「君を愛することはない」と言われて三年、そろそろ白い結婚をやめようと思います

 四方八方から不躾な視線をこそこそと――或いは堂々と――向けられながらも、セシリアは終始、モランベスト夫人との会話に意識を集中させた。

 夫人の愛する庭園に、鮮やかな紫色のラベンダーが咲き乱れ、うまくパーゴラに這わせたゴールデンチェーンがたっぷりと花を茂らせていること。最近は邸の料理人たちに教わりながら、お菓子を作るのに凝っていること。少し不格好に焼けたケーキやクッキーでも、夫は破顔しながら美味しそうに食べてくれること。遠方の国の珍しい茶葉が手に入ったので、今度はふたりでお茶会をしましょう、ということ。王都の一等地に新しくオープンした喫茶所が、若い娘たちの間でとても流行っていること――。

 そんな話題を幾つも交わしていると、やがて何処からともなく扉の開く音がした。それは少し高い位置から落ちてくるように耳に届き、やがて貴賓席へと繋がる回廊にテオドールの姿が現れると、それまでがやがやとざわついていた舞踏の間が、水を打ったように静まり返った。

 正装をした彼はとても凛々しく、さすがは"大陸の太陽”と謳われるほどの美丈夫で、その眩いほどの華やかな姿に、近くにいた令嬢たちが息を呑む気配がする。艷やかな黒髪は丁寧に整えられ、王家の紋章を左胸につけた彼は、先代国王譲りの逞しさと、王太后譲りの類稀な美貌を兼ね備えた、実に稀有な人だ。性格に難こそあれ――と、いつだったかユーリスが言っていた――、顔貌と地位だけを見ればユーリス以上に“憧れの的”だろう。

 そんなテオドールの数歩後ろを、ひとりの女性がゆっくりと歩んでくる。

 燭台の炎を受けてほのかに輝く、ゆるく波打ったプラチナブロンドの豊かな髪。精巧な細工を施した銀の装飾品でまとめ上げられたそれは、数本の柔らかな巻き毛が頬に沿って垂れ、どこか儚げな印象を与えている。その下に覗くのは、まるで宝石のように澄んだ薄いピンク色の瞳。長い睫毛に縁取られたそれは、大きくぱちりと瞬いて、広間をゆっくりと見渡している。美麗なかんばせに、無垢な花が綻ぶような微笑みを、そっと浮かべて。

 纏うドレスは、清らかな薄桃色を基調とし、ふんわりと丸く広がる裾へ向かうにつれて白色へと移ろう美しいものだった。胸元や裾には白い小花が鏤められ、縁や裾に惜しげもなくたっぷりと施された銀糸の刺繍が、シャンデリアのあたたかな光を浴びてきらきらと幻想的な輝きを放っている。胸元には小ぶりなダイヤモンドの飾りがひとつ、さりげなくあしらわれているだけで、それ以外の装飾は一切ない。それでも、彼女がそこに立っているだけで、まるで絵画から抜け出してきたような、息を呑む美しさがあった。

 陶器のようになめらかで白い肌も、化粧っ気を感じないのにほんのりと赤く色づいた柔らかそうな頬も、血色の良いふっくらとした唇も。まるで天使のような、或いは御伽噺に出てくるお姫様をそのまま体現したような愛らしい美貌に、恐らくは会場中の誰もが釘付けになっていた。そうとしか言いようのない、清らかで可憐な美しさに、セシリアもまた思わず見惚れてしまう。

 さすがは一国の――しかもヴェルミア王国に比肩するほどの大国の――王女。ユーリスが運んできたシャンパングラスを手に取るその仕草さえ、洗練されていて気品に溢れている。まるで絵画から抜け出してきたようだと思ったけれど、これほどまでに麗しいカトリーヌと、凛々しいテオドール、そして唯一無二といって良いほどの艶やかな端麗さを持つユーリスが並ぶ様は、まさに絵師の方から筆を取りたくてたまらなくなるような光景だろう。滅多に拝めるものではない。

 テオドールが一歩前に進み、シャンパングラスを掲げて、よく通る落ち着いた声で祝辞を述べる。遥々エルヴァール王国から我が国に来訪してくれたカトリーヌへの礼と、それから会場に集った貴族たちへの労い、最後には大陸で最も愛されている主神への感謝を口にしてから、テオドールは乾杯の辞を高らかに掲げた。

 その言葉を合図に、広間に集った人々もまた一斉にグラスを掲げる。シャンパングラスが触れ合う澄んだ音が、まるで楽器でも奏でているかのように何層にも重なりながら、舞踏の間へと広がってゆく。

「乾杯」

 モランベスト夫人に促され、シャンパングラスをそっと触れ合わせるや否や、あちらこちらであがる唱和の声が、波のように広間を満たす。その余韻に溶け込むように、オーケストラの最初の一音がゆるやかに流れ始め――華やかな旋律が熱気に満ちた空気を振るわせる中、遂に舞踏会の幕が、静かに上がった。

 とはいえ、セシリアはそれまでと変わらず、アーチ型の大きな窓の前に立ち、夫人と会話をしながら、ぼんやりと会場を眺めているだけでしかない。音楽に合わせ、早速踊り始める男女もいれば、数人で連れ立ち、軽食の用意された小部屋へと向かってゆく者もいる。顔見知り同士で固まった輪、恐らくは意中の女性へダンスを申し込もうと声をかけている青年、扇で口元を隠しながら談笑をしている貴婦人たち。

 会が始まれば、それまでセシリアを雁字搦めにしていた視線はあっという間に剥がれ落ち、各々がきらびやかな時間を一秒も惜しむまいと過ごしている。

 三拍子の優雅なワルツが、ゆったりとした波のように広間へ揺蕩ってゆく。一拍目の強い音が空気を押し出し、続く二拍、三拍が柔らかく寄り添うように流れる。まるで川の流れのように、滑らかに、どこまでも穏やかに。聴く者の身体を自然と揺らし、足を踏み出させてしまうような、抗いがたい心地よいリズム。

 そんな美しい音色に包まれながら、セシリアは人々の様子を見るともなく眺め、薄い黄金色の液体が注がれた細いシャンパングラスにそっと口をつけ、ゆっくりと傾けた。この曲も、ユーリスとふたりで手を取り合い踊ったことがあるけれど、それはもう随分と遠い昔の話だ。社交界デビューして間もない頃――緊張と経験不足でステップを踏み間違いそうになるセシリアを、ユーリスが可笑しそうに微笑みながらやさしくリードしてくれた、懐かしい曲。

「セシリア様が、公爵様とおふたりで踊られているところを、見てみたかったわ」

 モランベスト夫人の無邪気な言葉に、セシリアは曖昧な笑みを返しながら、貴賓台の方へそっと視線を向ける。半円形に張り出したそこでは、テオドールとカトリーヌ、そして宰相を務めるユーリスがシャンパングラスを片手に、楽しそうに言葉を交わしていた。ユーリスの顔には惚れ惚れするような柔らかな笑みが浮かんでいて――それが仕事上のものなのか、或いは心の底からのものなのか分からず、胸の奥がちくりと痛む。あんな笑顔、最近ではもう、ふたりきりの時に見せてくれた憶えは殆どない。

 それに――。ざわつく心をどうにか落ち着かせようと、再びシャンパンをひと口呷りながら、セシリアはそっと瞼を伏せた。それに、カトリーヌが心なしか、ユーリスへと身体を寄せているように見えるのは、気の所為だろうか。本来宰相は、あくまで国王の側近として控えているに過ぎず、主役はあくまで一国の王と一国の王女であるはずだというのに。会話の折々に、テオドールではなくユーリスへ微笑みかけているように感じるのは――やはり、気にし過ぎだろうか。

 そう――きっとそうに違いない。ただの見間違いを、気にし過ぎてしまっているだけだ。

 けれど、無理矢理そう言い聞かせようとするのに、胸の奥のざわめきはどんどん大きくなってゆく。まるで嵐の前の海のように、波が次第に背を伸ばし、不気味な唸りを上げながら押し寄せてくる。息が詰まりそうになるほど鼓動が早まり、グラスを持つ指先が、じわりと冷たくなっていく。

「セシリア様、よろしければ軽食を見に参りませんこと? 王家専属のパティシエが作ったスイーツがたくさんあるそうですわよ」

 そんなセシリアの心情に気付いているのかいないのか。夫人の声に、セシリアははっと我に返る。いつまでも窓辺でシャンパンを呷っているわけにもいかず――そうしていればいるほど、貴賓台が気になってしかたなくなるのもあって――、セシリアは微笑みながら頷き、夫人とともに軽食の用意されている小部屋へと足を向けた。

 小部屋といっても、王城のそれは一般貴族の邸にあるそれに比べ、とても広々としている。その部屋の半分ほどを埋め尽くすように、白く清潔なクロスのかけられたテーブルが規則正しく並べられ、サンドイッチやビスケット、小ぶりなケーキやマカロン、新鮮なフルーツ、あたたかなスープや色鮮やかなゼリーなどが所狭しと並んでいた。傍には必ず燕尾服をきっちりと着こなした使用人が控えており、招待客の要望に応えて、綺麗に磨き込まれた小皿に食べ物を丁寧に盛ってくれている。

「まあ、なんて素敵なこと! どれも美味しそうで、目移りしてしまいますわ」

 まるで宝石のようなスイーツたちを前に、少女のように目を輝かせるモランベスト夫人の横顔を見つめ、セシリアは思わずふふっと笑い声をこぼす。この人は本当に素直だ。裏表がまるでなく、どこまでも清廉で。だからこそ多くの人に慕われているのだろう、と思いながら。

「夫人は、甘いものがお好きなのですね」
「ええ、とても! それにこの歳になりますと、舞踏会の楽しみはダンスよりも、美味しいお食事の方になってしまいますのよ」

 茶目っ気のある口調でそう言って、使用人に盛り付けてもらった小皿を受け取りながら、夫人は嬉しそうに目を細めた。そんな彼女の幸福な笑顔を、夫であるブライアンにも見せてあげたい、とセシリアは思う。きっと彼は、愛する妻の幸せそうな表情を見て、精悍な顔をやさしく綻ばせることだろう。恐らく騎士団の部下たち――彼は騎士団の副団長を務めている――がその破顔を見れば、信じられないとでも言わんばかりに目を見開くに違いない。何せ彼の、騎士団内での異名は“鬼の副団長”なのだから。

 セシリアはチェリー酒だけを受け取り、それをちびちびと飲みながら、満足そうにスイーツを頬張る夫人を眺めた。こんなにも彼女が誰の目も気にすることなく、伸び伸びと自分らしくいられるのは、ブライアンに心から大切に、まるで宝物のように愛されているからだろう、と思う。たとえ全てを敵に回そうとも、自分を護り抜いてくれるであろう、たったひとりの勇敢な騎士――。

 果たしてユーリスは、どうなのだろう。もし妻が危険に晒された時、今の彼はどんな反応を見せ、どういう行動をとるだろうか。一抹の淡い期待が胸を過ぎるが、セシリアはそっと自嘲をこぼして、脆い期待ごとチェリー酒を喉の奥へと流し込んだ。馬鹿な想像はやめよう。何を考え、何を想ったところで、結局は独り善がりの夢想に過ぎないのだから。

 ひとまず気になったものだけを食べ終えたモランベスト夫人とともに舞踏の間へと戻ると、貴賓台からはテオドールたちの姿が消えていた。奥の部屋へ下がったのだろうかと一瞬思ったものの、反対側の壁際で大臣たちに囲まれているテオドールの姿が見え、どうやら階下へ降りてきたのだと察する。

 しかし、彼の近くにユーリスとカトリーヌの姿は見当たらない。あくまで"宰相"として、彼女をエスコートしながら貴族たちのもとを渡り歩いているのだろうか。それとも――。

「あら、いやだ。私、お飲み物をいただいてくるのを忘れてしまいましたわ。申し訳ないのだけど、少し此処で待っていてくださるかしら」
「ええ、構いませんわ」

 慌ただしく小部屋へ戻ってゆく彼女の後ろ姿を見送りながら、そういえば近くの使用人に声をかけて持ってきてもらえば良かったな、とセシリアは今更ながらに思う。赤や白のワイン、シャンパングラスをトレイに乗せた使用人たちが、招待客たちの間を縫うように歩き回っているのを見かけるが――しかし、自ら目の前で注いでもらうのは、一種の安全対策として正しいのかもしれない。

 王族主催の舞踏会、しかも隣国の王女をもてなす催しの場で、万が一のことなど起こり得ないとは思うけれど。それでも王族や高位貴族は、いつ何があってもおかしくないような立場にある。正に昨年、ユーリスが命を狙われたように――。

 そんなことをぼんやりと考えながら、飲みかけのチェリー酒に口をつけようとした――その時だった。華やかな香りがふわりと漂い、視界の端で純白の裾がふわりと揺らめいたのは。

「――貴女が、シルヴェイン公爵夫人でいらっしゃるかしら?」