朝、隣が空になっている――。
それだけが、夫が帰ってきたことを証明する、唯一のものだった。
いつものように、少しだけ乱れたシーツに指先を這わせ、昨夜まで確かにそこにあったぬくもりの名残を探す。けれど無論、ぬくもりも、匂いも、気配に至るまで――ユーリスがそこにいたのだという形跡は、なにひとつ残されてはいなかった。
ごろりと身体を反転させて仰向けになり、セシリアは右手で目元を覆いながら、深く息を吸い込んでゆっくりと吐き出す。――あの“暗殺未遂事件”の日の夢を見るのは、いったいいつぶりだろう。時折まるで追体験のように夢に見ては、目が覚めた後も暫く、本当に夢だったのかと疑いたくなるほど鮮明に、頭の中に、身体の隅々にまで、その残渣がいつまでもこびりついている。
それだけ衝撃的なことだったのだ――と溜息とともに起き抜けの思考に言い聞かせ、セシリアは腕を退かして天蓋をじっと見つめてから、徐に身体を起こした。呼吸をする度に、朝独特の冴えた空気が肺を満たす。外を見ずとも、今日もまた快晴なのだろうと、ひんやりとした空気の心地よさが、そっと教えてくれる。
引かれたカーテンの隙間から、あたたかそうな朝陽が部屋を横切るように差し込んでいるのを見て、セシリアはああやっぱり、と顔を綻ばせた。まずはそれを身体いっぱいに浴びようと、ベッドから降りたその足で窓辺へ歩み寄り、僅かな隙間に指をかけてひと思いにカーテンを開く。刹那、視界が眩い光に満たされ、白く塗り潰された。あまりの眩しさに目を眇めながら、それでも目が慣れるのをじっと待っていると、やがて雲ひとつない青空が、じわりと滲むように視界に広がってくる。――ユーリスの瞳と同じ、どこまでも突き抜けるような、澄んだ青色。
それを眺めながらぐっと伸びをして、セシリアは両手でぱちんと両頬を叩く。昨夜は久しぶりにユーリスと顔を合わせたせいか、眠る間際に盗み見た寝顔が、背中にじんわりと感じていたぬくもりが、やけに生々しく感覚に残っている。夢のことも相俟って、だから今日は、清らかでやわらかな朝陽を身体いっぱいに浴びても、何故かいつものように心がすっきりとしない。胸の奥が、ざわついている。
嬉しかったのは、事実だ。決して嘘ではない。予想外の早い帰宅で、偶然の出来事だったのだとしても。それでも久方ぶりに、会うことが出来たのだから。
けれどそれと同時に、後悔にも似た、自虐的な感情が頭を擡げてしまう。そろそろ潮時だ、と思っていたくせに。クロードに別れを打ち明け、本気だと言い切れるくらい思い詰めてもいたくせに。――それなのに、こんなにも簡単に、心が強く揺らいでしまうなんて。
現金なものだ、とセシリアは思う。彼のかんばせを、ぬくもりを、目で、肌で確かめてしまうと、ただそれだけで、積み上げてきた決意が砂のように崩れていく。やっぱり好きだ、という気持ちと、もう逃げ出したい、という気持ちの間で。どちらに傾けば良いのか分からないまま、不安定な場所にただ佇んでいることしか出来ない。愛されていないと知りながら、それでも胸のどこかでは離れたくないと思ってしまう自分が、どうしようもなく嫌になる。
少し外の空気が吸いたくなって、セシリアは施錠を解き、窓を開け放った。途端に、清らかな風がふわりと流れ込んできて、やさしく頬を撫で、髪を揺らして通り過ぎてゆく。それは室内に漂うものとは違い、土や草花の甘い匂いを孕み、豊かな生気に満ち溢れている。庭に植えられた木々からか、或いはバードバスで羽休めでもしているのか、鳥たちの愛らしい囀りが微かに耳に届く。
それらをひとしきり満足ゆくまで堪能し、瑞々しい空気を身体いっぱいに吸い込んでから、セシリアは足先の向きを変え、壁際に置かれた小ぶりなチェストへと歩み寄った。先代公爵夫人から譲り受けた年代物の、それでいて品のある造りをした胡桃材のチェスト。重厚感のある深い色合いのそれには真鍮製の取手がつけられ、所々にアカンサスや蔓薔薇の精巧な彫り込みが施されている。
三段ある引き出しの内、セシリアは迷いなく一番上の取手を引いて、きっちりと四角く区切られた空間へ視線を落とす。細々とした大切なものが幾つか並んでいるけれど、セシリアの視線はそのどれにも逸れることなく、手前側にひっそりと置かれた小箱へ一直線に吸い寄せられた。そっと手を伸ばすと、なめらかな真紅のベルベットが指先に触れる。
何の装飾もない、シンプルな造りをした小箱。それをやさしい手つきで取り出し、セシリアは一度深呼吸をしてから、蓋をそっと開いた。中には白いサテンが張りよく敷かれ、その上に、細長い雫型の青い宝石があしらわれたピアスが、静かに横たわっている。まるで誰かの瞳に良く似た、蒼穹を溶かし込んだような色。セシリアの肩越しに朝陽を浴びたそれは、澄んだ光の粒を弾きながら、きらきらと輝いている。
それはセシリアが社交界デビューを果たした祝いにと、ユーリスが贈ってくれたものだ。初めはセシリアの瞳と同じ紫色の宝石にしようと思っていたようだけれど、悩んだ末に澄んだ青色が特徴的なアクアマリンにしたのだと、彼は言っていた。その横で、クロードが嬉しそうに、しかしどこかからかうような含み笑いを浮かべていたのを憶えている。
その頃にはもう、ユーリスは騎士団への入団が決まっており、ひと月後には宿舎へ発つことになっていた。夜会などでこれからも顔を合わせる機会はあると分かっていても、今までのように公爵邸を訪ねれば必ず会える、というわけにはいかなくなる。そのことに、一抹の不安と深い寂しさを抱えていた。もう一生会えなくなるわけではないのに。頭ではそう理解していても、当時はまだどうしても、気持ちが追いついていなかった。
まるでそれを見透かされたかのような唐突な贈り物に、胸がときめいたのは言うまでもない。嬉しくてたまらず、飛び跳ねて喜んでしまいそうになるのを堪えるのには、ひどく苦労した。もう社交界に出る年齢なのだだから、そんな子供っぽいことをしてはいけない、と。溢れ出しそうになる気持ちを押し留めるのは実に大変だった、とセシリアは静かに苦笑をこぼす。
ユーリスが騎士団の宿舎へ発つ前夜、セシリアは公爵夫妻に晩餐会へ招かれた。シルヴェイン夫妻と兄弟、それからセシリアとその両親だけの、とても小規模な、けれど親密で穏やかな空気に包まれた家庭的な晩餐会。
その席が終わった後、ふたりで夜の庭園を散歩している時に、セシリアは意を決してユーリスに切り出した。ひと月前に贈られたピアスの片方を差し出しながら。どうかこれを受け取ってはくれないだろうか、と。自分の代わりと思って持っていてほしい、という本音は、恥ずかしくてとても口には出来なかった。そんなことを言って嫌われたり、引かれたりするのが怖かったから。
はじめユーリスは、セシリアの真意を測りかねているかのように目を見開き、小首を傾げていたけれど、しかし少し時間を置くと、ふわりとやさしく微笑んで、差し出したピアスをそっと受け取ってくれた。彼はセシリアの真意を尋ねることこそしなかったけれど。それでも、ちゃんと理解してくれているのだと、セシリアには何故か分かった。真っ直ぐに向けられる穏やかな瞳のせいだろうか。それとも、彼の纏う綻んだ空気のせいだろうか。どちらにしろ、今となってはもう分からない。
しかし――結婚して三年。否、あのピアスを渡してから過ぎ去った数年の間、ユーリスがそれを身に着けているところを、手にしているところを、セシリアは一度たりとも見たことがない。
重たい溜息を深々と吐き出しながら、ぱこっ、と小さな音を立てて小箱の蓋を閉じ、もとあった場所へ戻してから、静かに引き出しを閉じた。――この子の片割れは、いったい今、何処にいるのだろう。そう切なく思いながら。
▽
昼食を終えて過ごす、午後。窓から差し込む真昼のあたたかな陽光にあたためられた執務室で、たまった書類の整理を黙々とこなしていると、グレアムが一通の手紙を手に部屋を訪ねてきた。
薄い象牙色の封筒にはクロードの名が記されており、公爵家の紋章を象った印象で、赤い封蝋が押されている。
公爵領までの旅程を考えると、まだ向こうの邸には到着していないはずだ。恐らくは、帰路の途中で立ち寄ったどこかの宿場町から送ったのだろう。そう考えながら丁寧に封蝋を割り、封筒と同じやさしい色合いの便箋を取り出す。枚数は全部で二枚。そのどちらにも、クロードらしい伸びやかな筆跡で、びっしりと文字が綴られていた。
それらを端から端までしっかりと目を通し、読み終えてすぐ、セシリアは驚きで思わず息を呑んだ。便箋に書かれていたのは、王都にある公爵邸に仕える使用人たち数名と、公爵領の邸に仕える使用人たち数名を入れ替える、というものだった。既にユーリスと先代夫人の許可は得ているとのことで、入れ替えにあたっての使用人の選定を任せたい、と記されていた。
その内容に、セシリアは暫し唖然とする。けれどすぐに、ひどい情けなさが胸を昏く覆った。
きっと気付いていたのだろう。グレアム以外の使用人たちとうまくいっていない、ということを。先日訪ねてきた時かもしれないし、もしかしたらもっとずっと前から、薄々感じ取っていたのかもしれない。この提案――というより、既に決定事項ではあるけれど――は、クロードなりのやさしさによるものだろう。そう思えば思うほど、自分自身の不甲斐なさが浮き彫りになって、頭を抱えたくなった。
セシリアやユーリスたちが幼かった頃――つまり先代公爵夫妻がこの邸に住んでいた頃に仕えていた使用人たちは、当時から執事を務めていたグレアムを除いて、みな公爵領の邸へと移っている。料理人も、侍女も、庭師も、その他の下級使用人たちも、全て。
もっとも、先代夫妻もクロードも、そうするつもりは端からなかったようで、公爵領では新たな使用人を迎えるつもりだと言っていた。しかしそれに異を唱えたのは、他でもないセシリア自身だった。クロードひとりなら兎も角、先代当主は病に臥せったことで当主の座を退いた経緯がある。療養も兼ねての移住であるのなら、長く傍に仕えてきた、勝手知ったる使用人たちがついていた方が良いだろう、と思ったのだ。
度重なる話し合いの末、結果的にグレアム以外の全員が、先代とクロードについて行くこととなった。本当はグレアムも同行するべきだ、と訴えたのだけれど。それだけはいけない、と先代夫人に諭された。公爵家の当主、そしてその夫人の座についたばかりのふたりだけでは、困難なことも多いだろうから、と。だから、邸のことを何もかも熟知しているベテランのグレアムだけでも傍においておくべきだ、と。結局その件だけは、セシリアが折れる形で受け入れた。
「こちらが、現在勤めている使用人たちのリストになります」
グレアムから差し出された紙を受け取り、上から下まで羅列された名前にざっと目を通す。あまり言葉を交わしたことはないが、仕事は丁寧で実直な者。噂話が大好きで、暇さえあれば、仲間を集めてひそひそと囁き合っている者。厳しく冷たい性格で、時折意見が対立することもあるけれど、それは自身の仕事に強いプライドを持っているが故の者。リストに名が載っている者の殆どが、先代とクロードが移住した後に採用された者たちばかりだ。
だからこそ、自分の力不足が、至らなさが、ひどく恥ずかしく、そして申し訳なくなる。本来、邸の使用人を取り仕切る責任は、当主ではなく女主人が担うものだ。つまりユーリスではなく、その妻であるセシリアにある。そうであるというのに、使用人たちから軽んじられているというのは、あまりにみっともなく、女主人失格と言われても仕方がない。
リストを手にしたまま深々と溜息をつき、セシリアはゆっくりと背もたれに身を預け、そして指先で軽く眉間を揉んだ。入れ替えに違和感を持たれないようにする為の言い訳まで、クロードはしっかりと用意してくれている。賃金の件まで書かれていたあたり、もしかしたら先代夫人とは、先日此処へ来る前から交渉していたのかもしれない、と思う。心配と迷惑のかけっぱなしで、どう詫びて良いのか分からない。
「ありがとう、グレアム。……選定の方は、私の方で進めておくわ」
「畏まりました。決まり次第お知らせいただけますでしょうか。該当の者には、私の方からお伝え致します」
にっこりとやさしい笑みを浮かべたグレアムに、セシリアはもう一度礼を言って、そっと微笑んだ。――先代夫人に諭された結果ではあるけれど。それでも、やはり彼だけは邸に留まってもらって本当に良かった、とつくづく思いながら。
それだけが、夫が帰ってきたことを証明する、唯一のものだった。
いつものように、少しだけ乱れたシーツに指先を這わせ、昨夜まで確かにそこにあったぬくもりの名残を探す。けれど無論、ぬくもりも、匂いも、気配に至るまで――ユーリスがそこにいたのだという形跡は、なにひとつ残されてはいなかった。
ごろりと身体を反転させて仰向けになり、セシリアは右手で目元を覆いながら、深く息を吸い込んでゆっくりと吐き出す。――あの“暗殺未遂事件”の日の夢を見るのは、いったいいつぶりだろう。時折まるで追体験のように夢に見ては、目が覚めた後も暫く、本当に夢だったのかと疑いたくなるほど鮮明に、頭の中に、身体の隅々にまで、その残渣がいつまでもこびりついている。
それだけ衝撃的なことだったのだ――と溜息とともに起き抜けの思考に言い聞かせ、セシリアは腕を退かして天蓋をじっと見つめてから、徐に身体を起こした。呼吸をする度に、朝独特の冴えた空気が肺を満たす。外を見ずとも、今日もまた快晴なのだろうと、ひんやりとした空気の心地よさが、そっと教えてくれる。
引かれたカーテンの隙間から、あたたかそうな朝陽が部屋を横切るように差し込んでいるのを見て、セシリアはああやっぱり、と顔を綻ばせた。まずはそれを身体いっぱいに浴びようと、ベッドから降りたその足で窓辺へ歩み寄り、僅かな隙間に指をかけてひと思いにカーテンを開く。刹那、視界が眩い光に満たされ、白く塗り潰された。あまりの眩しさに目を眇めながら、それでも目が慣れるのをじっと待っていると、やがて雲ひとつない青空が、じわりと滲むように視界に広がってくる。――ユーリスの瞳と同じ、どこまでも突き抜けるような、澄んだ青色。
それを眺めながらぐっと伸びをして、セシリアは両手でぱちんと両頬を叩く。昨夜は久しぶりにユーリスと顔を合わせたせいか、眠る間際に盗み見た寝顔が、背中にじんわりと感じていたぬくもりが、やけに生々しく感覚に残っている。夢のことも相俟って、だから今日は、清らかでやわらかな朝陽を身体いっぱいに浴びても、何故かいつものように心がすっきりとしない。胸の奥が、ざわついている。
嬉しかったのは、事実だ。決して嘘ではない。予想外の早い帰宅で、偶然の出来事だったのだとしても。それでも久方ぶりに、会うことが出来たのだから。
けれどそれと同時に、後悔にも似た、自虐的な感情が頭を擡げてしまう。そろそろ潮時だ、と思っていたくせに。クロードに別れを打ち明け、本気だと言い切れるくらい思い詰めてもいたくせに。――それなのに、こんなにも簡単に、心が強く揺らいでしまうなんて。
現金なものだ、とセシリアは思う。彼のかんばせを、ぬくもりを、目で、肌で確かめてしまうと、ただそれだけで、積み上げてきた決意が砂のように崩れていく。やっぱり好きだ、という気持ちと、もう逃げ出したい、という気持ちの間で。どちらに傾けば良いのか分からないまま、不安定な場所にただ佇んでいることしか出来ない。愛されていないと知りながら、それでも胸のどこかでは離れたくないと思ってしまう自分が、どうしようもなく嫌になる。
少し外の空気が吸いたくなって、セシリアは施錠を解き、窓を開け放った。途端に、清らかな風がふわりと流れ込んできて、やさしく頬を撫で、髪を揺らして通り過ぎてゆく。それは室内に漂うものとは違い、土や草花の甘い匂いを孕み、豊かな生気に満ち溢れている。庭に植えられた木々からか、或いはバードバスで羽休めでもしているのか、鳥たちの愛らしい囀りが微かに耳に届く。
それらをひとしきり満足ゆくまで堪能し、瑞々しい空気を身体いっぱいに吸い込んでから、セシリアは足先の向きを変え、壁際に置かれた小ぶりなチェストへと歩み寄った。先代公爵夫人から譲り受けた年代物の、それでいて品のある造りをした胡桃材のチェスト。重厚感のある深い色合いのそれには真鍮製の取手がつけられ、所々にアカンサスや蔓薔薇の精巧な彫り込みが施されている。
三段ある引き出しの内、セシリアは迷いなく一番上の取手を引いて、きっちりと四角く区切られた空間へ視線を落とす。細々とした大切なものが幾つか並んでいるけれど、セシリアの視線はそのどれにも逸れることなく、手前側にひっそりと置かれた小箱へ一直線に吸い寄せられた。そっと手を伸ばすと、なめらかな真紅のベルベットが指先に触れる。
何の装飾もない、シンプルな造りをした小箱。それをやさしい手つきで取り出し、セシリアは一度深呼吸をしてから、蓋をそっと開いた。中には白いサテンが張りよく敷かれ、その上に、細長い雫型の青い宝石があしらわれたピアスが、静かに横たわっている。まるで誰かの瞳に良く似た、蒼穹を溶かし込んだような色。セシリアの肩越しに朝陽を浴びたそれは、澄んだ光の粒を弾きながら、きらきらと輝いている。
それはセシリアが社交界デビューを果たした祝いにと、ユーリスが贈ってくれたものだ。初めはセシリアの瞳と同じ紫色の宝石にしようと思っていたようだけれど、悩んだ末に澄んだ青色が特徴的なアクアマリンにしたのだと、彼は言っていた。その横で、クロードが嬉しそうに、しかしどこかからかうような含み笑いを浮かべていたのを憶えている。
その頃にはもう、ユーリスは騎士団への入団が決まっており、ひと月後には宿舎へ発つことになっていた。夜会などでこれからも顔を合わせる機会はあると分かっていても、今までのように公爵邸を訪ねれば必ず会える、というわけにはいかなくなる。そのことに、一抹の不安と深い寂しさを抱えていた。もう一生会えなくなるわけではないのに。頭ではそう理解していても、当時はまだどうしても、気持ちが追いついていなかった。
まるでそれを見透かされたかのような唐突な贈り物に、胸がときめいたのは言うまでもない。嬉しくてたまらず、飛び跳ねて喜んでしまいそうになるのを堪えるのには、ひどく苦労した。もう社交界に出る年齢なのだだから、そんな子供っぽいことをしてはいけない、と。溢れ出しそうになる気持ちを押し留めるのは実に大変だった、とセシリアは静かに苦笑をこぼす。
ユーリスが騎士団の宿舎へ発つ前夜、セシリアは公爵夫妻に晩餐会へ招かれた。シルヴェイン夫妻と兄弟、それからセシリアとその両親だけの、とても小規模な、けれど親密で穏やかな空気に包まれた家庭的な晩餐会。
その席が終わった後、ふたりで夜の庭園を散歩している時に、セシリアは意を決してユーリスに切り出した。ひと月前に贈られたピアスの片方を差し出しながら。どうかこれを受け取ってはくれないだろうか、と。自分の代わりと思って持っていてほしい、という本音は、恥ずかしくてとても口には出来なかった。そんなことを言って嫌われたり、引かれたりするのが怖かったから。
はじめユーリスは、セシリアの真意を測りかねているかのように目を見開き、小首を傾げていたけれど、しかし少し時間を置くと、ふわりとやさしく微笑んで、差し出したピアスをそっと受け取ってくれた。彼はセシリアの真意を尋ねることこそしなかったけれど。それでも、ちゃんと理解してくれているのだと、セシリアには何故か分かった。真っ直ぐに向けられる穏やかな瞳のせいだろうか。それとも、彼の纏う綻んだ空気のせいだろうか。どちらにしろ、今となってはもう分からない。
しかし――結婚して三年。否、あのピアスを渡してから過ぎ去った数年の間、ユーリスがそれを身に着けているところを、手にしているところを、セシリアは一度たりとも見たことがない。
重たい溜息を深々と吐き出しながら、ぱこっ、と小さな音を立てて小箱の蓋を閉じ、もとあった場所へ戻してから、静かに引き出しを閉じた。――この子の片割れは、いったい今、何処にいるのだろう。そう切なく思いながら。
▽
昼食を終えて過ごす、午後。窓から差し込む真昼のあたたかな陽光にあたためられた執務室で、たまった書類の整理を黙々とこなしていると、グレアムが一通の手紙を手に部屋を訪ねてきた。
薄い象牙色の封筒にはクロードの名が記されており、公爵家の紋章を象った印象で、赤い封蝋が押されている。
公爵領までの旅程を考えると、まだ向こうの邸には到着していないはずだ。恐らくは、帰路の途中で立ち寄ったどこかの宿場町から送ったのだろう。そう考えながら丁寧に封蝋を割り、封筒と同じやさしい色合いの便箋を取り出す。枚数は全部で二枚。そのどちらにも、クロードらしい伸びやかな筆跡で、びっしりと文字が綴られていた。
それらを端から端までしっかりと目を通し、読み終えてすぐ、セシリアは驚きで思わず息を呑んだ。便箋に書かれていたのは、王都にある公爵邸に仕える使用人たち数名と、公爵領の邸に仕える使用人たち数名を入れ替える、というものだった。既にユーリスと先代夫人の許可は得ているとのことで、入れ替えにあたっての使用人の選定を任せたい、と記されていた。
その内容に、セシリアは暫し唖然とする。けれどすぐに、ひどい情けなさが胸を昏く覆った。
きっと気付いていたのだろう。グレアム以外の使用人たちとうまくいっていない、ということを。先日訪ねてきた時かもしれないし、もしかしたらもっとずっと前から、薄々感じ取っていたのかもしれない。この提案――というより、既に決定事項ではあるけれど――は、クロードなりのやさしさによるものだろう。そう思えば思うほど、自分自身の不甲斐なさが浮き彫りになって、頭を抱えたくなった。
セシリアやユーリスたちが幼かった頃――つまり先代公爵夫妻がこの邸に住んでいた頃に仕えていた使用人たちは、当時から執事を務めていたグレアムを除いて、みな公爵領の邸へと移っている。料理人も、侍女も、庭師も、その他の下級使用人たちも、全て。
もっとも、先代夫妻もクロードも、そうするつもりは端からなかったようで、公爵領では新たな使用人を迎えるつもりだと言っていた。しかしそれに異を唱えたのは、他でもないセシリア自身だった。クロードひとりなら兎も角、先代当主は病に臥せったことで当主の座を退いた経緯がある。療養も兼ねての移住であるのなら、長く傍に仕えてきた、勝手知ったる使用人たちがついていた方が良いだろう、と思ったのだ。
度重なる話し合いの末、結果的にグレアム以外の全員が、先代とクロードについて行くこととなった。本当はグレアムも同行するべきだ、と訴えたのだけれど。それだけはいけない、と先代夫人に諭された。公爵家の当主、そしてその夫人の座についたばかりのふたりだけでは、困難なことも多いだろうから、と。だから、邸のことを何もかも熟知しているベテランのグレアムだけでも傍においておくべきだ、と。結局その件だけは、セシリアが折れる形で受け入れた。
「こちらが、現在勤めている使用人たちのリストになります」
グレアムから差し出された紙を受け取り、上から下まで羅列された名前にざっと目を通す。あまり言葉を交わしたことはないが、仕事は丁寧で実直な者。噂話が大好きで、暇さえあれば、仲間を集めてひそひそと囁き合っている者。厳しく冷たい性格で、時折意見が対立することもあるけれど、それは自身の仕事に強いプライドを持っているが故の者。リストに名が載っている者の殆どが、先代とクロードが移住した後に採用された者たちばかりだ。
だからこそ、自分の力不足が、至らなさが、ひどく恥ずかしく、そして申し訳なくなる。本来、邸の使用人を取り仕切る責任は、当主ではなく女主人が担うものだ。つまりユーリスではなく、その妻であるセシリアにある。そうであるというのに、使用人たちから軽んじられているというのは、あまりにみっともなく、女主人失格と言われても仕方がない。
リストを手にしたまま深々と溜息をつき、セシリアはゆっくりと背もたれに身を預け、そして指先で軽く眉間を揉んだ。入れ替えに違和感を持たれないようにする為の言い訳まで、クロードはしっかりと用意してくれている。賃金の件まで書かれていたあたり、もしかしたら先代夫人とは、先日此処へ来る前から交渉していたのかもしれない、と思う。心配と迷惑のかけっぱなしで、どう詫びて良いのか分からない。
「ありがとう、グレアム。……選定の方は、私の方で進めておくわ」
「畏まりました。決まり次第お知らせいただけますでしょうか。該当の者には、私の方からお伝え致します」
にっこりとやさしい笑みを浮かべたグレアムに、セシリアはもう一度礼を言って、そっと微笑んだ。――先代夫人に諭された結果ではあるけれど。それでも、やはり彼だけは邸に留まってもらって本当に良かった、とつくづく思いながら。
