「君を愛することはない」と言われて三年、そろそろ白い結婚をやめようと思います

 書類で埋め尽くされたデスクの上に、蜜蝋で丁寧に磨かれた底の浅い四角いトレイが置かれている。見覚えのありすぎるそれには、案の定、こぼれんばかりの手紙が積み上げられており、ユーリスはうんざりとした気持ちで溜息をついた。よほど暇人しかいないのだろうか、と胸の内で悪態を吐きながら。

 椅子に腰掛け、書類に取り掛かる前にまずそれらの手紙を一枚一枚手に取って素早く目を走らせる。予めグレアムに選別してもらってはいるものの、それでも優に両手の指の数を超えているだろうことは、数えるまでもない。

 折角、久方ぶりにまともな睡眠がとれ、随分と頭が軽く、すっきりと晴れた感覚がしていたというのに――。封蝋を開けることはせず、裏面に記された送り主の名を確かめ、不要なものは屑籠代わりの箱の中へ次々と落としてゆく。中には手を止め、封蝋を解いて便箋やカードの文面を確認するものもあるが、それは数多ある封筒の中でもほんの一握りに過ぎない。だいたいいつものことだ。

「――今日はやけに顔色が良いな」

 山のような手紙の中からヴォーシェ家の名が綴られた封筒を見つけ、それを手に取ったところで、ユーリスは唐突に声をかけられた。

 反応するか否か、逡巡したのはほんの一瞬。しかし、無視を決め込めば厄介なことになるのは、長い付き合いの中で嫌というほど思い知っている。
 
 仕方なくユーリスは視線だけをちらと上げ、部屋の中央に置かれた応接用のソファへ目を向けた。ティーカップを片手に優雅にお茶を楽しむ主君の横顔へ。半刻ほど前に護衛ひとりを伴って何の前触れもなくやって来た彼は、自身の仕事を疾うに片し終えたのを良いことに、何故か部下の執務室でのんびりとティータイムを愉しんでいる。

「昨夜はきちんと眠れたものですから」
「ああ、そういえば昨夜は邸へ戻っていたな。てっきりお前の寝床は、そこの長椅子になったものだと思っていたが」

 誰のせいだと思っているんだ、と喉元まで出かけた言葉をぐっと押し戻し、ユーリスはヴォーシェ家の印が押された封蝋を解いて、中から数枚の便箋を取り出す。淡い生成り色をしたそれには、快活な侯爵家当主らしい闊達な筆跡で、先日侯爵領の件について相談に乗ってもらったことへの礼と、貴重な時間を割かせてしまった詫びを兼ねた食事会への誘いが丁寧に綴られていた。末尾には、久方ぶりにお顔を拝見したいので、よろしければ奥方様も是非に、と添えられている。

 少しの間、ユーリスは無言で便箋を見つめたまま、考え込む。しかしすぐに便箋を元の通りに折り畳み、封筒の中へ戻して屑籠とは別の箱へと入れた。狙いがあけすけな連中――ユーリスの身分や立場をあてにする者や、わざとらしく娘の名前を書き付けている者――はどうでも良いが、侯爵家との繋がりは、社交的にも政務的にも疎かには出来ない。

「それにしても、晩餐会に夜会にと、随分と引っ張りだこだな」

 ティーカップをソーサーの上に置き、ゆったりと背もたれに身体を預けながら、テオドールがくつくつと笑う。

「まあ、お前はしがらみが多すぎるからなあ。公爵家当主、宰相、王家の傍流――。腹に一物抱えた輩にとって、お前ほど取り入り甲斐のある相手はおらんだろう」

 新しく手に取った封筒は名を見てすぐ屑籠へ放り込み、次に掴んだものもまた封蝋の印を見ただけで、乱雑な手つきで落とした。公爵家当主を継ぎ、宰相の座についてから数年経つが、今ではもう、どこの家の誰がどのような企みを抱えて近寄ってくるのかを、ユーリスは尽く把握している。故に、選別は必要だった。表ではやんわりと断りを入れ、裏では一瞥もせず切り捨てる。そうしなければ、とてもではないがやっていられない。

 とはいえ、重要だと判断した相手との交流でさえ、全て受け入れられるほどの余裕が、今のユーリスには微塵もなかった。来るもの拒まずで何でもかんでも受けていれば、身体が幾つあっても足りない――そういう理由も、ないわけではない。ほんの欠片ほどだが。

「陛下も少しは、社交の場に出られては如何ですか」
「御免だな。あいつらと酒を飲み交わすくらいなら、お前やカイルと市井の酒場で安酒を呷る方がよほど良い」

 先代国王が病により崩御したことで若くして摂政王太子となり、その後即位して新たな国王の座に就いたテオドールは、下賤な貴族の集い――というより、社交界そのもの――をひどく嫌っている。いっそ憎悪していると言っても、過言ではないほどに。

 その原因は間違いなく、母親である王太后や彼自身への謂れなき誹謗のせいだろう。後者に関して当人はさして気に留めている風はないが、王妃という座にありながら嘲笑の的として格好の餌食にされていた実母を、テオドールは幼い頃からずっと見てきている。故に、そうした仕打ちを平然と行う社交界を、彼が未だ赦せずにいることを、ユーリスはよく知っていた。

 彼の母親は幼い頃から身体が弱く、御子を産むことは叶わないのではないかと、宮廷では憚りもなく囁かれていたようだ。しかし、先代国王はその病弱さを承知の上で彼女を娶った。数々の反対を押し切り、御子は必ず産まれると断言して。

 それでも王妃はなかなか御子を身籠ることが出来ず、やがて「側室を迎えるべきだ」という声が、日増しに大きく、目立つようになっていった。或いは、病弱な王妃など早々に捨て、若い娘を正妻に迎えるべきだ、とも。

 そんな騒動の最中に産まれたのが、一人息子のテオドールである。

 けれど、待望の男子誕生であるにもかかわらず、貴族たちの間で流言が絶えることはなかったという。――テオドールは、本当に王妃の子なのか、と。もしかしたら、密かに別の女との間に出来た子ではないのか、と。

 そんな噂話を、馬鹿馬鹿しい、と吐き捨てていた父親のことを、ユーリスは思い出す。件のこともあってか、父親は社交界や宮廷で公爵家当主としての務めを果たしつつも、付き合うべき人間か否かを慎重に見極めている節があった。何せ国王夫妻へ絶対忠誠を誓う男だ。王家を平然と侮辱するような者たちと親しくするのは、ひどく苦痛で、信条に反することだったのだろう。

「なあ、ユーリス」

 肘掛けに頬杖をつきながら、とろりとした蜜のような琥珀色の瞳がユーリスを見据えた。形の良い唇の端はにやりと上がり、嘲りにも似た笑みが滲んでいる。

「宮廷も社交界も、“魔の巣窟”だと思わんか」

 新しい封筒に手をかけながら、ユーリスは言葉の真意を探ろうと、テオドールの双眸を見つめ返す。

 この男が直接的でなく、敢えて遠回りな言い方をするのはいつものことだ。噛み砕いて理解するのには難儀するが、そういう言い回しをする時に限って、そこには彼の“本音”が隠れている。この王城で、それを理解出来ている人間が、果たしてどれほどいるだろう。

「その汚泥のような穢れた海には、得体の知れない魑魅魍魎が跋扈している。随分とデカい顔をしてな。そこに投げ込まれたひとつの種は、もみくちゃにされながら尾を得、鰭を得、そうして醜い魚となってゆく」

 そこで漸く、ああ――と彼の言いたいことを理解したユーリスは、開く気のない封筒を手にしたまま、ゆっくりと背もたれに寄りかかった。

「育った魚は、汚泥の海を自由気ままに泳ぎ回る。悪意ある餌を喰らいながらな。そうして大きく膨れ上がった魚は、もう誰の手にも負えん。その上厄介なことに、そいつは新たな稚魚を生み落とす。初めから汚泥に染まった、醜悪な稚魚をな」

 そうしてまた、稚魚はあちこちから好き勝手に投げ込まれる悪意ある餌を喰って大きくなり、どこか知らぬところで再び穢れた稚魚を生む。その連鎖を断ち切ることがひどく難しいことを、ユーリスは嫌というほどよく知っている。それは、やけに饒舌に言葉を連ねるテオドールもまた、同じことだろう。

 手にしていた封筒を屑籠の中へ落としながら、ユーリスは胸中で深々と溜息をつく。どこかで何かを耳にしたのだろうか。それとも、午前中の会議で気に触る発言でも出たのだろうか。

「私が最も軽蔑するのは、汚泥の海を泳ぎ回る無数の魚ではなく、嬉々として餌を投げ込む愚かな者たちだ。そういう奴らに限って、物事の“本質”を探ろうともせず、表面的なものしか見ようとしない。それを“真実”として鵜呑みにし、平気で汚泥を撒き散らして歪んだ悦に浸る奴らを、魑魅魍魎と言わずして何と言う」

 そう言って、くつりと喉を鳴らして嗤いながら、テオドールは頬杖をついたまま戯けたように首を傾けた。窓から差し込む陽光を浴び、艷やかさを帯びた濡羽色の髪の毛が、さらりと揺れる。

「私はまだ良いが、お前たちのような立場は、実に大変だな。特に――」

 すうっと細められた目が、ユーリスの双眸を真っ直ぐに射抜く。その瞳の奥に、何かが静かに揺れていた。値踏みするような、試すような――それでいてどこか案じるような、意味深な光が。

「――セシリアは」