いつからユーリスのことを好きになったのか、はっきりとは憶えていない。
初めはただ、“面倒見の良い兄”という認識でしかなかった。ひとつしか歳が違わないのに子供らしからぬ落ち着きがあり、物知りで、けれども遊ぶ時は汗だくになるまで無邪気に一緒に庭を駆け回ってくれる、やさしいお兄さん。
恋の始まりの瞬間を自覚している人間など、果たしてどれくらいいるのだろう。それは往々にして、いつの間にか気付かぬうちに芽吹いているものであるような気がする。土の中に種を撒き、毎日丁寧に水やりをしていたその翌日、昨日までなかったはずの初々しい芽がひょっこりと顔を出しているのを見つけた時のような、そういう感覚――。
気付いた時には、彼の姿を目で追っていた。すぐに見つからなければ、さり気なく探しもした。公爵邸で飼われていたゴールデンレトリバーとじゃれながら、クロードと追いかけっこをしながら、或いは、大勢の貴族が参加するお茶会の席で両親に手を握られ連れ回されながらも。
やんちゃで活発なクロードとは違い、幼少の頃のユーリスは、どちらかといえば静かに本を読んで過ごすような、そういう落ち着きを好むタイプだった。もちろん笑い声をあげながら、子供らしくはしゃぐこともありはしたけれど。一方で、庭園を駆け回るセシリアやクロードを木陰から眺めながら本を読んでいることも、また決して珍しくはなかった。
ユーリスは子供向けの本を読んでいる時もあれば、少し難しい本を読んでいる時もあったけれど、どんな種類のものであっても、セシリアが「それはどんな本?」と問えば、分かりやすく噛み砕いて教えてくれた。有名な作家が手掛けた童話集だとか、植物図鑑だとか、はたまたオペラの原作となるような重厚な物語だとか。
そうして軽い説明を終えた後、彼はいつも必ず「一緒に読む?」とセシリアを誘ってくれた。その一言が、どれほど胸を弾ませたことか。今にも飛び跳ねてしまいそうなくらい、心が浮き立ってたまらなかった嬉しい一言。ユーリスと一緒に"同じ本"を読むのは――実際には読み聞かせだったけれど――、胸が甘くくすぐられるような、少し気恥ずかしくも心地の良い時間だったから。
そんなユーリスへの恋心をセシリアが明確に自覚したのは、社交界デビューをする少し前のことだった。つまりは思春期真っ只中の、“男と女”の違いを強く意識し始める年頃になってから。
“許婚”であるということは随分前から理解していたし、日々こなしている勉学が全て“次期公爵夫人”になる為のものだという認識も、無論あった。けれどだからといって、それは必ずしも気持ちの自認に直結するものではない。
“恋に気付く”というのは、些細なことの積み重ねの果てにあるものだ、とセシリアは思う。
ふとした瞬間に彼の顔や声が脳裏を過ることや、会えない日々に身体中が寂しさで埋め尽くされることや、さりげない気遣いをみせてくれた時に胸の奥がほんのりとあたたかくなることや、忙しい合間を縫って少しでも顔を見せに来てくれた時の心が弾むような感覚や。
そういったものたちで溢れそうになるほど頭も心も満たされて、漸く気付くのだ。ああ、私はこんなにも、彼のことが好きだったのだ、と――。
「――は?」
ティーカップを片手に、クロードが間の抜けた、言葉になりきれなかった声をぽつりとこぼす。ぱっちりとした二重の目がじわりと大きく見開かれ、その真ん中で、当惑を孕んだ青い瞳がセシリアをまっすぐ凝視している。そんな彼の眼差しを、セシリアは微苦笑を湛えながら、ただ静かに受け止めることしか出来ない。
晩餐を終え、パーラーに場所を移してから、窓辺の席でお茶を飲みながら談笑をする――。毎年クロードが誕生日を祝いに来てくれた時に繰り返される、いつもの流れ。そして今年も例に漏れず、ふたりは小ぶりなティーテーブルを間に挟んで、向かい合う形で座っている。鋭く欠けた三日月や、夜空を埋め尽くさんばかりに鏤められた星々に見守られながら。
彼の前には、食べかけのケーキが置かれている。甘さ控えめのクリームと、卵色のやわらかいスポンジ、苺をメインにたっぷり盛られた色とりどりのフルーツ。都で一番と名高いパティシエが手掛けたという特注の誕生日ケーキは、けれど今この瞬間、彼の意識からすっぽりと抜け落ちてしまっていることだろう。――セシリアの放った一言のせいで。
「ごめん、セシリア……。僕の聞き間違いかもしれないから、もう一度言ってくれないかな」
明らかに動揺を隠せていない声でそう乞われ、セシリアはティーカップのハンドルにそっと指をかけながら、ゆっくりと口を開く。なるべく声が震えないように、感情が表へ滲み出てしまわないように、出来うる限り細心の注意を払って。
「私、ユーリスと別れようと思っているの」
思いの外はっきりとした声で言葉を紡げたことに内心驚きながら、けれどそれを悟られないよう、セシリアはカップの縁に悠然と唇をつけた。自分で切り出しておきながら、心臓がどくどくと鳴っている。息苦しいほどに、胸をぎゅっと鷲掴みにされているような感覚がするのは、どうしてだろう。
暫くの間、クロードは何も言わなかった。ティーカップを持ったまま、まるで時が止まったように。瞬きすら忘れてしまったかのように、セシリアをじっと見つめていた。ただただ、茫然と。
彼がそうなるのも無理はない、と、あたたかなお茶を喉に滑らせながらセシリアは思う。クロードにとっては、青天の霹靂だっただろうから。
やがてゆっくりと、クロードはティーカップをソーサーの上に置いた。かちり、と小さな音が、静まり返ったパーラーに短く響く。
「……それ、本気で言ってる?」
絞り出すような掠れた声が、鼓膜に触れる。いつも朗らかで屈託のない彼の声が、こんなにも頼りなく揺れるのを、セシリアは初めて聞いた気がした。
「ええ、本気で言っているわ」
「兄上のことが嫌いになった?」
「まさか。ユーリスを嫌いになったことなんて、一度もないわ。私は今でも彼のことが……」
こみ上げてくる感情に言葉を奪われ、セシリアは口を噤む。ユーリスと同じ色をした瞳を見つめていられず、逃げるように手元のティーカップへ視線を落とすと、澄んだ若葉色の水面が微かに揺れていた。まるで持ち主の心を映しているかのように。
両親が――父親同士が――親しくなければ良かったのだろうか。“兄妹”のように育たなければ良かったのだろうか。何をするのも一緒な“幼馴染”でなければ良かったのだろうか。
楽しかった頃の記憶が、大切にされていた頃の記憶が、幸せだった頃の記憶があるからこそ、どんなに努力をしても愛されないという現実が、深く胸に突き刺さる。嫌だ、苦しい、とどんなに足掻き、抗い、必死にそれを抜こうとするけれど、そうすればするほど、刃はどんどんと奥深くへ、胸を抉りながら沈んでゆく。
楽しかった頃に戻れたなら、大切にされていた頃に戻れたなら、幸せだった頃に戻れたなら――どれほど良いだろう。けれどそれらは全て、遥か遠い昔のことだ。どんなに縋り付きたくても、指先さえ、今はもう届かない。
「今でも、好きだから――」
ティーカップから視線を逸らし、窓の外に広がる夜空を見るともなく眺めながら、今日が初夜と同じ満月でなくて良かった、とセシリアは胸の内で密かに思う。
「ユーリスのことを心から愛しているから、もうこれ以上、彼のことを縛り付けたくないの」
そう言いながらクロードへと目を戻すと、彼は綺麗に形の整った眉をひそめ、思案に耽るように天井を仰いだ。
そのまま、長い沈黙がふたりの間に静かに落ちた。
窓の外では、欠けた月が薄雲の向こうに霞んでいる。遠くの方で、若葉の茂った梢が夜風に揺れる音が、微かに聞こえた。セシリアはただ、その小さな音に耳を澄ます。クロードが何を考えているのか、何を言おうとしているのか、問うことはせずに。
やがて、深く息を吐き出しながら、クロードは真剣な面持ちでセシリアを見据えた。
「セシリアが辛い思いをしていることは、知ってるよ」
静かにそう告げて、クロードはテーブルの上にそっと肘をつき、組んだ手の上に顎を乗せた。その仕草がどこか幼い頃のままで、セシリアは懐かしさに思わず胸が締め付けられる。
「父上たちの耳には届いていないけど……僕は王都に来る機会があるからね。兄上の噂は、どうしても聞こえてきてしまう」
社交界って本当に怖いところだよね、と冗談めかした口調で言い添えながら、クロードは呆れを滲ませた苦笑をこぼす。
今や殆ど王都を訪れない先代公爵夫妻の耳に、ユーリスの浮いた話がひとつも届いていないのは幸いだろう。彼らにとっては、心から信頼を置いている自慢の息子なのだから。そんなユーリスが夜毎違う女性のもとを訪ねているなどと知ったら、いったい何を思うだろう。
「兄上に非がないとは言わない。君の大事な誕生日すら、帰ってこないんだから」
でも、とそこで言葉を区切り、クロードは組んでいた手をほどいて、背もたれにゆっくりと身体を預けた。セシリアの瞳を、真っ直ぐ捉えたまま。
「もう一度、考え直してみてほしい。――兄上と、ちゃんと本音で話し合ってから」
クロードのぶれのない真摯な言葉に、図星をつかれたセシリアの心臓が、どくりと跳ね上がる。
ちゃんと本音で――。思えばいつから、ユーリスの前で本音を口にしなくなっただろう。常に仮面を被り、本音は心の奥に隠して、繕った言葉ばかりを並べるようになっただろう。昔は何でも素直に語り合っていたというのに。
けれど、本音をきちんと伝えたところで、何が変わるというのだろう。好きだと、愛していると伝えて、何かが変わるとは思えない。彼の気持ちは、あの初夜にはっきりと告げられている。明確に線を引かれてもいる。ユーリスが求めているのは、ただ“公爵夫人”としての務めを果たすことだけだ。それ以上でも、それ以下でもない。
確かに、クロードの言っていることは道理だ。分かっているからこそ、どうすれば良いのか、ますます分からなくなる。答えに近づこうとすればするほど、寧ろそれがどんどん遠ざかってゆくような気がして、底のないぬかるみに足を絡め取られてしまう。
「ねえ、セシリア。ひとつだけ聞いて良い?」
やさしい声音が、ささくれだった鼓膜にじんわりと沁み渡る。そういえば昔のユーリスも、そうやってやわらかな声で名前を呼んでくれた、とふと思い出し、セシリアは苦い想いを噛み締めながらこくりと頷く。――最後に名前を呼ばれたのは、いつのことだっただろう。
「――兄上は、セシリアのことが嫌いだと思う?」
初めはただ、“面倒見の良い兄”という認識でしかなかった。ひとつしか歳が違わないのに子供らしからぬ落ち着きがあり、物知りで、けれども遊ぶ時は汗だくになるまで無邪気に一緒に庭を駆け回ってくれる、やさしいお兄さん。
恋の始まりの瞬間を自覚している人間など、果たしてどれくらいいるのだろう。それは往々にして、いつの間にか気付かぬうちに芽吹いているものであるような気がする。土の中に種を撒き、毎日丁寧に水やりをしていたその翌日、昨日までなかったはずの初々しい芽がひょっこりと顔を出しているのを見つけた時のような、そういう感覚――。
気付いた時には、彼の姿を目で追っていた。すぐに見つからなければ、さり気なく探しもした。公爵邸で飼われていたゴールデンレトリバーとじゃれながら、クロードと追いかけっこをしながら、或いは、大勢の貴族が参加するお茶会の席で両親に手を握られ連れ回されながらも。
やんちゃで活発なクロードとは違い、幼少の頃のユーリスは、どちらかといえば静かに本を読んで過ごすような、そういう落ち着きを好むタイプだった。もちろん笑い声をあげながら、子供らしくはしゃぐこともありはしたけれど。一方で、庭園を駆け回るセシリアやクロードを木陰から眺めながら本を読んでいることも、また決して珍しくはなかった。
ユーリスは子供向けの本を読んでいる時もあれば、少し難しい本を読んでいる時もあったけれど、どんな種類のものであっても、セシリアが「それはどんな本?」と問えば、分かりやすく噛み砕いて教えてくれた。有名な作家が手掛けた童話集だとか、植物図鑑だとか、はたまたオペラの原作となるような重厚な物語だとか。
そうして軽い説明を終えた後、彼はいつも必ず「一緒に読む?」とセシリアを誘ってくれた。その一言が、どれほど胸を弾ませたことか。今にも飛び跳ねてしまいそうなくらい、心が浮き立ってたまらなかった嬉しい一言。ユーリスと一緒に"同じ本"を読むのは――実際には読み聞かせだったけれど――、胸が甘くくすぐられるような、少し気恥ずかしくも心地の良い時間だったから。
そんなユーリスへの恋心をセシリアが明確に自覚したのは、社交界デビューをする少し前のことだった。つまりは思春期真っ只中の、“男と女”の違いを強く意識し始める年頃になってから。
“許婚”であるということは随分前から理解していたし、日々こなしている勉学が全て“次期公爵夫人”になる為のものだという認識も、無論あった。けれどだからといって、それは必ずしも気持ちの自認に直結するものではない。
“恋に気付く”というのは、些細なことの積み重ねの果てにあるものだ、とセシリアは思う。
ふとした瞬間に彼の顔や声が脳裏を過ることや、会えない日々に身体中が寂しさで埋め尽くされることや、さりげない気遣いをみせてくれた時に胸の奥がほんのりとあたたかくなることや、忙しい合間を縫って少しでも顔を見せに来てくれた時の心が弾むような感覚や。
そういったものたちで溢れそうになるほど頭も心も満たされて、漸く気付くのだ。ああ、私はこんなにも、彼のことが好きだったのだ、と――。
「――は?」
ティーカップを片手に、クロードが間の抜けた、言葉になりきれなかった声をぽつりとこぼす。ぱっちりとした二重の目がじわりと大きく見開かれ、その真ん中で、当惑を孕んだ青い瞳がセシリアをまっすぐ凝視している。そんな彼の眼差しを、セシリアは微苦笑を湛えながら、ただ静かに受け止めることしか出来ない。
晩餐を終え、パーラーに場所を移してから、窓辺の席でお茶を飲みながら談笑をする――。毎年クロードが誕生日を祝いに来てくれた時に繰り返される、いつもの流れ。そして今年も例に漏れず、ふたりは小ぶりなティーテーブルを間に挟んで、向かい合う形で座っている。鋭く欠けた三日月や、夜空を埋め尽くさんばかりに鏤められた星々に見守られながら。
彼の前には、食べかけのケーキが置かれている。甘さ控えめのクリームと、卵色のやわらかいスポンジ、苺をメインにたっぷり盛られた色とりどりのフルーツ。都で一番と名高いパティシエが手掛けたという特注の誕生日ケーキは、けれど今この瞬間、彼の意識からすっぽりと抜け落ちてしまっていることだろう。――セシリアの放った一言のせいで。
「ごめん、セシリア……。僕の聞き間違いかもしれないから、もう一度言ってくれないかな」
明らかに動揺を隠せていない声でそう乞われ、セシリアはティーカップのハンドルにそっと指をかけながら、ゆっくりと口を開く。なるべく声が震えないように、感情が表へ滲み出てしまわないように、出来うる限り細心の注意を払って。
「私、ユーリスと別れようと思っているの」
思いの外はっきりとした声で言葉を紡げたことに内心驚きながら、けれどそれを悟られないよう、セシリアはカップの縁に悠然と唇をつけた。自分で切り出しておきながら、心臓がどくどくと鳴っている。息苦しいほどに、胸をぎゅっと鷲掴みにされているような感覚がするのは、どうしてだろう。
暫くの間、クロードは何も言わなかった。ティーカップを持ったまま、まるで時が止まったように。瞬きすら忘れてしまったかのように、セシリアをじっと見つめていた。ただただ、茫然と。
彼がそうなるのも無理はない、と、あたたかなお茶を喉に滑らせながらセシリアは思う。クロードにとっては、青天の霹靂だっただろうから。
やがてゆっくりと、クロードはティーカップをソーサーの上に置いた。かちり、と小さな音が、静まり返ったパーラーに短く響く。
「……それ、本気で言ってる?」
絞り出すような掠れた声が、鼓膜に触れる。いつも朗らかで屈託のない彼の声が、こんなにも頼りなく揺れるのを、セシリアは初めて聞いた気がした。
「ええ、本気で言っているわ」
「兄上のことが嫌いになった?」
「まさか。ユーリスを嫌いになったことなんて、一度もないわ。私は今でも彼のことが……」
こみ上げてくる感情に言葉を奪われ、セシリアは口を噤む。ユーリスと同じ色をした瞳を見つめていられず、逃げるように手元のティーカップへ視線を落とすと、澄んだ若葉色の水面が微かに揺れていた。まるで持ち主の心を映しているかのように。
両親が――父親同士が――親しくなければ良かったのだろうか。“兄妹”のように育たなければ良かったのだろうか。何をするのも一緒な“幼馴染”でなければ良かったのだろうか。
楽しかった頃の記憶が、大切にされていた頃の記憶が、幸せだった頃の記憶があるからこそ、どんなに努力をしても愛されないという現実が、深く胸に突き刺さる。嫌だ、苦しい、とどんなに足掻き、抗い、必死にそれを抜こうとするけれど、そうすればするほど、刃はどんどんと奥深くへ、胸を抉りながら沈んでゆく。
楽しかった頃に戻れたなら、大切にされていた頃に戻れたなら、幸せだった頃に戻れたなら――どれほど良いだろう。けれどそれらは全て、遥か遠い昔のことだ。どんなに縋り付きたくても、指先さえ、今はもう届かない。
「今でも、好きだから――」
ティーカップから視線を逸らし、窓の外に広がる夜空を見るともなく眺めながら、今日が初夜と同じ満月でなくて良かった、とセシリアは胸の内で密かに思う。
「ユーリスのことを心から愛しているから、もうこれ以上、彼のことを縛り付けたくないの」
そう言いながらクロードへと目を戻すと、彼は綺麗に形の整った眉をひそめ、思案に耽るように天井を仰いだ。
そのまま、長い沈黙がふたりの間に静かに落ちた。
窓の外では、欠けた月が薄雲の向こうに霞んでいる。遠くの方で、若葉の茂った梢が夜風に揺れる音が、微かに聞こえた。セシリアはただ、その小さな音に耳を澄ます。クロードが何を考えているのか、何を言おうとしているのか、問うことはせずに。
やがて、深く息を吐き出しながら、クロードは真剣な面持ちでセシリアを見据えた。
「セシリアが辛い思いをしていることは、知ってるよ」
静かにそう告げて、クロードはテーブルの上にそっと肘をつき、組んだ手の上に顎を乗せた。その仕草がどこか幼い頃のままで、セシリアは懐かしさに思わず胸が締め付けられる。
「父上たちの耳には届いていないけど……僕は王都に来る機会があるからね。兄上の噂は、どうしても聞こえてきてしまう」
社交界って本当に怖いところだよね、と冗談めかした口調で言い添えながら、クロードは呆れを滲ませた苦笑をこぼす。
今や殆ど王都を訪れない先代公爵夫妻の耳に、ユーリスの浮いた話がひとつも届いていないのは幸いだろう。彼らにとっては、心から信頼を置いている自慢の息子なのだから。そんなユーリスが夜毎違う女性のもとを訪ねているなどと知ったら、いったい何を思うだろう。
「兄上に非がないとは言わない。君の大事な誕生日すら、帰ってこないんだから」
でも、とそこで言葉を区切り、クロードは組んでいた手をほどいて、背もたれにゆっくりと身体を預けた。セシリアの瞳を、真っ直ぐ捉えたまま。
「もう一度、考え直してみてほしい。――兄上と、ちゃんと本音で話し合ってから」
クロードのぶれのない真摯な言葉に、図星をつかれたセシリアの心臓が、どくりと跳ね上がる。
ちゃんと本音で――。思えばいつから、ユーリスの前で本音を口にしなくなっただろう。常に仮面を被り、本音は心の奥に隠して、繕った言葉ばかりを並べるようになっただろう。昔は何でも素直に語り合っていたというのに。
けれど、本音をきちんと伝えたところで、何が変わるというのだろう。好きだと、愛していると伝えて、何かが変わるとは思えない。彼の気持ちは、あの初夜にはっきりと告げられている。明確に線を引かれてもいる。ユーリスが求めているのは、ただ“公爵夫人”としての務めを果たすことだけだ。それ以上でも、それ以下でもない。
確かに、クロードの言っていることは道理だ。分かっているからこそ、どうすれば良いのか、ますます分からなくなる。答えに近づこうとすればするほど、寧ろそれがどんどん遠ざかってゆくような気がして、底のないぬかるみに足を絡め取られてしまう。
「ねえ、セシリア。ひとつだけ聞いて良い?」
やさしい声音が、ささくれだった鼓膜にじんわりと沁み渡る。そういえば昔のユーリスも、そうやってやわらかな声で名前を呼んでくれた、とふと思い出し、セシリアは苦い想いを噛み締めながらこくりと頷く。――最後に名前を呼ばれたのは、いつのことだっただろう。
「――兄上は、セシリアのことが嫌いだと思う?」
