「君を愛することはない」と言われて三年、そろそろ白い結婚をやめようと思います

 使用人のひとりに頼んで持ってきてもらった大ぶりの木杯とワインのボトルを手に、ブライアンはひと気のない細道を通って宮殿の裏側へと回る。両側に白い壁が迫りくるように聳え、煌々とした月明かりさえ遮られたそこはひどく薄暗いが、颯爽と歩む彼の足取りには少しの迷いもない。

 王城の敷地はとても広く、その全貌を把握している宮廷人は殆どいないのではないかと思うが、警備を任されている騎士団の一員として長年務める彼の頭の中には、鬱蒼と木々が生い茂るだけの奥地から、王城のそこここに張り巡らされた人通りの少ない隠れ道まで、その全てがしっかりと刻み込まれている。地図など見ずとも、目的に沿った道を――たとえば堂々と、或いは密かに――選んでゆくことが出来るのは、こういう時に実に役立つものだ。

 やがて視界が開けると、その先には見事な庭園が広がっていた。王城の敷地に幾つも点在する庭園の中でも、メインとされるのは宮殿の手前に造られた、大理石製の巨大な噴水がシンボルの“中央庭園“であるが、しかしここはそれよりもずっと規模が小さくひっそりとしており、昼間ですら人々が立ち寄って花を愛でているところを、ブライアンは殆ど見たことがない。

 だからこそ――。白くも透明にも見える不思議な花弁の花々に囲まれ、青白い月光の中に浮かび上がるガゼボを――その中に見える人影を見つめながら、ブライアンは思う。だからこそこの男は、殊の外この場所を気に入っているのだろう、と。ひとりになるにはうってつけの場所であることは間違いなく、そして何より、ただ一種類だけしか植えられていないというその光景が、彼にとって思い入れ深いのだろう、とも。

「――セシリアはどうなった」

 ガゼボの入口を踏んだ瞬間、男は――テオドールは振り向きもせずにそう問うた。恐らくは、この庭園に立ち入った瞬間から、既に気配を感じ取っていたのだろう。そういうところが騎士に向いている、と思うのだが、さすがに一国の王、しかも王妃も御子もいない、現状この国の行く末をひとりその肩に背負っている男を前線に立たせることなど出来まい。

「無事、公爵邸へと戻りました」

 そう答えながら、ブライアンはテオドールと向かい合う形で、大理石製の椅子にどさりと腰掛けた。中央に据えられたテーブルの上には、赤や白のワイン、それからチェリー酒といった様々なボトルが幾本も乱雑に並んでいる。そのうち二本は疾うに空になっており、一本――明らかに年代物と分かるラベルの貼られた赤ワイン――は既に中身が半分にまで減っていた。

「それにしても、随分な言い草だったそうだな、ブライアン。一杯では到底済むまいだとか、酒樽まるまる飲み明かしても平然としておられるだとか」
「誰から聞かれたのですか」
カイル(・・・)だ」

 まあ、あんな大声で喋っていれば、影のように潜んで護衛に務めていた彼の耳にも十分届いたことだろう。そう思いながらくつくつと笑い、ブライアンは持ってきた木杯に並々と赤ワインを注ぐ。正直なところ、嘘はひとつも言っていないのだが。

 あれは確か、一年と少し前のことだっただろうか。

 郊外の町に女や金品を目当てにした賊が出没しているとの報が入り、その討伐に向かった騎士団の若者たちを労う為に宿舎で開いた、団員たちだけの小さな飲み会。その場に、何故か護衛をひとりも連れずふらりとやってきたテオドールは、野郎ばかりの飲み会に興を唆られたのか、木杯を片手に古びた長椅子へ、周囲の狼狽などまるで気に留めることなく意気揚々と腰掛けた。さあ、飲め飲め。そう言いながら。足りなければ貯蔵庫から更に持ってきてやる、とも付け加えて。

 誰も彼もが助けを求めるようにブライアンへ視線を送り、心細そうに身を竦ませていたが、止めたところで無意味であることは、この場の誰よりブライアン自身がよく知っている。兎も角、あえて言葉は口に出さず、肩を竦めながら溜息をつくに留めた。仕方ない、諦めろ、と言外に含ませて。

 そうして始まった飲み会は、初めのうちこそテオドールの存在に気圧されて気まずい雰囲気がそこここに漂っていたが、酒というものは不思議なもので、人の警戒心や自制心を容易く緩めてしまう。結局夜が更け、日付を超える頃には、先程までのよそよそしさがまるで嘘のように、場には明るく陽気な空気だけが満ちていた。

 テオドールに勧められるまま、木杯になみなみと注がれた地元酒を腰に手を当て豪快に呷る者。今度はそのテオドールの空になった木杯に溢れんばかりのワインを注いで、さあ今度は陛下の番です、と煽り立てる者。賑やかなその光景の中に、一国の王はいつの間にか違和感なく溶け込んでいた。酒の席では無礼講、というものだろうか。あの気難しい性格のテオドールは、何を言われてもにやりとした笑みを返し、煽られれば煽り返すという始末で――心底楽しんでいるのだろうことが、ブライアンには容易に見て取れた。

 正にその酒席で、テオドールは全員が酔い潰れてもなお、平然とした顔で酒樽に残ったワインを優雅に呷っていたのだから、さすがのブライアンも度肝を抜かれたものだ。普段鍛えに鍛えた屈強な男どもは皆、机に突っ伏して眠り、或いは青褪めた顔で床に寝転んでいる有様だというのに。終いには、「まだ飲むか?」と、唯一残っていたブライアンに言ってくるものだから――しかも口角をあげた嫌な笑みで――、ほとほと困り果てたのを今でも鮮明に憶えている。

 あの時は正に、彼同様に“酒豪”として名高かった今は亡き先代国王と飲んでいるようだった、と――懐かしい思い出に浸りながら、ブライアンは木杯に注いだワインを呷った。深みのある濃い色をした液体は、口に含んだ瞬間、ふくよかな果実の甘みが舌の上に広がり、それを追いかけるように渋みの余韻がじわりと滲む。喉を滑り落ちてゆく頃には、胸の奥があたたかく満たされるような、やわらかな熱が静かに広がって身体の芯まで沁み渡るようだ。使用人に適当に選ばせて持ってこさせた一本だったが、どうやら当たりであるらしい。

「しかし、よくご自身をだしに使うことを、お許しになりましたな」
「私はもう戻る気がないからな。だから好きにしろと言ったまでだ」

 言いながら、庭園を眺めていた視線を逸らし、テオドールは向かいに腰掛けるブライアンの双眸を、妖しい光を潜めた黄金色の瞳で見つめる。そんな彼に、ブライアンは苦笑をこぼしながら、空になった木杯に再びワインを注いだ。真昼の陽光を浴びれば金のように、月明かりを浴びれば深海の光のように見える、不思議な双眸。何事も見透かすようなこの目と、常に冷静沈着で明晰な頭脳があるからこそ、年若い国王でありながらも、この国は先代からの威厳を損なわず、未だ大陸随一の大国として在り続けられている。

「陛下のご不在は、さすがに問題なのでは」
「構わん。あいつらと仮面遊びをしているくらいなら、ひとりで酒を飲んでいる方がよほどましだ」

 背もたれに無造作に腕を預けながら寄りかかり、再び庭園へと目を移しながらワイングラスに口をつけるテオドールの横顔を、ブライアンは苦い思いを噛み締めながらそっと見つめた。

 テオドールが即位してからというもの、宮廷舞踏会は殆ど開かれたことがない。今回のように他国から賓客でも来ない限りは全くなく、たとえ来訪があったとしても、晩餐会だけで済ませてしまうことが多かった。

 それは彼の社交界嫌いが原因であるが、テオドールがそうなってしまったのも無理からぬことだ、とブライアンは木杯をゆらゆらと弄びながら思う。愛する母親――王太后――への、そして待ち望まれた男子であるにもかかわらず唯一の王子へ向けられた、数々の誹謗。その渦中に晒されたふたりの煩悶は、如何ほどだったことだろう。

 何があろうと自身を護り抜こうとしてくれた夫が亡くなって以降、王太后は殆ど表舞台に姿を現さなくなった。今は王城の広大な敷地の外れにひっそりと建つこじんまりとした離宮に、数人の侍女たちとともに暮らしている。そこを訪れることが出来るのは、愛しい我が子であるテオドールと、公爵であるユーリスといった、信頼の置ける数少ない者たちに限られていた。

 そんな母親の今の姿と、我が子を庇いながらも嘲笑や侮蔑の的にされ続けた嘗ての姿を目の当たりにしてきたからこそ、テオドールはセシリアを密かに気にかけているのだろう。きっと彼は、愛する母親と、まさに今その渦中にいるセシリアを、重ねて見ているに違いない。

「それに、あの我儘なお姫様は、私の存在など眼中にないからな。あの女はユーリスさえ傍にいれば、それだけで十分なのだろう」

 くつくつと喉を鳴らして笑うテオドールに同意を返しながら、ブライアンは舞踏の間で見た、まるで天使のように愛らしい王女のかんばせを脳裏に思い浮かべる。

 ゆるく波打った美しいプラチナブロンドの髪、透き通るような白い肌、長い睫毛に囲まれたぱっちりとした大きな目、その奥に輝く淡いピンク色の光、果実のように瑞々しいふっくらとした唇。

 まるで絵画から抜け出してきたようなその美貌は、あの会場にいた多くの者たちの心を射抜いたことだろう。男も女も問わずに。そんな彼女から微笑みを向けられれば、相手はひとたまりもなかろう。人の目を惹いて離さない愛らしさと、純粋無垢そのもののような清廉さ、そして妖艶な甘さまでをも兼ね備えた――正に精巧に造られたビスクドールのような王女。

 しかし――。底の見えかけた木杯にワインを注ぎ足し、それをひと呷りしてから、ブライアンはガゼボを囲むように広がる庭へと目を向けた。

 長年騎士として第一線に立ってきたのだから、分かる。あの女は、誰もが羨む類稀な麗貌に、思わず息を呑むほどの慈愛に満ちたやさしい笑みを浮かべてはいるが、それはただの仮面に過ぎない、ということを。その裏にはきっと、とろりと甘い蜜を装った毒がたっぷりと潜んでいることだろう。――ほんの一瞬、セシリアへ向けた、まるで勝ち誇ったような笑みを、ブライアンは無論見逃していない。

「色男は大変だな」
「陛下とて、十分色男でしょうに」
「生憎私は、そういったことにはまるで興味がない」

 そういえばいつだったか、テオドールが后候補を選ぼうとしない、聞く耳を持とうともしない、とユーリスが愚痴をこぼしていたのを、ブライアンは思い出す。大臣たちに泣きつかれて説得を試みたようだが、テオドールが最も信頼を寄せるユーリスですらお手上げだというのだから、彼の気が変わるまでは誰にもどうにも出来まい。

「何故そこまで、興味がないのですか」

 ふわりと吹き抜けた夜風が頬を撫で、一面に咲き乱れる白い花々を優しくかすめるように過ぎてゆく。白くも透明にも見える不思議な花弁をしたその花は、王太后の故郷である国の名産であり、夜にしか咲かないことから、ムーンヴェールと名付けられている。

 先代国王が、愛する妻がいつでも故郷の思い出に浸れるようにと造った、彼女の為だけの庭園。故に王城の裏手の、ひと目につかない場所にひっそりと在るので、誰も足を運ぶことはない。存在を知らない者もいれば、中には嘗ての噂故に、意図的に避けている者もいる。

 しかし此処は、寧ろそうである方が良いのかもしれない。ゆるりと落ちた沈黙の中でそう思っていると、視界の端で、テオドールがボトルに手を伸ばすのが見えた。

「私は、お前《《たち》》のようにはなれないだろうからな」

 お前たち――。そこに含まれている人物が誰であるのか、ブライアンには問うまでもなかった。ふっと吐息をこぼすように笑みを浮かべ、ブライアンはたっぷりとワインの注がれた木杯に口をつける。

 あの男が騎士団に入団してきたのは、いったい幾つの頃だっただろうか。基本的に高位の爵位を持つ家は、次男や三男を騎士団や近衛隊に入れることはあっても、跡継ぎである長男を入団させることはあまりない。複数の息子がいる家ならまだ良いが、一人息子となれば、万一の時に跡目争いが起きかねないからだ。

 彼もまた、例に漏れず同じような立場だった。ひとつ下に弟はいたが、先代は――特に夫人は――入団に反対していたという。それでも母親をどうにか説得して騎士団へ入団した彼へ、ブライアンはいつだったか問いかけたことがあった。“跡継ぎ”という絶対的な立場がありながら、何故そうまでして騎士団へ入ることを決意したのか、と。

 その時に返ってきた言葉を思い出し、ブライアンは、はっはっと声を上げて笑った。そんな彼に、空になったグラスにワインを注ぎながら、テオドールが訝しげな視線を向ける。

「なんだ、気味が悪いぞ」
「いやはや、少し昔を思い出しましてなあ」
「独り笑いなら、なお不気味だ」

 呆れたように肩を竦めるテオドールを横目に、ブライアンはごくりと喉を鳴らしてワインを飲み干した。

 さて、今や国王に多大な信頼を寄せられる宰相にまでなった彼は、果たしてこれからどうするつもりでいるのだろうか。――もう何年も前に聞いた、《《あの決意》》を、忘れていないのならば。