雨童の嫁入り~雨女と蔑まれた双子の姉は、龍神に唯一の花嫁として望まれる~

【龍国・水殿・朝】
 夜の雨が上がり、薄い朝日が水殿へ差し込んでいる。
 屋根から落ちる雫が水路へ触れるたび、澄んだ音が響く。
 雫は窓辺に立ち、昨夜から何度も思い返していた。

『今、私の前にいるのは雫だ』
『お前の雨は、私にとって道しるべだ』

 龍神の言葉を思い出すと、胸の奥が僅かに温かくなる。
 けれど同時に、夢の中で見た少女の笑顔が浮かぶ。

『やっと、あえた』

 あの少女は、雫によく似ていた。
 龍神へ向けていた無邪気な笑顔も、胸を締めつけるほどの懐かしさも、すべて自分の中に残っている。

雫モノローグ「雨童は、本当に私なの……?」

 戸を叩く音。

侍女「雨嫁様。龍神様がお越しでございます」
雫「龍神様が?」

 雫が振り返るのと同時に、戸が開く。
 龍神はいつもの白銀の衣ではなく、深い青色の羽織をまとっている。
 手には、見覚えのある小さな銀の鈴。

龍神「少し、付き合ってもらいたい」

 雫は鈴を見つめる。
 どこかで聞いたことのある音。
 そう思った瞬間、胸の奥が微かに疼いた。

雫「どこへ行くんですか?」
龍神「お前に見せたいものがある」

【水殿・奥の回廊】
 二人は、水殿の最も奥にある回廊を歩く。
 人の姿はなく、使われていない水路には薄く苔が生えている。
 昨日までと違い、龍神は何も話さない。
 雫も、何を尋ねればよいのかわからない。

 やがて、古びた小さな社の前で龍神が足を止める。

 白木の戸。
 軒下には、色褪せた桃色の飾り紐。
 社の周囲だけ、時間が止まっているように静かだった。

龍神「ここは、雨童が好んでいた場所だ」
雫「昨日、来た東屋の近くですか?」
龍神「ああ。この社で昼寝をし、目覚めると池へ飛び出していった」

 龍神の口元に、淡い笑みが浮かぶ。

龍神「何度、泥だらけのまま水殿へ戻ってきたことか」

 優しい声。
 雫の知らない少女の思い出を語っているはずなのに、胸の奥に情景が浮かんでくる。

 雨上がりの蓮池。
 裸足で駆ける小さな足。
 泥の跳ねた桃色の着物。

雫「私……その場所を知っています」

 龍神が雫を見る。

雫「知らないはずなのに。どこに蓮池があって、どこから水が湧いていたのか、頭に浮かぶんです」

 雫は自分の胸元を押さえる。

雫「怖いのに、懐かしい」

 龍神は社の戸へ手をかける。

龍神「入ろう」

【古い社】
 戸が開く。
 朝の光が差し込み、暗い室内を照らす。

 小さな祭壇。
 その上に、幼い子供が使っていた品々が並んでいる。

 銀色の鈴。
 桃色の組紐がついた髪飾り。
 片方だけになった小さな草履。
 欠けた木彫りの龍。

 雫は、吸い寄せられるように祭壇へ近づく。

雫「これは……」
龍神「雨童のものだ」

 龍神は手に持っていた鈴を、祭壇へ戻す。

龍神「雨童は、雨から生まれた小さな精霊だった」
雫「精霊……?」
龍神「長い雨の後、蓮の葉の上に座っていた。泣いているのかと思えば、声を上げて笑っていた」

 龍神の脳裏に、かつての光景が蘇る。

【過去回想・蓮池】
 激しい雨が上がった直後。
 水に満ちた蓮池の中央。
 大きな蓮の葉の上に、小さな赤子が座っている。

 銀色がかった髪。
 頬には雨粒。
 龍神が近づくと、赤子は両手を伸ばして笑う。

幼い雨童『りゅうさまー』
龍神『私は龍神だ。龍様ではない』
幼い雨童『りゅうさま!』

 龍神が困ったように眉を寄せる。
 けれど、赤子を置いていくことはできない。
 小さな体を抱き上げる。
 雨童は嬉しそうに龍神の髪を握る。

【古い社・現在】
龍神「雨を連れて現れた童だったため、皆が雨童と呼んだ」
雫「名前はなかったんですか?」
龍神「本人が、その呼び名を気に入っていた」

 龍神は小さな髪飾りを見つめる。

龍神「よく笑い、よく転び、よく私の後を追ってきた」
雫「大切だったんですね」
龍神「ああ」

 迷いのない返答。
 雫の指先が僅かに強張る。

雫「では、私を探していたのは……その子を取り戻したかったから?」

 龍神が顔を上げる。

雫「雨童と同じ魂だから、私を花嫁に選んだんですか?」
龍神「雫」
雫「私のことを見ていると言ってくれました。でも、龍神様が待っていたのは、私が生まれるよりずっと前からでしょう?」

 雫の声が震える。

雫「私が雨童と同じように笑わなかったら?」
雫「雨童が好きだったものを、私が嫌いだったら?」
雫「あなたが待っていた子とは違う人間だったら……私は、ここにいてはいけないんですか?」

 龍神は一歩、雫へ近づく。

龍神「雨童を忘れたことはない」

 雫が目を伏せる。

龍神「守れなかったことを、悔やまなかった日もない」

 龍神の手が、強く握られる。

龍神「再び巡り合えるなら、今度こそ守りたいと願い続けた」
雫「やっぱり……」
龍神「だが」

 龍神が雫の前へ膝をつく。
 驚いた雫と視線の高さを合わせる。

龍神「お前を雨童の代わりにするつもりはない」
雫「……」
龍神「あの童が愛おしかったことと、今のお前を知りたいと思うことは、同じではない」

 龍神は、雫の手を取る。

龍神「雨童は蓮の実を好んだ。だが、お前が別のものを好むなら、それを知りたい」
龍神「雨童は雨の中を裸足で走った。だが、お前が雨を怖いと思うなら、傘を差して隣を歩く」

 雫は、重ねられた手を見る。

龍神「お前が雨童と同じように笑う必要はない」

 龍神の金色の瞳に映るのは、今の雫だけ。

龍神「雨宮雫が何を好み、何を嫌い、何を望むのか。それを私はまだ何も知らぬ」

 龍神は、雫の手を包む指に力を込める。

龍神「だから知りたいと思っている」

 雫の喉が詰まる。
 学校でも家でも、誰かが自分の好みを知ろうとしてくれた記憶はない。

 雨を降らせるか。
 迷惑をかけるか。
 晴香を困らせないか。
 周囲が気にするのは、いつもそればかりだった。

雫「私……」

 声が震える。

雫「そんなこと、聞かれたことがありません」
龍神「ならば、これから聞こう」

 龍神が僅かに微笑む。

龍神「まずは、何が食べたい?」
雫「今、聞くんですか?」
龍神「大事なことだ」

 あまりに真剣な顔をされ、雫の口元が僅かに緩む。

雫「……唐揚げ」
龍神「からあげ?」
雫「鶏肉に味をつけて、油で揚げたものです」
龍神「用意させよう」
雫「この国にあるんですか?」
龍神「なければ作らせる」
雫「そんな簡単に……」
龍神「お前が食べたいのだろう」

 龍神の言葉に、雫は目を瞬く。
 修学旅行の新幹線。
 晴香が友人から受け取っていた唐揚げ。
 開けられなかった自分の駅弁。

 あの日、口にできなかったものを、龍神は雫のために用意すると言う。

 雫は俯きながら、少しだけ笑う。

雫「では……お願いします」
龍神「ああ」

 社の中へ、小さな笑い声が落ちる。

 その時。
 祭壇の鈴が、風もないのに揺れた。

 ちりん。
 澄んだ音。
 雫の頭の奥に、強い光が弾ける。

【過去の記憶】
 満開の蓮池。
 少し成長した雨童が、龍神の膝の上に座っている。
 小さな指で龍神の銀髪を編みながら、楽しげに笑っている。

雨童『わらし、おおきくなったら』

 雨童は龍神の顔を覗き込む。

雨童『かみさまのおよめさまになるー』

 龍神は困ったように眉を下げる。

龍神『童を嫁にはできぬ』
雨童『えー!』

 雨童が頬を膨らませ、龍神の胸を小さな拳で叩く。

雨童『わらし、りゅうさまがすきなのにー』
龍神『それはありがたいが、お前はまだ童だ』
雨童『じゃあ、いつならいいの?』
龍神『早く大きくおなり』

 龍神が雨童の頭を撫でる。

龍神『その時も同じことを言うなら、考えよう』
雨童『ほんとう?』
龍神『ああ』
雨童『わらしがおおきくなるまで、まっててくれる?』

 龍神は、無邪気な雨童へ優しく微笑む。

龍神『待っていてやる』
雨童『やくそくだよ!?』
龍神『約束だ』

 雨童は歓声を上げ、龍神へ抱きつく。
 龍神が小さな体を抱き上げる。

 笑い声の中。
 一瞬だけ、木々の影から金色の蛇の目が二人を見ている。

【古い社・現在】
雫「……約束」

 雫の唇から、言葉が零れる。
 頬を涙が伝う。

龍神「雫?」
雫「待っててくれるって……」

 龍神が息を呑む。

雫「早く大きくおなりって」

 雫の手が震える。

雫「龍神様が、言ってくれた」

 記憶の中の雨童と、現在の雫の姿が重なる。

雫「私……本当に」

 雫が龍神を見る。
 理由もなく、胸の奥から懐かしさが溢れる。

雫「りゅうさま……」

 龍神の表情が歪む。
 次の瞬間、雫の体は強く抱き締められていた。

雫「龍神様……?」
龍神「すまぬ」

 雫の肩口へ顔を伏せる龍神。

龍神「しばらく、このままでいさせてくれ」

 雫は戸惑いながら、龍神の背中へ手を伸ばす。
 指先が青い羽織へ触れる。
 龍神の体が僅かに震えていることに気づく。

 何百年、何千年。
 この神は、たった一人を待ち続けたのだ。
 雫は、龍神の背へゆっくりと腕を回す。

雫「私も……」

 龍神が僅かに顔を上げる。

雫「まだ、全部はわかりません」
雫「でも、龍神様を悲しませたくないと思います」

 龍神は雫を見つめる。

雫「それが昔の私の気持ちなのか、今の私の気持ちなのか、わからないけど」

 雫の頬が僅かに赤くなる。

雫「もう少し、ここにいたいです」

 龍神の目が見開かれる。
 やがて、安堵したように細められる。

龍神「ああ」

 額が触れそうな距離。

龍神「望むだけ、いてくれ」

【潤野市・雨宮家・同時刻】
 晴香の部屋。
 机の上には、恋愛成就のお守り。
 ベッドの端には、眼帯の男が残していった朱色の羽根が置かれている。

 晴香は鏡の前に座り、雫とよく似た自分の顔を見つめている。

 同じ瞳。
 同じ鼻。
 同じ輪郭。

晴香モノローグ「双子なんだから」

 鏡の中の自分へ、指先で触れる。

晴香モノローグ「私だって、お姉ちゃんと同じはず」

 ベランダの外から、黒い蛇が一匹這い込んでくる。
 蛇は床の上で金色の光を放ち、眼帯の男の姿へ変わる。

蛇神「決心はついたか」
晴香「本当に、龍神の国へ行けるの?」
蛇神「ああ」
晴香「私も、龍神に会える?」
蛇神「望むならば」

 蛇神は晴香へ近づく。

蛇神「お前たちは双子だ。同じ日に生まれ、同じ血を分けた」

 朱色の羽根を手に取り、晴香の髪へ差す。

蛇神「姉にできることが、お前にできぬはずがない」
晴香「でも、私は雨を降らせられない」
蛇神「雨など必要ない」

 蛇神が妖しく微笑む。

蛇神「龍神の国は水に偏りすぎた。雨ではなく、太陽をもたらす花嫁こそ必要なのだ」
晴香「太陽……」
蛇神「お前の名は晴香」

 蛇神の指が、晴香の頬をなぞる。

蛇神「雨に濡れた姉より、晴れを望まれてきたお前の方が、龍神の隣にふさわしい」

 晴香の脳裏に、雫を抱き上げる龍神の姿が浮かぶ。
 雫だけに向けられた、慈しむような眼差し。

晴香「龍神は、お姉ちゃんを選んだ」
蛇神「雨の力に惑わされているだけだ」
晴香「私を見たら……変わる?」
蛇神「確かめてみればよい」

 蛇神が手を差し出す。

蛇神「姉と同じ顔を持ちながら、姉より明るく、愛されてきたお前を見ても、なお姉を選ぶのか」

 晴香は差し出された手を見る。
 迷いが残る。

晴香「お姉ちゃんを連れ戻すだけだから」
蛇神「ああ」
晴香「家族も、町の人も困ってるから」
蛇神「その通りだ」
晴香「私は、お姉ちゃんを助けに行くの」

 自分へ言い聞かせるように口にする。
 蛇神の口元が歪む。

蛇神「実に優しい妹だ」

 晴香は、蛇神の手を取る。

【龍神社・池】
 誰もいない夜の境内。
 雲一つなかった空へ、突如黒い雲が集まる。
 龍神社の池だけを囲むように、赤黒い雷が走る。

 水面に金色の蛇の目が浮かび上がる。
 蛇神と晴香が、池のほとりに立っている。

晴香「ここから行くの?」
蛇神「ああ」

 蛇神が眼帯へ触れる。
 眼帯の下から漏れた金色の光が、池へ注がれる。

 水面が二つに割れる。
 その奥に、青白く輝く龍国の景色が現れる。

蛇神「行こう」

 晴香は一度だけ、背後の神社を振り返る。
 母も父も、晴香がここにいることを知らない。
 けれど、今まで選ばれるのはいつも自分だった。
 龍神も、会えばきっと気づく。
 雫ではなく、自分の方がふさわしいのだと。

晴香「待ってて、お姉ちゃん」

 晴香は蛇神とともに、割れた水面へ足を踏み入れる。

【龍国・古い社】
 龍神の腕の中。
 雫が、何かに気づいたように顔を上げる。

雫「……雨が」

 窓の外。
 穏やかに降っていた雨が、突然止まる。
 代わりに、遠くの空が赤黒く光った。

 地面が大きく揺れる。
 祭壇の鈴が激しく鳴り始める。

 ちりん。
 ちりん。
 ちりん。

 龍神が雫を背へ庇い、立ち上がる。
 穏やかだった表情が、一瞬で神のものへ変わる。

龍神「この気配は……」

 金色の瞳が鋭く細められる。

龍神「まさか」

【龍国・干上がった蓮池】
 水の戻り始めていた蓮池。
 中央の水面が、赤黒く染まる。
 巨大な蛇の影が水中を這い、辺りの蓮が次々と枯れていく。

 空間に亀裂が走る。
 朱色の羽根と、黒い蛇の鱗が舞う。
 亀裂の向こうから、一人の少女が姿を現す。

 雫と同じ顔。
 朱色の羽根を髪へ挿した晴香。
 その背後に、眼帯をした男が立っている。
 晴香は初めて見る龍国を見回し、微笑む。

晴香「やっと会える」

 雫を抱いていた龍神の姿を思い浮かべる。

晴香「今度は、私を選んでもらうから」