「君を愛することはない」と言われて三年、そろそろ白い結婚をやめようと思います

 鈴を転がすような澄んだ声が耳に届き、セシリアは思わずぎょっとした。嘲りや揶揄は、そこここでひそひそと――或いは堂々と聞こえよがしに――されるだろうと覚悟はしていたけれど。まさかこの場で直接声をかけてくる人間がいるとは露ほども思っていなかったせいで、つい反応が遅れてしまった。

 しかも、恐らくは初めて聞く声だ。その上、「公爵夫人か」と今更尋ねられたことに、内心ひどく面食らう。社交界では、良くも悪くもセシリアの存在は広く知れ渡っており、今や知らぬ者などいないはずなのだから。

 恐る恐る――けれど、そうとは悟られないよう繕いながら――振り返ると、そこに立っていたのは、先程まで貴賓台の上にいたエルヴァール王国第二王女、カトリーヌ・ラクロワその人だった。

 薄いピンク色の――光の加減によって微かに黄色みを帯びても見える――瞳と視線が交わった瞬間、セシリアははっと息を呑む。ちらりと周囲を見回すが、護衛らしき人影もなければ、ユーリスの姿もない。たったひとりでセシリアに声をかけてきた彼女を、近くに屯する貴族たちが好奇心を滲ませた目で、ちらちらと窺っている。そんな彼らに限らず、興味を唆られている者はたくさんいるのだろう。私たちは会話を愉しんでいますよ、気付いていませんよ、と素知らぬ顔をしながら、それでも明らかにあちこちから飛んでくる、無遠慮な数多の視線。

 間近で見るカトリーヌは、遠目で見た時以上に、言葉を失ってしまうほどの美貌だった。まるで透き通るような滑らかな白い肌、長い睫毛に縁取られたぱっちりとした二重の大きな目、まるで春の夕暮れを淡く溶かし込んだように血色の良い柔らかな頬、薔薇色のふっくらとした瑞々しい唇。

 そんな彼女を見つめていると、天使、という言葉がまた頭を過ぎった。御伽噺の中や、有名な画家が丹精込めて描いた絵画の中にしか存在しないような、現実離れした美しさ。それでいて、どこか人を惹きつけてやまない、抗いがたい愛らしさもある。

 こんな人が実在するのだ、と、ただただ見惚れてしまいそうになるのをどうにか堪え、セシリアは慌ててドレスの裾を摘み上げると、恭しく膝を折って目を伏せた。

「お初にお目にかかります、カトリーヌ王女殿下。ユーリス・シルヴェイン公爵の妻、セシリアにございます」

 落としていた瞼をゆっくりと持ち上げると、カトリーヌはふわりと、婉然に微笑んだ。まるで繊細な花が、やわらかく開くように。それはほんの僅かな仕草に過ぎないのに、不思議と目が離せなくなる。傍を通り過ぎた紳士が思わず足を止め、近くにいた令嬢たちが微かにざわめく。ただ微笑んだだけで、周囲の空気ごと塗り替えてしまうような、或いは、一度見た者の心を春風のように攫ってゆくような、蠱惑的なまでに愛らしい笑み。

 こんな絶世の美女に見つめられれば、男性はひとたまりもないだろう、とセシリアは思う。同性である自分でさえ、彼女の笑みの前にどきまぎしてしまっているのだから。

「まあ、やはり貴女が、ユーリス様の……」

 まるで独り言のようにそう囁き、カトリーヌはすうっと目を眇める。その瞬間、セシリアの背筋に、ぞくりと冷たいものが走った。長い睫毛の下で妖しく光るピンク色の瞳のせいか、それとも、整いすぎるほどに美しい弧を描く唇のせいか。震えが薄れた後も、冷たく嫌な感触が背中のそこここにべっとりとこびりついたまま、離れない。

 先程まであれほど愛らしく見えていたはずの瞳が、今はどこか底知れない暗さを帯びているように感じる。笑みは変わらず浮かんでいるのに、その奥に何があるのか、まるで読めない。蜜の中に、見えない棘が潜んでいるような――そんな、嫌な予感がするのは、どうしてだろう。

「まあ、お会い出来て光栄ですわ、シルヴェイン公爵夫人。色々とお噂は伺っておりましたから、どのようなお方か一度お会いしてみたく、楽しみにしておりましたの」

 セシリアを見据える視線は逸らさぬまま、カトリーヌはそう言ってごく自然に、ふふっと笑みを深める。そんな彼女の、真っ直ぐ、まるで射抜くように向けられる眼差しに、セシリアは全身がぞわりと粟立つのを感じた。

 知っている、と思う。自分はこの視線を知っている、と——。

 社交界に出るようになってから、幾度となく向けられてきた視線だ。嘲りであり、侮蔑であり、或いは値踏みするような視線。「会えて光栄」などと口先では言っているけれど、表面を取り繕っているだけで、言葉の節々からどろりとした黒いものが滲み出ているのが、ひしひしと感じ取れる。

 そもそも何故、初めてヴェルミア王国へ来訪したというカトリーヌが、この国の社交界や市井でしか流れていない噂を知っているのだろうか。王族でもない人間の嘲笑話が、他国の、それも王女の耳に届くほど広まっているとは到底思えない。

 考えれば考えるほど、頭の奥で鳴り響く警鐘が、どんどんと大きくなってゆく。視線を逸らしたい、と思う。愛想笑いを返せれば。いつものように適当に受け流せれば。お世辞を口にして、さりげなく場を逃れられれば。そう強く思うのに、まるで蛇に睨まれた蛙のように、ただじっと、とろりとした薄いピンク色の瞳を見つめ返すことしか出来ない。

 さすがは一国の王女だ、とセシリアは胸の内で深々と溜息をつく。分かりやすい悪意に慣れすぎたせいだろうか。これならば寧ろ、普段からあからさまに嘲笑を向けてくる貴族たちの方がよほど良い、と思えてしまう。分かりやすいだけまだましだ、と。

 真意を巧みに隠しながら、しかし敢えてそうと気付かせるように棘を潜ませる――そういうタイプは、どうしても対処に困る。しかも彼女の場合は、表面上どこまでも穏やかで愛らしい、まるで清廉潔白を絵に描いたような笑みを崩さないのだから、余計に質が悪い。

「夫人は、ユーリス様と幼馴染でいらっしゃるのでしょう?」
「え、ええ……。家族ぐるみで仲が良かったものですから」
「まあ、それは素敵ですこと。でしたらぜひ、ユーリス様の幼少期のお話を聞かせてくださらないかしら?」

 純白の布地に薄桃色の糸で花の刺繍がたっぷりと施された扇で口元を隠しながら、カトリーヌは無邪気さを――そうとは周りに気付かれぬよう――装って、セシリアへずいっと身体を寄せた。興味津々といった無垢な姿を演じながら、その実、繊細な扇の裏側には、無論、にやりとした毒を含んだ笑みが浮かんでいることだろう。未だセシリアを捉えて離さないカトリーヌの瞳も、唇から紡がれる声も、蜜のように甘く、花のように愛らしいのに、その全てが、罠を孕んでいるように冷たく感じられる。

「どんな幼少期をお過ごしになっていたのか、とても気になりますの」

 その瞬間、気付かざるを得なかった。彼女が何故自分に声をかけてきたのか。“会いたかった”と言ったのか。こんなにも幼少期の話を聞きたがるのか。そして――彼女が意図して、敢えてこちらが“気付く”ような素振りを、含みを見せるのか。

 気付いてしまえばもう、平静を繕うだけで精一杯だった。頭の中が真っ白に弾け、言葉は何ひとつ浮かんではこない。胸の奥が、じくりと鈍く疼いている。カトリーヌの瞳を見つめれば見つめるほど、新鮮な傷口に自ら塩を塗り込んでいるのに、どうしても逸らすことが出来ない。自分は今、何をしているのだろう。何をされているのだろう。どうすれば良いのだろう。

 彼女の前で痴態は晒したくないと思うのに、顔に貼り付けたままの笑みが、上手く形を保てている自信はまるでなかった。もしかしたら、身体が震えているのではないかと思うと、それもまたひどく恐ろしい。

 そんなセシリアの動揺を、目敏いカトリーヌが見逃してくれるはずもなく、彼女はどこか愉しげに、ふふっと、耳に心地よく溶け込んでくるような甘美な声で笑った。セシリアにしか感じられないよう、巧妙に嘲りを潜ませて。

「ですから、どうかお願いしますわ。私の知らない彼のことを――」

 一瞬、視界がぐにゃりと歪んだような気がした。カトリーヌの美麗なかんばせも、こちらをちらちらと窺う幾つもの人影も、煌々と照らされた絵画も絨毯もワイングラスも、何もかもが原型を留めないほどに、ぐにゃりと。

 このままではふらつく、と焦った――その刹那。ふと視界の端に、黒い何かが映り込んだ。よく知った薫りとともに。視界は未だ歪なぼやけに覆い尽くされているというのに。黒いものが何であるのか、はっきりとは見えないのに。その薫りが鼻先を掠めただけで、セシリアは息を呑んだ。

「――王女殿下」