「君を愛することはない」と言われて三年、そろそろ白い結婚をやめようと思います

 クロードから提案を受け、公爵邸で働く使用人のリストを渡されてからというもの、セシリアはひどく思い悩んでいた。誰を選定し、公爵領の邸へ送るか――。リストに連なる名を見ては頭を抱え、眉間を揉み、溜息をつく。それの繰り返しで、気付けばあっという間に一週間が過ぎてしまっていた。

 誰を選ぶかを決めるには、まずは使用人たちをこれまで以上に注意深く観察するしかないだろう。ただ噂好きだという理由や、口数が少なく無愛想だからという理由だけで選ぶわけにもいかない。

 それは自分自身の為というより、既に老齢となった公爵夫妻を――特に病に冒されている先代当主を――慮ってのことだった。向こうには長年仕える熟練の使用人たちがたくさんいるとはいえ、先代やクロードたちにまかり間違っても不便をかけるような選定をするわけにはいかない。

 もっとも、嘗ての女主人である先代夫人は、やさしい性格でありながら時に厳しさも見せ、年老いた今も凛々しさや威厳は少しも損なわれていない。正に理想の“公爵夫人”を体現したような人だ。その上、実家は由緒正しい名家である。“没落寸前だった借金まみれの伯爵家”などというレッテルを貼られているセシリアとは、何もかもが違う。

 どんな人を選ぼうと、先代夫人やクロードたちが軽んじられることはないだろう。だからといって、いい加減で杜撰な選定をするわけにはいかない。その為セシリアは、仕事の合間合間に、これまで以上に念入りに使用人たちの行動や仕事の熟練度を観察することにした。

 どの人であれば公爵領の邸でもしっかりと仕事をこなせるか。ベテラン勢ばかりで若い者が少ない向こうの環境で、どういう人材が役に立つか。

 それを基準として念頭に置きながら、日々使用人たちの働きぶりに目を凝らし続けた。もちろんそれと並行して、グレアムには彼等の身辺調査やこれまでの経歴を調べるよう指示も出している。そこだけはやはり何より怠れない。

 更に一週間をかけて、これまで以上に丁寧に、些細な行動もひとつひとつじっくりと観察していると、意外な面が見えてくることが多々あった。

 例えば、噂好きで何かにつけ仲間同士でこそこそと集まり、時にセシリアをせせら笑っていた使用人は、邸の中でも最も効率よく掃除をこなす腕を持ち、特にくもりひとつなく窓を拭くことや、ベッドメイキングがとても上手い。

 或いは、セシリアの身支度を任されている侍女のひとりは、無口で無愛想で、時に意見を主張したかと思えばそれを決して曲げず貫き通そうとするところがあるが、誰よりも社交界の流行り廃りに敏感で、最新のファッションプレートのチェックも抜かりない。

 見れば見るほど、知れば知るほど、とても興味深かった。と同時に、セシリアは深く後悔する。自分はずっと、彼女たちのほんの一場面の姿しか見ていなかったのだ、と。長所も短所も、人間であれば誰にでもある。果たして今まで、短所ばかりが目についても、長所を知ろうと努めたことが、果たして一度でもあっただろうか。

 数日後、セシリアはまとめたリストに封をして、グレアムへ渡した。もちろんそこには、彼が作成した身辺調査書も含まれている。

「これを、クロード宛に送ってもらえるかしら」
「畏まりました。すぐに手配致します」

 恭しく頭を下げるグレアムに、セシリアはそっと微笑む。意外にも、胸の内はすっきりとしていた。それは決して、嫌いな人を追い出せたことへの爽快感ではなく、今まで知らなかったことを知れたという、気付きを得たことに対する充足感のような感覚だった。

 リストに記した使用人は、好き嫌いで選んだわけでは無論なく、適材適所を基準に、出身地やその他の事情――元々公爵領に住んでいたり、妻子や年老いた両親を公爵領近くに残していたり――なども考慮して選んだ者たちだ。給金も幾分上がるので、反発が起こる可能性は少ないだろう。

「……ねえ、グレアム」

 渡したリストを脇に抱え、踵を返して部屋を出てゆこうとするグレアムの背中へ、セシリアは無意識に、まるで独り言のようにぽつりとこぼしていた。振り返った彼の、先を促すようなやわらかな視線に、自分で呼び止めておきながら、セシリアははっとして口を噤む。頭の中だけで留めておくつもりだった言葉が、思わず口から滑り出してしまっていたから。
 
 しかし、呼び止めておいて何でもない、と言うのもおかしなことだろう。グレアムであれば何かを察して、それには触れず立ち去ってくれるだろうけれど。それでも、喉の奥で堰き止めている言葉が疼いて、セシリアは仕方なく苦笑をこぼした。

「クロードはいったいいつから、考えていたのかしら」

 そう問いかけると、グレアムはほんの一瞬僅かに目を瞠らせ、それから思案するように、セシリアからそっと視線を逸らす。

 丁寧に撫でつけられた髪は、嘗て艷やかな黒色をしていたけれど、今は所々に白色が目立つ。趣味の一環で庭の手入れをしているからか、程よく日に灼けた肌には、昔はなかったはずの小さな皺が幾つも刻まれているのが見て取れる。

 その姿をじっと見つめながら、随分と長い年月が過ぎたのだな、とセシリアは感慨深く思う。執事長としての風格や気品はそのままに、歳を重ねるごとに良い意味で貫禄が増した彼の横顔に、遠い日の懐かしい姿を重ねながら。

「実は、クロード様には黙っているようにと言われていたのですが……」

 そう言いながら、グレアムは再び向き直り、苦笑に似た、けれどやさしい笑みを浮かべた。

「公爵領へ移られてからすぐ、ご指示がございました。奥様と使用人たちの様子を、定期的に報告するように、と」
「……えっ?」

 予想だにしていなかった言葉に、セシリアは思わず目を見開く。クロードたちが向こうへ移ったのは、セシリアとユーリスが結婚してからすぐのことだ。つまり、グレアムへの最初の指示は、三年前ということになる。

 唖然とするセシリアの、困惑を孕んだ視線を静かに受け止めながら、グレアムはゆっくりとひとつ頷いて、薄い唇を開いた。

「奥様が、邸に馴染んでいらっしゃるかどうか。困っていることはないか。そういったことを、こまめに知らせてほしいとのことでした。クロード様らしい、細やかなお気遣いかと存じます。ですが本当は……全て、大奥様からのご指示だったのです」

 あまりに呆然としてしまい、セシリアは言葉を失う。

 大奥様から――ということは、先代夫人からの指示で動いていた、ということだ。セシリアの頭の中で、その言葉が、事実が、頭の中に重く響き渡る。消えかけては蘇り、消えかけては蘇り、何度も、何度も。その度に、喉の奥がぎゅっと締め付けられてゆくような気がする。安堵や喜びではなく、抱えきれないほどの不甲斐なさのせいで。

 もしかしたら、初めから悟られていたのかもしれない、とセシリアは思う。自分ひとりでは“公爵夫人”として、邸の“女主人”として、しっかりと立つことが出来ないのではないだろうか、と。そもそも、端から信頼されていなかったのかもしれない。

 グレアム以外の使用人を連れて行って構わないと言った時――果たして夫人はどんな思いで自分を見つめていたのだろうか。身の縮む思いに苛まれながら、セシリアは微かに瞼を伏せる。先代公爵が病に臥せるまで、使用人たちを長年取り纏めてきた立派な“女主人”の目に、きっと自分は馬鹿で浅はかな女に映ったことだろう。

 そんなセシリアの心情を、翳りの落ちた表情から見て取ったのか、グレアムが、ふふっ、と小さな笑い声をこぼした。この人の朗らかさは、まだ幼かった頃に初めて顔を合わせた時から、少しも変わらない。

「大奥様は、奥様のことを嫌いなられたわけでも、見限られたわけでもございません。寧ろ未だに奥様のことを信頼し、可愛がられておりますよ」
「そのようには、とても思えないのだけれど……」

 三年経った今になって、使用人の入れ替えを指示してくるということは、“この娘では無理だ”と愛想を尽かされたと思うのが自然だ。

 この三年間、夫人はずっと、グレアムから適宜もたらされる情報をもとに、セシリアが“女主人”としてどう立ち居振る舞うかを観察していたのだろう。初めのうちこそ、期待はあったのかもしれない。けれど年月を経るにつれ、まともに取り纏められるどころか下級の使用人にまで軽んじられる始末だと知って、彼女が落胆し、呆れ、見切りをつけただろうことは想像に難くない。

「大奥様は、奥様が“グランベール家の娘”として、否が応でも背負わざるを得なくなってしまった"どうにもならない事情"をご存知です。それが奥様の、重たい足枷になってしまっているということも」

 グランベール家の娘として背負うもの――。恐らくそれは、水害と投機の失敗によって抱えることとなってしまった、莫大な借金のことだろう。その一件で、グランベール家は一時“没落貴族”と呼ばれ、今でも首の皮一枚でどうにか繋がっただけの“落ちぶれた名ばかり貴族”だと揶揄される。社交界でも、市井でも。

「ひとつ、勘違いなさらないでいただきたいのは――」

 そこで言葉を区切り、グレアムは深くゆっくりと息を吐き出しながら、セシリアの背後に広がる窓の外へと視線を向けた。まるでそこに、幼い三人の子どもの姿を見ているかのような、遠い目をして。

「愛するが故に、壊れ物を扱うかのように大事にし、何でも甘やかし、出来ないことにはすぐに手を差し伸べて護る……。確かにそういった行動は、“大事にしている”ことの証として思えるでしょう。けれど――それが必ずしも“本当のやさしさ”や“真の愛情”とは、限らないのです」

 再びセシリアへと視線を戻したグレアムが、目元に、口元に皺を刻みながら、やわらかく微笑んだ。嘗て無邪気に遊び回っていた子どもの姿を重ね、慈しんでいるかのように。

「大奥様は、昔から奥様のことを我が娘のように可愛がられておりました。それこそ、目に入れても痛くないというほどに。それは今も変わりません。大奥様から届くお手紙にはいつも、奥様を気遣う言葉がたくさん綴られております」

 時には本題を書くのを忘れてしまわれるほど、と茶目っ気のある口調で付け足したグレアムに、セシリアは目を瞬かせた。

 先代夫人と最後に手紙のやり取りをしたのは、いつだっただろう。彼女からセシリアへ手紙が届くことは、あまりない。それが気を遣ってのことなのか、それとも姑として思うところがあるからなのかは、分からないけれど。確か、新年を祝うメッセージカードを送ったのが最後ではなかっただろうか。

 それなのにまさかグレアム宛の手紙で、そのようなことを綴っていただなんて。

「辛い思いをするかもしれない。苦しい思いをするかもしれない。……大奥様はそれらを承知の上で、胸を痛めながらも、敢えて傍観されていたのです。いつか“先代公爵夫妻”という大きな後ろ盾を失くしても、奥様がしっかりとご自身の足で立っていられるように。奥様の持つ本当の力を引き出す為には、そうするしかないと思われたのです」

 そっと目を閉じると、瞼の裏の薄闇に、ゆるやかに靡く美しいブロンドの髪が浮かび上がる。陶器のような白い肌、長い睫毛に縁取られた丸い瞳、愛嬌のある深緑色の瞳、ふっくらとした血色の良い唇。

 何歳になっても“まるで可憐な花のよう”と評されていた先代夫人は、出立の間際、寂しさを隠すように満面の笑みを湛えながら抱き締めてくれたことを、セシリアは今もはっきりと憶えている。彼女の腕のやわらかさも、心地よいぬくもりも、ふわりと薫る上品な香水の匂いも、何もかも。

「三年もお待たせしてしまったのに……私はついぞ、独り立ちすることが出来なかったのですね」

 瞼をゆっくりと持ち上げ、自嘲の滲んだ声でそう呟くと、グレアムはすっかり色素の薄くなった眉をひょいと上げ、それからすぐに首を左右に振った。

「とんでもございません。奥様はきちんと、務めを果たされております。公爵領へお届けした書類をご覧になられて、大奥様も感心なさっているとクロード様からお聞きしております」
「でも……結局、使用人を入れ替えることになってしまったわ」

 そう言いながら、セシリアは視線をそっと手元へ落とす。デスクの上で重ねた両手の指先が、微かに白くなるほど、いつの間にかきつく絡み合っている。それに気付いて、セシリアは慌てて力を緩めた。それでもまだ、握っていた両手は、微かに震えている。

 そんなセシリアを、暫くの間グレアムは静かに見つめていたが、やがて、ふ、と息をこぼすように笑った。責めるでも、慰めるでもない。ただあたたかく――長年この家を、そして成長してゆく幼い子どもたちを見守ってきた者としての、深い眼差しで。

「今回の件につきましては、大奥様なりのお力添えとお考え下さい」
「お力、添え……?」
「ええ。どんなに奥様が頑張られても、“どうにも出来ない事情”というものがございます。……それは、奥様ご自身が、一番お分かりかと」

 図星を突かれたような思いで、セシリアは息を呑む。なるべく見せないよう、気付かれないようにとしていたのだけれど――どうやら熟練の執事長には、すっかり見透かされてしまっていたらしい。

 どうにも出来ない事情――。頭を擡げるのはやはり、借金の件だ。公爵家に肩代わりしてもらった莫大な借金。その上ユーリスは、別途として被災地に多額の支援金まで送ってくれた。公爵家の力を持って救われ、どうにか首の皮一枚で没落を免れたたという“事実”は、何をどうしたところで変えることは出来ない。グランベール家が存在する限り、それはいつまでもセシリアたちの背中に、罪深い十字架のように刻まれ続ける。

 だから、仕方のないことだ、と受け入れるしかなかった。没落貴族、落ちぶれ貴族と嘲られても。不釣り合いな結婚だと揶揄されても。夫が他の女性のもとへ通っていることを面白おかしく嗤われ、侮られても。“事実”がある以上、セシリアには強く言い返せる言葉が、何もなかった。

「……噂とは、実に恐ろしいものです」

 茫然とするセシリアへ、まるで子どもに語りかけるように、グレアムが穏やかな声音で言葉を紡ぐ。

「先代国王が心から愛された王太后陛下でさえ、“病弱なお身体”というだけで、謂われのない噂を囁かれたものです。待望の男子が誕生しようとも、国王陛下自らが言葉を尽くして庇おうとも――下賤な者たちにとって、そんなものは関係がないのです。ただ歪んだ快楽に浸れれば、それで良い。そもそも“真実か否か”など、彼らには重要ではないのですから。大きく膨れ上がった噂の前では、真実は時に無力でしかありません」

 なんとも腹立たしいことですけれど。
 そう付け加え、グレアムは目元に皺を寄せて、にっこりと笑った。

「ご決断がこの時期になってしまわれたのは、大旦那様のご様態が漸く安定されたからでしょう。……ですからどうか、今回の件について思い悩むことはなさらず、大奥様からのエールだとお受け取り下さい。挫けず、これからも前を向いて歩んでほしいという、メッセージだと」