「君を愛することはない」と言われて三年、そろそろ白い結婚をやめようと思います

 ユーリスとの間に溝を感じ始めたのは、いつからだっただろう。気付いた時にはもう、底の見えないほど深いものになっていた。

 幼い頃は無邪気に笑い合い、色んなことを語り合い、互いに励まし合うような仲だったというのに。思春期を迎え、子どもから大人へ――男と女へ――なるにつれ、嘗てのような関係ではいられなくなった。目に見えない距離がふたりの間を分かち、それはどんどんと広がり続け、やがて互いの背中すら見えなくなる。それはそのまま、セシリアの感じるユーリスとの“心の距離”だった。


 ある日、淑女教育――もとい“次期公爵夫人教育”――の息抜きにと、クロードがオペラ観劇に誘ってくれたことがある。久しぶりに三人で観に行こう、と。

 彼が誘ってくれた演目は、当時飛ぶ鳥を落とす勢いで売れていた歌手が主演を務める叙情劇で、巷では大きな人気を博していた。チケットの入手が困難で、毎公演、争奪戦が起こるほど。しかし公爵家ではロージュ――しかも舞台正面に位置する、貴賓席に最も近いロージュ――を所有していたので、席の確保に困ることはなく、だから唐突な思いつきや誘いも、決して無理なことではなかった。

 ロージュは広々としていて、三人でも――更にはもっと大人数でも――ゆったり観られるだけの余裕がある。故にクロードは幼馴染三人で観に行くことを提案したが、しかしユーリスは「忙しい」という理由で、迷う素振りもなく断った。「だからふたりで行けば良い」とも言い添えて。

 確かにユーリスは既に騎士団へ入団しており、訓練に明け暮れる多忙な毎日を送っていた。恐らくクロードは、そんな彼の息抜きも兼ねて誘いを持ちかけたのだろう。何故なら普段は騎士団の寄宿舎にいるユーリスが、久々に公爵邸へ帰省したのに合わせての誘いだったからだ。

 以前の彼であれば、弟からの誘いを断ることはしなかっただろう。三人で一緒にいることが常だった幼少期や、社交界デビューしたての頃であれば。あの頃はまだ、ユーリスは三人でいることを拒んではいなかったから。

 けれどセシリアには、疾うに分かっていた。何故ユーリスが弟の誘いを断ったのか、何故“三人でいること”を拒むようになったのか。その原因が、クロードを含む“幼馴染三人”ではなく、許婚である“自分の存在”だということを。

 ――兄上は、本当に忙しいだけだよ。深い意図はないから、気にする必要はないさ。

 クロードはそう気遣ってくれたけれど、彼の言葉はセシリアの頭の中で、ただ虚しく響くだけだった。その頃にはもう、“許婚”という関係は、誰の目から見ても形骸的なものになっていたからだ。

 夜会に参加しても、以前のようにラストダンスに誘われることは、もうなくなっていた。手紙を送っても返事がくることはなく、逢瀬といった類のこともまるでない。顔を合わせるのは、公爵夫妻が催す食事会の時だけ。それもセシリアには形式的なものにしか思えなかった。“許婚”としての務めを果たす――ただそれだけの意図しか、ユーリスにはもうないのだと。

 そもそも、“許婚”の誓いを結んだのは、互いの両親の意思に過ぎない。そこにふたりの気持ちなどはまるで関係がなかったのだから、ユーリスが“許婚”という存在を足枷と感じていても仕方がない、とセシリアは思う。

 だから、ユーリスがどんな態度をとろうとも、いちいち心を痛めていても仕方がない――そう、諦めを抱くしかなかった。たとえそれが、本心から目を逸らすだけの行為であり、ただの逃げでしかないと分かっていても。うまく諦めることも出来ずに、息苦しさに苛まれていようとも。それでもただひたすら、諦めに縋り付くしかなかった。

 彼ほど将来の地位も財も約束され、且つ文武両道、眉目秀麗と文句の付け所のない人間であれば、自身の望む“愛する女性”と結婚することなど、容易かったに違いない。そしてきっと、その女性とともに幸せな人生を歩んでゆくことが出来ただろう。

 そんな彼の幸せを阻んだのは、自身が望んだわけでもない、両親が勝手に結んだ“許婚”という存在だった。その足枷さえなければ、ユーリスは自由でいられただろう。“公爵家次期当主”という役目を重んじはしても、幸福に満ちるであろう彼の人生を、未来を縛るものは他に何もなかったはずだ。

 自分さえいなければ。或いは、許婚の相手が自分でさえなければ――。

 幾度そう思ったか分からない。彼との間にある心の距離を、その長さと深さを痛感すればするほど。自分は彼にとって邪魔なもの、障害物でしかないと、セシリアには思えてならなかった。


 その思いがより強固なものになったのは、ユーリスが公爵家当主の座を継ぎ、結婚の話がいよいよ本格的に交わされ始めた頃のことだった。

 伯爵家が所有する領地の中でも、特に農業の基盤である穀倉地帯を豪雨が襲い、ひどい水害が発生したのだ。地方の土地は荒れに荒れ、家屋や倉庫を失った者も多く、人的被害も甚だしいほどで、収穫量は激減。翌年の種を確保することすら出来ない状況で、回復までには数年に及ぶ年月が必要だった。

 そこに追い打ちをかけるように、泡沫の狂乱に巻き込まれる形で、投資していた貿易会社が倒産。ただでさえ領地の収益が落ちたところへの投機失敗による大損失は、伯爵家の懐事情に大打撃を与え、莫大な借金を背負うこととなってしまった。

 その話は瞬く間に社交界へ広がり、グランベール家はたちまち“没落貴族”として嘲笑の的となった。無論、その誹謗はセシリアにも向けられた。あんな落ちぶれた名ばかり貴族の娘が、公爵家当主の許婚だなんて厚かましすぎる――と。ユーリスの妻には、もっと相応しい家柄の娘がなるべきだ。王家の傍流の血を引く公爵家当主が、まかり間違っても落ちぶれ貴族の娘を妻に迎えるべきではない――。

 そんなことは、わざわざ他人に言われずとも、セシリア自身が一番よく分かっていた。以前のグランベール家であれば、結婚の話は滞りなく進められただろう。けれども、多額の借金を抱えた“没落貴族”となった今、頓挫は免れられまい。公爵家側からいつ“婚約の無効”を切り出されてもおかしくはない状況だった。

 恐らく誰もが、婚約破棄になるだろうと思っていたに違いない。セシリア自身どころか、あんなにも先代と仲の良かった両親でさえも、そう思っていたのだから。

 しかし結局、生まれた時からの定めが変わることはなく、セシリアはユーリスの妻となった。全ての人間の予想を裏切って。

 グランベール家が抱えた莫大な借金は、公爵家が肩代わりすることで、一旦落ち着きを取り戻した。その上ユーリスは、被災した地方へ多額の支援金を送り、国王に積極的な支援の約束まで取り付けてくれた。

 王家まで巻き込むことが出来たのは、その頃の彼が騎士団を――半ば強制的に――辞め、国王からの熱い要望により宰相の座に就いていた影響が大きいだろう。

 もちろん元老院からは非難の声も幾つかあがったようだが、ユーリスはそのどれをも巧みに丸め込んでしまったと聞く。その手腕を間近で見ていた者たちは、陛下が彼を宰相に取り立てたのも納得できる、と口を揃えたそうだ。

 何故ユーリスが、借金の肩代わりだけでなく、王家にまで約束を取り付けるなど様々な手を尽くしてくれたのか――セシリアにはその理由が、今も分からない。

 幼い頃から兄妹のように育ってきた幼馴染であり、許婚の実家であるとはいえ、彼がそこまでする必要性はなかったはずだ。さっさと見切りをつけ、捨ててしまえばそれで良かっただろうに。

 巷では、ユーリスの惜しみない尽力を、両家の繋がりの深さ故だろうと語る者は多くいた。公爵夫妻がセシリアを我が娘のように可愛がってくれていたのと同じように、セシリアの両親もまたユーリスを我が息子のように気にかけていたからだ。

 故に、許婚云々ではなく、全てはそんな伯爵夫妻への、これまでの恩義に報いる為の行動――それが、市井で広まる大方の見解であるらしかった。

 確かにそれも、一理あるのかもしれない。

 けれども、一理ありはしても、それが全てではないだろう、とセシリアは思う。寧ろ宮廷や令嬢たちの間で囁かれている“公爵家の体面を保つ為”という理由の方が、よほど現実味があってしっくりくる。今回彼のとった行動はどれも、公爵家――そしてユーリス・シルヴェインという男の株を上げることに大いに貢献したのは、事実だったから。

 没落に瀕する恩義ある伯爵家を救う為に、陛下に直談判までした義理堅い男。幼馴染であり許婚でもある娘を守る為にあらゆる策を尽くした、心優しい男。王家を動かすほどの影響力を持つ男。それほどまでに、陛下から厚い信頼を寄せられている男――。

 聞こえてくる声は、羨望から妬みまで、実に様々だった。

 けれどもそれは裏を返せば、今回の一件が、ユーリス・シルヴェインという男の印象を操作するのに、これ以上ないほど都合の良いものだったという、何よりの証左でもある。

 だからこそいっそう分からない、とセシリアは強く思う。株をあげ、もはや選り取り見取りという状態で、何故彼が自身との婚約を破棄しなかったのかが。伯爵家を“恩義”の名目のもと救うことはしても、結婚まで貫く必要はまるでなかったはずだ。

 単に、落ちぶれても"許婚"を貫き通した方が、世間体が良かったからだろうか。愛などではなく。ただ、それだけの為に。

 何故ユーリスは、自分を捨てなかったのか――。その疑問は、結婚してもなお、セシリアの胸の奥で、“答えのない問い”としてずっと燻り続けていた。