怪我は軽く、命に別状はない――。
そう聞いていても、“襲われた”という事実がある以上、恐怖は常に隣り合わせで、微かにその気配を漂わせながら、それは息を潜めて待ち構えている。いつでも牙を剥いて飛びかかれるように、と。
だからどんな時も、何をしている時も、本当の意味で気が休まることはなかった。書類処理の続きをしている時も、カイルやグレアムと言葉を交わす時も、窓から外を眺め、見えるはずもない王城を探すように目を凝らしている時も。
夕食はとても食べる気にはなれず、それでも何かしら軽く口にしておいた方が良いとグレアムに諭され、セシリアは野菜がとろとろになるまで煮込まれたスープだけを食した。とはいえ、今にも痙攣してしまいそうな胃に納められたのは、スープ皿の半分にも満たない量だったけれど。
湯浴みを済ませてから寝室へ戻ると、開け放たれたままのカーテンの向こうには、あの豪雨と雷がまるで嘘のように、冴え冴えとした美しい夜空が広がっていた。無数に鏤められた星々も、青白い光を滲ませた丸い月も、雨上がりのせいか、いつにも増して鮮やかさが際立って見えるような気がするのは、気の所為だろうか。
いつもであればベッドに入って日課の読書に耽るのだけれど、さすがに今夜はそうする気が起きない。やわらかなシュミーズの上にショールを羽織ったまま、セシリアは暫くの間、心許ない足取りで寝室の中を行ったり来たりと、あてもなければ意味もなく歩き回った。
扉の向こう側には、カイルがひとり律儀に就寝の番をしてくれている。彼だって――いや、彼を含む護衛隊の全員だって、今日は様々なことが怒涛のように起き、きっと疲れ果てているだろうに。それでも、誰ひとりとしてそれを表に出さない。カイルはもちろんのこと、廊下やパーラーや執務室で顔を合わせた隊士たちも、寝室へ戻る途中に擦れ違った者たちも、みんな例外なく。
彼等に対して申し訳ないという思いがあるから、というのは、少なくともありはするけれど。しかしそれ以上に――ユーリスの無事な姿を、自分の目でしっかりと確かめるまでは。瞼を閉じることも、意識を手放すことも、セシリアはどうしても出来そうになかった。万が一、眠っている間に何かあったら、と思うと、胸の奥がざわざわと落ち着かない。
カイルからの報告では、ユーリスは今夜邸へ帰宅するという。昼間に邸を訪れた近衛隊の使者がそう告げていたそうなので、きっと事実だろう――と、信じたい。
とはいえ、帰宅しても彼は、妻の寝室になどやっては来ないだろう、とセシリアは思っている。だから予めグレアムに、ユーリスが帰宅したら知らせてほしい、と頼んでおいた。玄関扉を潜ってすぐでも良い。執務室やパーラーへ足を運んでからでも良い。本音を言えば、門扉の前に馬車の姿が見えたその瞬間に――と思わないでもないけれど、主人の応対もせねばならないグレアムに、そこまで性急な要望を告げるのは気が引けた。
兎にも角にも、今はただ、ユーリスが帰宅するのを待つしかない。散々歩き回った末、セシリアは深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出してから、ソファへ腰掛けようとした――その時だった。
扉の向こう側から、微かに人の話し声が聞こえてくる。恐らくはカイルだろう。ならば相手は他の隊士だろうか、グレアムだろうか、それとも――。
そう考えていると、短いノックが室内に響いた。びくりとしながらも、すぐさま返事をしようと口を開く。けれど、セシリアが言葉を発するよりも先に、蝶番の軋む微かな音とともに、扉が徐に開かれた。
グレアムやカイルが、了承もなく寝室へ入ってくるとは考え難い。ならば――そんな予感が、さあっと身体を駆け抜ける。まさか。でも。信じられないという思いと、縋りつくような期待が、胸の中で激しくせめぎ合う。その狭間で身動きがとれず、半ば呆然と立ち尽くしかないセシリアの視界に映り込んだのは――待ちに待ち焦がれた、ユーリス・シルヴェインその人の姿だった。
その姿を認めた瞬間、身体の内側で何かが、大きな音を立てて爆ぜた。安堵だろうか、喜びだろうか、或いはそのどちらもだろうか。その勢いに背中を押されるように、今すぐにでも彼の元へ駆け寄りたい衝動に駆られるものの、意に反して、足はぴくりとも動かない。
おかえりなさい、と言いたいのに。大丈夫ですか、と問いたいのに。それすらもままならず、セシリアはただ、蒼穹のような青い瞳をじっと見つめることしか出来なかった。沈黙の漂う静かな室内に、セシリアのこぼした掠れた吐息が、溶けるようにして消えてゆく。
帰宅してすぐに寝室へ来たのか、胸元こそ軽く緩められているものの、ユーリスはまだ軍服姿のままだった。どこも破れておらず、血で汚れてもいない――それを確かめ、ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、セシリアの視線はすぐに、彼の右手へと吸い寄せられる。色白の肌をした、男らしく節の張った大きな手。しかし今はそこに、清潔な白い包帯が、掌全体を覆うように幾重にも巻き付けられている。
軽傷だと、カイルはそう言っていた。命に別状はない、と。
確かにそうなのだろう。包帯は右手にしか巻かれていないのだから。分かっている。分かっているけれど――目の前にまざまざと突きつけられた現実は、言葉で聞かされるのとはまるで違う鋭い刃となって、じくりと胸に刺さる。
包帯の下に、いったいどんな傷が隠されているのだろう。どれほど深く、どれほどの血を流し、どれほどの痛みが彼を襲ったのだろう。そう考えただけで、冷水を頭上から浴びせられたように、身体中から一気に血の気が引いていく。
ユーリスは、殺されかけたのだ。悪意ある誰かの手によって。
今更のようにその事実が、突き刺さった刃で胸を深く抉る。あと少し、ほんの少し刃の軌道がずれていたら、右手ではなく、胸や腹部を貫いていたかもしれない。或いは、咄嗟に躱すことすら叶わなかったなら、今頃彼は、ここにいなかったかもしれない。
そう思えば思うほど、視界がじわりと滲んでいく。泣いてはいけない、とセシリアは唇をきつく引き結び、奥歯を噛み締める。それでも、溢れ出てくるものをずっと堪え続けられる自信が、ない。
彼は、ちゃんと生きている。生きて、今この瞬間、自分の目の前にいる。
そのことに安堵すれば良いのか。それとも、怪我を負っていることに恐怖を抱けば良いのか。どちらが正しいのかなんて、今のセシリアには少しも分からない。
ただただ、胸の中も頭の中もぐちゃぐちゃで。何をどう感じれば良いのかも、分からなくて――。それでも確かなのは、今すぐ彼に触れて、その体温と鼓動を感じて、ちゃんと生きているのだと知りたくてたまらない、ということだけだった。無論、そんなことは出来ないのだけれど。
「お怪我は……大丈夫なのですか」
漸く絞り出した声は、微かに震えていた。それに気付いているのかいないのか、ユーリスは「問題ない」とあっさり告げ、後ろ手に扉を閉める。悠然とした歩みでソファへと近付いてくる彼から、セシリアはたまらず、そっと目を逸らす。滲みそうになっている目元を、見られたくなくて。
「お茶を、淹れてきますね」
本当は傍にいたいのに、堪えている糸が今にもぷつりと千切れてしまいそうで。努めて平静を装いながら、この場から逃げ出すための口実を紡いだ。けれど、ユーリスはソファにどさりと腰掛けながら、無言で首を左右に振った。要らない、と言外に含ませて。
逃げ道を奪われ、セシリアは途方に暮れたまま立ち尽くす。そんな彼女へ目を向けることなく、ユーリスは背もたれに深く身体を預け、窓の外をぼんやりと眺めていた。無数に鏤められた星々と、少しの欠けもなくまんまるとした青白い月が煌々と輝く、まるで水面のように澄んだ、深藍の夜空を。
結局どうしようもなく、セシリアは胸の内で小さく息をついて、ユーリスの隣にそっと腰を下ろした。間に、人ひとりが座れるだけのスペースをあけて。そうして彼と同じように、夜空へと目を向ける。奇しくも今夜は、結婚初夜と同じ満月だった。けれどあの日と違い、満月を覆い隠す昏い雲は、どこにも見当たらない。
沈黙が、ふたりの間に静かに落ちる。
どちらも、口を開かない。ただ並んで、同じ夜空を眺めているだけの時間。不思議と息苦しくはない。けれど――嘗ては、あれほど尽きることなくいつまでも語り合えていたというのに、今のふたりの間には、言葉のひとつもない。ただ静寂だけが、横たわっている。そのことが、どうしようもなくセシリアの胸を締め付けた。
すぐ隣にいるのに。手を伸ばせば届く距離に。そこにいるのは、間違いなくユーリスなのに。今の彼は、あの頃とはまるで別人のように、遠い。
でも――遠くなったのは、彼だけではないのかもしれない、とセシリアは思う。自分もまた、あの頃とは違う人間になってしまったのだろう、と。
ただじっと夜空を眺めていると、まるで時が止まったように感じるけれど、秒針の進む小さな音が、確かに時間は流れているのだと教えてくれる。
そのまま、どれくらい過ごしていただろう。いつまでこうしていれば良いのか分からず、どうしたものかとセシリアが考え倦ね始めた時。不意に、肩に何かが触れた。初めは僅かだったそれは、しかし少しずつ重みを増してゆき、どんどんとセシリアの肩に埋まってゆく。その感覚に、セシリアは息を呑んだ。
心臓が、どくりと大きく跳ね上がる。身体が、石になったように動かない。視線だけをそっと横へ滑らせると、目を閉じたユーリスの横顔が、青白い月明かりの中に静かに浮かんでいた。長い睫毛が、目元に濃い影を落としている。普段は鋭く、隙のない顔立ちが、今だけは、どこか幼子のような無防備さを帯びているように見えた。
その寝顔を呆然と見つめながら、どうして、と思う。襲撃に遭い、その後は治療や諸々の処理で忙しかっただろうことは、想像に難くない。彼もまた、カイルたちと同じように疲れ果てていて当然であり、だから、眠りに落ちてしまったのは分かる。
けれど、ならば自分の寝室へ直行すれば良かったのではないだろうか。此処へ来ることなく、ただグレアムに伝言を預け、帰宅したその足で寝室へ向かえば――。
まさか、無理をして訪ねて来てくれたのだろうか。そんなはずはない、と思う。思うのに、でも、もしそうだったなら、と期待が疼く。もし、もしそうだったなら――どれほど良いだろう。
肩に伝わるあたたかなぬくもりが、皮膚を通して、身体の内側へじわりと沁み込んでくる。――生きている。ちゃんと、生きている。それを感じられただけで、胸の奥がいっぱいになって、今はもう何も要らない、と思った。もう何も考えないでおこう、と。
勘違いでも良い。彼が生きているのなら。ただこうして、同じ夜の中に並んでいられるのなら。
瞼の縁が、またじわりと滲む。今度はそれを、セシリアは丸く青白い月に見守られながら、堪えることはしなかった。
そう聞いていても、“襲われた”という事実がある以上、恐怖は常に隣り合わせで、微かにその気配を漂わせながら、それは息を潜めて待ち構えている。いつでも牙を剥いて飛びかかれるように、と。
だからどんな時も、何をしている時も、本当の意味で気が休まることはなかった。書類処理の続きをしている時も、カイルやグレアムと言葉を交わす時も、窓から外を眺め、見えるはずもない王城を探すように目を凝らしている時も。
夕食はとても食べる気にはなれず、それでも何かしら軽く口にしておいた方が良いとグレアムに諭され、セシリアは野菜がとろとろになるまで煮込まれたスープだけを食した。とはいえ、今にも痙攣してしまいそうな胃に納められたのは、スープ皿の半分にも満たない量だったけれど。
湯浴みを済ませてから寝室へ戻ると、開け放たれたままのカーテンの向こうには、あの豪雨と雷がまるで嘘のように、冴え冴えとした美しい夜空が広がっていた。無数に鏤められた星々も、青白い光を滲ませた丸い月も、雨上がりのせいか、いつにも増して鮮やかさが際立って見えるような気がするのは、気の所為だろうか。
いつもであればベッドに入って日課の読書に耽るのだけれど、さすがに今夜はそうする気が起きない。やわらかなシュミーズの上にショールを羽織ったまま、セシリアは暫くの間、心許ない足取りで寝室の中を行ったり来たりと、あてもなければ意味もなく歩き回った。
扉の向こう側には、カイルがひとり律儀に就寝の番をしてくれている。彼だって――いや、彼を含む護衛隊の全員だって、今日は様々なことが怒涛のように起き、きっと疲れ果てているだろうに。それでも、誰ひとりとしてそれを表に出さない。カイルはもちろんのこと、廊下やパーラーや執務室で顔を合わせた隊士たちも、寝室へ戻る途中に擦れ違った者たちも、みんな例外なく。
彼等に対して申し訳ないという思いがあるから、というのは、少なくともありはするけれど。しかしそれ以上に――ユーリスの無事な姿を、自分の目でしっかりと確かめるまでは。瞼を閉じることも、意識を手放すことも、セシリアはどうしても出来そうになかった。万が一、眠っている間に何かあったら、と思うと、胸の奥がざわざわと落ち着かない。
カイルからの報告では、ユーリスは今夜邸へ帰宅するという。昼間に邸を訪れた近衛隊の使者がそう告げていたそうなので、きっと事実だろう――と、信じたい。
とはいえ、帰宅しても彼は、妻の寝室になどやっては来ないだろう、とセシリアは思っている。だから予めグレアムに、ユーリスが帰宅したら知らせてほしい、と頼んでおいた。玄関扉を潜ってすぐでも良い。執務室やパーラーへ足を運んでからでも良い。本音を言えば、門扉の前に馬車の姿が見えたその瞬間に――と思わないでもないけれど、主人の応対もせねばならないグレアムに、そこまで性急な要望を告げるのは気が引けた。
兎にも角にも、今はただ、ユーリスが帰宅するのを待つしかない。散々歩き回った末、セシリアは深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出してから、ソファへ腰掛けようとした――その時だった。
扉の向こう側から、微かに人の話し声が聞こえてくる。恐らくはカイルだろう。ならば相手は他の隊士だろうか、グレアムだろうか、それとも――。
そう考えていると、短いノックが室内に響いた。びくりとしながらも、すぐさま返事をしようと口を開く。けれど、セシリアが言葉を発するよりも先に、蝶番の軋む微かな音とともに、扉が徐に開かれた。
グレアムやカイルが、了承もなく寝室へ入ってくるとは考え難い。ならば――そんな予感が、さあっと身体を駆け抜ける。まさか。でも。信じられないという思いと、縋りつくような期待が、胸の中で激しくせめぎ合う。その狭間で身動きがとれず、半ば呆然と立ち尽くしかないセシリアの視界に映り込んだのは――待ちに待ち焦がれた、ユーリス・シルヴェインその人の姿だった。
その姿を認めた瞬間、身体の内側で何かが、大きな音を立てて爆ぜた。安堵だろうか、喜びだろうか、或いはそのどちらもだろうか。その勢いに背中を押されるように、今すぐにでも彼の元へ駆け寄りたい衝動に駆られるものの、意に反して、足はぴくりとも動かない。
おかえりなさい、と言いたいのに。大丈夫ですか、と問いたいのに。それすらもままならず、セシリアはただ、蒼穹のような青い瞳をじっと見つめることしか出来なかった。沈黙の漂う静かな室内に、セシリアのこぼした掠れた吐息が、溶けるようにして消えてゆく。
帰宅してすぐに寝室へ来たのか、胸元こそ軽く緩められているものの、ユーリスはまだ軍服姿のままだった。どこも破れておらず、血で汚れてもいない――それを確かめ、ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、セシリアの視線はすぐに、彼の右手へと吸い寄せられる。色白の肌をした、男らしく節の張った大きな手。しかし今はそこに、清潔な白い包帯が、掌全体を覆うように幾重にも巻き付けられている。
軽傷だと、カイルはそう言っていた。命に別状はない、と。
確かにそうなのだろう。包帯は右手にしか巻かれていないのだから。分かっている。分かっているけれど――目の前にまざまざと突きつけられた現実は、言葉で聞かされるのとはまるで違う鋭い刃となって、じくりと胸に刺さる。
包帯の下に、いったいどんな傷が隠されているのだろう。どれほど深く、どれほどの血を流し、どれほどの痛みが彼を襲ったのだろう。そう考えただけで、冷水を頭上から浴びせられたように、身体中から一気に血の気が引いていく。
ユーリスは、殺されかけたのだ。悪意ある誰かの手によって。
今更のようにその事実が、突き刺さった刃で胸を深く抉る。あと少し、ほんの少し刃の軌道がずれていたら、右手ではなく、胸や腹部を貫いていたかもしれない。或いは、咄嗟に躱すことすら叶わなかったなら、今頃彼は、ここにいなかったかもしれない。
そう思えば思うほど、視界がじわりと滲んでいく。泣いてはいけない、とセシリアは唇をきつく引き結び、奥歯を噛み締める。それでも、溢れ出てくるものをずっと堪え続けられる自信が、ない。
彼は、ちゃんと生きている。生きて、今この瞬間、自分の目の前にいる。
そのことに安堵すれば良いのか。それとも、怪我を負っていることに恐怖を抱けば良いのか。どちらが正しいのかなんて、今のセシリアには少しも分からない。
ただただ、胸の中も頭の中もぐちゃぐちゃで。何をどう感じれば良いのかも、分からなくて――。それでも確かなのは、今すぐ彼に触れて、その体温と鼓動を感じて、ちゃんと生きているのだと知りたくてたまらない、ということだけだった。無論、そんなことは出来ないのだけれど。
「お怪我は……大丈夫なのですか」
漸く絞り出した声は、微かに震えていた。それに気付いているのかいないのか、ユーリスは「問題ない」とあっさり告げ、後ろ手に扉を閉める。悠然とした歩みでソファへと近付いてくる彼から、セシリアはたまらず、そっと目を逸らす。滲みそうになっている目元を、見られたくなくて。
「お茶を、淹れてきますね」
本当は傍にいたいのに、堪えている糸が今にもぷつりと千切れてしまいそうで。努めて平静を装いながら、この場から逃げ出すための口実を紡いだ。けれど、ユーリスはソファにどさりと腰掛けながら、無言で首を左右に振った。要らない、と言外に含ませて。
逃げ道を奪われ、セシリアは途方に暮れたまま立ち尽くす。そんな彼女へ目を向けることなく、ユーリスは背もたれに深く身体を預け、窓の外をぼんやりと眺めていた。無数に鏤められた星々と、少しの欠けもなくまんまるとした青白い月が煌々と輝く、まるで水面のように澄んだ、深藍の夜空を。
結局どうしようもなく、セシリアは胸の内で小さく息をついて、ユーリスの隣にそっと腰を下ろした。間に、人ひとりが座れるだけのスペースをあけて。そうして彼と同じように、夜空へと目を向ける。奇しくも今夜は、結婚初夜と同じ満月だった。けれどあの日と違い、満月を覆い隠す昏い雲は、どこにも見当たらない。
沈黙が、ふたりの間に静かに落ちる。
どちらも、口を開かない。ただ並んで、同じ夜空を眺めているだけの時間。不思議と息苦しくはない。けれど――嘗ては、あれほど尽きることなくいつまでも語り合えていたというのに、今のふたりの間には、言葉のひとつもない。ただ静寂だけが、横たわっている。そのことが、どうしようもなくセシリアの胸を締め付けた。
すぐ隣にいるのに。手を伸ばせば届く距離に。そこにいるのは、間違いなくユーリスなのに。今の彼は、あの頃とはまるで別人のように、遠い。
でも――遠くなったのは、彼だけではないのかもしれない、とセシリアは思う。自分もまた、あの頃とは違う人間になってしまったのだろう、と。
ただじっと夜空を眺めていると、まるで時が止まったように感じるけれど、秒針の進む小さな音が、確かに時間は流れているのだと教えてくれる。
そのまま、どれくらい過ごしていただろう。いつまでこうしていれば良いのか分からず、どうしたものかとセシリアが考え倦ね始めた時。不意に、肩に何かが触れた。初めは僅かだったそれは、しかし少しずつ重みを増してゆき、どんどんとセシリアの肩に埋まってゆく。その感覚に、セシリアは息を呑んだ。
心臓が、どくりと大きく跳ね上がる。身体が、石になったように動かない。視線だけをそっと横へ滑らせると、目を閉じたユーリスの横顔が、青白い月明かりの中に静かに浮かんでいた。長い睫毛が、目元に濃い影を落としている。普段は鋭く、隙のない顔立ちが、今だけは、どこか幼子のような無防備さを帯びているように見えた。
その寝顔を呆然と見つめながら、どうして、と思う。襲撃に遭い、その後は治療や諸々の処理で忙しかっただろうことは、想像に難くない。彼もまた、カイルたちと同じように疲れ果てていて当然であり、だから、眠りに落ちてしまったのは分かる。
けれど、ならば自分の寝室へ直行すれば良かったのではないだろうか。此処へ来ることなく、ただグレアムに伝言を預け、帰宅したその足で寝室へ向かえば――。
まさか、無理をして訪ねて来てくれたのだろうか。そんなはずはない、と思う。思うのに、でも、もしそうだったなら、と期待が疼く。もし、もしそうだったなら――どれほど良いだろう。
肩に伝わるあたたかなぬくもりが、皮膚を通して、身体の内側へじわりと沁み込んでくる。――生きている。ちゃんと、生きている。それを感じられただけで、胸の奥がいっぱいになって、今はもう何も要らない、と思った。もう何も考えないでおこう、と。
勘違いでも良い。彼が生きているのなら。ただこうして、同じ夜の中に並んでいられるのなら。
瞼の縁が、またじわりと滲む。今度はそれを、セシリアは丸く青白い月に見守られながら、堪えることはしなかった。
