以前だったなら、何の迷いもなく彼の隣へ歩み寄り、ともに夜空を眺めることが出来ただろう。彼が見上げているのと同じ方向へ目を遣り、「あの星座は何?」と問うことだって。博識な彼なら、その問いにきちんと答えてくれたはずだ。あれは何の星座で、どういう物語を経てそう名付けられたのかまで、事細かに。
けれど、彼の横に立つ自分の姿も、問いかける声も、星座について語ってくれる彼の姿も、何もかも――脳裏に映し出されるのは全て、遥か遠い昔の、まだ仲の良かった幼い頃のそれだった。そこに、“今”のふたりはどこにもいない。
本当に、何故この人は、あの時私を切り捨てなかったのだろう――。つくづく疑問に思いながら、セシリアは折角グレアムが用意してくれたワインを片付けようと、銀製のアイスペールへ手を伸ばす。手を付けられることなく生ぬるく朝を迎えるくらいなら、後処理に励んでいるであろう使用人たちに振る舞い、彼らの胃袋に溶けて消えた方がよほど良い。
「ワインを片付けて参りますね」
そう言って、アイスペールの持ち手を掴みかけた――その時だった。
「――セシリア」
不意に名前を呼ばれ、セシリアはぴたりと動きを止めた。なんとなく嫌なものが背筋をつたい落ちてゆくような感覚に、身動きを囚われそうになる。けれどセシリアはどうにかゆるゆると顔を上げ、ユーリスへと目を向けた。
刹那、蒼穹を溶かし込んだような鮮やかな碧眼と、視線が交錯する。そこには少しの感情も浮かんではいない。パーティーの最中に、顔見知りの貴族や重役たちと言葉を交わしていた時のような、やわらかな笑みもない。何もかもがごっそりと削ぎ落とされた――まるで精緻に造り込まれた人形のような美麗な顔。
そんな彼に気圧され、返事を紡げずにいると、ユーリスの背後に浮かんでいた丸い月が僅かに翳った。黒い雲に侵食されるように、少しずつ白銀の表面が覆われてゆく。それが自分の心をそのまま映し出しているかのようで、セシリアはそっと奥歯を噛み締める。
月明かりを失った寝室は、じわりと薄闇を濃くしてゆく。その中で、重苦しい沈黙だけが、ふたりの間に満ちていた。どれくらいそうしていただろう。ユーリスはセシリアを見つめたまま、口を開こうとしない。窓の外では、昏い雲がゆっくりと、月を侵食し続けている。
やがて、ひとつ息を吐くようにして、ユーリスが口を開いた。
「ひとつ、言っておくことがある」
凪いだ水面のように、波ひとつない、静かな声。だからこそ、次に紡がれた言葉が、余計に深く真っ直ぐ、セシリアの胸へ突き刺さった。
「この先何があろうと――俺は君を愛することは、ない」
息が、とまった。
息だけじゃない。心臓の動きも、そこから押し出される血の流れも、或いは時間さえも。何もかもが、淡々とした――いっそ冷徹とさえ言えるような――声で紡がれた彼の一言によって、止まってしまったような気がした。
君を愛することはない――。たったそれだけの言葉が、胸の奥へゆっくりと、しかし確かに沈んでゆく。まるで重たい石が、水面に少しも波紋を広げることなく、昏く冷たい、底の見えない水底へと落ちてゆくように。
分かっていた、とセシリアは思う。夜会でのラストダンスがなくなった時も、手紙の返事が途絶えた時も、顔を合わせる機会がどんどんと減っていった時も。その頃からずっとずっと、疾うに気付いていたはずだった、と。分かっているはずだった、と。
それなのに――。瞼の裏が、じんわりと熱くなる。泣いてはいけない、と思う。泣く資格など、自分にはないのだから。それでも鼻の奥がつんとして、きつく締め付けられた胸が、痛くて苦しくて、たまらなかった。
幼い頃、ウィンドウシートで隣に座っていた彼が。同じ空を見上げていた彼が。今は途方もなく遠いところに立っている。同じ部屋の中に、こんなにも近くにいるというのに。
けれどユーリスはもう、手を伸ばしても二度と手の届かないところにいる。
諦めていたはずだった。とっくに、諦念を覚えたはずだった。しかし諦めとは、こんなにも脆いものだったのか、とセシリアは思う。たったひと言で、音を立てて崩れ落ちてしまうほどに、儚く、歪んだものだったのか、と。
何も言い返せず、ただ茫然と立ち尽くすセシリアを、ユーリスは無言のまま、それでも視線を逸らすことなく見つめていた。
いっそ気まずそうに目を背けてくれれば良いのに。そう胸の内で自嘲をこぼしながら、セシリアは自身の身体を包むやわらかな布を、彼には見えない位置でぎゅっと握り締めた。
訊きたいことは、たくさんある。どうして、何故――けれどそれらはどれも、愚問でしかないように思えた。訊いたところで無駄だ。何を尋ねたって、ユーリスは冷たく突き放すだけだろう。言葉という刃で、ふたりの間に今まで以上に深くくっきりとした溝を刻むに違いない。
「……承知いたしました」
絞り出した声は、情けないほどか細く、小さく震えていた。本当はもっと凛とした声で告げたかったのだけれど。どうかその惨めな声を、動揺のせいだと受け取ってほしい、とセシリアは切に願う。他の感情など何も含まれていない、唐突な言葉に対するただの驚きによるものだと、彼が誤解してくれれば――。
ユーリスは一瞬眉を顰め、しかしすぐに感情の一切伺えない冷淡な表情に戻って、ひとつ息を吐いた。それはいったい、どんな感情を孕んだ吐息だったのだろう。呆れだろうか、それとも怒りだろうか。
「俺が君に求めるのは、“公爵夫人”という立場を全うしてくれることだけだ。それ以外は、何も求めない。君の好きなようにすれば良い」
だから、とそこで一旦言葉を区切り、彼は漸くセシリアから視線を外した。吸い込まれそうなほど深い碧眼が、テーブルの上に置きっぱなしにされた白ワインへと静かに落ちてゆく。封の開けられていないそのボトルが、まるで今夜のふたりそのものを映し出しているようで、セシリアは思わず唇を噛んだ。
幸せだったあの頃は、もう二度と戻ってこない。無数の刃で四方八方から滅茶苦茶に突き刺されるような痛みとともに、それを否が応でも思い知らされる。
そして最後のとどめもまた、彼は容赦なく振り下ろす。
「――君も、俺を愛さなくて良い」
何も言い返せなかった。その言葉を残したまま足を動かし、扉の方へと歩んでいくユーリスの背中に。セシリアはどんな言葉も、それどころか掠れた声さえ、こぼすことができなかった。
感情なのか言葉なのかさえ判別のつかないものが、泡のように頭の中に次々と浮かび上がってくるというのに。それはどれも、ぱちんと弾けて、すぐに消えてしまう。泥沼のような絶望の中へ。
扉の閉まる音が、寝室に短く響いた。しんとした静寂が、再び戻ってくる。遠ざかってゆく足音を、セシリアはその場に立ち尽くしたまま、ただ聞いていることしか出来なかった。ふたりのものであるはずの広々とした寝室に満ちる、春なのにひどく冷たい空気の中で、ただ独り。
やがて足音さえ、完全に聞こえなくなった。夜の静けさが、じわりと肌に纏わりついてくる。
カーテンが開かれたままの大窓の向こう側で、白銀の丸い月は、昏い雲の中に、すっかり呑み込まれてしまっていた。
▽
扉をノックする音が聞こえ、セシリアはゆっくりと瞬いた。靄のかかったような意識が、少しずつ現実へと引き戻されてゆく。手元には書きかけの書類、右手には黒いインクを含んだペン。視界の端に、薄黄緑色のハーブティーの注がれたティーカップの、やわらかな薔薇の絵付けが映り込む。
それらひとつひとつを確かめるように見つめ、セシリアは漸く、心の底に淀んだ澱の中から戻ってきたのだと自覚する。いつもは分厚い蓋を閉ざし、頑丈に封をして隠しているはずのそこから。幼かった頃の記憶、社交界デビューしたばかりの頃の記憶、溝を感じ始めた頃の記憶、結婚初夜の記憶――。
「どうぞ」
白昼夢の中を漂っていたことを気取られないよう、いつもの穏やかな口調で入室を促す。一拍ほどの間を置いて飴色の重厚な扉が開かれ、その奥から姿を現したグレアムが、恭しく頭を下げた。
「奥様、そろそろお支度の時間でございます」
彼の言葉に、セシリアは扉のすぐ脇に置かれた置き時計へと目を向け、ああ、と内心溜息をこぼしながら右手に握っていたペンを置く。今日は午後から、モランベスト侯爵夫人の催すお茶会の席に招かれていた。その為の支度だろう。
モランベスト家は先々代公爵夫妻の時代から親しい間柄にあり、新しく“公爵夫人”の座に就いたセシリアのことも何かと気にかけ、頻繁にお茶会へ招いてくれる。社交界では数少ない、セシリアを“落ちぶれ伯爵家の娘”と軽蔑しない人間のひとりだ。
とはいえ、お茶会の席には他の爵位家の夫人や令嬢たちも参加する。その中には無論、セシリアを疎んじている者も含まれるわけであり、表面上は穏やかでも、水面下では常にぴんと張り詰めた空気が漂っていて、決して快いだけの場ではない。
それでも、モランベスト夫人の顔を立てて臆せず参加することもまた、“公爵夫人”としての務めだ。手元にある書類の山――公爵領に関するもの――を処理するのと同じように。公爵家当主の妻として、国王お気に入りの宰相の妻として、きちんとこなさなければならない仕事のひとつ。
――俺が君に求めるのは、“公爵夫人”という立場を全うしてくれることだけだ。
“公爵夫人”としての務めを、きちんと全うすること。それだけがユーリスの求めたものであり、そして――セシリアに唯一与えられた居場所なのだから。
けれど、彼の横に立つ自分の姿も、問いかける声も、星座について語ってくれる彼の姿も、何もかも――脳裏に映し出されるのは全て、遥か遠い昔の、まだ仲の良かった幼い頃のそれだった。そこに、“今”のふたりはどこにもいない。
本当に、何故この人は、あの時私を切り捨てなかったのだろう――。つくづく疑問に思いながら、セシリアは折角グレアムが用意してくれたワインを片付けようと、銀製のアイスペールへ手を伸ばす。手を付けられることなく生ぬるく朝を迎えるくらいなら、後処理に励んでいるであろう使用人たちに振る舞い、彼らの胃袋に溶けて消えた方がよほど良い。
「ワインを片付けて参りますね」
そう言って、アイスペールの持ち手を掴みかけた――その時だった。
「――セシリア」
不意に名前を呼ばれ、セシリアはぴたりと動きを止めた。なんとなく嫌なものが背筋をつたい落ちてゆくような感覚に、身動きを囚われそうになる。けれどセシリアはどうにかゆるゆると顔を上げ、ユーリスへと目を向けた。
刹那、蒼穹を溶かし込んだような鮮やかな碧眼と、視線が交錯する。そこには少しの感情も浮かんではいない。パーティーの最中に、顔見知りの貴族や重役たちと言葉を交わしていた時のような、やわらかな笑みもない。何もかもがごっそりと削ぎ落とされた――まるで精緻に造り込まれた人形のような美麗な顔。
そんな彼に気圧され、返事を紡げずにいると、ユーリスの背後に浮かんでいた丸い月が僅かに翳った。黒い雲に侵食されるように、少しずつ白銀の表面が覆われてゆく。それが自分の心をそのまま映し出しているかのようで、セシリアはそっと奥歯を噛み締める。
月明かりを失った寝室は、じわりと薄闇を濃くしてゆく。その中で、重苦しい沈黙だけが、ふたりの間に満ちていた。どれくらいそうしていただろう。ユーリスはセシリアを見つめたまま、口を開こうとしない。窓の外では、昏い雲がゆっくりと、月を侵食し続けている。
やがて、ひとつ息を吐くようにして、ユーリスが口を開いた。
「ひとつ、言っておくことがある」
凪いだ水面のように、波ひとつない、静かな声。だからこそ、次に紡がれた言葉が、余計に深く真っ直ぐ、セシリアの胸へ突き刺さった。
「この先何があろうと――俺は君を愛することは、ない」
息が、とまった。
息だけじゃない。心臓の動きも、そこから押し出される血の流れも、或いは時間さえも。何もかもが、淡々とした――いっそ冷徹とさえ言えるような――声で紡がれた彼の一言によって、止まってしまったような気がした。
君を愛することはない――。たったそれだけの言葉が、胸の奥へゆっくりと、しかし確かに沈んでゆく。まるで重たい石が、水面に少しも波紋を広げることなく、昏く冷たい、底の見えない水底へと落ちてゆくように。
分かっていた、とセシリアは思う。夜会でのラストダンスがなくなった時も、手紙の返事が途絶えた時も、顔を合わせる機会がどんどんと減っていった時も。その頃からずっとずっと、疾うに気付いていたはずだった、と。分かっているはずだった、と。
それなのに――。瞼の裏が、じんわりと熱くなる。泣いてはいけない、と思う。泣く資格など、自分にはないのだから。それでも鼻の奥がつんとして、きつく締め付けられた胸が、痛くて苦しくて、たまらなかった。
幼い頃、ウィンドウシートで隣に座っていた彼が。同じ空を見上げていた彼が。今は途方もなく遠いところに立っている。同じ部屋の中に、こんなにも近くにいるというのに。
けれどユーリスはもう、手を伸ばしても二度と手の届かないところにいる。
諦めていたはずだった。とっくに、諦念を覚えたはずだった。しかし諦めとは、こんなにも脆いものだったのか、とセシリアは思う。たったひと言で、音を立てて崩れ落ちてしまうほどに、儚く、歪んだものだったのか、と。
何も言い返せず、ただ茫然と立ち尽くすセシリアを、ユーリスは無言のまま、それでも視線を逸らすことなく見つめていた。
いっそ気まずそうに目を背けてくれれば良いのに。そう胸の内で自嘲をこぼしながら、セシリアは自身の身体を包むやわらかな布を、彼には見えない位置でぎゅっと握り締めた。
訊きたいことは、たくさんある。どうして、何故――けれどそれらはどれも、愚問でしかないように思えた。訊いたところで無駄だ。何を尋ねたって、ユーリスは冷たく突き放すだけだろう。言葉という刃で、ふたりの間に今まで以上に深くくっきりとした溝を刻むに違いない。
「……承知いたしました」
絞り出した声は、情けないほどか細く、小さく震えていた。本当はもっと凛とした声で告げたかったのだけれど。どうかその惨めな声を、動揺のせいだと受け取ってほしい、とセシリアは切に願う。他の感情など何も含まれていない、唐突な言葉に対するただの驚きによるものだと、彼が誤解してくれれば――。
ユーリスは一瞬眉を顰め、しかしすぐに感情の一切伺えない冷淡な表情に戻って、ひとつ息を吐いた。それはいったい、どんな感情を孕んだ吐息だったのだろう。呆れだろうか、それとも怒りだろうか。
「俺が君に求めるのは、“公爵夫人”という立場を全うしてくれることだけだ。それ以外は、何も求めない。君の好きなようにすれば良い」
だから、とそこで一旦言葉を区切り、彼は漸くセシリアから視線を外した。吸い込まれそうなほど深い碧眼が、テーブルの上に置きっぱなしにされた白ワインへと静かに落ちてゆく。封の開けられていないそのボトルが、まるで今夜のふたりそのものを映し出しているようで、セシリアは思わず唇を噛んだ。
幸せだったあの頃は、もう二度と戻ってこない。無数の刃で四方八方から滅茶苦茶に突き刺されるような痛みとともに、それを否が応でも思い知らされる。
そして最後のとどめもまた、彼は容赦なく振り下ろす。
「――君も、俺を愛さなくて良い」
何も言い返せなかった。その言葉を残したまま足を動かし、扉の方へと歩んでいくユーリスの背中に。セシリアはどんな言葉も、それどころか掠れた声さえ、こぼすことができなかった。
感情なのか言葉なのかさえ判別のつかないものが、泡のように頭の中に次々と浮かび上がってくるというのに。それはどれも、ぱちんと弾けて、すぐに消えてしまう。泥沼のような絶望の中へ。
扉の閉まる音が、寝室に短く響いた。しんとした静寂が、再び戻ってくる。遠ざかってゆく足音を、セシリアはその場に立ち尽くしたまま、ただ聞いていることしか出来なかった。ふたりのものであるはずの広々とした寝室に満ちる、春なのにひどく冷たい空気の中で、ただ独り。
やがて足音さえ、完全に聞こえなくなった。夜の静けさが、じわりと肌に纏わりついてくる。
カーテンが開かれたままの大窓の向こう側で、白銀の丸い月は、昏い雲の中に、すっかり呑み込まれてしまっていた。
▽
扉をノックする音が聞こえ、セシリアはゆっくりと瞬いた。靄のかかったような意識が、少しずつ現実へと引き戻されてゆく。手元には書きかけの書類、右手には黒いインクを含んだペン。視界の端に、薄黄緑色のハーブティーの注がれたティーカップの、やわらかな薔薇の絵付けが映り込む。
それらひとつひとつを確かめるように見つめ、セシリアは漸く、心の底に淀んだ澱の中から戻ってきたのだと自覚する。いつもは分厚い蓋を閉ざし、頑丈に封をして隠しているはずのそこから。幼かった頃の記憶、社交界デビューしたばかりの頃の記憶、溝を感じ始めた頃の記憶、結婚初夜の記憶――。
「どうぞ」
白昼夢の中を漂っていたことを気取られないよう、いつもの穏やかな口調で入室を促す。一拍ほどの間を置いて飴色の重厚な扉が開かれ、その奥から姿を現したグレアムが、恭しく頭を下げた。
「奥様、そろそろお支度の時間でございます」
彼の言葉に、セシリアは扉のすぐ脇に置かれた置き時計へと目を向け、ああ、と内心溜息をこぼしながら右手に握っていたペンを置く。今日は午後から、モランベスト侯爵夫人の催すお茶会の席に招かれていた。その為の支度だろう。
モランベスト家は先々代公爵夫妻の時代から親しい間柄にあり、新しく“公爵夫人”の座に就いたセシリアのことも何かと気にかけ、頻繁にお茶会へ招いてくれる。社交界では数少ない、セシリアを“落ちぶれ伯爵家の娘”と軽蔑しない人間のひとりだ。
とはいえ、お茶会の席には他の爵位家の夫人や令嬢たちも参加する。その中には無論、セシリアを疎んじている者も含まれるわけであり、表面上は穏やかでも、水面下では常にぴんと張り詰めた空気が漂っていて、決して快いだけの場ではない。
それでも、モランベスト夫人の顔を立てて臆せず参加することもまた、“公爵夫人”としての務めだ。手元にある書類の山――公爵領に関するもの――を処理するのと同じように。公爵家当主の妻として、国王お気に入りの宰相の妻として、きちんとこなさなければならない仕事のひとつ。
――俺が君に求めるのは、“公爵夫人”という立場を全うしてくれることだけだ。
“公爵夫人”としての務めを、きちんと全うすること。それだけがユーリスの求めたものであり、そして――セシリアに唯一与えられた居場所なのだから。
