伯爵領の水害を考慮し、元々予定されていた式の日取りは一旦取り消しとなったものの、それから一年後、延期されたのがまるで嘘のように婚儀は恙無く執り行われた。通常では王族関係者しか挙式の許されない大聖堂で、多くの参列者に――純粋に祝福する者、僻みや妬みの視線を突き刺してくる者、式の最中でさえひそひそとせせら笑う者たち――に囲まれながら。
恐らく誰も表立って事を起こさなかったのは、陛下が両家の親族に負けず劣らずの笑顔で、大手を振ってユーリスの結婚を祝福しているのを目の当たりにしたからだろう。ふたりが幼い頃から友人関係を築いていたことは知っていたけれど、まさか陛下自ら式に参列したいと申し出てきたのには、随分と驚かされたものだ。
式の当日は、雲ひとつない、どこまでも突き抜けるほど澄んだ青空だった。やわらかな春風が人々の頬をやさしく撫で、ランセット窓やトレーサリーに嵌め込まれた色彩豊かなステンドグラスからは、まるで虹のような光が燦々と降り注ぐ。
厳かでありながらどこか神秘的で、普段は神の存在を信じるほど宗教に信心深くないセシリアでさえ、祭壇に飾られた主神像の白亜の瞳が、細緻に彫り込まれた唇や頬が、慈愛に満ち溢れているように見えた。
けれど、神に慈しまれつつ見守られているからといって、果たしてこの結婚を心から喜び、祝福を素直に受け入れて良いものかといえば、決してそうではないのだろうと、セシリアは思う。
式が延びた一年の間に、ユーリスに関するまことしやかな噂――特に女性関係にまつわるもの――は、嫌でもセシリアの耳に飛び込んでくるようになっていた。公爵邸で、或いは友人に誘われて参加した令嬢たちのお茶会の席で。
その頃にはもう、ユーリスが邸へ戻ることは滅多になくなっていた。執事長であるグレアムは、政務が忙しく王城の執務室に詰めているだけだと言ってくれたけれど、口さがない者たちは、どうせ他の令嬢のところで寝泊まりしているのだろうと囁き合っていた。もちろん、セシリアへの嘲笑を滲ませながら。
だから、司祭の口にした誓約の問いに、ユーリスが淡々とした――どこか冷たくも感じられる――声で言葉を返しても、セシリアは少しも驚かなかった。彼の中で“結婚式”とはただの“儀式”に過ぎず、何の意味も持たないものだと、疾うに自分自身に言い聞かせていたから。
そう思い込むことで、セシリアはどうにか衆人の好奇の視線に晒されながらも、凛と背筋を伸ばしていられることが出来た。何事も、ひとつひとつ“義務”としてこなそうとするユーリスの隣に。ただの“お飾り”な新婦でも。
ただただ、それしかなかった。そうすることでしか、駄目だった。震えそうになる唇を、罅の深まりそうな心を、お腹の底からこみ上げてくるぐちゃぐちゃな感情を――全部、どうにか抑え込むには。そうしなければ、今にも崩れ落ちてしまいそうで。数多の視線に突き刺される中で、轟々と音を立てて崩れた足元から、真っ暗な奈落に吸い込まれてしまいそうだった。
式は滞りなく進み、無事終わりを迎えた。色とりどりの光が燦々と降り注ぐ大聖堂の中で、セシリアの虚ろな心だけが、ひとり置き去りにされたまま。祭壇の主神像は変わらず慈愛に満ちた瞳でふたりを見つめていたけれど、その眼差しは、式が終わる頃にはもう、セシリアにはただの造り物にしか感じられなかった。
▽
パーティーを終えて邸へ戻ると、普段から身支度を手伝ってくれる数人の侍女に出迎えられた。
華やかだった披露宴の賑わいを、どこか遠い夢のように感じながら浴室へと連れてゆかれ、身を飾り立てていたドレスや装飾品を手早く剥がされてゆく。猫足のバスタブには白と赤の薔薇の花弁が浮かべられ、湯の中には香油でも垂らされているのか、上品で甘やかな香りが鼻腔を擽った。
バスタブに張られた湯の中にゆったりと身を沈め、侍女のひとりに髪の毛を丁寧にブラッシングされながら、セシリアは胸の内で小さく溜息をつく。身体はぽかぽかとぬくもりに満たされているというのに、頭の中だけはひどく冷静だった。湯気の立ち込める浴室の熱さも、侍女たちが交わす小さな声も、どこか現実味を持たないまま、ただぼんやりと通り過ぎてゆく。
水面に揺蕩う赤い花弁を片手でそっと掬い上げると、指の隙間から、するすると湯だけがこぼれ落ちてゆく。その様が何故か胸を鈍く疼かせ、セシリアはすぐに花弁を水面へと戻した。
バスタブの中で膝を抱え、揺れる湯面をじっと見つめる。侍女たちの作業は実に滞りなく、なにもかもが視界の端でてきぱきと、なめらかに進んでゆく。
それでもじっと、頑なに何かを拒むように、花弁の揺蕩う水面を見つめていると、ふと、今朝の大聖堂に降り注いでいた色とりどりの光が脳裏に蘇った。あの光の眩しさだけが、やけにはっきりと。今ではあの主神像の慈愛に満ちた表情さえ、少しも思い出せないというのに。
身を清め、やわらかな素材で作られた純白のシュミーズに袖を通し、薄手のショールを羽織る。何もかも、侍女たちに促されるまま。セシリアはただ半ば呆然と、それに従うしかなかった。最終の仕上げにと、ゆるく編まれた三つ編みに、首筋に、手首に、侍女頭が丁寧に香水を――香油と同じ清雅で甘やかな香り――丁寧に吹き付けてゆく。濃く薫ってしまわないよう、適度な量を、ほんの一瞬で。
「身支度が整いましたので、これより寝室へご案内致します」
恭しく頭を垂れながらそう告げる侍女頭の言葉を、しかしセシリアは未だに"実感"として受け入れることが出来なかった。いつにも増して丁寧な入浴。その後、まるで儀式のように連れてゆかれる寝室。――その先に待っているものなど、たったひとつしかない。
そうと頭では分かっていても、案内された寝室に通されてなお実感は伴わなかった。青白い月明かりに彩られた室内で、セシリアはひとりソファに腰掛け、居心地の悪さを持て余す。カーテンの引かれていない大窓の向こうに、まるで大パノラマのように広がる、紺碧に鏤められた無数の星々と、ぽっかりと浮かぶ丸い白銀の月を眺めながら。
どれくらいそうしていたのか、分からない。テーブルの上には、華奢なワイングラスが二組と、銀製のアイスペールが置かれている。半分ほど溶けた氷水の中に浸された白ワインのボトルの表面には、細かな水滴がびっしりと貼り付いていた。
夜空から逸らした視線でそれを見るともなく見つめ、もうそんなに時間が経ってしまったのかと胸の内で静かに溜息をつく。グレアムからは、パーティーがお開きになるとすぐ、ユーリスは執務室にこもってしまったと聞いている。所用を片付けるだけなので、そう時間のかかるものではないだろう、ということも。
しかし、壁際に置かれた飴色の振り子時計へと目を向けると、長短の針はあと少しで日付を越えようとしていた。さすがにもう彼は来ないのかもしれない――そんな不安が、何度も何度も、執拗に頭を過ってゆく。
いつまで待つべきなのだろう。辛抱強く、たった独りで夜空を眺めていれば良いのだろう。折角の“新婚初夜”だというのに。あとどれくらい、来るかどうかも分からない旦那の来訪を、絶望の淵に立ちながら待ち続けなければいけないのだろう。
どうせならもう、白ワインもグラスも片付けてもらおうか。そう思い、侍女かグレアムを呼ぼうと腰を上げかけた――その時だった。こんこん、とドアをノックする音が、静かな室内にすっと響き渡った。鼓膜に触れたその音に、思わず胸が跳ねる。弾けるように腰を上げると、心臓がどくんどくんと、煩いほど鳴っていた。今にも口から飛び出してくるのではと思うほど、激しく。
そんなセシリアを月明かりの中に取り残したまま、返事を待たずに扉がゆっくりと開いた。小さな軋みの音でさえ、喧騒を失い夜の帷に包まれて寝静まった邸の中では、よく響く。
扉の奥から姿を現したのは、紛れもなくユーリスその人だった。清潔なシャツとズボンに身を包み、湯浴みを終えた印のように白銀の髪が僅かに湿り気を帯びている。普段は軍服を――宰相になった今でさえ――きっちりと着こなしている彼にしては珍しく、シャツの胸元が無造作に開かれ、隆々とした鎖骨が白い肌にくっきりと陰影を落としていた。
一見、女性と見紛うほどの美貌をした彼の、男らしく艶めかしい一部を目の当たりにし、セシリアは気恥ずかしさに頬が熱くなるのを感じながら、そっと視線を逸らした。見てはいけないものを見てしまった、という気がして。――これからふたりで何をするのか、分かっているはずなのに。たったそれだけのことで、いちいち胸が高鳴ってしまうだなんて、情けない。
「お仕事、お疲れ様でした。白ワインでも、いかがですか」
気を紛らわせようと、セシリアは出来るだけ明るい声で問いかける。しかしユーリスは、そんな彼女を一瞥すらすることなく傍を通り過ぎ、悠然とした歩みで大窓の傍へと歩み寄った。
「あの、ユーリス」
「ワインは要らない」
そう言って、ユーリスは広々とした大きな窓から、寝静まった庭園を、或いは煌々と輝く夜空を眺め、暫く口を閉ざした。
その大きな背中を見つめながら、いつの間にこんなに“差”が出来てしまったのだろう、とセシリアは思う。幼い頃は同じぐらいの背丈で、線の細かった彼はセシリアと並んでも大差がなかったというのに。今の彼の背中は大きくて逞しく、凛々しい大人の男性のそれだった。
それなのに――。月明かりを浴びてより一層幻想的に輝く白銀の髪から目を逸らし、セシリアは静かに、テーブルの上に置きっぱなしにされた白ワインのボトルへと視線を落とす。
昔はもっと、自然と会話が弾んだものだ。どんな些細な、他愛のないくだらない話でさえ。互いに耳を傾け合い、相槌を打ち、どちらからともなく笑って、絶えず言葉を交わし続けていた。たったふたりで。まるで、話題なんていくらあっても尽きない、というほど。
それなのに今は――目の前に立っているはずの彼が、どこか遠い場所にいるような気がしてならなかった。
恐らく誰も表立って事を起こさなかったのは、陛下が両家の親族に負けず劣らずの笑顔で、大手を振ってユーリスの結婚を祝福しているのを目の当たりにしたからだろう。ふたりが幼い頃から友人関係を築いていたことは知っていたけれど、まさか陛下自ら式に参列したいと申し出てきたのには、随分と驚かされたものだ。
式の当日は、雲ひとつない、どこまでも突き抜けるほど澄んだ青空だった。やわらかな春風が人々の頬をやさしく撫で、ランセット窓やトレーサリーに嵌め込まれた色彩豊かなステンドグラスからは、まるで虹のような光が燦々と降り注ぐ。
厳かでありながらどこか神秘的で、普段は神の存在を信じるほど宗教に信心深くないセシリアでさえ、祭壇に飾られた主神像の白亜の瞳が、細緻に彫り込まれた唇や頬が、慈愛に満ち溢れているように見えた。
けれど、神に慈しまれつつ見守られているからといって、果たしてこの結婚を心から喜び、祝福を素直に受け入れて良いものかといえば、決してそうではないのだろうと、セシリアは思う。
式が延びた一年の間に、ユーリスに関するまことしやかな噂――特に女性関係にまつわるもの――は、嫌でもセシリアの耳に飛び込んでくるようになっていた。公爵邸で、或いは友人に誘われて参加した令嬢たちのお茶会の席で。
その頃にはもう、ユーリスが邸へ戻ることは滅多になくなっていた。執事長であるグレアムは、政務が忙しく王城の執務室に詰めているだけだと言ってくれたけれど、口さがない者たちは、どうせ他の令嬢のところで寝泊まりしているのだろうと囁き合っていた。もちろん、セシリアへの嘲笑を滲ませながら。
だから、司祭の口にした誓約の問いに、ユーリスが淡々とした――どこか冷たくも感じられる――声で言葉を返しても、セシリアは少しも驚かなかった。彼の中で“結婚式”とはただの“儀式”に過ぎず、何の意味も持たないものだと、疾うに自分自身に言い聞かせていたから。
そう思い込むことで、セシリアはどうにか衆人の好奇の視線に晒されながらも、凛と背筋を伸ばしていられることが出来た。何事も、ひとつひとつ“義務”としてこなそうとするユーリスの隣に。ただの“お飾り”な新婦でも。
ただただ、それしかなかった。そうすることでしか、駄目だった。震えそうになる唇を、罅の深まりそうな心を、お腹の底からこみ上げてくるぐちゃぐちゃな感情を――全部、どうにか抑え込むには。そうしなければ、今にも崩れ落ちてしまいそうで。数多の視線に突き刺される中で、轟々と音を立てて崩れた足元から、真っ暗な奈落に吸い込まれてしまいそうだった。
式は滞りなく進み、無事終わりを迎えた。色とりどりの光が燦々と降り注ぐ大聖堂の中で、セシリアの虚ろな心だけが、ひとり置き去りにされたまま。祭壇の主神像は変わらず慈愛に満ちた瞳でふたりを見つめていたけれど、その眼差しは、式が終わる頃にはもう、セシリアにはただの造り物にしか感じられなかった。
▽
パーティーを終えて邸へ戻ると、普段から身支度を手伝ってくれる数人の侍女に出迎えられた。
華やかだった披露宴の賑わいを、どこか遠い夢のように感じながら浴室へと連れてゆかれ、身を飾り立てていたドレスや装飾品を手早く剥がされてゆく。猫足のバスタブには白と赤の薔薇の花弁が浮かべられ、湯の中には香油でも垂らされているのか、上品で甘やかな香りが鼻腔を擽った。
バスタブに張られた湯の中にゆったりと身を沈め、侍女のひとりに髪の毛を丁寧にブラッシングされながら、セシリアは胸の内で小さく溜息をつく。身体はぽかぽかとぬくもりに満たされているというのに、頭の中だけはひどく冷静だった。湯気の立ち込める浴室の熱さも、侍女たちが交わす小さな声も、どこか現実味を持たないまま、ただぼんやりと通り過ぎてゆく。
水面に揺蕩う赤い花弁を片手でそっと掬い上げると、指の隙間から、するすると湯だけがこぼれ落ちてゆく。その様が何故か胸を鈍く疼かせ、セシリアはすぐに花弁を水面へと戻した。
バスタブの中で膝を抱え、揺れる湯面をじっと見つめる。侍女たちの作業は実に滞りなく、なにもかもが視界の端でてきぱきと、なめらかに進んでゆく。
それでもじっと、頑なに何かを拒むように、花弁の揺蕩う水面を見つめていると、ふと、今朝の大聖堂に降り注いでいた色とりどりの光が脳裏に蘇った。あの光の眩しさだけが、やけにはっきりと。今ではあの主神像の慈愛に満ちた表情さえ、少しも思い出せないというのに。
身を清め、やわらかな素材で作られた純白のシュミーズに袖を通し、薄手のショールを羽織る。何もかも、侍女たちに促されるまま。セシリアはただ半ば呆然と、それに従うしかなかった。最終の仕上げにと、ゆるく編まれた三つ編みに、首筋に、手首に、侍女頭が丁寧に香水を――香油と同じ清雅で甘やかな香り――丁寧に吹き付けてゆく。濃く薫ってしまわないよう、適度な量を、ほんの一瞬で。
「身支度が整いましたので、これより寝室へご案内致します」
恭しく頭を垂れながらそう告げる侍女頭の言葉を、しかしセシリアは未だに"実感"として受け入れることが出来なかった。いつにも増して丁寧な入浴。その後、まるで儀式のように連れてゆかれる寝室。――その先に待っているものなど、たったひとつしかない。
そうと頭では分かっていても、案内された寝室に通されてなお実感は伴わなかった。青白い月明かりに彩られた室内で、セシリアはひとりソファに腰掛け、居心地の悪さを持て余す。カーテンの引かれていない大窓の向こうに、まるで大パノラマのように広がる、紺碧に鏤められた無数の星々と、ぽっかりと浮かぶ丸い白銀の月を眺めながら。
どれくらいそうしていたのか、分からない。テーブルの上には、華奢なワイングラスが二組と、銀製のアイスペールが置かれている。半分ほど溶けた氷水の中に浸された白ワインのボトルの表面には、細かな水滴がびっしりと貼り付いていた。
夜空から逸らした視線でそれを見るともなく見つめ、もうそんなに時間が経ってしまったのかと胸の内で静かに溜息をつく。グレアムからは、パーティーがお開きになるとすぐ、ユーリスは執務室にこもってしまったと聞いている。所用を片付けるだけなので、そう時間のかかるものではないだろう、ということも。
しかし、壁際に置かれた飴色の振り子時計へと目を向けると、長短の針はあと少しで日付を越えようとしていた。さすがにもう彼は来ないのかもしれない――そんな不安が、何度も何度も、執拗に頭を過ってゆく。
いつまで待つべきなのだろう。辛抱強く、たった独りで夜空を眺めていれば良いのだろう。折角の“新婚初夜”だというのに。あとどれくらい、来るかどうかも分からない旦那の来訪を、絶望の淵に立ちながら待ち続けなければいけないのだろう。
どうせならもう、白ワインもグラスも片付けてもらおうか。そう思い、侍女かグレアムを呼ぼうと腰を上げかけた――その時だった。こんこん、とドアをノックする音が、静かな室内にすっと響き渡った。鼓膜に触れたその音に、思わず胸が跳ねる。弾けるように腰を上げると、心臓がどくんどくんと、煩いほど鳴っていた。今にも口から飛び出してくるのではと思うほど、激しく。
そんなセシリアを月明かりの中に取り残したまま、返事を待たずに扉がゆっくりと開いた。小さな軋みの音でさえ、喧騒を失い夜の帷に包まれて寝静まった邸の中では、よく響く。
扉の奥から姿を現したのは、紛れもなくユーリスその人だった。清潔なシャツとズボンに身を包み、湯浴みを終えた印のように白銀の髪が僅かに湿り気を帯びている。普段は軍服を――宰相になった今でさえ――きっちりと着こなしている彼にしては珍しく、シャツの胸元が無造作に開かれ、隆々とした鎖骨が白い肌にくっきりと陰影を落としていた。
一見、女性と見紛うほどの美貌をした彼の、男らしく艶めかしい一部を目の当たりにし、セシリアは気恥ずかしさに頬が熱くなるのを感じながら、そっと視線を逸らした。見てはいけないものを見てしまった、という気がして。――これからふたりで何をするのか、分かっているはずなのに。たったそれだけのことで、いちいち胸が高鳴ってしまうだなんて、情けない。
「お仕事、お疲れ様でした。白ワインでも、いかがですか」
気を紛らわせようと、セシリアは出来るだけ明るい声で問いかける。しかしユーリスは、そんな彼女を一瞥すらすることなく傍を通り過ぎ、悠然とした歩みで大窓の傍へと歩み寄った。
「あの、ユーリス」
「ワインは要らない」
そう言って、ユーリスは広々とした大きな窓から、寝静まった庭園を、或いは煌々と輝く夜空を眺め、暫く口を閉ざした。
その大きな背中を見つめながら、いつの間にこんなに“差”が出来てしまったのだろう、とセシリアは思う。幼い頃は同じぐらいの背丈で、線の細かった彼はセシリアと並んでも大差がなかったというのに。今の彼の背中は大きくて逞しく、凛々しい大人の男性のそれだった。
それなのに――。月明かりを浴びてより一層幻想的に輝く白銀の髪から目を逸らし、セシリアは静かに、テーブルの上に置きっぱなしにされた白ワインのボトルへと視線を落とす。
昔はもっと、自然と会話が弾んだものだ。どんな些細な、他愛のないくだらない話でさえ。互いに耳を傾け合い、相槌を打ち、どちらからともなく笑って、絶えず言葉を交わし続けていた。たったふたりで。まるで、話題なんていくらあっても尽きない、というほど。
それなのに今は――目の前に立っているはずの彼が、どこか遠い場所にいるような気がしてならなかった。
