「君を愛することはない」と言われて三年、そろそろ白い結婚をやめようと思います

 馬車が邸の前に着くと、モランベスト夫人は既に、白い石で丁寧に舗装されたアプローチに、すっと背筋を伸ばして佇んでいた。白髪を丁寧に撫でつけた老齢の執事と、豊かな栗毛をシニョンにまとめた年若い侍女を背後に従えて。

 馬が足を止める間際、車窓から夫人と目が合い、セシリアは微笑みながら軽く会釈した。アメリア・モランベスト――歳は疾うに五十を超えていると聞いているけれど、何かの冗談だろうと思いたくなるほど、彼女の容貌はとても若々しい。ゆるく編み込まれたたっぷりとした茶色い髪、皺を感じさせない瑞々しい肌、長い睫毛に縁取られたくっきりとした二重の目、穏やかさを凝縮したようなオリーブ色の瞳。

 馬車の扉が開かれ、御者の手を取ってゆっくりとステップを降りる。ドレスは春の庭園に合わせ、やわらかで淡い色のものを選び、装飾品もメイクも控えめにした。モランベスト夫人は何より草花を愛し、自身の“集大成”だという庭園をことのほか大事にしている。その庭園で開かれるお茶会となれば、彼女が惜しみなく慈しんでいる花たちを邪魔するわけにはいかない、と敢えて濃いものは全て避けた。

 侍女長は「それでは公爵夫人としての立場が示せない」と暗に含んだ不満顔をしていたけれど、そんなものは知ったことではない、とセシリアは思う。誰よりも派手に着飾ることで立場を誇示するよりも、招いてくれた夫人への感謝の証として、彼女の重んじるものを大切にし、敬意を示す立ち居振る舞いをすることの方が、よほど“上の立場の者”としてあるべき姿ではないだろうか、と。

「ようこそお越し下さいました、セシリア様。久しぶりにお会い出来るのを、心から楽しみにしておりました」

 そう言いながら表情をやさしく綻ばせた夫人に、セシリアもまた笑みを返す。口元に出来た小さなえくぼが、どこかあどけなさを残したやわらかな顔立ちに、より愛嬌を滲ませている。夫人の笑顔を見ていると、クロードを思い出すのはそのせいだろうか。人好きのする、屈託のない雰囲気がよく似ていると思う。

「この度はお招きいただき、誠にありがとうございます。私も、夫人にお会い出来るのを楽しみにしておりました」

 会場である庭園へ続く路を歩みながら、夫人と他愛のない世間話を交わす。その間、彼女は一度もユーリスの名前を出すことはなかった。お茶会を頻繁に催し、人と交流することが大好きな夫人が、社交界で囁かれるユーリスの噂話を知らないはずがない。それでも一切触れようとしないのは、彼女なりのやさしさなのだろう、とセシリアは思う。

 そんな夫人の愛してやまない庭園は、まるで彼女の想いを体現するかのように、白亜の邸に三方を大切に抱かれる形で広がっていた。

 赤褐色の煉瓦が敷き詰められた石畳、その両脇に程よく配された灌木や小鳥のオブジェ。更に進むと通路の頭上をパーゴラが覆い、青い空を隠すほどピンクや白の蔓薔薇がたっぷりと茂っている。春の心地良い風にそよぐ色とりどりのチューリップ、水の張られた大理石製のバードバス、調和よく植えられたルピナスやアネモネ、オリーブの木。遠くの方から、水の吹き出すさわさわとした音が微かに聞こえてくる。

 会場は、庭園の中ほどに作られた広場に設けられていた。石畳の上に置かれた細長いテーブルには既に招待客が各々の席に座り、ウェルカムドリンクに口をつけたり、近くに座る夫人や令嬢と談笑を交わしたりしている。

 しかし、足音とともにセシリアが近づくと、みな一様にぴたりと動きをとめ、まるで息でも合わせたかのように、一斉に視線を向けてきた。主催であるモランベスト夫人がいる手前、誰も顔にこそ出してはいないけれど、彼女たちの視線には明らかに、侮蔑と妬みがねっとりと絡みついている。この調子では、夫人が席を外した瞬間にあからさまな言動が飛び出すのは、想像に難くない。

 侍女に案内された席に腰掛けながら、セシリアは内心密かに溜息をつく。羨望、嫉妬、侮蔑――そういったものには疾うに慣れたものだけれど。だからといって何も感じないというわけでは、決してない。

「さあ、皆様。お待たせいたしました。そろそろお茶会を始めましょうか」

 和やかな口調でそう告げる夫人の声を聞きながら、セシリアはちらりと横目で、列を成すように座る参加者たちを一通り確認する。侯爵家の女主人とはいえ、モランベスト夫人は基本的に爵位の序列で交流する相手を決めることはない。故に招かれている客は実に様々だ。男爵家の夫人もいれば、伯爵家の夫人とその娘、子爵家の令嬢、最近夫が騎士爵に叙されて間もない夫人の姿まで見受けられる。

 モランベスト夫人の目配せに従い、傍に控えていた使用人たちが、招待客の前に置かれたティーカップへ手際よくお茶を注いでゆく。皺ひとつない清潔なクロスのかけられたテーブルの上には、切り花を活けた小さな花瓶や小動物の置物が飾られ、それらに彩られるようにして、お菓子や軽食を盛ったケーキスタンドや小皿がたくさん並んでいる。クッキー、サンドイッチ、スコーン、キャロットケーキ。

「相変わらず素敵なお庭ですね」
「まあ、そう言っていただけると嬉しいわ」
「どの植物たちも、とてものびのびと気持ちよさそうで。夫人の深いご愛情が伝わってくるようです」
「そりゃあもう、私の想いをありったけ詰め込んだお庭ですもの。……といっても、私はただ要望を伝えるだけで、全ては腕利きの庭師たちのおかげなのだけれど」

 心底嬉しそうに、ふふっ、と笑う夫人につられ、セシリアもまた穏やかな心地で微笑む。常に分厚い仮面を被って人と接する社交界で、この人だけは常に素直で、心のままにころころと表情を変える。

 そういうところに惹かれたのだ、といつだったか侯爵が惚気ていたのを思い出しながら、セシリアは手元のティーカップへと視線を落とす。澄んだ赤褐色の水面に、薄く切られたレモンがひと切れ、静かに浮かんでいる。

 何を言うでも、何をするでもなく、セシリアのお茶にだけ最初からレモンが添えられていた。それだけで、この人が本当に気遣いの出来る人なのだと分かる。他の招待客にも、それぞれ好みに合わせたお茶やお菓子が用意されているのだろう。もちろん、さり気なく。

 そういえばユーリスも――。ふと胸を掠めた懐かしい思い出に、小さな青い花の絵付けが施されたティーカップを持ち上げながら、セシリアはそっと苦笑する。

 今でこそ冷たい彼も、昔はどんな小さなことにも、細やかに心を砕いてくれる人だった。うんと幼かった頃は、嫌いな食べ物を前に青褪めるセシリアの皿からさり気なくそれを自分の皿へ移して助けてくれたり、会う度にお気に入りのお菓子を用意してくれたり、行きたいと望んだところに連れて行ってくれたり。お茶を嗜むようになってからは、もちろんレモンを一切れ添えてもくれた。

 どれもこれも、随分遠い昔の、やさしくも苦い思い出たち――。

 無論、今でも彼はそういう人であることに変わりはない。恩人や仲の良い人たちに対しては。もしかしたら、連日逢瀬を重ねているという数多の令嬢たちに対しても。ただ、セシリアにはそれが向けられなくなった――という、ただそれだけのこと。

「ああ、そういえば」

 ふと何かを思い出したように夫人が胸の前で両手を合わせ、慌ただしく席を立つ。その音に意識を引き戻され、セシリアはティーカップを片手に彼女を見上げた。真昼の陽光に照らされきらきらと輝くオリーブ色の瞳には、言動に反して焦った様子はなく、どこかうきうきとしているような――たとえば子どもが悪戯を企んでいるような――茶目っ気が滲んでいる。

「セシリア様にお渡ししたいものがございますの。少しだけお待ちいただけますかしら」

 そう言って、彼女は老齢の執事をひとり伴い、邸へと続く路を戻ってゆく。そんな夫人の後ろ姿を、セシリアは半ば呆然と見送る。女主人という立場の彼女なら、侍女や執事に指示を出しさえすれば、自ら足を動かすことなく“何か”を持ってこさせることなど造作もないだろうに。寧ろそれが、貴族の邸ではごく普通の光景なのだけれど。

 まるで無垢で無邪気な少女のようだ、と思いながらティーカップの縁に唇をつけたセシリアは――そこで、ああ、と胸の内で深々と溜息をついた。右から、斜向かいから、無遠慮に向けられる、無数の刺々しい視線。

「ねえ、聞きまして? 公爵様のお噂」
「まあ、どのお噂のことかしら」

 待ってましたとばかりに、嘲笑を含んだ声が嬉々としてあちこちであがる。声を潜めこそしているけれど、聞かせたがっているのは明白だった。そんな遣り取りに、セシリアは気付いていないふりをしたまま、口に含んだお茶を静かに飲み下す。

「ほら、公爵様には本命のご令嬢がいらっしゃるというお話、ありましたでしょう?」
「ええ、ありましたわね。先日のパーティーでも持ち切りでしたもの」
「でも、どこのご令嬢かは分からないのでしょう?」
「それが、実は最近判明いたしましたのよ」

 両耳を塞げたなら、どんなに良いだろう。彼女たちとの間に膜を作れたなら、どんなに楽だろう。そうすれば、心に要らぬさざ波を立てずに済むというのに。

 けれど、そんなみっともない真似など、“公爵夫人”として出来るはずもない。どんなに苦しかろうと、どんなに辛かろうと、どんなに悲しかろうとも。聞こえていない、気にしていないふりをして遣り過ごすことしか、セシリアには許されていないのだから。

「あら、いったいどちらのご令嬢なのかしら?」
「マリエル・ヴォーシェ様でございますわ」
「まあ、社交界一の美女と謳われるヴォーシェ侯爵家のご令嬢?」
「ええ、そうですわよ」

 慣れた、と思っていた。そういう類の話には、疾うに慣れてしまった、と。

 それでも、こうして正面から向けられる度に、胸の奥がじくりと疼く。傷はとっくに塞がっているはずなのに。無理矢理塞いだはずなのに。それでもまだ、押せば痛むのだと、その度に思い知らされる。慣れたつもりで、何ひとつ慣れてなどいないのだと。どんなに蓋をしたところで、所詮は無駄な足掻きでしかないのだと。

「本当にお似合いですわよね、おふたり」
「先日、ダンスをされているところをお見かけしましたけれど、まるで絵画から抜け出してきたような美しさでしたわ」
「私もお見かけしましたわ。おっしゃる通り、心を奪われる光景でしたわね。それに家柄も申し分ないでしょう。ヴォーシェ侯爵家といえば、由緒正しい名家ですもの」
「どこかの、借金まみれの落ちぶれ伯爵家とは、格が違いますわね」
「まあ、そんな家の娘が公爵夫人だなんて、今でも信じられませんわ。公爵様もご不満でしょうに」
「ふふ、だからこそマリエル様のところへ足繁く通われているのでしょう? 当然のことですわ」

 セシリアはただ静かにティーカップを傾け、冷めかけたお茶を口に含んだ。いつもならばレモンの爽やかさが口内を満たしてくれるはずなのに、今は何の味もしない。ただ生ぬるい水が舌の上を流れてゆくだけ。

 春風がやわらかく吹き抜け、テーブルの上に飾られた赤いアネモネを、ふわりとやさしく揺らす。その様を、セシリアはティーカップを手にしたまま、ただぼんやりと、どこかを見るともなく眺めていた。