久方ぶりの宮廷舞踏会とあって、侍女たちの気の入りようは凄まじいものだった。
今回の舞踏会は、エルヴァール王国から来訪するカトリーヌ第二王女をもてなすためのものだ。主役は彼女であり、故に目立つような装いは失礼に値する。
それでも、ヴェルミア王国の公爵家としての品位を落とすような恥を晒すわけにはゆかないと、侍女たちの間で毎日のように幾枚ものファッションプレートを見比べては意見を出し合い、時には衝突し、衣装部屋に入り浸っては保管されたドレスやアクセサリー類をひとつひとつ確認していた――と、セシリアは後になってグレアムの口から聞かされた。かなり熱が入っているようですよ、と、同情するような苦笑とともに。
舞踏会前日には姿見の前に棒立ちにさせられたかと思うと、侍女たちの手によって何着ものドレスをあてられ、それに見合うアクセサリーをつけられ、更には専門の髪結師があれこれと装飾品を手に取りながら髪を整えるという、さながら着せ替え人形のような気分を味わわされる羽目になった。
やはりピンクかしら。いいえ、瞳の色に合わせて薄いアイリスかラベンダーよ――。そんな声が飛び交う中、セシリアはひどく辟易としたものだ。いっそもう何でも良い、と声に出てしまいそうになるほど。
彼女たちが躍起になっているのは、セシリアの為ではなく、“公爵家夫人”としての体裁を保ち、格を如何に誇示するか――ただそれだけの理由によるものだ。カトリーヌ王女が主役の舞踏会であるにもかかわらず。
そんな侍女たちの意に反し、セシリアとしては華美ではないシックな装いの方が断然良かった。それは主役が云々というわけではなく――なるべく密やかに、会場の空気や壁にでも馴染むようにして閉幕までを過ごしたい、というささやかな願望によるものだ。どのみち噂の的にされるのは分かりきっている。ならば出来るだけ目立つことなく、ひっそりとしていたい。
結局数多ある衣装の中から選ばれたのは、蒼穹を思わせるような鮮やかな青と白で織りなされた、ボールガウンタイプのドレスだった。
オフショルダーに仕立てられた胸元から、幾層にも重なりながら裾へと続く滑らかなシルエット。スカートは淡い白から始まり、裾へと向かうにつれて、まるで晴れた空を溶かし込んだような澄んだ青へと深みを増してゆく。生地の至る所には金糸で繊細に刺繍された小花が散りばめられ、光の当たり具合によって、きらきらと幻想的な輝きを放つ。ウエストには同じ蒼のリボンが大きく結ばれ、ドレス全体の優雅さをひとつに束ねていた。裾を飾る白いオーガンジーの重なりは、柔らかな波のようにたゆたい、歩くたびにふわりと花の刺繍を揺らめかせる。
ドレッサーの前に腰掛け、髪結師に髪を整えてもらいながら、セシリアは鏡に映る鮮やかな青色のドレスをじっと見つめていた。まるでユーリスの瞳を思わせるその色は、恐らく侍女たちが意図して選び抜いたものだろう。故に、ピアスもネックレスも、ドレスの色味に合わせてサファイアの飾られたものが選ばれたけれど――この色なら、小箱の中に今もひっそりと眠っている、あのアクアマリンのピアスにもよく合ったかもしれない、とセシリアは胸の内でひっそりと笑う。無論、片方しかないピアスを身に着けることなど、出来はしないのだけれど。
グレアムや数人の使用人に見送られながらひとり馬車に乗り込み、王城までの夜道を、窓の外をぼんやりと眺めながら過ごす。クロードがいてくれたら、どんなに良かっただろう。嘲笑の渦中にひとり放り込まれる恐怖も、独りきりだという寂しさも、きっと彼の屈託のない笑顔が拭い取ってくれただろう。
でも、それよりも、もっと――。叶いもしない願いがふと頭を擡げ、セシリアは自嘲をこぼしながら、ゆっくりと瞼を閉じた。窓の外から、からからと車輪の廻る微かな音が聞こえ、時折小石を弾いてはキャビンが小さく揺れる。
独りで乗る馬車には、疾うに慣れてしまった。寧ろ今なら、この小さな箱の中にふたりでいる方が気詰まりかもしれない、とさえ思う。ふたりの静寂よりも、ひとりの静寂の方が心地良いと感じてしまうなんて、どうかしている。もし今この瞬間、眼の前の席に彼が座っていたら――と、どうにもならないことを、何度も何度も頭の片隅で繰り返しているくせに。
月明かりや、大通りに点在する街灯に照らされた路を順調に進んだ馬車は、予定時刻よりも少し早く、舞踏会の開かれる“舞踏の間”に最も近い門扉を潜り、他の貴族の馬車と列を成しながら、車寄せまでゆっくりと進む。入口へ近付いていけばゆくほど、先に馬車を降りた貴婦人や紳士たちの話し声が、少しずつ大きくなってゆく。
やがて馬が足を止め、微かに車輪が軋むような音を立ててから、馬車が停車した。すぐに待ち構えていた使用人がキャビンの扉を開け、恭しく頭を下げる。さすがは王城に仕える上位の使用人だけあって、白いシャツも胸元のリボンも、きっちりと着こなされた燕尾服も、皺ひとつないほど糊が利いてぱりっとしており、清潔感の中にも溢れるような気品が滲んでいた。
そんな彼の、白い手袋に包まれた手に支えられながらタラップを降り、セシリアは密かに深く吸い込んだ息をゆっくりと吐き出す。時間をかけてひとつ瞬いた後、開いた瞼の下に露わになった豪奢な建物は、幾つもの燭台で煌々と照らされ、荘厳でありながらどこか夢幻の雰囲気を帯びているようにも見える。
車寄せから真っ直ぐに伸びる白亜の大階段は、既にたくさんの招待客の姿で埋め尽くされていた。見覚えのある顔もあれば、そうでない顔もある。しかし彼らは一様に、公爵家の紋章の取り付けられた馬車から降り立ったばかりのセシリアへ、ちらりと――中には堂々と――嘲笑や侮蔑の滲んだ視線を向けてくる。遠く離れているので聞こえないが、繊細なレースを貼って作られた扇で口元を隠しながら、明らかにくすくすと嗤い声をこぼしている令嬢たちの姿も見受けられた。
そんな彼等彼女たちの視線を一身に受けながら、セシリアは竦みそうになる足を叱咤して、どうにか大階段の一段目に足をかける。今はユーリスもクロードも、無論グレアムも傍にはいない。衆目に晒されながら、たったひとりでこの階段を登りきり、その奥に聳える豪華絢爛な舞踏の間へと足を踏み入れなければならない。そう思うと、両肩にどっしりと鉛が伸し掛かるような気がして、セシリアは胸の内で深々と溜息をついた。行くと決めたのは、自分だ。そうである以上、今更逃げ出すことは許されない。
どうにか階段を登りきると、眩いほどに照らされた入口が見えた。セシリアはこくりと唾を呑む。公爵家の人間だと気付いたらしい使用人の男性が足早に近付いてきて、クロークで預かる荷物はあるかと尋ねてくれたが、セシリアは首を左右に振ってその申し出を断った。けれど彼は嫌な顔ひとつ見せず、
「何かお困りのことがございましたら、すぐにお声がけ下さい」
と、にこやかな笑みを浮かべながらそう言って、来た時と同じ素早さで人の合間を縫いながら定位置へと戻っていった。その姿が完全に人混みの中へ消えるまで見送り、セシリアはひとつ息を吐いて、再び入口へと顔を向ける。
そんな彼女の視界に、ふと、見覚えのある姿が映り込んだ。
深い緑色をしたエンパイアラインの落ち着きのあるドレス。胸元の下で切り替えられたそれは、裾へとしなやかに広がっている。胸元には小ぶりな白い生花がひとつ。それ以外の過剰な装飾は一切なく、ただ上質な生地の艶やかな光沢だけが、あたたかな灯りの下で静かに輝いていた。
いつものようにゆるく編み込まれたたっぷりの茶色い髪には、所々に小花やパールが添えられ、華美すぎず、かといって控えめすぎもしない絶妙な装いをしたその人は、穏やかなオリーブ色の瞳でセシリアを捉えると、まるで大輪の花が咲くかのように、ぱあっと明るく表情を綻ばせ、他者の目など気にすることなく、一直線にセシリアのもとへと歩み寄ってきた。
「セシリア様、お久しぶりでございます。お茶会以来ですわね」
「ええ。その節はお招き頂き、ありがとうございました」
曲がりなりにも“公爵家夫人”でありながら、誰も近寄ろうとすらしないセシリアに、彼女――モランベスト夫人は、周りの視線など全く気に留めたふうもなく、純粋無垢そのもののような笑みをふふっと浮かべる。
そんな彼女の笑顔を見つめながら、赤い薔薇のような主張の激しい派手な花よりも、可憐でありながら品のある白百合の方がよく似合う――そう思わずにはいられない人だ、とセシリアはそっと微笑みを浮かべる。
相変わらず皺を感じさせない瑞々しい肌に、長い睫毛に縁取られたくっきりとした二重の目。お茶会の時よりも幾分濃いめに化粧を施されているが、それでも他の夫人や令嬢たちに比べれば随分と薄い。素材を活かす、というのだろうか。彼女の内側から滲み出る“美しさ”を一切邪魔することなくうまく引き立たせている、と思う。
だからだろうか。常に分厚い仮面を被った者たちの中で、モランベスト夫人だけが、何も隠さず、ごく自然に素のままでそこに立っているように、セシリアには見えた。
「それにしても、今夜のドレスはまた一段と素敵ですこと!」
そう素直に褒めてくれる夫人にお礼を返しながら、そこでふと、セシリアは違和感を覚える。侯爵夫妻といえば、恐らくは王都で最も有名なおしどり夫婦だ。それなのに、夫人の傍には夫であり当主であるブライアン・モランベストの姿が見当たらない。夜会ではいつも夫婦揃って仲睦まじげに寄り添っているというのに――。
「ああ、主人でしたら……ほら、あそこをご覧になって下さいな」
ついきょろきょろと辺りを窺ってしまったせいで、セシリアの疑問を察したのだろう。夫人は朗らかに笑みを深めながら、入口傍に置かれた巨大な石像――建国の父である初代国王の像――の傍へ目を向けた。その視線を辿り、セシリアもまた巨像へと目を向ける。
そこには、子爵家の当主と思われる男性と親しげに談笑しているブライアンの姿があった。喧騒を貫いて、今にもこちらまで声が届いてきそうなほど、快活に笑っている。その声に、或いは姿に引き寄せられたのか、ブライアンの傍には入れ代わり立ち代わり、様々な人が近寄っては言葉を交わしてゆく。
「こういう大きな催しでは、いつも私を放ったらかしにして、ああなのですよ」
どこか寂しそうに、けれど嬉しそうにも聞こえる声音でそう囁き、夫人はセシリアへと視線を戻した。まるで無邪気な少女のような笑みを、愛嬌のあるかんばせに浮かべて。
「先のお茶会では、お客様がたくさんいらしたから、あまりゆっくりお喋り出来なかったでしょう? ですから今夜は、是非たくさんお話しして下さらないかしら」
思いがけない誘いに、セシリアは驚きでぱちりと目を瞬かせる。夫人が傍にいてくれるのなら心強いけれど、しかし彼女は社交界では珍しく、誰からも慕われている人だ。その上、侯爵家の夫人ということもあり、この機に声をかけて親しくなりたいと思う人も多くいるだろう。
「お言葉はとても嬉しいのですが、しかし……」
「まあ、ご遠慮なさらないで下さいな。もうこの歳ですもの。ダンスを申し込んでいらっしゃる殿方など、おりませんわ」
もし夫人にダンスを申し込むような男性がいれば、すぐさまブライアンが駆けつけてくるだろう。夫である自分以外は許さない、という顔で。いつだったか、若かりし頃は一夜のパーティーで何曲もふたりで踊り明かしたこともある、と、そんな惚気話を聞いたことがあったことをセシリアは思い出す。
夜会のダンスには、ラストダンス以外にも、深い意味合いを持つ幾つかの慣習がある。その内のひとつが、同じ相手と何曲も踊る、というものだ。二曲踊れば特別な関心や好意があると見做され、三曲踊れば、極めて親密な仲――或いは婚約している仲――であることを公に宣言するに等しい。特定の相手がいない男女が同じ相手と複数回踊るのはマナー違反とされる為、その時にはもう既に、夫妻は周囲公認の"特別な仲"だったということだろう。
「さあ、そろそろ中へ参りましょう。乾杯の御挨拶が始まってしまいますわ」
夫人に促され、セシリアは未だ巨像の傍で談笑しているブライアンを横目に一瞥してから、建物の中へと足を向けた。
艷やかに磨き込まれた大理石の床には、真紅の絨毯が道標のように真っ直ぐ敷かれ、その先には重厚な扉が大きく口を開けて佇んでいる。他愛もない世間話を交わしながら、セシリアはモランベスト夫人とともにその扉を潜り、舞踏の間へと足を踏み入れた。
途端に、それまで以上の喧騒が、まるで大波のようにどっと押し寄せ、セシリアを呑み込んだ。オーケストラの演奏者たちが楽器の調整をしている音色など、まるで耳に届かないほどの熱を帯びたざわめき。
所々金の装飾や象嵌の施された白い壁には、歴代国王の絵画や胸像が飾られ、太く立派な柱には精緻な彫り込みがたっぷりと施されている。硝子や陶器で出来た大ぶりな花瓶に活けられた、今が盛りの美しい花々。きびきびとした動きで招待客をもてなす使用人たち。天井は建国史の中でも最も有名なワンシーンを描いた鮮やかなフレスコ画が埋め尽くし、中央に吊り下げられた巨大なシャンデリアは、数え切れないほどの蝋燭に炎を灯して大広間を煌々と照らし出していた。
そして舞踏の間の正面奥には、広間を見下ろすように半円形に張り出した貴賓台が設けられ、壁には王家の、そしてこの国の象徴である紋章を織った大きなタペストリーが、重々しく掛けられている。その手前には、深紅のベルベットに金細工の施された豪奢な椅子が二脚、静かに並んでいた。恐らくはテオドール陛下とカトリーヌ王女の為のものだろう。
その光景をぼんやりと眺めていると、不意に、そっと背中にぬくもりが触れた。まるで子どもをあやすような、或いは護るようなそのやさしい手の感触に、セシリアは思わず息を呑んで、隣に佇むモランベスト夫人へと目を向ける。
刹那、やわらかい光を湛えたオリーブ色の瞳と、視線が交わった。どこまでもどこまでも穏やかな、そして慈愛に満ちた瞳。
「ひとりで心細いでしょうけれど、臆する必要などございませんわ」
そう言って、夫人はセシリアに添えていた手で、ぽん、とやさしく背を叩いた。まるで励ますように。
「セシリア様のお傍には常に――たとえ目に見えなくとも、確かな光がついておりますから」
今回の舞踏会は、エルヴァール王国から来訪するカトリーヌ第二王女をもてなすためのものだ。主役は彼女であり、故に目立つような装いは失礼に値する。
それでも、ヴェルミア王国の公爵家としての品位を落とすような恥を晒すわけにはゆかないと、侍女たちの間で毎日のように幾枚ものファッションプレートを見比べては意見を出し合い、時には衝突し、衣装部屋に入り浸っては保管されたドレスやアクセサリー類をひとつひとつ確認していた――と、セシリアは後になってグレアムの口から聞かされた。かなり熱が入っているようですよ、と、同情するような苦笑とともに。
舞踏会前日には姿見の前に棒立ちにさせられたかと思うと、侍女たちの手によって何着ものドレスをあてられ、それに見合うアクセサリーをつけられ、更には専門の髪結師があれこれと装飾品を手に取りながら髪を整えるという、さながら着せ替え人形のような気分を味わわされる羽目になった。
やはりピンクかしら。いいえ、瞳の色に合わせて薄いアイリスかラベンダーよ――。そんな声が飛び交う中、セシリアはひどく辟易としたものだ。いっそもう何でも良い、と声に出てしまいそうになるほど。
彼女たちが躍起になっているのは、セシリアの為ではなく、“公爵家夫人”としての体裁を保ち、格を如何に誇示するか――ただそれだけの理由によるものだ。カトリーヌ王女が主役の舞踏会であるにもかかわらず。
そんな侍女たちの意に反し、セシリアとしては華美ではないシックな装いの方が断然良かった。それは主役が云々というわけではなく――なるべく密やかに、会場の空気や壁にでも馴染むようにして閉幕までを過ごしたい、というささやかな願望によるものだ。どのみち噂の的にされるのは分かりきっている。ならば出来るだけ目立つことなく、ひっそりとしていたい。
結局数多ある衣装の中から選ばれたのは、蒼穹を思わせるような鮮やかな青と白で織りなされた、ボールガウンタイプのドレスだった。
オフショルダーに仕立てられた胸元から、幾層にも重なりながら裾へと続く滑らかなシルエット。スカートは淡い白から始まり、裾へと向かうにつれて、まるで晴れた空を溶かし込んだような澄んだ青へと深みを増してゆく。生地の至る所には金糸で繊細に刺繍された小花が散りばめられ、光の当たり具合によって、きらきらと幻想的な輝きを放つ。ウエストには同じ蒼のリボンが大きく結ばれ、ドレス全体の優雅さをひとつに束ねていた。裾を飾る白いオーガンジーの重なりは、柔らかな波のようにたゆたい、歩くたびにふわりと花の刺繍を揺らめかせる。
ドレッサーの前に腰掛け、髪結師に髪を整えてもらいながら、セシリアは鏡に映る鮮やかな青色のドレスをじっと見つめていた。まるでユーリスの瞳を思わせるその色は、恐らく侍女たちが意図して選び抜いたものだろう。故に、ピアスもネックレスも、ドレスの色味に合わせてサファイアの飾られたものが選ばれたけれど――この色なら、小箱の中に今もひっそりと眠っている、あのアクアマリンのピアスにもよく合ったかもしれない、とセシリアは胸の内でひっそりと笑う。無論、片方しかないピアスを身に着けることなど、出来はしないのだけれど。
グレアムや数人の使用人に見送られながらひとり馬車に乗り込み、王城までの夜道を、窓の外をぼんやりと眺めながら過ごす。クロードがいてくれたら、どんなに良かっただろう。嘲笑の渦中にひとり放り込まれる恐怖も、独りきりだという寂しさも、きっと彼の屈託のない笑顔が拭い取ってくれただろう。
でも、それよりも、もっと――。叶いもしない願いがふと頭を擡げ、セシリアは自嘲をこぼしながら、ゆっくりと瞼を閉じた。窓の外から、からからと車輪の廻る微かな音が聞こえ、時折小石を弾いてはキャビンが小さく揺れる。
独りで乗る馬車には、疾うに慣れてしまった。寧ろ今なら、この小さな箱の中にふたりでいる方が気詰まりかもしれない、とさえ思う。ふたりの静寂よりも、ひとりの静寂の方が心地良いと感じてしまうなんて、どうかしている。もし今この瞬間、眼の前の席に彼が座っていたら――と、どうにもならないことを、何度も何度も頭の片隅で繰り返しているくせに。
月明かりや、大通りに点在する街灯に照らされた路を順調に進んだ馬車は、予定時刻よりも少し早く、舞踏会の開かれる“舞踏の間”に最も近い門扉を潜り、他の貴族の馬車と列を成しながら、車寄せまでゆっくりと進む。入口へ近付いていけばゆくほど、先に馬車を降りた貴婦人や紳士たちの話し声が、少しずつ大きくなってゆく。
やがて馬が足を止め、微かに車輪が軋むような音を立ててから、馬車が停車した。すぐに待ち構えていた使用人がキャビンの扉を開け、恭しく頭を下げる。さすがは王城に仕える上位の使用人だけあって、白いシャツも胸元のリボンも、きっちりと着こなされた燕尾服も、皺ひとつないほど糊が利いてぱりっとしており、清潔感の中にも溢れるような気品が滲んでいた。
そんな彼の、白い手袋に包まれた手に支えられながらタラップを降り、セシリアは密かに深く吸い込んだ息をゆっくりと吐き出す。時間をかけてひとつ瞬いた後、開いた瞼の下に露わになった豪奢な建物は、幾つもの燭台で煌々と照らされ、荘厳でありながらどこか夢幻の雰囲気を帯びているようにも見える。
車寄せから真っ直ぐに伸びる白亜の大階段は、既にたくさんの招待客の姿で埋め尽くされていた。見覚えのある顔もあれば、そうでない顔もある。しかし彼らは一様に、公爵家の紋章の取り付けられた馬車から降り立ったばかりのセシリアへ、ちらりと――中には堂々と――嘲笑や侮蔑の滲んだ視線を向けてくる。遠く離れているので聞こえないが、繊細なレースを貼って作られた扇で口元を隠しながら、明らかにくすくすと嗤い声をこぼしている令嬢たちの姿も見受けられた。
そんな彼等彼女たちの視線を一身に受けながら、セシリアは竦みそうになる足を叱咤して、どうにか大階段の一段目に足をかける。今はユーリスもクロードも、無論グレアムも傍にはいない。衆目に晒されながら、たったひとりでこの階段を登りきり、その奥に聳える豪華絢爛な舞踏の間へと足を踏み入れなければならない。そう思うと、両肩にどっしりと鉛が伸し掛かるような気がして、セシリアは胸の内で深々と溜息をついた。行くと決めたのは、自分だ。そうである以上、今更逃げ出すことは許されない。
どうにか階段を登りきると、眩いほどに照らされた入口が見えた。セシリアはこくりと唾を呑む。公爵家の人間だと気付いたらしい使用人の男性が足早に近付いてきて、クロークで預かる荷物はあるかと尋ねてくれたが、セシリアは首を左右に振ってその申し出を断った。けれど彼は嫌な顔ひとつ見せず、
「何かお困りのことがございましたら、すぐにお声がけ下さい」
と、にこやかな笑みを浮かべながらそう言って、来た時と同じ素早さで人の合間を縫いながら定位置へと戻っていった。その姿が完全に人混みの中へ消えるまで見送り、セシリアはひとつ息を吐いて、再び入口へと顔を向ける。
そんな彼女の視界に、ふと、見覚えのある姿が映り込んだ。
深い緑色をしたエンパイアラインの落ち着きのあるドレス。胸元の下で切り替えられたそれは、裾へとしなやかに広がっている。胸元には小ぶりな白い生花がひとつ。それ以外の過剰な装飾は一切なく、ただ上質な生地の艶やかな光沢だけが、あたたかな灯りの下で静かに輝いていた。
いつものようにゆるく編み込まれたたっぷりの茶色い髪には、所々に小花やパールが添えられ、華美すぎず、かといって控えめすぎもしない絶妙な装いをしたその人は、穏やかなオリーブ色の瞳でセシリアを捉えると、まるで大輪の花が咲くかのように、ぱあっと明るく表情を綻ばせ、他者の目など気にすることなく、一直線にセシリアのもとへと歩み寄ってきた。
「セシリア様、お久しぶりでございます。お茶会以来ですわね」
「ええ。その節はお招き頂き、ありがとうございました」
曲がりなりにも“公爵家夫人”でありながら、誰も近寄ろうとすらしないセシリアに、彼女――モランベスト夫人は、周りの視線など全く気に留めたふうもなく、純粋無垢そのもののような笑みをふふっと浮かべる。
そんな彼女の笑顔を見つめながら、赤い薔薇のような主張の激しい派手な花よりも、可憐でありながら品のある白百合の方がよく似合う――そう思わずにはいられない人だ、とセシリアはそっと微笑みを浮かべる。
相変わらず皺を感じさせない瑞々しい肌に、長い睫毛に縁取られたくっきりとした二重の目。お茶会の時よりも幾分濃いめに化粧を施されているが、それでも他の夫人や令嬢たちに比べれば随分と薄い。素材を活かす、というのだろうか。彼女の内側から滲み出る“美しさ”を一切邪魔することなくうまく引き立たせている、と思う。
だからだろうか。常に分厚い仮面を被った者たちの中で、モランベスト夫人だけが、何も隠さず、ごく自然に素のままでそこに立っているように、セシリアには見えた。
「それにしても、今夜のドレスはまた一段と素敵ですこと!」
そう素直に褒めてくれる夫人にお礼を返しながら、そこでふと、セシリアは違和感を覚える。侯爵夫妻といえば、恐らくは王都で最も有名なおしどり夫婦だ。それなのに、夫人の傍には夫であり当主であるブライアン・モランベストの姿が見当たらない。夜会ではいつも夫婦揃って仲睦まじげに寄り添っているというのに――。
「ああ、主人でしたら……ほら、あそこをご覧になって下さいな」
ついきょろきょろと辺りを窺ってしまったせいで、セシリアの疑問を察したのだろう。夫人は朗らかに笑みを深めながら、入口傍に置かれた巨大な石像――建国の父である初代国王の像――の傍へ目を向けた。その視線を辿り、セシリアもまた巨像へと目を向ける。
そこには、子爵家の当主と思われる男性と親しげに談笑しているブライアンの姿があった。喧騒を貫いて、今にもこちらまで声が届いてきそうなほど、快活に笑っている。その声に、或いは姿に引き寄せられたのか、ブライアンの傍には入れ代わり立ち代わり、様々な人が近寄っては言葉を交わしてゆく。
「こういう大きな催しでは、いつも私を放ったらかしにして、ああなのですよ」
どこか寂しそうに、けれど嬉しそうにも聞こえる声音でそう囁き、夫人はセシリアへと視線を戻した。まるで無邪気な少女のような笑みを、愛嬌のあるかんばせに浮かべて。
「先のお茶会では、お客様がたくさんいらしたから、あまりゆっくりお喋り出来なかったでしょう? ですから今夜は、是非たくさんお話しして下さらないかしら」
思いがけない誘いに、セシリアは驚きでぱちりと目を瞬かせる。夫人が傍にいてくれるのなら心強いけれど、しかし彼女は社交界では珍しく、誰からも慕われている人だ。その上、侯爵家の夫人ということもあり、この機に声をかけて親しくなりたいと思う人も多くいるだろう。
「お言葉はとても嬉しいのですが、しかし……」
「まあ、ご遠慮なさらないで下さいな。もうこの歳ですもの。ダンスを申し込んでいらっしゃる殿方など、おりませんわ」
もし夫人にダンスを申し込むような男性がいれば、すぐさまブライアンが駆けつけてくるだろう。夫である自分以外は許さない、という顔で。いつだったか、若かりし頃は一夜のパーティーで何曲もふたりで踊り明かしたこともある、と、そんな惚気話を聞いたことがあったことをセシリアは思い出す。
夜会のダンスには、ラストダンス以外にも、深い意味合いを持つ幾つかの慣習がある。その内のひとつが、同じ相手と何曲も踊る、というものだ。二曲踊れば特別な関心や好意があると見做され、三曲踊れば、極めて親密な仲――或いは婚約している仲――であることを公に宣言するに等しい。特定の相手がいない男女が同じ相手と複数回踊るのはマナー違反とされる為、その時にはもう既に、夫妻は周囲公認の"特別な仲"だったということだろう。
「さあ、そろそろ中へ参りましょう。乾杯の御挨拶が始まってしまいますわ」
夫人に促され、セシリアは未だ巨像の傍で談笑しているブライアンを横目に一瞥してから、建物の中へと足を向けた。
艷やかに磨き込まれた大理石の床には、真紅の絨毯が道標のように真っ直ぐ敷かれ、その先には重厚な扉が大きく口を開けて佇んでいる。他愛もない世間話を交わしながら、セシリアはモランベスト夫人とともにその扉を潜り、舞踏の間へと足を踏み入れた。
途端に、それまで以上の喧騒が、まるで大波のようにどっと押し寄せ、セシリアを呑み込んだ。オーケストラの演奏者たちが楽器の調整をしている音色など、まるで耳に届かないほどの熱を帯びたざわめき。
所々金の装飾や象嵌の施された白い壁には、歴代国王の絵画や胸像が飾られ、太く立派な柱には精緻な彫り込みがたっぷりと施されている。硝子や陶器で出来た大ぶりな花瓶に活けられた、今が盛りの美しい花々。きびきびとした動きで招待客をもてなす使用人たち。天井は建国史の中でも最も有名なワンシーンを描いた鮮やかなフレスコ画が埋め尽くし、中央に吊り下げられた巨大なシャンデリアは、数え切れないほどの蝋燭に炎を灯して大広間を煌々と照らし出していた。
そして舞踏の間の正面奥には、広間を見下ろすように半円形に張り出した貴賓台が設けられ、壁には王家の、そしてこの国の象徴である紋章を織った大きなタペストリーが、重々しく掛けられている。その手前には、深紅のベルベットに金細工の施された豪奢な椅子が二脚、静かに並んでいた。恐らくはテオドール陛下とカトリーヌ王女の為のものだろう。
その光景をぼんやりと眺めていると、不意に、そっと背中にぬくもりが触れた。まるで子どもをあやすような、或いは護るようなそのやさしい手の感触に、セシリアは思わず息を呑んで、隣に佇むモランベスト夫人へと目を向ける。
刹那、やわらかい光を湛えたオリーブ色の瞳と、視線が交わった。どこまでもどこまでも穏やかな、そして慈愛に満ちた瞳。
「ひとりで心細いでしょうけれど、臆する必要などございませんわ」
そう言って、夫人はセシリアに添えていた手で、ぽん、とやさしく背を叩いた。まるで励ますように。
「セシリア様のお傍には常に――たとえ目に見えなくとも、確かな光がついておりますから」
