頭上から聞こえてきた低く落ち着いた声は、決して大きくはないというのに、広間のざわめきの中にあっても、セシリアの耳にやけに明瞭に、すうっと流れ込んできた。まるで清冽な水のように。
はっとして顔を上げると、少しずつ晴れてきた視界いっぱいに、大きな背中が映り込んだ。黒い軍服に包まれた、大きくて逞しい背中が。銀の装飾が施された襟元で、シャンデリアの灯りに照らされた白銀の髪が、艷やかに輝いている。
ユーリス――。
名を口にしようとして、しかし動かした唇の間から漏れたのは、掠れた吐息だけだった。代わりに、カトリーヌが彼の名を呼ぶ声が聞こえる。上機嫌であることを隠そうともしない、まるで砂糖菓子のような甘ったるい声。
どうして彼は――。不安定な足をどうにか堪えながら、セシリアは茫然と、夫の後ろ姿を見つめる。どうして彼は、まるでカトリーヌの視界から隠すように、間に割って入ったのだろう。助ける為だろうか。それとも、“落ちぶれ貴族のみっともない娘”である妻の姿を、これ以上晒したくないからだろうか。
セシリアの視線を、ユーリスは間違いなく背中で感じ取っているだろうに。見上げていることに、気付いているだろうに。それでも彼は、肩越しですら、背後を一瞥しようとしない。その態度が、割って入った理由そのもののような気がして、セシリアは唇を噛み締めた。
――旦那様より、今回の舞踏会には参加しなくても構わない、と言付かっておりまして。
グレアムは、宰相としての務めがあるから、と言っていた。だから決して、他の令嬢を誘っているわけではない、とも。
確かに他の令嬢を誘ったわけではないのだろう。けれど本当は、そんな理由ではなかったのではないだろうか。務めや令嬢なんて関係なく――きっと一国の王女に、しかも自分に想いを寄せているのが明らかな女性の前に、見窄らしい妻を見せたくなかっただけなのではないだろうか。聡い彼が、カトリーヌの機微に気付いていないはずがないのだから。
背中の裏に隠しているのも、ちらとも視線を向けないのも、だから――。
「大臣たちが、王女殿下にお目通りしたいとのことで。今か今かと待ちくたびれておられます」
「まあ、それは大変。すぐに伺いますわ。ユーリス様、案内していただけるかしら?」
まるでセシリアがいることなど気付いていない――或いは、そもそもそこにいると認識していない――かのように、ふたりだけで言葉を交わしながら、視界を遮っていた背中が、一歩、また一歩と、目の前から遠ざかってゆく。ついぞ一瞥すらされることなく。よく知った薫りが、あたたかいことを知っている背中が――少しずつ、けれど確かに、どんどんと離れてゆく。
そんな彼の傍らに、まるで今にも腕を絡ませそうな近さで寄り添うカトリーヌの横顔には、恍惚とした表情が浮かんでいた。それが何故なのかなど、考えるまでもない。一度でも誰かを愛したことのある人間ならば、嫌でも察しがつく。
どうすることも出来ずに、遠く離れてゆく二人の後ろ姿を、ただ立ち尽くして見ていることしか出来なかったセシリアの瞳に、ふと、カトリーヌの薄いピンク色の瞳が重なった。肩越しに、こちらを振り返って――まるで全てを手中に収めたと言わんばかりの、艶やかな笑みとともに。
「公爵殿と王女殿下は、随分と親しげだな」
「なんだお前、あの話を知らないのか?」
どこからともなく、誰とも知らない声が勝手に耳に入り込んでくる。声を潜めすらしないところからして、一部始終を気の済むまで愉しんだ後、嘲りをこめて聞こえよがしに喋っているのだろう。
もう何も聞きたくない、と思うのに。今すぐここから逃げ出したい、と思うのに。手も足も、まるで空に縫い留められてしまったみたいに、ぴくりとも動かない。
そんなセシリアのことなど関係なしに、誰とも知らない男性たちの声が、ささくれだった鼓膜に容赦なく突き刺さる。
「なんでも、王女殿下が公爵殿に縁談を申し込んだそうだぞ」
「縁談? おいおい、既婚と知っての上でか?」
「ああ、もちろん。まあ、公爵殿もさぞ嬉しいのではないか? お荷物でしかない妻を切り捨てる、良い機会だからなあ」
時が、止まったような気がした。頭が、心臓が、血潮が――身体の内側にあるものだけでなく、視界に映る華々しい景色を彩るものまで、何もかも全てが、一瞬にして。
あれだけ密集していた人垣が、ユーリスとカトリーヌのふたりに道を作るように割れている。シャンデリアの落とす光に照らされた、神々しい一本道。それはまるで、結婚式の日に歩んだ身廊によく似ていた。三年前に、ふたりで歩んだあの道に。けれど今、彼の隣りにいるのは全く違う女性だ。その光景が、そう遠くない未来を映し出しているかのようで――セシリアは、お腹の底からこみ上げてくる苦いものを堪えるように、そっと掌を握り締めた。
そんな光景を、誰も彼もが卑しい笑みを滲ませながら眺めている。ぴたりと寄り添うカトリーヌと、ひとり置き去りにされたセシリアを交互に見遣っては、ひそひそとせせら嗤うことをやめない。
無数の嘲笑を全身に浴びせられながら、それでもただ立ち尽くしていることしか出来ないセシリアの視界に、不意に、大柄な体躯をした男性が映り込んだ。所々に白髪の混じった亜麻色の短い髪、深い灰青色をした怜悧な瞳。
彼は何故かセシリアの方を真っ直ぐに見据えたまま、ユーリスの真横を通り過ぎる。互いの肩が触れてしまいそうなほどの距離で。そのままふたりの為に作られたかのような一本道を、彼は何喰わぬ顔で颯爽と歩んでくる。一歩一歩に力強さを感じさせる、迷いのない堂々とした足取りで。
その人がモランベスト夫人の夫であり、騎士団副団長を務めるブライアンだとセシリアが漸く気付いたのは、彼が目の前でぴたりと足を止めてからのことだった。
「やあ、セシリア嬢。久しぶりだな!」
舞踏の間に、朗々と響き渡る、低く渋い声。わざとらしいほどに大きく快活なその声は、明らかにこの場の全ての空気を、一瞬にして塗り替えた。
彼の声に、或いは存在に気圧されたのか、周囲でひそひそと嗤っていた者たちが、一斉に視線を背ける。ブライアンはそんな周囲の反応など意に介した様子もなく、セシリアへと向けた笑顔を崩さないまま、視線の高さを合わせるように、僅かに腰を折った。
「先日は、妻の茶会に参加してくれたそうで。礼を言うよ。アメリアは大層喜んでいたぞ。自慢の庭を誉めてもらったとな」
そう言いながら、ブライアンは豪快に声を上げて笑う。そんな彼をまるで目印にしたかのように、人混みをかき分けながら走り寄ってくる夫人の姿が視界の端に見えた。
「遅くなってしまってごめんなさい。すぐに戻れなくて」
「まあ、仕方ないさ」
互いに視線を交わし合い、夫妻は揃ってセシリアへと目を向ける。周りから向けられていた刃のような鋭い視線ではなく、やさしさに満ちたあたたかな眼差し。今はただそれだけで、堪えていたものが溢れ出してしまいそうな気がして、セシリアは握り締めた手にそっと力をこめながら、どうにか笑みを繕った。きっとぎこちなく、不格好な笑みになっているだろうけれど。それでも、ふたりにこれ以上心配をかけまいとして。
「それにしても、此処は人が多すぎて息苦しいな。まるで窒息しそうだ」
「久方ぶりの宮廷舞踏会ですもの。皆さん踊って飲んで、思う存分楽しみたいのですわ」
ふふっ、とやわらかに笑う夫人を横目で一瞥し、それからブライアンは何かを思い出したように、右手の拳でぽんと左掌を叩いた。
「ああ、そうだ、セシリア嬢。実は陛下に、外で庭でも眺めながら一杯やらないか、と誘われていてな。よければ、君もどうだい?」
「あ、あの……私、お酒はそんなに……」
「まあ、それは素敵ですわね。確か王城の庭園には、夜にしか咲かない花があると伺いましたわ」
突拍子もない申し出に呆気にとられるが、どうにかしようにも、ぽんぽんと矢継ぎ早に交わされる夫妻の会話に呑まれてしまい、セシリアは断る口実も機会も失う。テオドールやブライアンほどお酒には強くなく、チェリー酒をちびちびと飲むのが精一杯だと言うのに。そんな自分が場に参加しても、面白みは欠片もないだろう。それに、何より今は――。
ふっと翳ってしまった一瞬の表情のせいで心中を見透かされたのか、不意にセシリアの背中へ、夫人の手がやさしく添えられた。さあ、行きましょう、と――穏やかなオリーブ色の瞳だけで促しながら。それはまるで、幼い子どもの手を引く母親のそれのようだ、とセシリアは小さく頷きながら思う。
「いやあ、陛下といえば酒豪で有名でしょう。一杯では到底済むまいと思いましてな。なんせ、酒樽まるまる飲み明かしても平然としておられるような御方ですから。私ひとりでは、とても太刀打ち出来んのですよ」
一杯なんて大嘘に決まっている、と不満そうに眉根を寄せながら、それでも決して不快とは思っていない朗らかな口調で話すブライアンの、服の上からでも分かるほど隆々とした背中の後ろについて、セシリアは彼に導かれるまま足を進めた。
さすがに大柄で、且つ“鬼の副団長”の異名を持つブライアンが傍にいるからか、周囲から不躾な視線を向けられることはなく、人々で溢れ返った会場には自然と道が開け、美しく装飾の施された重厚な扉がすぐに見えてくる。その間にも、ブライアンは磊落に喋り続けていた。時折夫人の、やわらかな笑い声を挟みながら。
「いけませんわよ、セシリア様にそんなに飲ませては」
「ははっ、そうだな。そんなことをすれば、俺が怒られちまう。しかしまあ、野郎同士よりも、華がある方が話は捗るからなあ」
先をゆくブライアンが指示をせずとも、入口の両脇に背筋を伸ばして控えていたふたりの使用人が、真鍮製のノブに手をかけ、王家の紋章の刻み込まれた扉をゆっくりと開けた。玄関口は開け放しにされたままなのか、舞踏の間から一歩足を踏み出した途端、夜のしっとりとした風が仄かに頬を撫でた。
「だが、少しはセシリア嬢を借りても、文句は言われまい」
くっくっ、と喉を鳴らして笑いながら、ブライアンは正面玄関ではなく、エントランスの右に伸びる廊下を真っ直ぐ進んでゆく。最初の角を曲がると、白と黒の菱形の大理石が交互に敷き詰められた床が、まるで巨大な盤のように整然と広がり、磨き込まれた表面が燭台の炎を静かに映し出していた。更にもう一度、今度は左へ角を曲がると、あんなにも騒々しかった大広間の喧騒が、まるで嘘のように少しも聞こえず、夜の深閑とした空気だけが、月明かりの差し込む廊下をやさしく包み込んでいる。
やがてアーチ型をした扉に辿り着くと、錠はかけられていないのか、ブライアンは何の躊躇いもなくそれを引き開いた。その瞬間、ふわりと吹き抜けた夜風に髪が靡き、鼻先を上品で甘やかな花の薫りが通り過ぎてゆく。
扉の先に広がるのは、短く刈り込まれた灌木と、それに縁取られた白い石畳だった。所々に、そよそよと気持ちよさげに揺れるラベンダーの植えられた一角や、瑞々しい緑色をしたフェスク、細長い葉を垂らしたカレックスが茂っているのが見受けられる。しかしくるりと周囲に目を向けてみても、お酒を飲めるようなガゼボもなければベンチもない。もちろん、誘いを持ち出したらしいテオドールの姿も。
その光景を前に、そもそも“庭”というにはあまりにも小さく、その言葉はそぐわないのではないか、とセシリアは思う。どちらかといえば“裏の出入り口”と言った方が正しいのでは――と訝しむ間もなく、彼女の目はすぐに、石畳の上に停められた馬車と、その前に佇む錬鉄製の門扉へと吸い寄せられた。
セシリアたちに気付いた御者が、馭者台から素早く降りて、キャビンの扉に手をかける。そこにはよく見知った――あまりにも目に馴染みすぎた公爵家の紋章がはっきりと取り付けられていた。それはまるで、己の存在を強調するかのように、月明かりを浴びて、白い光の粒を湛えながらきらりと輝いている。
「えっ……」
何がどうなっているのか理解できず、扉の開かれた馬車を茫然と見つめていると、頭上から「すまんな」と労るような声が降ってきた。当惑しながら、セシリアは傍らに立つブライアンの双眸を見上げる。その視線に気付いた彼は、深い灰青色の瞳でしっかりとそれを受け止めると、どこか申し訳なさそうに眉を下げ、それからゆっくりとひとつ瞬いた。
「君をあのままにしておけば、針の筵にされるのは避けられんだろう。それに、その顔色では立っているのもままならんはずだ」
そこで漸く、セシリアは気付く。舞踏の間で夫妻が交わした遣り取りは、全て“演技”だったのだ、と。セシリアを自然と外へ連れ出し、馬車に乗せて帰らせる為の計らい。酒豪であるテオドールの名を出したのは、セシリアが会場へなかなか戻らずとも、「一杯では済まない」「一杯なんて大嘘だ」という言葉で、長く付き合わされているのだろう、と、違和感なく誤魔化すのに有効だったからだろう。会場中に響き渡るような大声で、快活に喋っていたのも、恐らくはわざと周囲の人々に聞かせる為――。
きっとユーリスとすれ違い、あの一本道を真っ直ぐに歩んできたあの時から既に、ブライアンはそれを考えていたのだ。そして夫人は、一瞬の目配せで夫の意を察し、それに合わせた。王城の庭園には夜にしか咲かない花がある、と、言葉を添えて。
「私は……そんなに酷い顔を、しているのでしょうか」
「頑張って繕っているんだろうが、分かる者には分かる。長年騎士団の副団長を務める私の目は、誤魔化せませんぞ」
そう言って笑うブライアンのかんばせを見つめながら、セシリアはあまりの情けなさに苦笑をこぼす。何となく分かってはいたけれど。いざ無理をしている事実を言葉にして突きつけられると、強張っていた心がふっと緩みそうになってしまう。しかも相手が、こんなにも自分を気遣ってくれるモランベスト夫妻であれば、尚のこと。
「……ご迷惑をおかけして、申し訳ございません」
「何を仰る。セシリア嬢が謝ることでは断じてない。何しろ私は――」
ブライアンが何かを言いかけた刹那、隣に立っていた夫人が、彼の脇腹をつんと肘でつついた。ほんの一瞬の、本当にさりげない仕草ではあったけれど。それだけで、ふたりの間に何かしらの"秘め事"があるのは感じ取れたが、今はそれを考えるだけの余裕が、セシリアには少しも残ってはいなかった。ブライアンの指摘は、実に正しい。立っていることさえ、今はひどく疲れてしまう。
「さあ、私たちのことはお気になさらず、馬車にお乗りになって下さいな」
夫人にそっと背中を押され、セシリアは軽く頭を下げてから、御者の手をとってステップを登る。慣れ親しんだ、緞子張りの座席に腰を下ろすと、まるで身体そのものが鉛にでもなったみたいに、深く沈み込む感覚がした。
「この御恩は、いつか必ずお返しいたします」
扉から覗き込むブライアンへ、今度は深々と頭を下げる。すると彼は、はっはっ、と声を上げておおらかに笑った。
「気にするな、セシリア嬢。私はただ、己が信じるものに従っただけだ」
信じるもの――。それは、彼が騎士団の副団長として、夫人と同じくらい大事にしている"騎士道"というものだろうか。そう考えるものの、思考はそれ以上深く潜ることはなく、そうしている内にブライアンの指示に従い、御者が扉を閉めた。重々しい音が、ほんの刹那、室内に響く。けれどそれはすぐに、キャビンに満ちる静謐な空気の中へと、溶けて消えていった。
ゆっくりと走り出した馬車の窓から、夜の帷に包まれた道を、セシリアはぼんやりと見つめる。全ての思考と、全ての感情から――今この時だけは、目を背けて。
はっとして顔を上げると、少しずつ晴れてきた視界いっぱいに、大きな背中が映り込んだ。黒い軍服に包まれた、大きくて逞しい背中が。銀の装飾が施された襟元で、シャンデリアの灯りに照らされた白銀の髪が、艷やかに輝いている。
ユーリス――。
名を口にしようとして、しかし動かした唇の間から漏れたのは、掠れた吐息だけだった。代わりに、カトリーヌが彼の名を呼ぶ声が聞こえる。上機嫌であることを隠そうともしない、まるで砂糖菓子のような甘ったるい声。
どうして彼は――。不安定な足をどうにか堪えながら、セシリアは茫然と、夫の後ろ姿を見つめる。どうして彼は、まるでカトリーヌの視界から隠すように、間に割って入ったのだろう。助ける為だろうか。それとも、“落ちぶれ貴族のみっともない娘”である妻の姿を、これ以上晒したくないからだろうか。
セシリアの視線を、ユーリスは間違いなく背中で感じ取っているだろうに。見上げていることに、気付いているだろうに。それでも彼は、肩越しですら、背後を一瞥しようとしない。その態度が、割って入った理由そのもののような気がして、セシリアは唇を噛み締めた。
――旦那様より、今回の舞踏会には参加しなくても構わない、と言付かっておりまして。
グレアムは、宰相としての務めがあるから、と言っていた。だから決して、他の令嬢を誘っているわけではない、とも。
確かに他の令嬢を誘ったわけではないのだろう。けれど本当は、そんな理由ではなかったのではないだろうか。務めや令嬢なんて関係なく――きっと一国の王女に、しかも自分に想いを寄せているのが明らかな女性の前に、見窄らしい妻を見せたくなかっただけなのではないだろうか。聡い彼が、カトリーヌの機微に気付いていないはずがないのだから。
背中の裏に隠しているのも、ちらとも視線を向けないのも、だから――。
「大臣たちが、王女殿下にお目通りしたいとのことで。今か今かと待ちくたびれておられます」
「まあ、それは大変。すぐに伺いますわ。ユーリス様、案内していただけるかしら?」
まるでセシリアがいることなど気付いていない――或いは、そもそもそこにいると認識していない――かのように、ふたりだけで言葉を交わしながら、視界を遮っていた背中が、一歩、また一歩と、目の前から遠ざかってゆく。ついぞ一瞥すらされることなく。よく知った薫りが、あたたかいことを知っている背中が――少しずつ、けれど確かに、どんどんと離れてゆく。
そんな彼の傍らに、まるで今にも腕を絡ませそうな近さで寄り添うカトリーヌの横顔には、恍惚とした表情が浮かんでいた。それが何故なのかなど、考えるまでもない。一度でも誰かを愛したことのある人間ならば、嫌でも察しがつく。
どうすることも出来ずに、遠く離れてゆく二人の後ろ姿を、ただ立ち尽くして見ていることしか出来なかったセシリアの瞳に、ふと、カトリーヌの薄いピンク色の瞳が重なった。肩越しに、こちらを振り返って――まるで全てを手中に収めたと言わんばかりの、艶やかな笑みとともに。
「公爵殿と王女殿下は、随分と親しげだな」
「なんだお前、あの話を知らないのか?」
どこからともなく、誰とも知らない声が勝手に耳に入り込んでくる。声を潜めすらしないところからして、一部始終を気の済むまで愉しんだ後、嘲りをこめて聞こえよがしに喋っているのだろう。
もう何も聞きたくない、と思うのに。今すぐここから逃げ出したい、と思うのに。手も足も、まるで空に縫い留められてしまったみたいに、ぴくりとも動かない。
そんなセシリアのことなど関係なしに、誰とも知らない男性たちの声が、ささくれだった鼓膜に容赦なく突き刺さる。
「なんでも、王女殿下が公爵殿に縁談を申し込んだそうだぞ」
「縁談? おいおい、既婚と知っての上でか?」
「ああ、もちろん。まあ、公爵殿もさぞ嬉しいのではないか? お荷物でしかない妻を切り捨てる、良い機会だからなあ」
時が、止まったような気がした。頭が、心臓が、血潮が――身体の内側にあるものだけでなく、視界に映る華々しい景色を彩るものまで、何もかも全てが、一瞬にして。
あれだけ密集していた人垣が、ユーリスとカトリーヌのふたりに道を作るように割れている。シャンデリアの落とす光に照らされた、神々しい一本道。それはまるで、結婚式の日に歩んだ身廊によく似ていた。三年前に、ふたりで歩んだあの道に。けれど今、彼の隣りにいるのは全く違う女性だ。その光景が、そう遠くない未来を映し出しているかのようで――セシリアは、お腹の底からこみ上げてくる苦いものを堪えるように、そっと掌を握り締めた。
そんな光景を、誰も彼もが卑しい笑みを滲ませながら眺めている。ぴたりと寄り添うカトリーヌと、ひとり置き去りにされたセシリアを交互に見遣っては、ひそひそとせせら嗤うことをやめない。
無数の嘲笑を全身に浴びせられながら、それでもただ立ち尽くしていることしか出来ないセシリアの視界に、不意に、大柄な体躯をした男性が映り込んだ。所々に白髪の混じった亜麻色の短い髪、深い灰青色をした怜悧な瞳。
彼は何故かセシリアの方を真っ直ぐに見据えたまま、ユーリスの真横を通り過ぎる。互いの肩が触れてしまいそうなほどの距離で。そのままふたりの為に作られたかのような一本道を、彼は何喰わぬ顔で颯爽と歩んでくる。一歩一歩に力強さを感じさせる、迷いのない堂々とした足取りで。
その人がモランベスト夫人の夫であり、騎士団副団長を務めるブライアンだとセシリアが漸く気付いたのは、彼が目の前でぴたりと足を止めてからのことだった。
「やあ、セシリア嬢。久しぶりだな!」
舞踏の間に、朗々と響き渡る、低く渋い声。わざとらしいほどに大きく快活なその声は、明らかにこの場の全ての空気を、一瞬にして塗り替えた。
彼の声に、或いは存在に気圧されたのか、周囲でひそひそと嗤っていた者たちが、一斉に視線を背ける。ブライアンはそんな周囲の反応など意に介した様子もなく、セシリアへと向けた笑顔を崩さないまま、視線の高さを合わせるように、僅かに腰を折った。
「先日は、妻の茶会に参加してくれたそうで。礼を言うよ。アメリアは大層喜んでいたぞ。自慢の庭を誉めてもらったとな」
そう言いながら、ブライアンは豪快に声を上げて笑う。そんな彼をまるで目印にしたかのように、人混みをかき分けながら走り寄ってくる夫人の姿が視界の端に見えた。
「遅くなってしまってごめんなさい。すぐに戻れなくて」
「まあ、仕方ないさ」
互いに視線を交わし合い、夫妻は揃ってセシリアへと目を向ける。周りから向けられていた刃のような鋭い視線ではなく、やさしさに満ちたあたたかな眼差し。今はただそれだけで、堪えていたものが溢れ出してしまいそうな気がして、セシリアは握り締めた手にそっと力をこめながら、どうにか笑みを繕った。きっとぎこちなく、不格好な笑みになっているだろうけれど。それでも、ふたりにこれ以上心配をかけまいとして。
「それにしても、此処は人が多すぎて息苦しいな。まるで窒息しそうだ」
「久方ぶりの宮廷舞踏会ですもの。皆さん踊って飲んで、思う存分楽しみたいのですわ」
ふふっ、とやわらかに笑う夫人を横目で一瞥し、それからブライアンは何かを思い出したように、右手の拳でぽんと左掌を叩いた。
「ああ、そうだ、セシリア嬢。実は陛下に、外で庭でも眺めながら一杯やらないか、と誘われていてな。よければ、君もどうだい?」
「あ、あの……私、お酒はそんなに……」
「まあ、それは素敵ですわね。確か王城の庭園には、夜にしか咲かない花があると伺いましたわ」
突拍子もない申し出に呆気にとられるが、どうにかしようにも、ぽんぽんと矢継ぎ早に交わされる夫妻の会話に呑まれてしまい、セシリアは断る口実も機会も失う。テオドールやブライアンほどお酒には強くなく、チェリー酒をちびちびと飲むのが精一杯だと言うのに。そんな自分が場に参加しても、面白みは欠片もないだろう。それに、何より今は――。
ふっと翳ってしまった一瞬の表情のせいで心中を見透かされたのか、不意にセシリアの背中へ、夫人の手がやさしく添えられた。さあ、行きましょう、と――穏やかなオリーブ色の瞳だけで促しながら。それはまるで、幼い子どもの手を引く母親のそれのようだ、とセシリアは小さく頷きながら思う。
「いやあ、陛下といえば酒豪で有名でしょう。一杯では到底済むまいと思いましてな。なんせ、酒樽まるまる飲み明かしても平然としておられるような御方ですから。私ひとりでは、とても太刀打ち出来んのですよ」
一杯なんて大嘘に決まっている、と不満そうに眉根を寄せながら、それでも決して不快とは思っていない朗らかな口調で話すブライアンの、服の上からでも分かるほど隆々とした背中の後ろについて、セシリアは彼に導かれるまま足を進めた。
さすがに大柄で、且つ“鬼の副団長”の異名を持つブライアンが傍にいるからか、周囲から不躾な視線を向けられることはなく、人々で溢れ返った会場には自然と道が開け、美しく装飾の施された重厚な扉がすぐに見えてくる。その間にも、ブライアンは磊落に喋り続けていた。時折夫人の、やわらかな笑い声を挟みながら。
「いけませんわよ、セシリア様にそんなに飲ませては」
「ははっ、そうだな。そんなことをすれば、俺が怒られちまう。しかしまあ、野郎同士よりも、華がある方が話は捗るからなあ」
先をゆくブライアンが指示をせずとも、入口の両脇に背筋を伸ばして控えていたふたりの使用人が、真鍮製のノブに手をかけ、王家の紋章の刻み込まれた扉をゆっくりと開けた。玄関口は開け放しにされたままなのか、舞踏の間から一歩足を踏み出した途端、夜のしっとりとした風が仄かに頬を撫でた。
「だが、少しはセシリア嬢を借りても、文句は言われまい」
くっくっ、と喉を鳴らして笑いながら、ブライアンは正面玄関ではなく、エントランスの右に伸びる廊下を真っ直ぐ進んでゆく。最初の角を曲がると、白と黒の菱形の大理石が交互に敷き詰められた床が、まるで巨大な盤のように整然と広がり、磨き込まれた表面が燭台の炎を静かに映し出していた。更にもう一度、今度は左へ角を曲がると、あんなにも騒々しかった大広間の喧騒が、まるで嘘のように少しも聞こえず、夜の深閑とした空気だけが、月明かりの差し込む廊下をやさしく包み込んでいる。
やがてアーチ型をした扉に辿り着くと、錠はかけられていないのか、ブライアンは何の躊躇いもなくそれを引き開いた。その瞬間、ふわりと吹き抜けた夜風に髪が靡き、鼻先を上品で甘やかな花の薫りが通り過ぎてゆく。
扉の先に広がるのは、短く刈り込まれた灌木と、それに縁取られた白い石畳だった。所々に、そよそよと気持ちよさげに揺れるラベンダーの植えられた一角や、瑞々しい緑色をしたフェスク、細長い葉を垂らしたカレックスが茂っているのが見受けられる。しかしくるりと周囲に目を向けてみても、お酒を飲めるようなガゼボもなければベンチもない。もちろん、誘いを持ち出したらしいテオドールの姿も。
その光景を前に、そもそも“庭”というにはあまりにも小さく、その言葉はそぐわないのではないか、とセシリアは思う。どちらかといえば“裏の出入り口”と言った方が正しいのでは――と訝しむ間もなく、彼女の目はすぐに、石畳の上に停められた馬車と、その前に佇む錬鉄製の門扉へと吸い寄せられた。
セシリアたちに気付いた御者が、馭者台から素早く降りて、キャビンの扉に手をかける。そこにはよく見知った――あまりにも目に馴染みすぎた公爵家の紋章がはっきりと取り付けられていた。それはまるで、己の存在を強調するかのように、月明かりを浴びて、白い光の粒を湛えながらきらりと輝いている。
「えっ……」
何がどうなっているのか理解できず、扉の開かれた馬車を茫然と見つめていると、頭上から「すまんな」と労るような声が降ってきた。当惑しながら、セシリアは傍らに立つブライアンの双眸を見上げる。その視線に気付いた彼は、深い灰青色の瞳でしっかりとそれを受け止めると、どこか申し訳なさそうに眉を下げ、それからゆっくりとひとつ瞬いた。
「君をあのままにしておけば、針の筵にされるのは避けられんだろう。それに、その顔色では立っているのもままならんはずだ」
そこで漸く、セシリアは気付く。舞踏の間で夫妻が交わした遣り取りは、全て“演技”だったのだ、と。セシリアを自然と外へ連れ出し、馬車に乗せて帰らせる為の計らい。酒豪であるテオドールの名を出したのは、セシリアが会場へなかなか戻らずとも、「一杯では済まない」「一杯なんて大嘘だ」という言葉で、長く付き合わされているのだろう、と、違和感なく誤魔化すのに有効だったからだろう。会場中に響き渡るような大声で、快活に喋っていたのも、恐らくはわざと周囲の人々に聞かせる為――。
きっとユーリスとすれ違い、あの一本道を真っ直ぐに歩んできたあの時から既に、ブライアンはそれを考えていたのだ。そして夫人は、一瞬の目配せで夫の意を察し、それに合わせた。王城の庭園には夜にしか咲かない花がある、と、言葉を添えて。
「私は……そんなに酷い顔を、しているのでしょうか」
「頑張って繕っているんだろうが、分かる者には分かる。長年騎士団の副団長を務める私の目は、誤魔化せませんぞ」
そう言って笑うブライアンのかんばせを見つめながら、セシリアはあまりの情けなさに苦笑をこぼす。何となく分かってはいたけれど。いざ無理をしている事実を言葉にして突きつけられると、強張っていた心がふっと緩みそうになってしまう。しかも相手が、こんなにも自分を気遣ってくれるモランベスト夫妻であれば、尚のこと。
「……ご迷惑をおかけして、申し訳ございません」
「何を仰る。セシリア嬢が謝ることでは断じてない。何しろ私は――」
ブライアンが何かを言いかけた刹那、隣に立っていた夫人が、彼の脇腹をつんと肘でつついた。ほんの一瞬の、本当にさりげない仕草ではあったけれど。それだけで、ふたりの間に何かしらの"秘め事"があるのは感じ取れたが、今はそれを考えるだけの余裕が、セシリアには少しも残ってはいなかった。ブライアンの指摘は、実に正しい。立っていることさえ、今はひどく疲れてしまう。
「さあ、私たちのことはお気になさらず、馬車にお乗りになって下さいな」
夫人にそっと背中を押され、セシリアは軽く頭を下げてから、御者の手をとってステップを登る。慣れ親しんだ、緞子張りの座席に腰を下ろすと、まるで身体そのものが鉛にでもなったみたいに、深く沈み込む感覚がした。
「この御恩は、いつか必ずお返しいたします」
扉から覗き込むブライアンへ、今度は深々と頭を下げる。すると彼は、はっはっ、と声を上げておおらかに笑った。
「気にするな、セシリア嬢。私はただ、己が信じるものに従っただけだ」
信じるもの――。それは、彼が騎士団の副団長として、夫人と同じくらい大事にしている"騎士道"というものだろうか。そう考えるものの、思考はそれ以上深く潜ることはなく、そうしている内にブライアンの指示に従い、御者が扉を閉めた。重々しい音が、ほんの刹那、室内に響く。けれどそれはすぐに、キャビンに満ちる静謐な空気の中へと、溶けて消えていった。
ゆっくりと走り出した馬車の窓から、夜の帷に包まれた道を、セシリアはぼんやりと見つめる。全ての思考と、全ての感情から――今この時だけは、目を背けて。
