就寝の支度を整えてから、ベッドサイド以外の灯りを全て落とし、毛布の中へ滑り込む。ふっくらとした分厚い枕を凭れかかれるように位置を調整してから、セシリアはサイドボードの抽斗から一冊の本を取り出した。臙脂色の表紙に金の箔押しでタイトルの記された、丁寧な装丁の美しい分厚い本。
寝る前に本を読む日課は、ユーリスと寝室を別にするようになってから始めたものだ。とはいえ、ふたりでひとつの寝室を使っていた頃でさえ、独りで眠ることが殆どだったのだけれど。
本の種類は、正直なところ読めさえすれば、何でも良かった。幼児向けと見せかけて、その実、暗く残虐な一面を持つ童話集や、巷で人気を博しているという新進気鋭の文人が手掛けた恋愛譚や、オペラの演目として長年愛されている重厚な原作物語。或いは少し趣向を変えて、植物や動物の図鑑を読むこともある。
幸いにも、公爵邸の図書室には膨大な蔵書が保管されているので、飽きることはない。貴重そうなものから、比較的新しい――恐らくは先代の頃に購入された――ものまで、実に様々な本が書架に所狭しと並んでいる。
絵本、物語、図鑑、記録書。あまりにも種類が豊富すぎて、初めて足を踏み入れた時には随分と驚いた。その数多ある本の中から一冊を選ぶのは、存外楽しい。今夜読むのはこれだ、と決めた瞬間のわくわく感。それは、幼い頃にユーリスへ「それは何の本?」と問いかける時に抱いていた感情とよく似ている。
“本を読む”というのは、セシリアにとって特別な行為だ。嘗て、ただただ穏やかなぬくもりに包まれていた幼い頃、ユーリスとともにふたりきりでよく楽しんだ、かけがえのないひとときだったから。
物語の中に浸っている時は特に何も感じないのだけれど、ふと現実の世界へ戻ってくる度に、あの頃の記憶が鮮明に蘇ってくることが、今でもよくある。
自分で自分の首を絞めているようなものだと、なんて馬鹿なことをしているのだろうと、心底呆れもするけれど。しかしそうと分かっていても、どうしてもやめられなかった。きっと、記憶の中にだけ存在するあの頃のユーリスに、縋りついているのだろう。当時の彼は、もう何処にもいないというのに。
――兄上は、セシリアのことが嫌いだと思う?
不意に鼓膜の裏側に響き渡ったやさしい声に、読みかけだった文章をたどる視線がはたと止まった。それはここ数日、何度も何度も鮮明に蘇っては、セシリアの思考や行動を遮ることを繰り返す。彼の言葉そのものというより――あの時、すぐに言葉を返せなかった自分への戸惑いのせいで。
ユーリスは自分のことが嫌いなのか、それとも、嫌いではないのか。
もう幾度目になるかも分からない内なる問いが再び頭を擡げ、セシリアは小さく溜息をつく。どれほど考えたところで、結局辿り着く先はいつも同じだというのに。それでもなお、その問いが頭にこびりついて離れないのは何故だろう。否定したいからだろうか。そうではない、彼は自分を嫌いではない、と思い込みたくて、その欲から執拗に自問し続けているのだろうか。
どうにか本に意識を集中させようとするけれど、目が滑って文字を追えない。ひとつひとつなぞっても、それらは何の意味も持たない、理解不能なただの図形となって流れ込んでくるだけだ。ただの童話集を読んでいるだけのはずなのに。お姫様も王子様もお城も魔女も、いったいどこへ行ってしまったのだろう。
今夜はもう読むのを諦めよう。そう思い、殆ど進んでいない頁に藍色のスピンを挟んでぱたりと閉じる。――と、その時だった。かちゃ、と小さな音を立てて、寝室の扉が突然開いたのは。
ぎょっとして、セシリアは思わず身を強張らせる。執事長のグレアムなどであれば、扉を開く前に必ずノックをし、入室の承諾を得るのが普通だ。無論、他の使用人たちもそれは同じであり、セシリアを見下す下級の者たちでさえ、その決まり――というよりマナー――はきちんと守る。
ならば、侵入者だろうか。金品などを目的とした賊か、或いは――。
身体を包み込もうとする恐怖をどうにか抑え込みながら、セシリアは息を殺すようにして扉の方へと目を向ける。いつでもベッドから逃げられるよう、意識だけを研ぎ澄ませながら。
刹那、セシリアの視界に映り込んだのは、薄闇の中でもくっきりと映える、鮮やかな青色の瞳だった。彼女のよく知る――知りすぎて、時折苦しくなるほどの――、まるで蒼穹を溶かし込んだような、澄んだ青い色。
ふっと、身体から力が抜けた。
けれど同時に、強い驚愕が波のように押し寄せてくる。セシリアは瞬きをするのも忘れて、扉の前に立つ人影をただ見つめた。何か言わなければ、と僅かに残った理性が叫ぶのに、言葉はひとつも浮かんでは来ない。声は喉の奥に貼り付いたまま、掠れた吐息だけがこぼれる。
そのまま暫くの間、ふたりは無言で見つめ合った。夜独特のひんやりとした空気に包まれた、薄暗い静かな寝室の中で。どちらも口を開かず、どちらも視線を逸らさず。まるで全ての動きを縫い留められてしまったみたいに。或いは、ふたりの周りだけ時が凪いでしまったみたいに。
ほんの一瞬――彼の目が微かに見開かれたように見えたのは、果たして気の所為だろうか。
「……まだ起きていたのか」
先に沈黙を破ったのは、彼――ユーリスだった。湯浴みを済ませた後なのか、掻き上げられた前髪は微かに湿り気を帯びた艷やかさがあり、シャツの胸元は少しばかり寛げられている。
きっちりと軍服を着こなしている時とはまた違う、匂い立つような色気。生々しいほどの艶やかさに胸がどくりと跳ね上がり、セシリアは思わず見惚れてしまう。
結婚して三年にもなるというのに。初夜の頃と変わらず、彼のそうした無防備さから滲む妖艶な姿に、今もまだ慣れることが出来ない。寝床を共にすることが少なすぎるせいは、もちろんあるだろう。けれどそれ以上に――この人は、あまりにも容姿が整いすぎている。感嘆の息が漏れてしまいそうになるほど。
しかし――。未だ視線を逸らせず、ユーリスの姿を見つめたまま、セシリアは胸の内で重たい溜息を深く吐き出す。この姿を知っているのは、自分だけではない。他にもたくさんの女性たちが――マリエルを筆頭に、彼と浮名を流した無数の令嬢たちが――同じように、この人の、軍服の裏側に隠された無防備な色気を知っている。
そう思うだけで、胸の奥がずくりと鈍く疼く。仕方のないことだと、自嘲をこぼして蓋をしてしまえば良いだけなのに。そう、分かっているのに。何故か痛みから目を背けることも逃げることも出来なくて、セシリアはただぎゅっと、毛布を強く握り締めた。
苦しい、嫌だ――そう叫べたら、泣き喚けたら、どんなに楽だろう。
「おかえりなさい」
漸く動いた唇の合間から、思いの外なめらかに、迎えの言葉が滑り出てきた。セシリアは久方ぶりに帰宅した夫へ、努めて穏やかに微笑みかける。セシリアが把握している限りでは、彼と顔を合わせるのは数日ぶり――誕生日の前夜ぶりだ。といってもあの時は、隣で眠るユーリスの寝顔を、こっそりと盗み見ただけだったのだけれど。
後ろ手に扉を閉め、どこか気怠そうな足取りでソファへと歩み寄るユーリスの姿を目で追いながら、セシリアはそこで、ふと気付く。今夜はいつもより、随分と早い帰宅だ、と。
彼が邸へ戻る時は往々にして、セシリアが眠った後の、日付を超えた時間であることが多い。だからまともに顔を合わせることは殆どなく、セシリアがユーリスの存在に気付くのも、自分以外のぬくもりを感じて自然と目が覚めてしまった時だけだ。彼はいつも、セシリアの意識のない内に現れ、そして去ってゆく。朝を迎えた時にはもう、彼がいたという痕跡すら、少しも残さずに。
「ユーリス」
ソファの背もたれに手をかけようとした彼の名を、セシリアは咄嗟に呼んだ。しかしそうしてすぐ、気恥ずかしさや後悔に似たものが、お腹の底からどっと押し寄せてくる。
自分からというのは、厚かましいだろうか。嫌がられるだろうか。
そう不安に駆られるけれど、それでも、彼が此処へ来た目的は何となく分かっている。だから間違ってはいない、と無理矢理自分に言い聞かせながら、セシリアはそっと身体をベッドの端へと寄せた。隣に、人ひとりが横たわれるだけのスペースを作って。
そんな彼女へ、ユーリスの青い瞳が再び向けられる。その瞳が、どことなくとろりと溶けているような気がするのは、果たして錯覚だろうか。
彼は暫くの間何も言わずに、ただソファの傍に突っ立っていたけれど、やがて細く息を吐き出し、額に落ちた前髪を乱雑に掻き上げながらベッドへと歩み寄ってきた。一歩、また一歩と、ユーリスが近付いてくればくるほど、彼の纏う色香がふわりと濃く漂ってくるようで、セシリアはそっと目を伏せる。
こんな男がいれば、誰だってその魅力に囚われても仕方がない、と思う。女も、男も。惚れ込んだが最後、どうやって抜け出せば良いのか分からず、彷徨うことになる。けれどきっと、どんなに足掻きたくとも、ずっと彼の存在に絡め取られたまま、身動ぎすることすら出来ないのだろう。――今の自分が、正にそうであるように。
隣へ潜り込んでくる気配を感じながら、セシリアはその存在からどうにか意識を逸らそうと、ベッドサイドに置かれたランプへ手を伸ばす。灯りを落とした途端、部屋を包む暗闇が一層濃度を増した。カーテンの隙間から漏れる青白い月明かりが、まるで一本の細い道筋のように、真っ直ぐ部屋を横切って伸びている。
ちらりと盗み見るように隣へ視線を向けると、ユーリスはセシリアに背を向ける格好で、既に瞼を閉じていた。湯浴みの後だというのに、ただでさえ色白の肌が妙に青白く見えるのは、部屋を満たす夜闇のせいだろうか。やがて耳へ届いてきた微かな寝息を聞きながら、セシリアは嬉しさとも悲しさともつかない微笑みを浮かべ、おやすみなさい、と音にならない言葉を紡ぐ。
初夜の日からずっと、ふたりでひとつのベッドで眠ることは、一度もなかった。そもそも殆ど帰宅をしない夫と寝床をともにする機会など、あるはずもない。ふたりの為にと誂えられた広いベッドに独りで眠るのは、ひどく虚しく、寂しいものだった。夜が深まるほど孤独が身に沁みて、眠れないまま天井を見つめ続けたまま夜明けを迎えたことが、幾度あったことだろう。
だからすぐに寝室を分けることを提案し、ユーリスはそれに考える素振りもなく、すぐに許可を出してくれた。君の好きなようにすれば良い、と。ただそれだけを口にして。以降は長らく、それぞれの寝室を――ユーリスはどうか分からないけれど――使い続けてきた。結婚一年目を過ぎ、二年目を迎え――そう、“《《あの事件》》”が起こる夜までは。
ユーリスを起こしてしまわないよう注意を払いながら、セシリアはゆっくりと身体を横たえ、毛布の中に口元まで潜り込む。いつもはひとり分しかないぬくもりが、今夜は普段にも増してとてもあたたかく、心地良い。
彼が何故、“あの事件”が起きた夜からこの部屋で――しかも自分の隣で眠るようになったのか、セシリアには少しも分からない。思えば、それまでは月に一度か二度しかなかった帰宅が、週に一度の頻度へと変わったのも、その頃からだ。
理由を尋ねようと考えたことは、何度もある。あるけれど、いつも言葉は喉元で止まり、そのまま胸の奥まで呑み込むしかなかった。
聞きたい。知りたい。でも、聞くのが、知るのが、どうしても怖くてたまらない。
そうしてしまうくらいなら、真実から目を背け、彼が帰ってきて傍にいるという、ただそのぬくもりだけを感じていられる方が、よほど楽でいられた。たとえ夜が明ける度に、誰にも見せられない涙を、瞼の裏にひっそりと滲ませていたとしても。
――僕がセシリアを止めたのは、君を苦しめたいからじゃない。
瞼を閉じると、数日前に見たクロードの、やさしくも真剣なかんばせが蘇る。嫌いだと思うか、と問われ、それに答えられずにいるセシリアへ向けられた、泣き出しそうな子どもをあやすような、どこまでも穏やかな眼差し。
――ただ……僕には、兄上がセシリアのことを嫌いだとは、どうしても思えないんだ。だからどうか、信じて。
あの言葉の意味を、セシリアは今もうまく呑み込めずにいる。信じろとは、いったい何をだろう。ユーリスをか、クロードをか、それとも自分自身をだろうか。考えようとするたびに、思考がするりと滑って、どこかへ逃げてしまう。
ただひとつ分かるのは、あの時のクロードの目が、嘘をついていなかった、ということだけだ。
けれど、だからといって嫌われていないと思えるかというと、そうではなかった。“嫌われていない”ことと“愛されている”ことは一続きのように思えて、その実、決して繋がりはしない。それらは似て異なるものなのだから。故に、愛されないことの苦しみからは、どうしたって逃れることは出来ない。
でも――。触れてもいないのに、それでも背中にじんわりと沁み広がるぬくもりに胸を締め付けられながら、セシリアは静かに思う。こうして傍で眠ってくれるのなら、クロードの言っていたことは正しいのかもしれない、と。たとえそうでなかったとしても、今この瞬間だけは、傍にいることを拒まれていないという事実だけで十分だ、とも。
寝る前に本を読む日課は、ユーリスと寝室を別にするようになってから始めたものだ。とはいえ、ふたりでひとつの寝室を使っていた頃でさえ、独りで眠ることが殆どだったのだけれど。
本の種類は、正直なところ読めさえすれば、何でも良かった。幼児向けと見せかけて、その実、暗く残虐な一面を持つ童話集や、巷で人気を博しているという新進気鋭の文人が手掛けた恋愛譚や、オペラの演目として長年愛されている重厚な原作物語。或いは少し趣向を変えて、植物や動物の図鑑を読むこともある。
幸いにも、公爵邸の図書室には膨大な蔵書が保管されているので、飽きることはない。貴重そうなものから、比較的新しい――恐らくは先代の頃に購入された――ものまで、実に様々な本が書架に所狭しと並んでいる。
絵本、物語、図鑑、記録書。あまりにも種類が豊富すぎて、初めて足を踏み入れた時には随分と驚いた。その数多ある本の中から一冊を選ぶのは、存外楽しい。今夜読むのはこれだ、と決めた瞬間のわくわく感。それは、幼い頃にユーリスへ「それは何の本?」と問いかける時に抱いていた感情とよく似ている。
“本を読む”というのは、セシリアにとって特別な行為だ。嘗て、ただただ穏やかなぬくもりに包まれていた幼い頃、ユーリスとともにふたりきりでよく楽しんだ、かけがえのないひとときだったから。
物語の中に浸っている時は特に何も感じないのだけれど、ふと現実の世界へ戻ってくる度に、あの頃の記憶が鮮明に蘇ってくることが、今でもよくある。
自分で自分の首を絞めているようなものだと、なんて馬鹿なことをしているのだろうと、心底呆れもするけれど。しかしそうと分かっていても、どうしてもやめられなかった。きっと、記憶の中にだけ存在するあの頃のユーリスに、縋りついているのだろう。当時の彼は、もう何処にもいないというのに。
――兄上は、セシリアのことが嫌いだと思う?
不意に鼓膜の裏側に響き渡ったやさしい声に、読みかけだった文章をたどる視線がはたと止まった。それはここ数日、何度も何度も鮮明に蘇っては、セシリアの思考や行動を遮ることを繰り返す。彼の言葉そのものというより――あの時、すぐに言葉を返せなかった自分への戸惑いのせいで。
ユーリスは自分のことが嫌いなのか、それとも、嫌いではないのか。
もう幾度目になるかも分からない内なる問いが再び頭を擡げ、セシリアは小さく溜息をつく。どれほど考えたところで、結局辿り着く先はいつも同じだというのに。それでもなお、その問いが頭にこびりついて離れないのは何故だろう。否定したいからだろうか。そうではない、彼は自分を嫌いではない、と思い込みたくて、その欲から執拗に自問し続けているのだろうか。
どうにか本に意識を集中させようとするけれど、目が滑って文字を追えない。ひとつひとつなぞっても、それらは何の意味も持たない、理解不能なただの図形となって流れ込んでくるだけだ。ただの童話集を読んでいるだけのはずなのに。お姫様も王子様もお城も魔女も、いったいどこへ行ってしまったのだろう。
今夜はもう読むのを諦めよう。そう思い、殆ど進んでいない頁に藍色のスピンを挟んでぱたりと閉じる。――と、その時だった。かちゃ、と小さな音を立てて、寝室の扉が突然開いたのは。
ぎょっとして、セシリアは思わず身を強張らせる。執事長のグレアムなどであれば、扉を開く前に必ずノックをし、入室の承諾を得るのが普通だ。無論、他の使用人たちもそれは同じであり、セシリアを見下す下級の者たちでさえ、その決まり――というよりマナー――はきちんと守る。
ならば、侵入者だろうか。金品などを目的とした賊か、或いは――。
身体を包み込もうとする恐怖をどうにか抑え込みながら、セシリアは息を殺すようにして扉の方へと目を向ける。いつでもベッドから逃げられるよう、意識だけを研ぎ澄ませながら。
刹那、セシリアの視界に映り込んだのは、薄闇の中でもくっきりと映える、鮮やかな青色の瞳だった。彼女のよく知る――知りすぎて、時折苦しくなるほどの――、まるで蒼穹を溶かし込んだような、澄んだ青い色。
ふっと、身体から力が抜けた。
けれど同時に、強い驚愕が波のように押し寄せてくる。セシリアは瞬きをするのも忘れて、扉の前に立つ人影をただ見つめた。何か言わなければ、と僅かに残った理性が叫ぶのに、言葉はひとつも浮かんでは来ない。声は喉の奥に貼り付いたまま、掠れた吐息だけがこぼれる。
そのまま暫くの間、ふたりは無言で見つめ合った。夜独特のひんやりとした空気に包まれた、薄暗い静かな寝室の中で。どちらも口を開かず、どちらも視線を逸らさず。まるで全ての動きを縫い留められてしまったみたいに。或いは、ふたりの周りだけ時が凪いでしまったみたいに。
ほんの一瞬――彼の目が微かに見開かれたように見えたのは、果たして気の所為だろうか。
「……まだ起きていたのか」
先に沈黙を破ったのは、彼――ユーリスだった。湯浴みを済ませた後なのか、掻き上げられた前髪は微かに湿り気を帯びた艷やかさがあり、シャツの胸元は少しばかり寛げられている。
きっちりと軍服を着こなしている時とはまた違う、匂い立つような色気。生々しいほどの艶やかさに胸がどくりと跳ね上がり、セシリアは思わず見惚れてしまう。
結婚して三年にもなるというのに。初夜の頃と変わらず、彼のそうした無防備さから滲む妖艶な姿に、今もまだ慣れることが出来ない。寝床を共にすることが少なすぎるせいは、もちろんあるだろう。けれどそれ以上に――この人は、あまりにも容姿が整いすぎている。感嘆の息が漏れてしまいそうになるほど。
しかし――。未だ視線を逸らせず、ユーリスの姿を見つめたまま、セシリアは胸の内で重たい溜息を深く吐き出す。この姿を知っているのは、自分だけではない。他にもたくさんの女性たちが――マリエルを筆頭に、彼と浮名を流した無数の令嬢たちが――同じように、この人の、軍服の裏側に隠された無防備な色気を知っている。
そう思うだけで、胸の奥がずくりと鈍く疼く。仕方のないことだと、自嘲をこぼして蓋をしてしまえば良いだけなのに。そう、分かっているのに。何故か痛みから目を背けることも逃げることも出来なくて、セシリアはただぎゅっと、毛布を強く握り締めた。
苦しい、嫌だ――そう叫べたら、泣き喚けたら、どんなに楽だろう。
「おかえりなさい」
漸く動いた唇の合間から、思いの外なめらかに、迎えの言葉が滑り出てきた。セシリアは久方ぶりに帰宅した夫へ、努めて穏やかに微笑みかける。セシリアが把握している限りでは、彼と顔を合わせるのは数日ぶり――誕生日の前夜ぶりだ。といってもあの時は、隣で眠るユーリスの寝顔を、こっそりと盗み見ただけだったのだけれど。
後ろ手に扉を閉め、どこか気怠そうな足取りでソファへと歩み寄るユーリスの姿を目で追いながら、セシリアはそこで、ふと気付く。今夜はいつもより、随分と早い帰宅だ、と。
彼が邸へ戻る時は往々にして、セシリアが眠った後の、日付を超えた時間であることが多い。だからまともに顔を合わせることは殆どなく、セシリアがユーリスの存在に気付くのも、自分以外のぬくもりを感じて自然と目が覚めてしまった時だけだ。彼はいつも、セシリアの意識のない内に現れ、そして去ってゆく。朝を迎えた時にはもう、彼がいたという痕跡すら、少しも残さずに。
「ユーリス」
ソファの背もたれに手をかけようとした彼の名を、セシリアは咄嗟に呼んだ。しかしそうしてすぐ、気恥ずかしさや後悔に似たものが、お腹の底からどっと押し寄せてくる。
自分からというのは、厚かましいだろうか。嫌がられるだろうか。
そう不安に駆られるけれど、それでも、彼が此処へ来た目的は何となく分かっている。だから間違ってはいない、と無理矢理自分に言い聞かせながら、セシリアはそっと身体をベッドの端へと寄せた。隣に、人ひとりが横たわれるだけのスペースを作って。
そんな彼女へ、ユーリスの青い瞳が再び向けられる。その瞳が、どことなくとろりと溶けているような気がするのは、果たして錯覚だろうか。
彼は暫くの間何も言わずに、ただソファの傍に突っ立っていたけれど、やがて細く息を吐き出し、額に落ちた前髪を乱雑に掻き上げながらベッドへと歩み寄ってきた。一歩、また一歩と、ユーリスが近付いてくればくるほど、彼の纏う色香がふわりと濃く漂ってくるようで、セシリアはそっと目を伏せる。
こんな男がいれば、誰だってその魅力に囚われても仕方がない、と思う。女も、男も。惚れ込んだが最後、どうやって抜け出せば良いのか分からず、彷徨うことになる。けれどきっと、どんなに足掻きたくとも、ずっと彼の存在に絡め取られたまま、身動ぎすることすら出来ないのだろう。――今の自分が、正にそうであるように。
隣へ潜り込んでくる気配を感じながら、セシリアはその存在からどうにか意識を逸らそうと、ベッドサイドに置かれたランプへ手を伸ばす。灯りを落とした途端、部屋を包む暗闇が一層濃度を増した。カーテンの隙間から漏れる青白い月明かりが、まるで一本の細い道筋のように、真っ直ぐ部屋を横切って伸びている。
ちらりと盗み見るように隣へ視線を向けると、ユーリスはセシリアに背を向ける格好で、既に瞼を閉じていた。湯浴みの後だというのに、ただでさえ色白の肌が妙に青白く見えるのは、部屋を満たす夜闇のせいだろうか。やがて耳へ届いてきた微かな寝息を聞きながら、セシリアは嬉しさとも悲しさともつかない微笑みを浮かべ、おやすみなさい、と音にならない言葉を紡ぐ。
初夜の日からずっと、ふたりでひとつのベッドで眠ることは、一度もなかった。そもそも殆ど帰宅をしない夫と寝床をともにする機会など、あるはずもない。ふたりの為にと誂えられた広いベッドに独りで眠るのは、ひどく虚しく、寂しいものだった。夜が深まるほど孤独が身に沁みて、眠れないまま天井を見つめ続けたまま夜明けを迎えたことが、幾度あったことだろう。
だからすぐに寝室を分けることを提案し、ユーリスはそれに考える素振りもなく、すぐに許可を出してくれた。君の好きなようにすれば良い、と。ただそれだけを口にして。以降は長らく、それぞれの寝室を――ユーリスはどうか分からないけれど――使い続けてきた。結婚一年目を過ぎ、二年目を迎え――そう、“《《あの事件》》”が起こる夜までは。
ユーリスを起こしてしまわないよう注意を払いながら、セシリアはゆっくりと身体を横たえ、毛布の中に口元まで潜り込む。いつもはひとり分しかないぬくもりが、今夜は普段にも増してとてもあたたかく、心地良い。
彼が何故、“あの事件”が起きた夜からこの部屋で――しかも自分の隣で眠るようになったのか、セシリアには少しも分からない。思えば、それまでは月に一度か二度しかなかった帰宅が、週に一度の頻度へと変わったのも、その頃からだ。
理由を尋ねようと考えたことは、何度もある。あるけれど、いつも言葉は喉元で止まり、そのまま胸の奥まで呑み込むしかなかった。
聞きたい。知りたい。でも、聞くのが、知るのが、どうしても怖くてたまらない。
そうしてしまうくらいなら、真実から目を背け、彼が帰ってきて傍にいるという、ただそのぬくもりだけを感じていられる方が、よほど楽でいられた。たとえ夜が明ける度に、誰にも見せられない涙を、瞼の裏にひっそりと滲ませていたとしても。
――僕がセシリアを止めたのは、君を苦しめたいからじゃない。
瞼を閉じると、数日前に見たクロードの、やさしくも真剣なかんばせが蘇る。嫌いだと思うか、と問われ、それに答えられずにいるセシリアへ向けられた、泣き出しそうな子どもをあやすような、どこまでも穏やかな眼差し。
――ただ……僕には、兄上がセシリアのことを嫌いだとは、どうしても思えないんだ。だからどうか、信じて。
あの言葉の意味を、セシリアは今もうまく呑み込めずにいる。信じろとは、いったい何をだろう。ユーリスをか、クロードをか、それとも自分自身をだろうか。考えようとするたびに、思考がするりと滑って、どこかへ逃げてしまう。
ただひとつ分かるのは、あの時のクロードの目が、嘘をついていなかった、ということだけだ。
けれど、だからといって嫌われていないと思えるかというと、そうではなかった。“嫌われていない”ことと“愛されている”ことは一続きのように思えて、その実、決して繋がりはしない。それらは似て異なるものなのだから。故に、愛されないことの苦しみからは、どうしたって逃れることは出来ない。
でも――。触れてもいないのに、それでも背中にじんわりと沁み広がるぬくもりに胸を締め付けられながら、セシリアは静かに思う。こうして傍で眠ってくれるのなら、クロードの言っていたことは正しいのかもしれない、と。たとえそうでなかったとしても、今この瞬間だけは、傍にいることを拒まれていないという事実だけで十分だ、とも。
