「君を愛することはない」と言われて三年、そろそろ白い結婚をやめようと思います

 慌ただしく出ていった背中が扉の向こうへ消えるのを見届けてから漸く、テオドールは過去へ思いを馳せるように、ゆっくりとひとつ瞬いた。閉じられた扉の向こうからは、もう何も聞こえない。今頃、あの眩い廊下を半ば駆けるようにして渡っているだろうに。それでも、足音ひとつ聞こえてこない。

 それにしても――。扉から目を離し、空になった深緑色の椅子に悠然と腰掛けながら、テオドールは思う。あの男の、あんなにも焦燥の滲んだ顔を見たのはいつぶりだろうか、と。

 ユーリスは基本的に、表情を取り繕うのが上手い。相手の機微に合わせて、その時々に求められる仮面を巧みに操る。それは公爵家の当主として、そして一国の宰相として、国内外の重鎮たちと渡り合うのに、弁舌と同じく必要不可欠な、重要な要素のひとつだ。

 そんなユーリスが、気持ちのままに表情を変え、それを無防備にさらけ出す相手は、そう多くない。純粋に笑った顔、怒気を帯びた顔、鳩が豆鉄砲を喰ったような困惑した顔――。長い付き合いの中でそういった様々な表情を見てきたが、気の置けない友人や仲間の前でさえ、ユーリスが滅多に見せない顔がある。

 だから――。思わずくくっと笑いが漏れ、テオドールは随分と珍しいものを見られた満足感にひとり浸りながら、ゆったりと背もたれに寄りかかった。王女からの縁談話が届いた時も、大臣たちの不正が発覚して騒動になった時も、或いは年若いことを理由に他国の重鎮に侮られた時ですら、ユーリスは眉間に深い皺を刻んで厳しい面持ちをすることはあれど、狼狽えた顔を見せたことは一度もない。

 そんなユーリスが、平静を装うことを忘れ、血相を変えて取り乱すのはいつだって――セシリアの身に何か起きた時だけだ。

 今でもはっきりと憶えている。凡そ一年前、式典の最中に彼が襲撃に遭った時。報を聞きつけて駆けつけたテオドールの目に映り込んだのは、屈強な部下に羽交い締めにされながら、鬼気迫る顔で怒鳴り声を上げるユーリスの姿だった。

 彼は元来の性格もあり、声を荒げることは殆どない。部下がひどい失敗を犯そうと、元老院の面倒な爺どもに難癖をつけられようと、公衆の面前で恥をかかされそうになろうとも。話術と機転に長けた彼は、その場その場に最適な対応をとり、何事も丸く収めてしまう。だからこそわざわざ騎士団を半ば無理矢理辞めさせ、宰相に取り立てたのだ。贔屓などではない。純粋に、彼の能力を買ってのことだ。

 兎も角、普段がそんな男であるから、凄まじい剣幕で荒々しい声を張り上げ、羽交い締めにする部下の腕を引き剥がそうと身動ぐユーリスの姿に、あの場にいた誰もが息を呑んだことだろう。

 ひどく暴れるせいで、短剣を鷲掴みにしたらしい右手から飛び散った真っ赤な鮮血が、石畳のそこここに小さな染みを幾つも作っていた。急所でないとはいえ、手を裂いた――或いは貫いた――のだろうから、痛みは相当なものだったに違いない。けれど当の本人は、自身が怪我をしていることなど、まるで気が付いていないようだった。恐らくはそうと認識するだけの余裕が、彼の中には僅かもなかったのだろう。あの時、ユーリスの頭の中を埋め尽くしていたのは、ただ偏に――セシリアのことだけだったのだから。命を狙われたのは、彼自身であるというのに。

 ――狙いが分かっていない以上、セシリアの身が安全だという保証は何処にもないだろうっ!

 あまりの豹変ぶりに、普段のユーリスを他の誰より近くで見てきた――だからこそ、と言うべきか――カイルでさえ、ひどくたじろいでいた。襲われた当人を置き去りにし、護衛部隊全員を引き連れて今すぐ邸へ向かえなどと指示されても、どの部隊の隊長であろうと、そう簡単に二つ返事で引き受けられるものではない。彼らの任務はあくまで宰相であるユーリスの護衛であり、そこに責任を負っているのだから。

 あのまま傍観していれば、ユーリスは間違いなくカイルに掴み掛かっていたことだろう。仕方なく間に割って入り、カイルには部隊を引き連れて公爵邸へ向かうよう命じ、ユーリスには近衛隊の精鋭を数人つけることでとりなした。

 近衛隊や騎士団の者ではなく、敢えてカイル率いる護衛部隊を邸へ向かわせたのは、ユーリスの意志を尊重してのことだ。犯人の素性も、狙いも、単独なのか集団なのかも把握できていない以上、信用のならない者をセシリアの傍においておくわけにはいかない。だから彼は真っ先に、カイルへ指示を出した。騎士団時代からの付き合いである、最も信頼の置ける男を邸へ送る為に。

 あの時の形相をセシリアが見たら、果たしてどんな反応をしていただろうか。それはそれで見てみたいものだ、と思いながら記憶を頭の片隅へと追い遣り、テオドールは聞こえてきたノックに短く返事をする。

 すぐに扉は開かれ、壮年の書記官が紙の束を抱えて入ってきた。対岸に座るカトリーヌをちらと一瞥したが、それ以上目を留めることはなく、束をテオドールへ恭しく渡す。片手で受け取ったそれの表紙を確かめ、目配せだけで問題ないことを告げると、男は深々と一礼だけして、早々に部屋を出て行った。

「私はユーリス様と、縁談の件について真剣にお話をいたしたく、こちらへ参ったのですけれど」

 扉が閉まるや否や、カトリーヌが口火を切る。口調も声音も穏やかであるけれど、その裏に滲む不満と苛立ちにテオドールは目を細め、くつくつと喉を鳴らして笑った。美しい花には棘がある、とは実に言い得て妙だと思う。正にこの女こそ、その諺をそのまま体現したような存在だ。

「あいつのあの姿を見て、それでもなお話をしようと思えるその図太さには、いっそ感服するな。諦めの悪さは大陸一かもしれぬ」

 そう言いながら足を組み、テオドールは両の肘掛けに悠然と肘をついて、胸の前で緩やかに手を組んだ。

「あの男の左耳に、青いピアスがついていただろう?」

 カトリーヌはさして興味なさげな様子で、白くほっそりとした指をハンドルに絡め、ティーカップをゆっくりと持ち上げる。そんな彼女のかんばせを見つめたまま、テオドールは胸の内でそっと溜息をつき、天使だの女神だのと口々に褒めそやしていた大臣たちの、腑抜けた顔を脳裏に思い浮かべた。

 確かに彼女の容姿は、多くの者が――男も女も問わず――見惚れるほどの、類稀な麗しさだろう。けれど結局、それまでのことだ。それ以上でもなければ、それ以下でもない。本質を見抜こうとしない者ほど、それを全く理解していないのだから、つくづく呆れたものだと思う。だからお前たちの誰ひとりとして信用していないのだ、と、次から次へと流れるように過ぎ去ってゆく面々に、テオドールは内心毒づいた。

「あれはユーリスが、夫人――セシリアの社交界デビューの記念に贈ったものだ。その片割れを、あいつはいつも左耳につけている。騎士団に所属していた時から、今も変わらずにな。……それが、どういう意味か分かるか?」

 “セシリア”という単語に、カップに口づけようとしていたカトリーヌの動きが、ぴたりと止まる。けれどそれはほんの一瞬のことで、すぐに彼女は僅かに目を伏せ、薔薇の絵付けが施されたティーカップを傾けた。

 一見、泰然とした態度を貫いているが、刹那に見た薄ピンク色の瞳の揺らぎを、無論テオドールが見逃すはずもない。興味を唆られたというよりも、恋敵の名に思わず反応してしまった、というところだろうか。ユーリスと婚姻を結ぶにあたって、セシリアは彼女にとって最大の障害であり、邪魔者でしかないのだから。

 だからこそ聞かせてやりたい、と、加虐心がむくりと膨らむ。にやりとした笑みが浮かびそうになるのをどうにか堪え、テオドールは右手の人差し指で、とん、と左手の甲を叩いた。

「男が左耳に飾りをつけるのは、古くから伝わる風習のひとつでな。騎士は基本的に、右手で剣を抜く。故に、護るべき者を左に立たせる。その習わしが、いつしか貴族社会の中で文化として定着し、男どもは“護る者の印”、或いはその“誓いの印”として、守るべき者に近い左耳に、想い人に見立てた飾りをつけるようになったのだ」

 かちゃ、と微かな音を立ててティーカップをソーサーの上に置き、カトリーヌは相も変わらず穏やかな微笑みを湛えたまま、テオドールの双眸を真っ直ぐに見据える。臆することなくそうしてくる肝の座り具合は、さすが大国の王女と称賛するべきだろうか。もっとも、称賛とは名ばかりで、その実は嘲弄と紙一重といったところだが。父親である国王は、さぞ手を焼いているに違いない。

「……何が仰りたいのでしょう」

 淡いピンク色の瞳は、まるでピオニーのようなやわらかさをしているが、表面を剥がせば、その奥にはきっと毒々しい色がべっとりと滲んでいることだろう。いつだったか、紫色のピオニーには"怒り"や"憤怒"といった花言葉があると庭師が言っていたことを、テオドールは唐突に思い出す。まるで眼前の女の為に用意されたかのようにぴったりだ、と思いながら、テオドールは組んでいた手を解き、頬杖をついた。

「いくらユーリスを口説こうが、あいつが貴女に靡くことは決してない」

 遠慮も気遣いも破り捨て、テオドールはきっぱりとした口調でそう言い放つ。低く落とした声に圧を感じ取ったのか、それまで薄く笑んでいたカトリーヌの顔に僅かばかり緊張が走る。しかしひとつ瞬く間に彼女は元の涼しい顔を取り戻し、果実のように瑞々しい唇に弧を描きながら含み笑った。

「果たして、それはどうでしょう。聞くところによりますと、セシリア様のご実家は莫大な借金を公爵家に肩代わりしていただいたそうですわね。どうにか没落は免れたとはいえ、ユーリス様のお相手として、落ちぶれた爵位家の娘では釣り合いませんわ」

 窓から差し込む陽光のせいか、それとも彼女の内に潜む欲のせいか。淡色の丸い瞳がきらりと輝く。

「それに比べて私は、エルヴァール王国の王女。借金まみれで没落寸前だった家の娘とは、生まれも育ちも、何もかもが違いますわ。公爵家当主であり王家の傍流の血を引くユーリス様に相応しい立場が、私にはございますもの」

 それに、と一度言葉を区切り、彼女はテオドールの瞳を真っ直ぐ見据えたまま、にっこりと笑みを深めた。

「私とユーリス様の婚姻は、貴国にとって大きな利がございますわ。エルヴァール王国は豊かな海産資源と広大な穀倉地帯を有しております。その上、交易の中継地でもありますから、他国の品も比較的安く手に入る。それに、以前より貴国は我が国一の港湾に目をつけていらしたでしょう? 貿易の拠点として。何せ不凍港でもありますから」

 妙に浮き立った声で、今までになかったほど饒舌に語るカトリーヌをぼんやりと眺めながら、テオドールは呆れを含んだ溜息をそっとこぼす。

「大国同士の強い結びつきが、どれほど重要であるかは、陛下であればとうにご理解されていることでしょう。ですから、私とユーリス様の婚姻は、貴国にとってもまたとない好機だと思いますの。我が国の豊かな恩恵を、存分に享受出来るのですから」

 やわらかそうな白い頬にほんのりと朱を滲ませ、ひとりで勝手に熱弁を振るう様を、彼女の気が済むまで一通り静観してから、やがてテオドールはすうっと熱が引くように表情を消すと、

「――所詮は温室育ちの王女様か」

 ぽつりと独り言のように呟いたかと思うや否や、打って変わって大声を上げて笑い始めた。あまりの唐突な変化に、それまで熱を帯びた口調で滔々と語っていたカトリーヌの口が、間抜けな半開き状態で呆然と固まる。

 しかし、そんなことなどまるで気にも留めず、テオドールは腹を抱える勢いでひとしきり笑い――そうしてぴたりと笑い声を止めた瞬間、固く握り締めた右手の拳で肘掛けを勢いよく叩きつけた。

「王女如きが、自惚れたことを抜かすな。“国の価値”は、“お前の価値”などではない」

 室内に響き渡った鈍い音と、射抜くように向けられたテオドールの黄金の瞳に、それまで“美しく穏やかな王女”を貫いていた彼女の顔から笑みが剥がれ落ち、強張った唇が、さらけ出された白い肩が、びくりと震える。そんな彼女の反応に、テオドールはにやりと不敵な笑みを浮かべた。

「その美貌に靡かぬ男には、そういう手しか使えぬとは、実に憐れだな」
「な、なんてことを……! 私を侮辱して、ただで済むと思っているのですか!?」
「ああ、思っている」

 平然とそう言ってのけ、テオドールはくつりと喉を鳴らして笑いながら、傍に置いていた紙束を掴む。

「それよりも、貴女はもう少し、ご自分の置かれた状況を理解した方が良いのでは?」

 何も言えずにいるカトリーヌに目を眇め、テオドールは手にした紙束を乱雑な手つきでテーブルの上に放り投げた。かさかさと擦れるような音と、なめらかな木肌を滑る音が、ふたりの間に落ちた僅かな沈黙を埋める。勢いよく滑っていった一枚がティーカップの手前でするりと止まり、それは奇しくも調査内容のタイトルが綴られた表紙だった。

「下らない話は疾うに飽きた。そろそろ本題に移ろう」

 そう言いながら両肘をテーブルの上につき、テオドールは口元の前で両手を組み合わせてから、カトリーヌの揺れ惑う瞳を突き刺した。嘲笑と怒気の滲む、刃のように研ぎ澄まされた冷たい視線で、容赦なく。

「貴女が国境警備隊に大金を握らせ、身分を偽って入国した件について――じっくりと話し合うとしようか」

 はて、貴女のお父上はご存知なのだろうか。
 そう付け加えて口角を持ち上げると、彼女の顔からすうっと血の気が失せ、わななく唇をきつく噛み締めた。





 誰かが、呼んでいる気がする。セシリア、と。何度も、何度も。心を震わせるような、やさしい声で――。

 ぼんやりとした意識が、遠い水底から浮かび上がるように、ゆるりと覚める。けれど、起きているという感覚は、まるでなかった。現実ではなく、まだ夢の中をふわふわと漂っているような気がする。夢うつつ。生ぬるい水面を揺蕩っている感覚。

 セシリア――。

 けれど、やはり誰かが名を呼んでいるのだけは、分かる。セシリアは必死に重たい瞼を持ち上げようとするけれど、まるで熱湯に浸された布を幾枚も被せられたように、ずしりとした重みが邪魔をする。それでもどうにか薄く開くと、視界は輪郭も境界線も溶け崩れ、何もかもが滲み合って歪んでいた。

 私は今何処にいるのだろう。寝ているのだろうか。生きているのだろうか。

 白い靄に埋め尽くされた頭でそう考えてみるけれど、思考はすぐに溶けるように靄の中へ消えてゆき、ただただ曖昧な世界をぼうっと瞳に映す。

 何も、分からない。視界はぐちゃぐちゃにぼやけ、何もかもが渾然一体となっている。けれど――その中で唯一、はっきりと分かるものがあった。モノクロの、色のない世界に、たったひとつだけ鮮明に浮かび上がる、鮮やかな青色。

 まるで蒼穹を思わせるようなその色に、胸がぎゅっと締め付けられる。ユーリスだろうか。けれど彼が帰ってきているとは、思えない。きっと今もまだ、王女の傍にいるだろう。ではクロードだろうか。王都へ来ると連絡は受けていなかったはずだけれど。ならばいったい、誰がそこにいるのだろう。やはりユーリスだろうか。いや、でも、多分――。

「    」

 唇を開いて、何か言葉をこぼしたような気がする。けれど、分厚い膜で遮られた耳には、自分の声さえ届かない。セシリア、セシリア――。誰かがそう呼んでいた声は、あんなにも鮮明に聞こえていたのに。もしかしたらあの声は、夢の中の幻だったのだろうか。

 頭の芯が、ずきりと痛む。身体の内側は炙られているように熱いのに、何故かひどく寒い。その気持ち悪さから逃げたくて、どうにかしてほしくて、助けてほしくて。鉛のような右手を、セシリアはゆるゆると持ち上げた。もしかしたら本当は、僅かも浮かんではいなかったかもしれない。ずっと、やわらかな床に沈んだままでいたかもしれない。

 それでも不意に、右手に何かが触れた。ひんやりとして、とても気持ちの良い何か。それはまるで壊れ物でも扱うかのようにやさしく、右手をすっぽりと包み込んでくれた。

 セシリア――。

 また、誰かが呼んでいるような気がする。でも、誰が呼んでいるのか、分からない。 そうしている内に、再びひどい眠気が押し寄せてくる。誰が呼んでいるのか、知りたいのに。ちゃんと応えたいのに。それでもどうしても抗うことが出来ず、セシリアはそっと瞼を閉ざし――生ぬるい水の底へ、ゆっくりと沈んでいった。