーリスは紙に走らせていたペンをぴたりと止める。俯けていた顔を僅かに上げて窓辺へと視線を向けると、深い赤のビロード張りのシェーズロングに無造作に身体を横たえている男と目が合った。とろりと蕩けるような蜂蜜色の、けれど決して甘くはないと知っている琥珀色の瞳。

「誰から聞いたんですか」
「誰でもない。宮中の者たちが噂しているのを耳にしただけだ」

 その返答に内心溜息をつきながら、ユーリスは再び書類へ視線を落とし、書きかけの署名欄にペンを走らせた。

「クロードが来ていましたから。彼だけで十分でしょう」
「へえ」

 自分で訊いておきながら、まるで興味なさげな呟きに、ユーリスは今度こそあからさまに深々と息を吐き出す。呆れをたっぷりと滲ませて。

「そんな話をしに、わざわざ此処へ来たのですか」

 言外に「そんな暇はないでしょう」と含ませるものの、当の男は気付いているのかいないのか――否、気付いていながら飄々とした口調で「べつに構わないだろう?」と告げる。続けて聞こえてくる、くつくつと喉を鳴らす笑い声に、ユーリスは堪えきれず目を上げ、シェーズロングに寝転がる男を半ば睨みつけた。

 艷やかな黒髪に、筋の通った高い鼻、切れ長の涼やかな目元。胸元の寛げられた上着の左胸には、王族の者だけが着けることを許された王家の紋章がしっかりと縫い付けられ、その存在を知らしめるかのように、窓から差し込む陽光を浴びてきらりと輝いてる。

 テオドール・ヴァロワ――ヴェルミア王国の現国王であり、ユーリスの仕える主でもある彼は今、表では決して見せることのない緩みきった顔でだらしなくあくびをこぼしている。山のように積み重なる書類に取り組む部下を呑気に眺めながら。

「確かにクロードが来ていたな。数日前だったか、先代からの手紙を預かったと聞いている。……で? 久しぶりにこっちへ来た弟に嫁を任せ、当の旦那はセリーヌ嬢のところに行っていた、と」

 からかうような声音でそう言い、テオドールは形の良い薄い唇に、にやりと嫌な笑みを浮かべた。明らかに愉しんでいるのが見て取れ、ユーリスはどっと重たいものが肩に伸し掛かるのを感じる。ただでさえ忙しいというのに――しかもこの目の前にいる主人のせいで――、余計な世間話はやめてもらいたいものだ。

「陛下も、そのような俗聞をお好みとは、存じませんでした」

 舌打ちをしたいのをどうにか堪えながら、ユーリスは署名を終えた書類を別の山の上に乗せ、渦高く積まれた隣の山から新しい一枚を手に取り、ざっと目を通す。そんなユーリスに視線を向けたまま、テオドールは声を上げて愉快そうに笑った。

「そうだな、そうだった。お前はそういう男だ」

 書類は予算案に関するものだったが、所々に数字の記載漏れや計算違いが見受けられ、ユーリスは目頭を軽く摘んで揉みながら、喉元まで出かけた愚痴をどうにか呑み込んだ。頭が痛むような気がするのは、ミスだらけの書類のせいだろうか。或いは、愉しげに笑っている主のせいだろうか。

 それにしても、上へ通してくる書類がこの程度とは情けない。いったいどれほど確認をして持ってきたのかと、あまりのお粗末さに頭を抱えたくなる。

 取り敢えず差し戻しの山にそれを置き、すぐさま次の書類を手繰り寄せた。その間もテオドールは気の抜けた格好でシェーズロングに寛いでいる。よりにもよって、この主君の執務室にも署名や捺印を待つ書類が山を連ねていると知っている部下の目の前で。

 その上あと十分もすれば、議会の為に部屋を出なければならないというのに。まさかその予定を忘れているなどとは、思いたくないけれど。

「……さっさと本題に入って頂けますか」

 いつもより低く落とした声でそう投げかけると、笑い声がぴたりとやんだ。ちらりと窓辺へ目を遣れば、目を僅かに眇めたテオドールの口角が、にたりと歪に上がっているのが見えた。

 この男がただ無駄な世間話をする為だけに此処へ来たとは、端から思ってはいない。こっそり執務室を抜け出して堂々と怠惰を決め込むことはままあるけれど、多忙な部下の邪魔を嬉々としてするような人間でないことくらい、長い付き合いのあるユーリスはよく分かっている。――とはいえ、今の今まで愉しんでいなかったといえば、そうではないだろうけれど。

 いったい何の話をしにきたのだろう。予算案のことか、嘆願書の出ている孤児院や施療院への補助金のことか、それとも国境警備の強化案の件についてか。

 そう頭の隅で思いながら、新しい書類の見出しに視線を走らせていると、

「実はお前に、縁談の話が来ている」
「――は?」

 微塵も予期していなかった言葉に、思わずユーリスの口から間の抜けた声がこぼれ落ちた。思考が、一瞬ばかり停止する。えんだん――縁談?

 唖然としながら再び主君へ顔を向けると、彼はどこからか持ってきたらしい小鳥の置物を白い指先で弄びながら、珍しいものを見たと言いたげな顔で、呆けたユーリスの様子をいかにも面白そうに眺めていた。

「相手は、エルヴァール王国のカトリーヌ・ラクロワ第二王女だ。無論、お前が既婚だということは知っている」

 エルヴァール王国といえば、ヴェルミア王国の南に位置する大国だ。半年ほど前、テオドール直々の指示を受け、貿易に関する調整の為に一週間ほど滞在していたが、当の第二王女と言葉を交わしたのは、来訪を祝して開かれた舞踏会での一度きりで、それ以上の接点を持った覚えはない。

「……離婚しろ、ということですか」
「そうだな。まあ、相手の正しい要望としては、“結婚していた事実をなかったことにしろ”だが」

 何でもないことのようにけろりと言ってのけるテオドールを見据えながら、ユーリスはたった今しがた耳にしたばかりの言葉を頭の中で反芻し、眉を顰める。

  大国の、しかも第二王女の夫となる男が既婚だったというのは、国として外聞が悪いとでも考えているのだろう。確かに“婚姻”は紙切れ一枚の契約に過ぎず、“なかったこと”にしようと思えば出来なくもない。けれど、既に社交界に知れ渡っている“事実”を“はじめからなかったこと”にするのは、どう筋道を立てたところで難しいものだ。それくらい、一国の王であれば分かるだろうに。

「ご丁寧に、親書とともに、王女直々の手紙まで届いてるぞ」

 そういえば先日、エルヴァール王国の大使がひとり、小規模な護衛を連れてテオドールに面会を求め来訪していたことを思い出す。いつもであれば宰相として傍に控えているが、護衛以外の同席を相手が拒んだ為、席を外していた。その後テオドール自身何も詳細を話さなかったので、敢えて訊くことはしていなかったのだが――恐らくはその時に、親書と手紙を渡されたのだろう。縁談の話だ、という言葉とともに。

「女に人気がありすぎるのも大変だな」

 小馬鹿にしたような息を漏らし、テオドールはひょいと上体を起こした。先程まで弄んでいた小鳥の置物にはすっかり興味をなくしたのか――それともはじめからありはしなかったのか――、白く小さなそれは赤いビロードの上にころりと転がっている。

 エルヴァール王国は、豊かな海産資源と広大な農地を有する穀倉地帯を持つ。加えて地理的な要衝に位置することから交易の中継地としても発展しており、その経済力は周辺諸国の中でも、ヴェルミア王国と比肩するほど頭ひとつ抜けている。

 そんな隣国との間に婚姻という形で強固な繋がりを持つことは、外交的に見ても経済的に見ても、ヴェルミア王国にとって大きな利をもたらすだろう。しかも相手は第二王女であり、ユーリスもまた王家の傍流の血を引く公爵家の当主である。格式の面でも申し分ない組み合わせだ。国としての体裁を整えながら実質的な利益も得られる――まさに、断る理由を探す方が難しいような縁談であることに違いない。

 ユーリスは静かにペンを置き、机の上で両手を徐に組み合わせた。白く長い指が、もう一方の指の隙間にひとつひとつ収まってゆく。そうして組まれた手の上に僅かに顎を乗せ、彼はゆっくりとひとつ瞬いた。

 視線の先で、テオドールは相も変わらず、意味深な笑みを口元に薄く滲ませている。宮廷には有象無象が跋扈しているが、この男ほど厄介な者は他にいないだろう、とユーリスは内心密かに溜息をつきながら思う。

 壁にかけられた時計へと目を向けると、議会の始まる時刻がもうすぐそこまで迫っていた。王と宰相がふたり揃って姿を現さないとなれば、場はざわつくだろう。そろそろ部屋を出なければ、遅刻は免れられまい。

「返事をすぐにとは――」
「陛下」

 テオドールの言葉を遮り、組んでいた指を解きながら、ユーリスは主君の双眸をまっすぐに捉えた。甘く蕩けるようでいて、けれどその奥には鋭い刃のような冷たさを潜ませた、黄金色の瞳。その目で、果たしてテオドールは、エルヴァール王国の大使をどのように見据えたのだろう。

「その縁談、お受け――」

 きっぱりと言葉を返すと、テオドールはほんの一瞬目を瞠らせ、それからすぐに大声をあげて笑った。その反応からするに、恐らくは話をする前から、既にユーリスがどのような返事をするのか、彼は分かっていたのだろう。

「そろそろ議会の間へ行かなければ、遅刻しますよ」

 この話はもうこれで終いだ、と一方的に片付けるように、ユーリスは必要な書類を手にとって立ち上がる。

「大臣たちに口うるさく責め立てられるのは御免です」

 言いながら、ユーリスは未だシェーズロングに腰掛けたままの主君の眼前を足早に通り過ぎ、扉のノブに手をかけた。そんな彼の背中に、主の鋭い視線が突き刺さる。まるで何かを探るような、或いは、反応を試し量るような視線。

「お前は、本当に“狡い男”だな」

 くつりと喉を鳴らして笑うテオドールを、ユーリスは険しく眉根を寄せながら肩越しに振り返る。

「私が宰相に就かなければ即位しない、と子どものように駄々を捏ね、騎士団から無理矢理退団させた方が、何を仰いますか」
「それとこれとは別だろう?」

 漸く重い腰を上げたテオドールが、悠然とした足取りで扉の方へと歩み寄ってくるのを眺めながら、ユーリスは小さく溜息をこぼす。この男が、腹の底で何を企んでいるのかを見抜くのは、ひどく難しい。その真意の見えなさは、父親である前国王によく似ている。

「ユーリス」

 部屋を出ようとする主の邪魔にならないよう、一歩脇に退いた部下の目の前を通り過ぎざま、テオドールはちらりと、横目でユーリスの青い瞳を射抜いた。

「――お前のその“狡さ”が、仇とならなければ良いがな」