「君を愛することはない」と言われて三年、そろそろ白い結婚をやめようと思います

「――宮廷舞踏会?」

 渡された封筒と、それを持ってきたグレアムの顔を交互に見遣りながら、セシリアは久方ぶりに耳にしたその言葉を、半ば呆然と鸚鵡返しにした。

 今朝、邸へ届けられたその封筒は、さすが王族が認めた――といっても書くのは代理であるが――ものらしく、封筒にもメッセージカードにも金の箔押しで美しい装飾が施され、真紅の封蝋には王家の紋章がくっきりと押されている。

 王家主催の舞踏会など、いったいいつぶりだろうか。微かに香水の吹き付けられた、上品で華やかな香りのするカードに視線を走らせながら、セシリアは頭の中で記憶を探る。何せ現国王であるテオドールは、根っからの“社交界嫌い”で有名だ。その所以を知れば、彼がそうなってしまうのも無理はない、とセシリアは思う。王太后への誹謗は、当時まだ幼かったテオドール自身にまで向いていたと、グレアムから聞いている。

 そんなテオドールが、数多の貴族を招待して、宮廷舞踏会を開催する。しかも開催日は五日後。何故そんな急に――と疑問に思いながら文字を読み進めると、隣国の王女が急遽来訪する為、彼女を大々的に歓迎すべく開かれる、という旨が短く記されていた。

 その隣国とは、どうやらヴェルミア王国の南に位置するエルヴァール王国の、カトリーヌ・ラクロワ第二王女であるらしい。本来他国の貴賓を迎える催しは、ある程度余裕をもって知らされるものだ。招待状が五日前に届くということは、何の前触れもない突然の訪問だったのかもしれない。恐らくユーリスは、一通り落ち着くまで邸へ戻ることはないだろう。――もっとも、他の女性の邸へ足を運んでいるのなら、別の話であるけれど。

「いかがなさいますか?」

 今まで口を閉ざしていたグレアムからの唐突ない問いに、ふと違和感を覚え、セシリアはメッセージカードへ落としていた視線を上げ、傍らに佇む彼を見上げた。開け放たれた窓から、草木の青さを溶かし込んだような瑞々しい風がふわりと流れ込み、ゆるく編んだ三つ編みの毛先を微かに揺らす。夏の気配をほんのりと孕んだ真昼の日差しが、横顔にやわらかく触れてあたたかい。

 王族主催の舞踏会となれば、招待を受けた殆どの貴族は、よほど特別な事情でもない限り参加するのが、連綿と受け継がれてきた慣わしである。特に高位の爵位を持つ家は必須のようなもので、公爵位にあるシルヴェイン家も無論例外ではない。この地位にある以上、セシリアに“断る”という選択肢はないのだ。

 それは、長年この家に仕えているグレアムなら、十分に理解しているはずだろう。それなのに「いかがなさいますか?」と問いかけてくるのが、セシリアには不思議だった。しかも彼の、程よく日に灼けたかんばせには、心なしか不安げな色が滲んでいる。その表情を見ていると――何故か胸の奥が、ざわりと波立った。嫌な予感がする。聞いてはいけないような、そんな気が。

「それは……どういう意味かしら」

 けれど、確かめないわけにもゆかず、セシリアはどうにか心中を悟られないよう平静を繕いながら問いかける。するとグレアムは答えを探すように視線を泳がせ、それからゆっくりと、どこか申し訳なさそうに色素の薄い眉を下げた。その様子に、彼が言葉を選び倦ねているのだと、セシリアは察する。途端に、胸の奥でざわついた波が、すうっと静かに引いていった。まるで嵐の前の、不気味な凪のように。

「実は……旦那様より、今回の舞踏会には参加しなくても構わない、と言付かっておりまして」
「……えっ?」

 思いもよらぬ言葉に、セシリアは唖然として目を見開く。足元から砂がさらさとこぼれ、攫われてゆくような感覚がする。不安定な足場に立ち尽くしたまま、どう答えて良いのか分からず、セシリアはただグレアムを見つめているしかなかった。

 公爵家の当主であり、宰相という地位にあるユーリスが、王族主催の舞踏会の慣わしを知らないはずがない。貴族社会のトップであり、国王に次ぐ立場にある彼こそ、誰より熟知しているはずだ。

 それなのに、どうして――。そう思いかけた瞬間、それまで静かだった波が、荒れ狂う大波となって胸に押し寄せ、無数の飛沫を散らしながら弾けた。ざわめきが、まるで雷鳴のように響いている。胸の内側だけでなく、身体のあちこちがしとどに濡れたように、冷たくてたまらない。手足の先から、背筋から、すっと血の気が引いてゆく。

 そんなに、嫌なのだろうか。“落ちこぼれ貴族”と揶揄される家の娘を、王族主催の舞踏会に伴うのは。傍らに立たせることさえ、彼の名に、立場に、泥を塗ることになるのだろうか。

 或いは、もしかしたら――。こくりと唾を呑み、セシリアは微かに震える手で、カードを握る指先に僅かに力をこめる。或いはもしかしたら、別の女性を伴うつもりでいるのかもしれない。没落を首の皮一枚でどうにか免れたような伯爵家の娘ではなく、もっと聡明で思慮深く、気品に溢れ、ユーリスの傍らに立っても決して劣ることのない美貌を兼ね備えたような――そう、たとえば、ヴォーシェ家のマリエルのような女性を。

 ――本当にお似合いですわよね、おふたり。
 ――まるで絵画から抜け出してきたような美しさでしたわ。

 いつかのお茶会で耳にした女性たちのせせら笑いが、鼓膜の裏側に響き渡る。まるでまさに今、目の前で聞かされているかのような鮮明さで。

 ――どこかの、借金まみれの落ちぶれ伯爵家とは、格が違いますわね。
 ――公爵様もご不満でしょうに。

 ふっと力の抜けた指先から、招待カードがはらりと滑り落ちる。腿の上に落ちたそれを拾い上げることもせず、セシリアは未だ相見えたことのないマリエルの姿を探すかのように、ぼうっと虚を見つめた。

「奥様」

 そんなセシリアの意識を無理矢理引き戻すように、グレアムが名を呼んだ。壊れた玩具のように、ぎこちない動きで顔を上げると、彼のどこか憂いを帯びたなような深い灰色の瞳と、視線が交わった。

「旦那様は今回、宰相としてのお務めがございます故、奥様のお傍を離れざるを得ないとのことです。決して、他のご令嬢をお誘いになっているわけではございません」

 様々な悲喜交交を見届け、幾年にも及ぶ経験を積み重ねてきたからこその老練な慧眼には、すっかり見透かされてしまっていたらしい。セシリアはふっと息を漏らすように自嘲をこぼし、ゆるゆると伸ばした指先で、金の装飾が施された美しいカードを拾い上げた。

 思えば、ユーリスと結婚して以来、二人でパーティーに参加したのは幾度あっただろう。確か、従兄弟の婚約パーティーに招かれた時に一緒に訪ねたのが、最後ではなかっただろうか。――彼は今も様々な夜会に参加していると聞くのに。

「……舞踏会に参加する旨を、伝えてもらえるかしら」

 暫し間を置いてから絞り出した声は、思っていた以上に弱々しく、掠れていた。その声の微かな震えまで聞き取ったのか、グレアムの表情が僅かに曇る。そんな彼へ、セシリアは胸の奥を鈍く抉るような痛みを堪えながら、努めて穏やかに微笑んだ。

「ユーリスはいなくても……いえ、彼がいないからこそ、公爵家の人間としてきちんと参加しなければならないわ」

 参加しようがしまいが、どのみち笑い草にされるのは明白だった。参加しなければ「公爵家の人間なのに」と責任や怠慢を追及するような声が溢れ、かといって参加すれば、「独りでいらっしゃるなんて」と惨めさや不甲斐なさを嘲るような声が溢れることだろう。ユーリスが傍にいない以上、どちらを選ぼうが、格好の餌食になることは避けられまい。

「本当に、宜しいのですか」
「ええ」

 にっこりと深めた笑みを返し、セシリアは片手に握っていたカードを、飴色に磨き込まれたティーテーブルの上に置いた。

 もう潮時だ、と思っていたくせに。別れるつもりだ、とクロードへ言い切ったくせに。嘲笑の只中にひとり放り込まれると理解していながら、誰も助けてくれる人などいないと分かっていながら。それでも"公爵夫人"としての務めを果たそうとしていることに、セシリアは内心ひっそりと自嘲をこぼす。矛盾だらけでしかないそんな自分自身が、つくづく嫌いだ、と思いながら。





「――セシリアはひとりで参加するそうだな」

 舞踏会当日の慌ただしさから抜け出し、バルコニーで一息ついていると、唐突に背後から声をかけられた。その聞き覚えのありすぎる――何なら今最も聞きたくはなかった――その声に、ユーリスは僅かに眉を顰める。振り返らずとも、そこに誰が立っているのかなど確かめるまでもない。

「……そのようですね」

 規則正しい靴音が近付き、隣へ並ぶ。ちらと横目で窺うと、色白のなめらかな肌をした、けれどしっかりと男らしく節の張った手に、赤ワインの注がれたグラスが握られていた。まだ舞踏会は始まってもいないどころか、太陽は天の真上で燦々と輝いている上に、そもそも主役のひとりであるカトリーヌすら到着してはいないというのに。

 この男のそんな奔放ぶりを、しかし嫌いではない、とユーリスは思う。厄介ではあるけれど。

「お酒のせいで、カトリーヌ王女にみっともない姿を晒すことだけはおやめ下さい」
「私が酒に呑まれないことは、お前が一番よく知っているだろう」

 そう言って、彼は――テオドールはまるで見せつけるかのように、唇をつけた華奢なワイングラスをゆっくりと傾けた。確かに彼は、酒豪として名を轟かせた先代国王の血を濃く受け継いだのか、浴びるように酒を飲んでも殆ど酔った姿を見せたことはない。

 そんな主君から視線を逸らし、ユーリスは眼前に広がる庭園へと目を向けた。昨日まで続いた霖雨が嘘のような晴天のもと、一流の庭師たちによって丁寧に整えられた庭園は、光の粒を散らすように美しく輝いている。

 甘い香りのする綿のような花をつけたエルダーフラワー、蔓棚に這わせたウィステリア、石畳の両脇に沿って植えられたハイドレンジア、パーゴラにたっぷりと垂れ下がった鮮やかな黄色のゴールデンチェーンツリー。

「ところで、ユーリス」

 向けられる視線を横顔で受け止めながら、ユーリスは庭園の中央に設えられた大きな噴水の、更にその奥へ伸びる一本の路を凝視する。正しくは――その奥にほんの微かに見える、錬鉄製の門扉を。

「お前、今日はいつもより装飾品が少なくないか」

 ふたりの間を吹き抜けたあたたかな風が、髪を揺らす。庭園に植えられた木々がさわさわと葉擦れの音を立て、まるで誘われたかのようにどこからともなく小鳥たちが飛び立ってゆく。

「……気の所為でしょう」
「そうか。気の所為か」

 くつりと笑う声が聞こえ、ユーリスは胸の内で溜息をつきながら、左隣に立つテオドールへと顔を向けた。その視線に気付いていながら、テオドールは素知らぬふりをして手摺に頬杖をつき、陽光を浴びてきらりと縁を光らせるワイングラスをゆらゆらと愉しげに弄んでいる。

「ならば私は、ずっと幻を見ていたのだろうな」

 赤ワインをひと口呷り、テオドールは淡く潤いを帯びた唇ににやりと嫌な笑みを浮かべながら、ユーリスへと目を移した。その瞬間、ああ――とユーリスは思う。恐らく背後に立った時点で、この男は疾うに気付いていたのだろう、と。だから敢えて、並び立つ位置を選んだのだ、と。

「――お前の左耳に、“青い幻”をな」

 まるで心中を探るように、長い睫毛に囲まれた目が、すうっと細められる。とろりと蕩けるような、甘い蜜の色をした瞳。しかしその実、その瞳は、あらゆるものを見透かし、どんな仮面も剥がしてしまうような、底知れない鋭さを秘めている。

 この目があるからこそ、元老院や大臣、貴族たちは、今や誰ひとりとして彼に抗えない。射抜かれれば最後、奥に隠していたものを否応なく引き摺り出されてしまうのだから。怯える者、畏怖する者、敬う者、憧憬を抱く者――。

 果たして自分はどれなのだろう。諦念に似た思いを抱きながら、ユーリスはそれでもじっと、主君であり悪友でもある男の瞳を見つめ返す。そんな彼に、テオドールは僅かに目を瞠らせ、それから至極面白そうに、声を上げて笑った。

「さて、その幻は――いったいどちらの女の為に消したんだろうなあ? ユーリス」