「君を愛することはない」と言われて三年、そろそろ白い結婚をやめようと思います

 モランベスト夫人が言っていた“渡したいもの”とは、たっぷりの花束と、手のひらサイズの小箱に収められたオルゴールだった。

 誕生日プレゼントと称して贈られたそれらを両手に抱えて馬車に乗り、公爵邸へ戻った時には、随分と陽が傾いていた。建物の上部には鮮やかな橙色が燃えるように広がり、それが途中から濃紺へと溶け合いながら、頭上へいくほど深く昏い色へと変わってゆく。

 その暗闇の中に、微かな光を湛えた星々がひとつ、またひとつと瞬き始めていた。太陽と入れ替わりにひっそりと姿を現した月は、半分以上を闇に削られた鋭い形をしており、あと数日もすれば夜空の暗闇に紛れて見えなくなってしまうだろう。

「おかえりなさいませ、奥様。お荷物をお預かり致します」
「ありがとう」

 恐らくはあの美しい庭園で摘まれたのだろう花束とオルゴールの小箱をグレアムに預け、セシリアは重厚な玄関扉を潜ってエントランスへと足を踏み入れる。

 公爵家の女当主が帰宅したというのに、表まで迎えに出てくれるのは、いつも執事長であるグレアムだけだ。侍女長や、彼女の指揮下にある使用人たちが顔を出したことは、ただの一度もない。

 邸の中でさえそういう扱いを是正出来ないというのに、外の世界――特に社交界の人間の好き勝手な視線や囁きを牽制するのは、甚だ難しい。もっと気丈に、毅然とした態度でいれば良いのだろうけれど、それがどうしても出来ない。そんな自分の気弱さが情けない、とエントランスを真っ直ぐ歩みながらセシリアは思う。ユーリスが求めている“公爵夫人像”は、きっとこんな姿ではないだろうに。

 ――まあ、社交界一の美女と謳われるヴォーシェ侯爵家のご令嬢?

 二階へと繋がる大階段に足をかけた瞬間、ふと、お茶会の場で耳にした声が鼓膜の裏側に蘇った。まるでたった今届いたばかりのような鮮明さで。一段、また一段と階段を登る度に、それは嫌でも次から次へと芋づる式に響き渡る。まるでピアノの鍵盤を叩くように、ひとつひとつ、くっきりと。

 ――本当にお似合いですわよね、おふたり。
 ――どこかの、借金まみれの落ちぶれ伯爵家とは、格が違いますわね。

 そういえば、借金の件で婚約破棄の話が取り沙汰された時、ユーリスに“相応しい相手”として真っ先に名前の挙がっていたのがヴォーシェ家のマリエルだった、と思い出す。

 爵位も上で、グランベール家よりも遥かに歴史ある――嘗て王妃を輩出したこともあるほどの――由緒正しい名家。しかも当のマリエル自身も、絶世の美貌と称えられるほどの容姿を持ち、賢明で品性高く、正に文句の付け所のない完璧な女性。そんな彼女と比べられること自体、マリエルに対して失礼であり、あまりにもおこがましい。

 あの頃には既に、マリエルの名前が挙がっていたのだから、ユーリスは彼女を選ぶことだって容易に出来たはずだ。借金まみれの“没落貴族”に成り果てようとしているグランベール家も、自身の意思で選んだわけでもない許婚も、まるごと切り捨てて。そうすれば、莫大な借金を肩代わりすることも、一歩間違えれば首が飛びかねない危険を冒してまで国王に直談判することも、必要なかっただろうに。

 ――俺は君を愛することは、ない。

 結婚初夜、満月が翳る薄闇の中で、それでもはっきりと鮮やかな蒼穹の瞳に真っ直ぐ見据えられながら告げられた言葉を、片時も忘れたことはない。愛することはない。この先何があろうとも。だから君も、俺を愛する必要はない――。どれもいっそ清々しいほどに明瞭で、互いに深入りすることを拒む、くっきりとした線。それをあの夜、彼は妻となったばかりのセシリアとの間に引いた。もとよりあった溝をなぞり、更に深く刻み込むことで。

 ――まあ、そんな家の娘が公爵夫人だなんて、今でも信じられませんわ。公爵様もご不満でしょうに。
 ――ふふ、だからこそマリエル様のところへ足繁く通われているのでしょう?

 最後の一段に足をかけたところで、不意に視界がぼやけ、ぐにゃりと歪んだ。思わず目を眇めたセシリアの身体が、まるで糸の切れた人形のようにふらりと揺れる。階下から「奥様!」と叫ぶグレアムの切羽詰まった声が聞こえるけれど、それを覆い隠すように、嘲笑に満ちた声が脳裏に広がってゆく。本当にお似合いですわよね、おふたり。まるで絵画から抜け出してきたような美しさでしたわ。ヴォーシェ侯爵家といえば、由緒正しい名家ですもの。

 ――俺は君を愛することは、ない。

「セシリアっ!」

 侮蔑で作られた分厚い膜を突き破るようにして届いたその声に、セシリアははっと目を見開き、息を呑む。焦りを帯びた、低い声。この邸で彼女を“セシリア”と呼ぶのは、ただひとりしかいない。

 まさか――。一縷の期待が胸を掠め、ただそれだけで胸が高鳴った瞬間、ぽすん、と背中が何かにぶつかった。全く微動だにしない大きく逞しいそれに、否が応でも甘い予兆が膨らんでしまう。もしかしたら。でも、そんな。まさか――。

 身体を受け止められたまま呆然と瞬き、セシリアはゆっくりと肩越しに背後を振り返る。顔が動けば動くほど、後ろを向けば向くほど、心臓がどくん、どくんと激しく脈打つ。

 そんなことは有り得ない、と思っているのに。信じてはいけない、期待してはいけないと分かっているのに。それでも、一縷の淡い望みに縋りつきたくなってしまう。心無い言葉を浴びせられたばかりだからだろうか。それとも、マリエルのことを耳にしたせいだろうか。

 祈りにも近い想いを胸に抱いて振り向いたセシリアの目に飛び込んできたのは、真昼の蒼穹を溶かし込んだような鮮やかな青い瞳だった。それを目の当たりにした刹那、心臓がひときわ強く飛び跳ねる。胸を突き破ってきそうな勢いで。

 ユーリス――。

 喉元まで出かかった言葉を、しかしセシリアは既の所で呑み込んだ。ああ――と、胸の内で深い溜息をこぼしながら。分かっていたことなのに。だから期待してはいけないと、警鐘が鳴っていたのに。一縷の甘い望みに縋り付いてしまったせいで、しなくてもよかった落胆が、全身を突き抜けてゆく。

「お帰りなさい、クロード。もう着いていたのね」

 どうにか平静を繕いながら微笑むと、彼――クロード・シルヴェインは複雑な面持ちで眉根を寄せ、しかしすぐにどこか困ったような微苦笑を浮かべて肩を竦めた。その動きに合わせて、彼のやわらかな金髪が微かに揺れる。先代公爵の血を濃く受け継いだユーリスとは違い、夫人譲りの艷やかな金髪と、愛嬌のあるかんばせ。

「一時間ほど前にね。予定していたよりも順調に進めたから」

 宰相として政に関わる為、都の邸に滞在するユーリスとは違い、クロードは公爵領の運営の大部分を担っている為、隠居した先代公爵夫妻とともに公爵領の邸で暮らしている。故に彼が都へ来るのは、よほど特別な用事でもない限り年に数回程度で、それ以外は殆ど手紙の遣り取りばかりだ。

 そんな数少ない来訪のひとつが、正に今日だった。彼は毎年律儀に、セシリアの誕生日を祝う為だけに、忙しい合間を縫って公爵領から都まで足を運び、会いに来てくれる。ここ数年、セシリアがひとりで誕生日を過ごさずに済んでいるのは、大切な友人であり幼馴染でもある彼のおかげだった。

「それより、セシリア。体調でも悪いの? ふらついてたけど」

 心配そうに顔を覗き込んでくる彼に、セシリアは大丈夫だと告げながら、にっこりと笑みを深めてそっと身体を離す。目眩がしたのは事実だし、胸が苦しくないわけでもないけれど。折角会いに来てくれたクロードに、余計な心配はかけたくなかった。

「ごめんなさい。ありがとう」
「君が謝る必要も、礼を言う必要もないよ」

 そこで漸く、クロードはいつものように明るく笑った。人好きのする、屈託のない笑顔。口の両端に出来た小さなえくぼを見ると、モランベスト夫人の穏やかなかんばせが脳裏に浮かぶ。愛情を惜しみなく注ぎ、丹精込めて育てた花を贈ってくれた、心根のやさしい、まるで無垢な少女のような人。

「取り敢えず、どこか座れるところに行こうか」

 慌てて駆けつけてきたグレアムに水を用意するよう指示を出し、クロードはセシリアを支えながら、大階段から最も近いところにある応接の間の扉を開けた。

 親しい来客だけを通すその部屋は、絵画や調度品、カーテンの柄、花を飾る位置や種類に至るまで、先代公爵夫妻の好みで整えられた場所だ。華美なものをあまり好まなかったふたりらしく、室内はとても落ち着いた雰囲気を醸し出し、足を踏み入れた者の心をやわらかく解きほぐしてくれるような空気に満ちている。

 促されるまま革張りのソファに腰掛けたセシリアは、途端にどっと押し寄せてきた疲労に抗えず、やわらかな背もたれにゆっくりと身体を預けた。どうやら思っていた以上に、気を張り詰めていたらしい。

 向かい側のソファに腰掛けたクロードは、懐かしむような眼差しで室内をくるりと見回し、それからすぐにセシリアへと視線を据えた。ユーリスと同じ、あの青い瞳で、真っ直ぐに。

「兄上はまだ帰っていないの?」

 どきりとし、セシリアは思わず視線を逸らす。さり気なさを装おうとしたけれど、きっと誤魔化せてはいないだろう。そもそも偽ったところで、何の意味もないのだけれど。

「ええ。政務が忙しいみたいで、今日は帰ってこないわ」
「……また? セシリアの誕生日なのに?」

 怪訝そうに低められた声に、セシリアは曖昧に微苦笑を返す。毎年誕生日に会いに来てくれているのだから、クロードだって当然知っている。妻の誕生日と分かっていながら、それでも帰宅しないユーリスのことを。

「君の誕生日は、政務より優先されるべきだと思うけど」
「そんなことないわ。私の誕生日なんかより、政務の方がずっと大事よ。だってこの国のことだもの」
「たった一日だよ? それくらいの融通も利かせられないほど、兄上は無能ではないはずだけど」

 確かにそうだろう。何せ国王陛下の熱い要望によって、歴代最年少で宰相の座に取り立てられた人物なのだから。ユーリスは幼い頃から何をするにも要領が良く、知らないことなど何もないのではないか、と思うほどの博識でもあった。

 そんな彼が、たった一夜、ほんの少し時間を作ることくらい、出来ないはずがないだろう。他の令嬢たちのところには、毎夜のように通っているという噂が立つくらいなのだから。

 だからこそ、分かる。嫌でも分かってしまう。彼は時間を作れないのではなく、意図的に作っていないだけなのだ、と。多忙の最中に、わざわざセシリアの為にほんの僅かな時間を割く必要性を、彼は感じていないのだ。

 ――俺は君を愛することは、ない。

 結婚初夜に言われた言葉を、クロードはもちろん知らない。愛さなくて良い、と言われたことも。だからこそいつも、真剣になってくれる。所詮、紙切れ一枚でしか繋がっていない夫婦なのだということを、伝えたことはなかったから。

 ――まあ、そんな家の娘が公爵夫人だなんて、今でも信じられませんわ。公爵様もご不満でしょうに。
 ――ふふ、だからこそマリエル様のところへ足繁く通われているのでしょう?

 グレアムが運んできた水をひと口飲み、長く細く息を吐き出してから、セシリアは両手で包むようにして持ったグラスへと視線を落とす。冷たく澄んだ水面に、鈴を転がすような声で嗤う彼女たちの顔が浮かんでは消え、浮かんでは消える。絶え間なく、次から次へと。本命の女性だという、何もかも格上な令嬢の名前とともに。

 本当に、もう潮時なのかもしれない――。

「……ねえ、クロード」
「何?」
「ひとつ、相談があるんだけれど――」