「君を愛することはない」と言われて三年、そろそろ白い結婚をやめようと思います

 遡ること、凡そ一年前。
 突然の凶報がセシリアの耳に飛び込んできたのは、鈍色の分厚い雲が低く垂れ込める、雨の匂いを孕んだ空気が重く沈んだ春の日のことだった。

「……暗殺、未、遂……?」

 青褪めた顔で報せに来たグレアムから聞かされた言葉を、セシリアはまるで生まれて初めて耳にするもののように思った。或いは、異国の、未知の世界のもののように。

 それが自分の知っている言葉だと頭が理解するのには、かなりの時間を要した。理解出来なかったのではなく、理解したくなかったのではないか――今ならそう思う。そうしてしまったが最後、猛烈な勢いで何が押し寄せてくるか、深層に潜む本能では既に分かっていたのだから。

 ユーリスが、式典の最中に襲われた――。

 どんなに拒んでも、やがて頭はそれをひとつひとつ噛み砕き、呑み込み、否が応でも理解してしまうものだ。それがすとんとお腹の中に落ちた後、まず自分が何をしたのかを、セシリアは全く憶えていない。何かを叫んだような気もするし、なりふり構わず駆け出したような気もする。

 気付いた時には身体中からすうっと血の気が失せた状態で、グレアムに支えられながら大階段傍の手摺に手をついて、茫然と立ち尽くしている状態だった。表情も、言葉も、何もなく。どこを見つめるでもなく、ただじっと虚空を眺めたまま。けれどセシリアの瞳には、何も映ってはいなかった。階段の様子も、廊下の窓から差し込む濁った薄い陽光も、ひどく心配そうな面持ちで覗き込んでくるグレアムの顔も。

 しかし一方で、頭の中は目まぐるしく廻っていた。というより、ぐちゃぐちゃだった、と言った方が正しいのかもしれない。幼い頃のユーリスの顔が浮かんでは消え、社交界デビューしたばかりの頃の顔が浮かんでは消え、最近見たばかりのすっかり大人びた端正な顔が浮かんでは消える。様々な場面の、様々な表情が、泡沫のように――浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返しながら、ぐちゃぐちゃに混ざり合っていた。

「……お怪我は、大丈夫、なの……?」

 漸くそう問いかけるまでに、どれくらい長い時間がかかっただろう。か細く震える声で確かめると、グレアムは一瞬眉根を寄せ、それから申し訳なさそうな表情を滲ませて首を左右に振った。まだそこまでの情報は入っていない、と。故に今、使いの者を急ぎ確認に向かわせている、と言いながら。

 執事長である彼がまだどうにか平静を保ってくれていて良かった、と、すっかり皺の刻まれた彼の薄い手にそっと手を重ねながら、セシリアはつくづく思う。きっと独りでは、ユーリスの凶報を受け止めることなど出来なかった。正気を失い、取り乱していたかもしれない。もしそうなっていたら、慌てふためく使用人たちを取り纏めることなど、到底出来なかっただろうから。

 不意に、胃の腑がぎゅうと締め上げられるような感覚に襲われ、迫り上がってくる何かを堪えるように、セシリアは咄嗟に手で口元を覆った。そのまま暫く“何か”が収まるのをじっと待ち、ひくつく喉でどうにか吸い込んだ息を、細く、ゆっくりと吐き出す。そうしている間も、身体中からはどんどん熱が奪われてゆく。まるで氷漬けにされているような錯覚に陥ってしまうほど、足も手も心臓も顔も頭も何もかもがすっかり冷たくなってしまっていた。まるで死人のように。

 幼い頃から、いつも傍にある存在だった。当たり前のようにそこにいると、無意識に思い込んでいた。帰ってこない夜が続いても、他の女性の噂が耳に届いても、冷たい言葉を向けられても――ユーリスはいつだって、間違いなくどこかで生きている、と。それだけで十分だ、と思うことで気を紛らわせることは幾度もあった。

 それなのに――そんな彼の存在を、今、失ってしまうかもしれない。

 思えば思うほど、手摺を掴む指先の感覚が、じわじわと遠のいていく。心臓が、妙にうるさい。頭の奥がずきずきと脈打つのに、不思議と涙は出てこなかった。泣けるほど、まだ現実に追いつけていないのかもしれない。それが幸いなのか、そうでないのか――混乱の渦中にあるセシリアには、判じる術もなかった。

 グレアムが王城へ送ったという使者が戻ってくるのを待つのさえ、もどかしかった。本当は自らの足で確かめに行ければ、と思う。けれどグレアムの支えがなければ立っていられない状態で、そんなことはとても出来そうにない。それでも、一分、一秒が惜しかった。秒針が刻む音が聞こえる度に、きりきりと喉元を締め上げられてゆくようで、息が浅くなる。

 何故、ユーリスは襲われたのだろう。どうして――。そこまで考え、でも、とすぐに思い至る。彼を敵視する相手がひとりも存在しないわけでは、ない。王家の傍流の血を引く公爵家の当主という立場。騎士団から半ば強制的に退団させるほど、国王自ら熱望して最年少で就いた宰相という座。そして、それほどまでに陛下から強い信頼を寄せられているという事実――。或いは、女性関係のもつれ、という可能性もなくはない。

 兎も角、色恋沙汰は別にしても、ユーリスの置かれた立場は、彼の背負ってきた責任は、決して単純なものではなかった。それくらいは、長年彼のことを見てきたセシリアにも分かる。理解し、敬う者がいる一方で、そうでない者が生まれるのは、どうしても避けられないことだった。欲深い者であればあるほど、ユーリスの持つものは眩しく映り、それを持つ彼のことを、胸が灼けるほど妬み、恨んでいただろう。

 けれど、だからといって――。再び喉元をこみ上げてくるものを堪えようとしたその時、玄関扉を叩く力強い音が、唐突にエントランスに響き渡った。慌てて階下へ駆け下りてゆく侍女の姿を、力のない視線でぼんやりと追いかけ、彼女が扉を開く後ろ姿を見つめる。使いに出していた者が戻ってきたのだろうか。それとも、ユーリスが――。

 不安と期待の綯い交ぜになった視線の先で、ノブにかけられた手が動き、細緻な彫り込みの施された重厚な扉が、勢いよく開かれる。

 その奥から姿を現したのは、使いの者でもなければユーリス自身でもなく――彼の護衛部隊を率いる隊長の、カイル・グライフだった。

 短く刈られた赤茶色の髪に、雨粒が幾筋も貼り付いているのが、遠目からでも見て取れる。気付けばいつの間にか、昏い雲に埋め尽くされた空から雨が降り始めていた。開かれた扉の隙間から、土と草の青い匂いの混じり合った湿った空気が、すうっと流れ込んでくる。

「宰相閣下付き護衛隊長、カイル・グライフと申します。奥様はいらっしゃいますでしょうか」

 迷いのない、よく通る張りのある声が耳に届いた瞬間、セシリアはグレアムの手を振りほどき、無意識に走り出していた。転びそうな勢いで階段を駆け下り――けれど、カイルの榛色の瞳と視線が交わった瞬間、それまで焦燥に駆り立てられていた足から、ふっと力が抜けた。それでも歩みを止めることは出来ず、ゆらゆらと覚束ない足取りで、セシリアはまるで身体を引き摺るようにしてカイルへと近付いていく。

 そんな彼女の蒼白しきった顔に、カイルが大きく目を見開いた。彼の背後に控えた幾人もの兵士たちが、一様に息を呑む気配がする。

 距離が縮まるほどに、雨の匂いがじわじわと濃さを増し、手足に、思考に、ねっとりと纏わりついてくるようだった。遠くの方で、雷鳴らしき音が微かに轟く。それはまるで、これから更に酷いことを告げられる前触れのようで――心臓が、素手で鷲掴みにされるようにぎゅっと締め付けられた。

「奥様……ご無事で、何よりです」
「ユーリスは……ユーリスは、どうなの、ですか」

 掠れた声が、弱々しくこぼれ落ちる。カイルなりの気遣いだったのだろうけれど、自分のことなどセシリアにはどうでも良かった。それよりも重要なのはユーリスの安否であり、それ以外に聞きたいことは何もない。ただ無事でいてくれれば――その言葉さえ耳に届けば、他に何もいらなかった。

 俯けていた顔をゆるゆると上げ、カイルの、どこかあどけなさを残しつつも凛々しく整ったかんばせを見つめる。縋るような目で。どうかお願い、と胸の中で必死に祈りながら。

 急いで駆けてきたのだろう、間近で見るカイルは雨にびっしょりと濡れそぼっていた。赤茶色の髪も、程よく日に焼けた肌も、軍服の上から纏った黒い外套も、何もかも。

 彼はセシリアの視線を榛色の瞳でしっかりと受け止めると、まるでその心情を慮るように、やさしく微笑んだ。

「ご安心下さい、奥様。賊を捕らえた際に軽い怪我を負いましたが、命に別状はございません」

 カイルの穏やかな声が鼓膜に触れた瞬間、セシリアは自分の中で何かが、ゆっくりと崩れ落ちていくのを感じた。強張っていた身体から、すうっと力が抜けていく。それまでどうにか堪えていた足の感覚が、するりと遠のいて――セシリアはそのまま、吸い込まれるようにその場にへたり込んだ。

「お、奥様!? 大丈夫ですか!」

 カイルが慌てて腰を屈め、セシリアの肩に手を添える。このままでは倒れてしまいそうだと思い、支えようとしてくれているのだろう。事実、安堵が波のように押し寄せ、身体がもう言うことをきかず、身体を起こしていることさえままならなかった。

「襲撃犯の狙いにつきましては、現在調査中でございます。ですが兎も角……ユーリス様はご無事です。どうかご安心下さい、奥様」

 カイルに支えられながら、セシリアはひとつも取りこぼさぬように、彼の言葉を必死に聞いた。懸命に安心させてくれようとする心遣いが、ひどく有り難かった。そして何より――ユーリスが無事だという事実が、じわじわと、漸く胸の隅々にまで沁み渡っていくにつれ、目の奥がじんと熱を帯びてくる。

 良かった。無事で、本当に良かった。

 ただそれだけが、ぐちゃぐちゃだった頭の中をぐるぐると廻っている。良かった、良かった、良かった――それ以外はもう何も考えられなくて、滲みそうになる瞼の縁を、セシリアは唇をきつく噛み締めて堪えた。

「しかし……護衛部隊の方が、何故こちらへ」

 グレアムの、静かながらも鋭い問いかけが、背後から届く。真綿のような安堵に浸るだけで精一杯のセシリアでは、そこまで思い至ることが出来ず、彼の疑問を耳にしてそこで初めて――ああそういえば、と、知らず俯けていた顔をゆるりと上げた。

 襲われたのはユーリスだ。ならば護衛を任されているカイルたちは、当然彼の傍にいるべきであって、此処にいるのは、どう考えてもおかしくないだろうか。

 カイルは一度真っ直ぐセシリアを見つめ、それから静かに顔を上げ、彼女の背後に佇むグレアムへと視線を移した。そのかんばせには、先程までの穏やかさは欠片もなく、護衛隊長としての、引き締まった険しさだけが浮かんでいる。

「実行犯以外にも、仲間がいる可能性がございます。襲撃犯の全体像が掴めていない以上――念のため、奥様をお護りするために参りました」
「……えっ」

 セシリアの口から、言葉にならない声が漏れた。

 実行犯の、仲間――。その言葉の意味を、頭が咀嚼するのに少しだけ時間がかかった。そうしてそれが、まるで奈落のような胸の奥底まですとんと落ちてきた瞬間、先程まで全身を包んでいた真綿のような安堵が、乱暴な手つきでずるりと剥がれ落ちていく。

 襲撃犯の全体像が掴めていない。実行犯以外の仲間が他にもいる可能性がある。
 それはつまり――まだ、終わっていない、ということだ。

 ならばユーリスの命を狙う者が、まだどこかにいるかもしれない。今この瞬間も、彼の傍に潜んで。次の機会を、静かに、じっと、虎視眈々と窺いながら。

 思っただけで、ぬくもりを取り戻しつつあった指先が、じわりと冷たくなっていく。折角落ち着きかけていた呼吸が、また浅くなる。胸の奥でくすぶり始めた不安が、じりじりと、じわじわと、焦燥という名の熱となって身体中に広がってゆく。まるで燠火が、強い風を受けて一気に燃え上がるように。

 助かった、と安堵したばかりだというのに。彼は無事なのだと、漸く胸を撫で下ろせたと思ったのに。恐怖が再び、頭を、心を、呑み込んでゆく。

「……駄目っ」

 ぽつりとそうこぼし、気付けばセシリアは、カイルの外套の胸元を両手でぎゅっと、力強く掴んでいた。まるで縋り付くように。雨に濡れそぼった生地が、指先に冷たく張り付く。それでも、離せなかった。離す気になれなかった。

「私のことは……私のことは、どうか構わないで下さい。大丈夫ですから。それよりもっ……それよりも、どうか今すぐ、ユーリスの元へ戻って下さい。早く……早く、彼の元へ。もしまたユーリスの身に何か起きたらっ……私は……私はっ……!」

 どこに隠れていたのか分からないほどの激しさで、必死に叫んでいた声が、途中で割れた。ただでさえ浅くなっていた息が上がり、喉に詰まったたくさんの言葉を押し出すことがどうしても出来ない。それがあまりにももどかしく、苦しくて、カイルにしがみつく手に力がこもっていく。今にも外套の生地を爪で割いてしまいそうなほど、強く。

 仲間がいるかもしれない。今この瞬間も、隙を窺っているかもしれない。なのにどうして、こんなところに――こんな、私のような者の傍に。

「もしまた、彼の身に何かあったらっ……そうなってからでは、遅いのですっ……!」

 縋るように見上げた先で、カイルの榛色の瞳が僅かに揺れた。驚いているような、気圧されているような。

 しかしそれも一瞬のことで、彼はすぐに目元を綻ばせると、セシリアを支える手に、そっと、あたたかく力をこめた。まるで、今にも泣き出しそうな子どもをあやすように。

「――よく似ていらっしゃる」

 何を言われたのか、すぐには理解出来なかった。似ている、とは――いったい、誰と。思い当たる人間は、ひとりも浮かんでこない。ただ、カイルの声があまりにも穏やかで、あまりにもやさしかったせいで、張り詰めていた何かがふっと緩んでしまいそうになる。それが堪らなく怖くて、セシリアはきつく唇を噛んだ。

 そんな彼女へ向けて、カイルは迷いのないよく通る声で、「問題ございません」とはっきりと告げた。その明瞭さで、セシリアを安心させるように。

「ユーリス様のお傍には現在、陛下の計らいで、近衛隊の者たちがついております。ですから、ご心配なさらないで下さい。ユーリス様は、大丈夫ですから」

 凛とした響きが、セシリアの耳に、じわりと溶け込んでゆく。

 ユーリスは、大丈夫――。その言葉を、胸の奥でもう一度、ゆっくりと繰り返す。大丈夫、大丈夫、大丈夫、と何度も。そう言い聞かせる度に、張り詰めていたものが少しずつ、少しずつ、解けてゆくような気がした。