公爵家嫡男であるユーリス・シルヴェインとの婚約は、セシリアが生まれたその日から、既に決まっていた。
無論、赤ん坊にそんな契約ごとが出来るはずもなく、あくまで両親――特に、互いを“親友”と言って憚らない彼等の父親――の強い意思によって決められたことに過ぎない。故に、その契にふたりの気持ちなどは、まるで関係がなかった。とはいえ、貴族社会でそういった婚姻は、決して珍しいものではない。
まだ年端もゆかぬ頃から、ふたりはまるで兄妹のように育てられた。ひとつ年上のユーリスと、彼の弟でありセシリアと同い年であるクロードの三人で。
世間で言えば所謂“幼馴染”というのだろうが、兎も角、家族同士が――特に父親同士が――あまりにも仲が良かったものだから、三人はなにをするにも一緒だった。公爵家――しかも王家の傍流の血を継ぐ由緒正しい一族――と、伯爵家――嘗ては地方のしがない子爵家だったが、武勲を立てたことにより昇叙された――という、爵位の差はあれど。
公爵邸の広々とした庭園を飼い犬も交えて駆け回ったり、膨大な蔵書の保管された書庫でかくれんぼをしたり、公爵夫人に与えられたお題に沿って絵を描いて誰が一番そっくりか競い合ったり、陽だまりの窓辺に設けられた大きめのウィンドウシートでお昼寝をしたり。夏には、避暑地として名高い地方を有する公爵領の別荘へ、両家揃って足を運ぶこともあった。
あの頃は、ただただ純粋に楽しかった、とセシリアは今でも思う。何も考えず、何を憂うことなく。大人たちにやさしく見守られながら、健やかに、伸びやかに、大好きな幼馴染とともに穏やかに過ごしていた日々――。
そんな時間が、いつまでもいつまでも続けば良いと思っていた。まだ幼かったセシリアは、それが永遠のものであると漠然と信じ、疑いもしていなかった。
しかし、六歳を迎えた頃から、セシリアの日常はがらりと一変することになる。曲がりなりにも伯爵家の令嬢であり、ゆくゆくは“公爵家夫人”となることが定められた彼女に対し、いよいよ本格的な“淑女教育”が始まったのだ。
それからの毎日は、伯爵邸の自室に殆ど閉じこもるような状態で、ただひたすら勉強に明け暮れた。語学、歴史学、数学といった学問はもちろん、音楽や刺繍、立ち振る舞いの基礎から礼儀作法、食事のマナーに至るまで、何もかも。それぞれに充てがわれた専門の家庭教師によって徹底的に叩き込まれ、唯一、公爵家の歴史などについては、ユーリスの実母である公爵夫人自らが教鞭を執ることさえあった。
そんな日々を、苦ではなかったといえば、嘘になる。本当はもっと、心安らかに、のんびりと過ごしたかった。嘗てユーリスたちと共にしていたような、あの穏やかな時間と同じように。けれどもその頃にはもう、六歳ながらにして、セシリアは自身の両肩にかかる“次期公爵夫人”としての重圧を、否応なしにひしひしと感じ取っていた。
許婚――つまりは、結婚、夫婦。その言葉の意味を、役割を、きちんと理解し、呑み込めるようになったのは、果たしていつの頃だっただろう。しかも相手は、ずっと兄妹のように育てられた幼馴染であるユーリスであると、頭が、心が、漸く受け入れることが出来たのは。
社交界デビューしてからというもの、周りの目は明らかにセシリアを値踏みし、妬み、或いは蔑んでいた。王家の傍流の血を引く公爵家嫡男の許婚――その肩書は、誰から見ても、これ以上ない垂涎の地位だっただろう。
その上、ユーリスは当時から既に、女性だけでなく男性をも虜にするほどの、類稀なる美貌を開花させていた。艷やかな白銀の髪に、蒼穹を溶かし込んだような青い瞳。幼い頃から整っていたそのかんばせは、歳を重ねるごとに色香と凛々しさを増してゆき、同じく秀麗と持て囃されていた王太子と比肩するほどの、王国随一の美丈夫へと成長していた。
地位も財も、更には容貌にも優れた男。そんなユーリスを、是非自分の娘の夫にと望む者は、呆れるほど多かった。公爵家当主である、エドモン・シルヴェインが直々に、“許婚”を公表していても尚。
ユーリスは、どの夜会に参加しても、集った人々の中で最も人気が高かった。彼の周りは常に令嬢たちで溢れ、ダンスを踊る順番を巡る熾烈な争いが繰り返される。
その光景を、セシリアはただ会場の片隅に立って眺めることしか出来なかった。飲みもせず、食べもせず、談笑をすることもせず。ただ静かに壁際に立ち、ほぼ風景の一部に溶け込むかのように、気配を消して。
そんなセシリアを気遣い、唯一ダンスの誘いをかけてくれるのは、ユーリスの実弟であり幼馴染でもあるクロードくらいなものだった。
そもそも、それが易々と出来る立場にあったのは、確かに彼だけだったのだろう、と思う。“公爵家嫡男の許婚”として名の知られているセシリアにダンスを申し込む勇気ある者などいるはずもなく、他の令嬢からの――暗に含んだ――牽制もあり、どの夜会でも孤立は極まっていた。
人懐っこく愛嬌のあるクロード――例えるなら、ゴールデンレトリバーだろうか――に対し、ユーリスは愛想こそあるものの、爽やかな笑顔の裏は基本的に理知的で、どこか冷めたところのある――或いは、達観したところのある――男だった。それでも表では誰にでも人当たりよく接していたので、余程のことでもない限り、他の令嬢たちからの誘いを断ることはしない。
彼とのダンス相手に選ばれた令嬢は、誰ひとりとして例に漏れず、曲が流れている間ずっと、ユーリスの顔を恍惚とした表情で見つめていた。血色の良い頬は更に赤みが差し、瞳は潤んだように輝き、時にはリップで彩られた艷やかな唇で何事かを妖しく、はたまた愛らしく囁く――。
――見ていて辛くないの?
いつだったか、クロードにそう問われたことがある。許婚が他の女性と楽しげに踊っているのを見ているのは辛く、哀しくはないのか、と。その時に何と答えたのか、セシリアは殆ど憶えていない。ただ、胸がぎゅっと締め付けられるような感覚に襲われたことだけは、年月を経ても尚、鮮明に記憶に――或いは胸自体に――刻み込まれているけれど。
とはいえ、どの夜会でも、ユーリスがセシリアを完全に放っておくことはなかった。一通りの曲目が終わり、最後の一曲になると決まって、彼は群がる令嬢たちの輪を無理矢理割って抜け出し、一直線にセシリアの元へ歩み寄ってくる。迷いのない足取りで。そして最後の一曲の相手として、必ずセシリアにダンスを申し込む。紳士然と片手を差し出し、澄んだ青い瞳でセシリアの双眸を真っ直ぐに見つめながら。
ダンスの順番には、意味がある。それは夜会に参加する誰もが把握している、暗黙の慣習だ。序盤から中盤は社交辞令的なもので、義理や付き合い、しがらみで相手を選ぶことが多い。しかしラストダンスは、最も重要な意味合いを持つ。最後の一曲は、特別な相手――つまりは本命に捧げるものとされているからだ。ラストダンスを申し込むということは、その相手が“特別な存在”であることを、公然と意思表示することに他ならない。
けれどセシリアにとって、羨望と嫉妬の視線に晒されながら踊るラストダンスは、嬉しさと苦しさの綯い交ぜになった、毒の溶かされた蜜の中に浸かっているような時間だった。ユーリスが最後の相手として自分を選ぶのは、“許婚”としての義務を果たしているに過ぎないことを、理解していたから。それ以上でも、それ以下でもない、と。許婚を大切にする“公爵家次期当主”という体面を、ただ保とうとしているだけなのかもしれない、と思うことさえあった。
それでも、ラストダンスの時だけは――。差し伸べられた手も、真っ直ぐに見つめてくる青い瞳も、穏やかな表情も、何もかも。全て本物だと、縋り付くように信じていたかった。たとえそれが、偽りであったとしても。
無論、赤ん坊にそんな契約ごとが出来るはずもなく、あくまで両親――特に、互いを“親友”と言って憚らない彼等の父親――の強い意思によって決められたことに過ぎない。故に、その契にふたりの気持ちなどは、まるで関係がなかった。とはいえ、貴族社会でそういった婚姻は、決して珍しいものではない。
まだ年端もゆかぬ頃から、ふたりはまるで兄妹のように育てられた。ひとつ年上のユーリスと、彼の弟でありセシリアと同い年であるクロードの三人で。
世間で言えば所謂“幼馴染”というのだろうが、兎も角、家族同士が――特に父親同士が――あまりにも仲が良かったものだから、三人はなにをするにも一緒だった。公爵家――しかも王家の傍流の血を継ぐ由緒正しい一族――と、伯爵家――嘗ては地方のしがない子爵家だったが、武勲を立てたことにより昇叙された――という、爵位の差はあれど。
公爵邸の広々とした庭園を飼い犬も交えて駆け回ったり、膨大な蔵書の保管された書庫でかくれんぼをしたり、公爵夫人に与えられたお題に沿って絵を描いて誰が一番そっくりか競い合ったり、陽だまりの窓辺に設けられた大きめのウィンドウシートでお昼寝をしたり。夏には、避暑地として名高い地方を有する公爵領の別荘へ、両家揃って足を運ぶこともあった。
あの頃は、ただただ純粋に楽しかった、とセシリアは今でも思う。何も考えず、何を憂うことなく。大人たちにやさしく見守られながら、健やかに、伸びやかに、大好きな幼馴染とともに穏やかに過ごしていた日々――。
そんな時間が、いつまでもいつまでも続けば良いと思っていた。まだ幼かったセシリアは、それが永遠のものであると漠然と信じ、疑いもしていなかった。
しかし、六歳を迎えた頃から、セシリアの日常はがらりと一変することになる。曲がりなりにも伯爵家の令嬢であり、ゆくゆくは“公爵家夫人”となることが定められた彼女に対し、いよいよ本格的な“淑女教育”が始まったのだ。
それからの毎日は、伯爵邸の自室に殆ど閉じこもるような状態で、ただひたすら勉強に明け暮れた。語学、歴史学、数学といった学問はもちろん、音楽や刺繍、立ち振る舞いの基礎から礼儀作法、食事のマナーに至るまで、何もかも。それぞれに充てがわれた専門の家庭教師によって徹底的に叩き込まれ、唯一、公爵家の歴史などについては、ユーリスの実母である公爵夫人自らが教鞭を執ることさえあった。
そんな日々を、苦ではなかったといえば、嘘になる。本当はもっと、心安らかに、のんびりと過ごしたかった。嘗てユーリスたちと共にしていたような、あの穏やかな時間と同じように。けれどもその頃にはもう、六歳ながらにして、セシリアは自身の両肩にかかる“次期公爵夫人”としての重圧を、否応なしにひしひしと感じ取っていた。
許婚――つまりは、結婚、夫婦。その言葉の意味を、役割を、きちんと理解し、呑み込めるようになったのは、果たしていつの頃だっただろう。しかも相手は、ずっと兄妹のように育てられた幼馴染であるユーリスであると、頭が、心が、漸く受け入れることが出来たのは。
社交界デビューしてからというもの、周りの目は明らかにセシリアを値踏みし、妬み、或いは蔑んでいた。王家の傍流の血を引く公爵家嫡男の許婚――その肩書は、誰から見ても、これ以上ない垂涎の地位だっただろう。
その上、ユーリスは当時から既に、女性だけでなく男性をも虜にするほどの、類稀なる美貌を開花させていた。艷やかな白銀の髪に、蒼穹を溶かし込んだような青い瞳。幼い頃から整っていたそのかんばせは、歳を重ねるごとに色香と凛々しさを増してゆき、同じく秀麗と持て囃されていた王太子と比肩するほどの、王国随一の美丈夫へと成長していた。
地位も財も、更には容貌にも優れた男。そんなユーリスを、是非自分の娘の夫にと望む者は、呆れるほど多かった。公爵家当主である、エドモン・シルヴェインが直々に、“許婚”を公表していても尚。
ユーリスは、どの夜会に参加しても、集った人々の中で最も人気が高かった。彼の周りは常に令嬢たちで溢れ、ダンスを踊る順番を巡る熾烈な争いが繰り返される。
その光景を、セシリアはただ会場の片隅に立って眺めることしか出来なかった。飲みもせず、食べもせず、談笑をすることもせず。ただ静かに壁際に立ち、ほぼ風景の一部に溶け込むかのように、気配を消して。
そんなセシリアを気遣い、唯一ダンスの誘いをかけてくれるのは、ユーリスの実弟であり幼馴染でもあるクロードくらいなものだった。
そもそも、それが易々と出来る立場にあったのは、確かに彼だけだったのだろう、と思う。“公爵家嫡男の許婚”として名の知られているセシリアにダンスを申し込む勇気ある者などいるはずもなく、他の令嬢からの――暗に含んだ――牽制もあり、どの夜会でも孤立は極まっていた。
人懐っこく愛嬌のあるクロード――例えるなら、ゴールデンレトリバーだろうか――に対し、ユーリスは愛想こそあるものの、爽やかな笑顔の裏は基本的に理知的で、どこか冷めたところのある――或いは、達観したところのある――男だった。それでも表では誰にでも人当たりよく接していたので、余程のことでもない限り、他の令嬢たちからの誘いを断ることはしない。
彼とのダンス相手に選ばれた令嬢は、誰ひとりとして例に漏れず、曲が流れている間ずっと、ユーリスの顔を恍惚とした表情で見つめていた。血色の良い頬は更に赤みが差し、瞳は潤んだように輝き、時にはリップで彩られた艷やかな唇で何事かを妖しく、はたまた愛らしく囁く――。
――見ていて辛くないの?
いつだったか、クロードにそう問われたことがある。許婚が他の女性と楽しげに踊っているのを見ているのは辛く、哀しくはないのか、と。その時に何と答えたのか、セシリアは殆ど憶えていない。ただ、胸がぎゅっと締め付けられるような感覚に襲われたことだけは、年月を経ても尚、鮮明に記憶に――或いは胸自体に――刻み込まれているけれど。
とはいえ、どの夜会でも、ユーリスがセシリアを完全に放っておくことはなかった。一通りの曲目が終わり、最後の一曲になると決まって、彼は群がる令嬢たちの輪を無理矢理割って抜け出し、一直線にセシリアの元へ歩み寄ってくる。迷いのない足取りで。そして最後の一曲の相手として、必ずセシリアにダンスを申し込む。紳士然と片手を差し出し、澄んだ青い瞳でセシリアの双眸を真っ直ぐに見つめながら。
ダンスの順番には、意味がある。それは夜会に参加する誰もが把握している、暗黙の慣習だ。序盤から中盤は社交辞令的なもので、義理や付き合い、しがらみで相手を選ぶことが多い。しかしラストダンスは、最も重要な意味合いを持つ。最後の一曲は、特別な相手――つまりは本命に捧げるものとされているからだ。ラストダンスを申し込むということは、その相手が“特別な存在”であることを、公然と意思表示することに他ならない。
けれどセシリアにとって、羨望と嫉妬の視線に晒されながら踊るラストダンスは、嬉しさと苦しさの綯い交ぜになった、毒の溶かされた蜜の中に浸かっているような時間だった。ユーリスが最後の相手として自分を選ぶのは、“許婚”としての義務を果たしているに過ぎないことを、理解していたから。それ以上でも、それ以下でもない、と。許婚を大切にする“公爵家次期当主”という体面を、ただ保とうとしているだけなのかもしれない、と思うことさえあった。
それでも、ラストダンスの時だけは――。差し伸べられた手も、真っ直ぐに見つめてくる青い瞳も、穏やかな表情も、何もかも。全て本物だと、縋り付くように信じていたかった。たとえそれが、偽りであったとしても。
