【龍国・水殿・朝】
夜の雨が上がり、薄い朝日が水殿へ差し込んでいる。
屋根から落ちる雫が水路へ触れるたび、澄んだ音が響く。
雫は窓辺に立ち、昨夜から何度も思い返していた。
『今、私の前にいるのは雫だ』
『お前の雨は、私にとって道しるべだ』
龍神の言葉を思い出すと、胸の奥が僅かに温かくなる。
けれど同時に、夢の中で見た少女の笑顔が浮かぶ。
『やっと、あえた』
あの少女は、雫によく似ていた。
龍神へ向けていた無邪気な笑顔も、胸を締めつけるほどの懐かしさも、すべて自分の中に残っている。
雫モノローグ「雨童は、本当に私なの……?」
戸を叩く音。
侍女「雨嫁様。龍神様がお越しでございます」
雫「龍神様が?」
雫が振り返るのと同時に、戸が開く。
龍神はいつもの白銀の衣ではなく、深い青色の羽織をまとっている。
手には、見覚えのある小さな銀の鈴。
龍神「少し、付き合ってもらいたい」
雫は鈴を見つめる。
どこかで聞いたことのある音。
そう思った瞬間、胸の奥が微かに疼いた。
雫「どこへ行くんですか?」
龍神「お前に見せたいものがある」
【水殿・奥の回廊】
二人は、水殿の最も奥にある回廊を歩く。
人の姿はなく、使われていない水路には薄く苔が生えている。
昨日までと違い、龍神は何も話さない。
雫も、何を尋ねればよいのかわからない。
やがて、古びた小さな社の前で龍神が足を止める。
白木の戸。
軒下には、色褪せた桃色の飾り紐。
社の周囲だけ、時間が止まっているように静かだった。
龍神「ここは、雨童が好んでいた場所だ」
雫「昨日、来た東屋の近くですか?」
龍神「ああ。この社で昼寝をし、目覚めると池へ飛び出していった」
龍神の口元に、淡い笑みが浮かぶ。
龍神「何度、泥だらけのまま水殿へ戻ってきたことか」
優しい声。
雫の知らない少女の思い出を語っているはずなのに、胸の奥に情景が浮かんでくる。
雨上がりの蓮池。
裸足で駆ける小さな足。
泥の跳ねた桃色の着物。
雫「私……その場所を知っています」
龍神が雫を見る。
雫「知らないはずなのに。どこに蓮池があって、どこから水が湧いていたのか、頭に浮かぶんです」
雫は自分の胸元を押さえる。
雫「怖いのに、懐かしい」
龍神は社の戸へ手をかける。
龍神「入ろう」
【古い社】
戸が開く。
朝の光が差し込み、暗い室内を照らす。
小さな祭壇。
その上に、幼い子供が使っていた品々が並んでいる。
銀色の鈴。
桃色の組紐がついた髪飾り。
片方だけになった小さな草履。
欠けた木彫りの龍。
雫は、吸い寄せられるように祭壇へ近づく。
雫「これは……」
龍神「雨童のものだ」
龍神は手に持っていた鈴を、祭壇へ戻す。
龍神「雨童は、雨から生まれた小さな精霊だった」
雫「精霊……?」
龍神「長い雨の後、蓮の葉の上に座っていた。泣いているのかと思えば、声を上げて笑っていた」
龍神の脳裏に、かつての光景が蘇る。
【過去回想・蓮池】
激しい雨が上がった直後。
水に満ちた蓮池の中央。
大きな蓮の葉の上に、小さな赤子が座っている。
銀色がかった髪。
頬には雨粒。
龍神が近づくと、赤子は両手を伸ばして笑う。
幼い雨童『りゅうさまー』
龍神『私は龍神だ。龍様ではない』
幼い雨童『りゅうさま!』
龍神が困ったように眉を寄せる。
けれど、赤子を置いていくことはできない。
小さな体を抱き上げる。
雨童は嬉しそうに龍神の髪を握る。
【古い社・現在】
龍神「雨を連れて現れた童だったため、皆が雨童と呼んだ」
雫「名前はなかったんですか?」
龍神「本人が、その呼び名を気に入っていた」
龍神は小さな髪飾りを見つめる。
龍神「よく笑い、よく転び、よく私の後を追ってきた」
雫「大切だったんですね」
龍神「ああ」
迷いのない返答。
雫の指先が僅かに強張る。
雫「では、私を探していたのは……その子を取り戻したかったから?」
龍神が顔を上げる。
雫「雨童と同じ魂だから、私を花嫁に選んだんですか?」
龍神「雫」
雫「私のことを見ていると言ってくれました。でも、龍神様が待っていたのは、私が生まれるよりずっと前からでしょう?」
雫の声が震える。
雫「私が雨童と同じように笑わなかったら?」
雫「雨童が好きだったものを、私が嫌いだったら?」
雫「あなたが待っていた子とは違う人間だったら……私は、ここにいてはいけないんですか?」
龍神は一歩、雫へ近づく。
龍神「雨童を忘れたことはない」
雫が目を伏せる。
龍神「守れなかったことを、悔やまなかった日もない」
龍神の手が、強く握られる。
龍神「再び巡り合えるなら、今度こそ守りたいと願い続けた」
雫「やっぱり……」
龍神「だが」
龍神が雫の前へ膝をつく。
驚いた雫と視線の高さを合わせる。
龍神「お前を雨童の代わりにするつもりはない」
雫「……」
龍神「あの童が愛おしかったことと、今のお前を知りたいと思うことは、同じではない」
龍神は、雫の手を取る。
龍神「雨童は蓮の実を好んだ。だが、お前が別のものを好むなら、それを知りたい」
龍神「雨童は雨の中を裸足で走った。だが、お前が雨を怖いと思うなら、傘を差して隣を歩く」
雫は、重ねられた手を見る。
龍神「お前が雨童と同じように笑う必要はない」
龍神の金色の瞳に映るのは、今の雫だけ。
龍神「雨宮雫が何を好み、何を嫌い、何を望むのか。それを私はまだ何も知らぬ」
龍神は、雫の手を包む指に力を込める。
龍神「だから知りたいと思っている」
雫の喉が詰まる。
学校でも家でも、誰かが自分の好みを知ろうとしてくれた記憶はない。
雨を降らせるか。
迷惑をかけるか。
晴香を困らせないか。
周囲が気にするのは、いつもそればかりだった。
雫「私……」
声が震える。
雫「そんなこと、聞かれたことがありません」
龍神「ならば、これから聞こう」
龍神が僅かに微笑む。
龍神「まずは、何が食べたい?」
雫「今、聞くんですか?」
龍神「大事なことだ」
あまりに真剣な顔をされ、雫の口元が僅かに緩む。
雫「……唐揚げ」
龍神「からあげ?」
雫「鶏肉に味をつけて、油で揚げたものです」
龍神「用意させよう」
雫「この国にあるんですか?」
龍神「なければ作らせる」
雫「そんな簡単に……」
龍神「お前が食べたいのだろう」
龍神の言葉に、雫は目を瞬く。
修学旅行の新幹線。
晴香が友人から受け取っていた唐揚げ。
開けられなかった自分の駅弁。
あの日、口にできなかったものを、龍神は雫のために用意すると言う。
雫は俯きながら、少しだけ笑う。
雫「では……お願いします」
龍神「ああ」
社の中へ、小さな笑い声が落ちる。
その時。
祭壇の鈴が、風もないのに揺れた。
ちりん。
澄んだ音。
雫の頭の奥に、強い光が弾ける。
【過去の記憶】
満開の蓮池。
少し成長した雨童が、龍神の膝の上に座っている。
小さな指で龍神の銀髪を編みながら、楽しげに笑っている。
雨童『わらし、おおきくなったら』
雨童は龍神の顔を覗き込む。
雨童『かみさまのおよめさまになるー』
龍神は困ったように眉を下げる。
龍神『童を嫁にはできぬ』
雨童『えー!』
雨童が頬を膨らませ、龍神の胸を小さな拳で叩く。
雨童『わらし、りゅうさまがすきなのにー』
龍神『それはありがたいが、お前はまだ童だ』
雨童『じゃあ、いつならいいの?』
龍神『早く大きくおなり』
龍神が雨童の頭を撫でる。
龍神『その時も同じことを言うなら、考えよう』
雨童『ほんとう?』
龍神『ああ』
雨童『わらしがおおきくなるまで、まっててくれる?』
龍神は、無邪気な雨童へ優しく微笑む。
龍神『待っていてやる』
雨童『やくそくだよ!?』
龍神『約束だ』
雨童は歓声を上げ、龍神へ抱きつく。
龍神が小さな体を抱き上げる。
笑い声の中。
一瞬だけ、木々の影から金色の蛇の目が二人を見ている。
【古い社・現在】
雫「……約束」
雫の唇から、言葉が零れる。
頬を涙が伝う。
龍神「雫?」
雫「待っててくれるって……」
龍神が息を呑む。
雫「早く大きくおなりって」
雫の手が震える。
雫「龍神様が、言ってくれた」
記憶の中の雨童と、現在の雫の姿が重なる。
雫「私……本当に」
雫が龍神を見る。
理由もなく、胸の奥から懐かしさが溢れる。
雫「りゅうさま……」
龍神の表情が歪む。
次の瞬間、雫の体は強く抱き締められていた。
雫「龍神様……?」
龍神「すまぬ」
雫の肩口へ顔を伏せる龍神。
龍神「しばらく、このままでいさせてくれ」
雫は戸惑いながら、龍神の背中へ手を伸ばす。
指先が青い羽織へ触れる。
龍神の体が僅かに震えていることに気づく。
何百年、何千年。
この神は、たった一人を待ち続けたのだ。
雫は、龍神の背へゆっくりと腕を回す。
雫「私も……」
龍神が僅かに顔を上げる。
雫「まだ、全部はわかりません」
雫「でも、龍神様を悲しませたくないと思います」
龍神は雫を見つめる。
雫「それが昔の私の気持ちなのか、今の私の気持ちなのか、わからないけど」
雫の頬が僅かに赤くなる。
雫「もう少し、ここにいたいです」
龍神の目が見開かれる。
やがて、安堵したように細められる。
龍神「ああ」
額が触れそうな距離。
龍神「望むだけ、いてくれ」
【潤野市・雨宮家・同時刻】
晴香の部屋。
机の上には、恋愛成就のお守り。
ベッドの端には、眼帯の男が残していった朱色の羽根が置かれている。
晴香は鏡の前に座り、雫とよく似た自分の顔を見つめている。
同じ瞳。
同じ鼻。
同じ輪郭。
晴香モノローグ「双子なんだから」
鏡の中の自分へ、指先で触れる。
晴香モノローグ「私だって、お姉ちゃんと同じはず」
ベランダの外から、黒い蛇が一匹這い込んでくる。
蛇は床の上で金色の光を放ち、眼帯の男の姿へ変わる。
蛇神「決心はついたか」
晴香「本当に、龍神の国へ行けるの?」
蛇神「ああ」
晴香「私も、龍神に会える?」
蛇神「望むならば」
蛇神は晴香へ近づく。
蛇神「お前たちは双子だ。同じ日に生まれ、同じ血を分けた」
朱色の羽根を手に取り、晴香の髪へ差す。
蛇神「姉にできることが、お前にできぬはずがない」
晴香「でも、私は雨を降らせられない」
蛇神「雨など必要ない」
蛇神が妖しく微笑む。
蛇神「龍神の国は水に偏りすぎた。雨ではなく、太陽をもたらす花嫁こそ必要なのだ」
晴香「太陽……」
蛇神「お前の名は晴香」
蛇神の指が、晴香の頬をなぞる。
蛇神「雨に濡れた姉より、晴れを望まれてきたお前の方が、龍神の隣にふさわしい」
晴香の脳裏に、雫を抱き上げる龍神の姿が浮かぶ。
雫だけに向けられた、慈しむような眼差し。
晴香「龍神は、お姉ちゃんを選んだ」
蛇神「雨の力に惑わされているだけだ」
晴香「私を見たら……変わる?」
蛇神「確かめてみればよい」
蛇神が手を差し出す。
蛇神「姉と同じ顔を持ちながら、姉より明るく、愛されてきたお前を見ても、なお姉を選ぶのか」
晴香は差し出された手を見る。
迷いが残る。
晴香「お姉ちゃんを連れ戻すだけだから」
蛇神「ああ」
晴香「家族も、町の人も困ってるから」
蛇神「その通りだ」
晴香「私は、お姉ちゃんを助けに行くの」
自分へ言い聞かせるように口にする。
蛇神の口元が歪む。
蛇神「実に優しい妹だ」
晴香は、蛇神の手を取る。
【龍神社・池】
誰もいない夜の境内。
雲一つなかった空へ、突如黒い雲が集まる。
龍神社の池だけを囲むように、赤黒い雷が走る。
水面に金色の蛇の目が浮かび上がる。
蛇神と晴香が、池のほとりに立っている。
晴香「ここから行くの?」
蛇神「ああ」
蛇神が眼帯へ触れる。
眼帯の下から漏れた金色の光が、池へ注がれる。
水面が二つに割れる。
その奥に、青白く輝く龍国の景色が現れる。
蛇神「行こう」
晴香は一度だけ、背後の神社を振り返る。
母も父も、晴香がここにいることを知らない。
けれど、今まで選ばれるのはいつも自分だった。
龍神も、会えばきっと気づく。
雫ではなく、自分の方がふさわしいのだと。
晴香「待ってて、お姉ちゃん」
晴香は蛇神とともに、割れた水面へ足を踏み入れる。
【龍国・古い社】
龍神の腕の中。
雫が、何かに気づいたように顔を上げる。
雫「……雨が」
窓の外。
穏やかに降っていた雨が、突然止まる。
代わりに、遠くの空が赤黒く光った。
地面が大きく揺れる。
祭壇の鈴が激しく鳴り始める。
ちりん。
ちりん。
ちりん。
龍神が雫を背へ庇い、立ち上がる。
穏やかだった表情が、一瞬で神のものへ変わる。
龍神「この気配は……」
金色の瞳が鋭く細められる。
龍神「まさか」
【龍国・干上がった蓮池】
水の戻り始めていた蓮池。
中央の水面が、赤黒く染まる。
巨大な蛇の影が水中を這い、辺りの蓮が次々と枯れていく。
空間に亀裂が走る。
朱色の羽根と、黒い蛇の鱗が舞う。
亀裂の向こうから、一人の少女が姿を現す。
雫と同じ顔。
朱色の羽根を髪へ挿した晴香。
その背後に、眼帯をした男が立っている。
晴香は初めて見る龍国を見回し、微笑む。
晴香「やっと会える」
雫を抱いていた龍神の姿を思い浮かべる。
晴香「今度は、私を選んでもらうから」
夜の雨が上がり、薄い朝日が水殿へ差し込んでいる。
屋根から落ちる雫が水路へ触れるたび、澄んだ音が響く。
雫は窓辺に立ち、昨夜から何度も思い返していた。
『今、私の前にいるのは雫だ』
『お前の雨は、私にとって道しるべだ』
龍神の言葉を思い出すと、胸の奥が僅かに温かくなる。
けれど同時に、夢の中で見た少女の笑顔が浮かぶ。
『やっと、あえた』
あの少女は、雫によく似ていた。
龍神へ向けていた無邪気な笑顔も、胸を締めつけるほどの懐かしさも、すべて自分の中に残っている。
雫モノローグ「雨童は、本当に私なの……?」
戸を叩く音。
侍女「雨嫁様。龍神様がお越しでございます」
雫「龍神様が?」
雫が振り返るのと同時に、戸が開く。
龍神はいつもの白銀の衣ではなく、深い青色の羽織をまとっている。
手には、見覚えのある小さな銀の鈴。
龍神「少し、付き合ってもらいたい」
雫は鈴を見つめる。
どこかで聞いたことのある音。
そう思った瞬間、胸の奥が微かに疼いた。
雫「どこへ行くんですか?」
龍神「お前に見せたいものがある」
【水殿・奥の回廊】
二人は、水殿の最も奥にある回廊を歩く。
人の姿はなく、使われていない水路には薄く苔が生えている。
昨日までと違い、龍神は何も話さない。
雫も、何を尋ねればよいのかわからない。
やがて、古びた小さな社の前で龍神が足を止める。
白木の戸。
軒下には、色褪せた桃色の飾り紐。
社の周囲だけ、時間が止まっているように静かだった。
龍神「ここは、雨童が好んでいた場所だ」
雫「昨日、来た東屋の近くですか?」
龍神「ああ。この社で昼寝をし、目覚めると池へ飛び出していった」
龍神の口元に、淡い笑みが浮かぶ。
龍神「何度、泥だらけのまま水殿へ戻ってきたことか」
優しい声。
雫の知らない少女の思い出を語っているはずなのに、胸の奥に情景が浮かんでくる。
雨上がりの蓮池。
裸足で駆ける小さな足。
泥の跳ねた桃色の着物。
雫「私……その場所を知っています」
龍神が雫を見る。
雫「知らないはずなのに。どこに蓮池があって、どこから水が湧いていたのか、頭に浮かぶんです」
雫は自分の胸元を押さえる。
雫「怖いのに、懐かしい」
龍神は社の戸へ手をかける。
龍神「入ろう」
【古い社】
戸が開く。
朝の光が差し込み、暗い室内を照らす。
小さな祭壇。
その上に、幼い子供が使っていた品々が並んでいる。
銀色の鈴。
桃色の組紐がついた髪飾り。
片方だけになった小さな草履。
欠けた木彫りの龍。
雫は、吸い寄せられるように祭壇へ近づく。
雫「これは……」
龍神「雨童のものだ」
龍神は手に持っていた鈴を、祭壇へ戻す。
龍神「雨童は、雨から生まれた小さな精霊だった」
雫「精霊……?」
龍神「長い雨の後、蓮の葉の上に座っていた。泣いているのかと思えば、声を上げて笑っていた」
龍神の脳裏に、かつての光景が蘇る。
【過去回想・蓮池】
激しい雨が上がった直後。
水に満ちた蓮池の中央。
大きな蓮の葉の上に、小さな赤子が座っている。
銀色がかった髪。
頬には雨粒。
龍神が近づくと、赤子は両手を伸ばして笑う。
幼い雨童『りゅうさまー』
龍神『私は龍神だ。龍様ではない』
幼い雨童『りゅうさま!』
龍神が困ったように眉を寄せる。
けれど、赤子を置いていくことはできない。
小さな体を抱き上げる。
雨童は嬉しそうに龍神の髪を握る。
【古い社・現在】
龍神「雨を連れて現れた童だったため、皆が雨童と呼んだ」
雫「名前はなかったんですか?」
龍神「本人が、その呼び名を気に入っていた」
龍神は小さな髪飾りを見つめる。
龍神「よく笑い、よく転び、よく私の後を追ってきた」
雫「大切だったんですね」
龍神「ああ」
迷いのない返答。
雫の指先が僅かに強張る。
雫「では、私を探していたのは……その子を取り戻したかったから?」
龍神が顔を上げる。
雫「雨童と同じ魂だから、私を花嫁に選んだんですか?」
龍神「雫」
雫「私のことを見ていると言ってくれました。でも、龍神様が待っていたのは、私が生まれるよりずっと前からでしょう?」
雫の声が震える。
雫「私が雨童と同じように笑わなかったら?」
雫「雨童が好きだったものを、私が嫌いだったら?」
雫「あなたが待っていた子とは違う人間だったら……私は、ここにいてはいけないんですか?」
龍神は一歩、雫へ近づく。
龍神「雨童を忘れたことはない」
雫が目を伏せる。
龍神「守れなかったことを、悔やまなかった日もない」
龍神の手が、強く握られる。
龍神「再び巡り合えるなら、今度こそ守りたいと願い続けた」
雫「やっぱり……」
龍神「だが」
龍神が雫の前へ膝をつく。
驚いた雫と視線の高さを合わせる。
龍神「お前を雨童の代わりにするつもりはない」
雫「……」
龍神「あの童が愛おしかったことと、今のお前を知りたいと思うことは、同じではない」
龍神は、雫の手を取る。
龍神「雨童は蓮の実を好んだ。だが、お前が別のものを好むなら、それを知りたい」
龍神「雨童は雨の中を裸足で走った。だが、お前が雨を怖いと思うなら、傘を差して隣を歩く」
雫は、重ねられた手を見る。
龍神「お前が雨童と同じように笑う必要はない」
龍神の金色の瞳に映るのは、今の雫だけ。
龍神「雨宮雫が何を好み、何を嫌い、何を望むのか。それを私はまだ何も知らぬ」
龍神は、雫の手を包む指に力を込める。
龍神「だから知りたいと思っている」
雫の喉が詰まる。
学校でも家でも、誰かが自分の好みを知ろうとしてくれた記憶はない。
雨を降らせるか。
迷惑をかけるか。
晴香を困らせないか。
周囲が気にするのは、いつもそればかりだった。
雫「私……」
声が震える。
雫「そんなこと、聞かれたことがありません」
龍神「ならば、これから聞こう」
龍神が僅かに微笑む。
龍神「まずは、何が食べたい?」
雫「今、聞くんですか?」
龍神「大事なことだ」
あまりに真剣な顔をされ、雫の口元が僅かに緩む。
雫「……唐揚げ」
龍神「からあげ?」
雫「鶏肉に味をつけて、油で揚げたものです」
龍神「用意させよう」
雫「この国にあるんですか?」
龍神「なければ作らせる」
雫「そんな簡単に……」
龍神「お前が食べたいのだろう」
龍神の言葉に、雫は目を瞬く。
修学旅行の新幹線。
晴香が友人から受け取っていた唐揚げ。
開けられなかった自分の駅弁。
あの日、口にできなかったものを、龍神は雫のために用意すると言う。
雫は俯きながら、少しだけ笑う。
雫「では……お願いします」
龍神「ああ」
社の中へ、小さな笑い声が落ちる。
その時。
祭壇の鈴が、風もないのに揺れた。
ちりん。
澄んだ音。
雫の頭の奥に、強い光が弾ける。
【過去の記憶】
満開の蓮池。
少し成長した雨童が、龍神の膝の上に座っている。
小さな指で龍神の銀髪を編みながら、楽しげに笑っている。
雨童『わらし、おおきくなったら』
雨童は龍神の顔を覗き込む。
雨童『かみさまのおよめさまになるー』
龍神は困ったように眉を下げる。
龍神『童を嫁にはできぬ』
雨童『えー!』
雨童が頬を膨らませ、龍神の胸を小さな拳で叩く。
雨童『わらし、りゅうさまがすきなのにー』
龍神『それはありがたいが、お前はまだ童だ』
雨童『じゃあ、いつならいいの?』
龍神『早く大きくおなり』
龍神が雨童の頭を撫でる。
龍神『その時も同じことを言うなら、考えよう』
雨童『ほんとう?』
龍神『ああ』
雨童『わらしがおおきくなるまで、まっててくれる?』
龍神は、無邪気な雨童へ優しく微笑む。
龍神『待っていてやる』
雨童『やくそくだよ!?』
龍神『約束だ』
雨童は歓声を上げ、龍神へ抱きつく。
龍神が小さな体を抱き上げる。
笑い声の中。
一瞬だけ、木々の影から金色の蛇の目が二人を見ている。
【古い社・現在】
雫「……約束」
雫の唇から、言葉が零れる。
頬を涙が伝う。
龍神「雫?」
雫「待っててくれるって……」
龍神が息を呑む。
雫「早く大きくおなりって」
雫の手が震える。
雫「龍神様が、言ってくれた」
記憶の中の雨童と、現在の雫の姿が重なる。
雫「私……本当に」
雫が龍神を見る。
理由もなく、胸の奥から懐かしさが溢れる。
雫「りゅうさま……」
龍神の表情が歪む。
次の瞬間、雫の体は強く抱き締められていた。
雫「龍神様……?」
龍神「すまぬ」
雫の肩口へ顔を伏せる龍神。
龍神「しばらく、このままでいさせてくれ」
雫は戸惑いながら、龍神の背中へ手を伸ばす。
指先が青い羽織へ触れる。
龍神の体が僅かに震えていることに気づく。
何百年、何千年。
この神は、たった一人を待ち続けたのだ。
雫は、龍神の背へゆっくりと腕を回す。
雫「私も……」
龍神が僅かに顔を上げる。
雫「まだ、全部はわかりません」
雫「でも、龍神様を悲しませたくないと思います」
龍神は雫を見つめる。
雫「それが昔の私の気持ちなのか、今の私の気持ちなのか、わからないけど」
雫の頬が僅かに赤くなる。
雫「もう少し、ここにいたいです」
龍神の目が見開かれる。
やがて、安堵したように細められる。
龍神「ああ」
額が触れそうな距離。
龍神「望むだけ、いてくれ」
【潤野市・雨宮家・同時刻】
晴香の部屋。
机の上には、恋愛成就のお守り。
ベッドの端には、眼帯の男が残していった朱色の羽根が置かれている。
晴香は鏡の前に座り、雫とよく似た自分の顔を見つめている。
同じ瞳。
同じ鼻。
同じ輪郭。
晴香モノローグ「双子なんだから」
鏡の中の自分へ、指先で触れる。
晴香モノローグ「私だって、お姉ちゃんと同じはず」
ベランダの外から、黒い蛇が一匹這い込んでくる。
蛇は床の上で金色の光を放ち、眼帯の男の姿へ変わる。
蛇神「決心はついたか」
晴香「本当に、龍神の国へ行けるの?」
蛇神「ああ」
晴香「私も、龍神に会える?」
蛇神「望むならば」
蛇神は晴香へ近づく。
蛇神「お前たちは双子だ。同じ日に生まれ、同じ血を分けた」
朱色の羽根を手に取り、晴香の髪へ差す。
蛇神「姉にできることが、お前にできぬはずがない」
晴香「でも、私は雨を降らせられない」
蛇神「雨など必要ない」
蛇神が妖しく微笑む。
蛇神「龍神の国は水に偏りすぎた。雨ではなく、太陽をもたらす花嫁こそ必要なのだ」
晴香「太陽……」
蛇神「お前の名は晴香」
蛇神の指が、晴香の頬をなぞる。
蛇神「雨に濡れた姉より、晴れを望まれてきたお前の方が、龍神の隣にふさわしい」
晴香の脳裏に、雫を抱き上げる龍神の姿が浮かぶ。
雫だけに向けられた、慈しむような眼差し。
晴香「龍神は、お姉ちゃんを選んだ」
蛇神「雨の力に惑わされているだけだ」
晴香「私を見たら……変わる?」
蛇神「確かめてみればよい」
蛇神が手を差し出す。
蛇神「姉と同じ顔を持ちながら、姉より明るく、愛されてきたお前を見ても、なお姉を選ぶのか」
晴香は差し出された手を見る。
迷いが残る。
晴香「お姉ちゃんを連れ戻すだけだから」
蛇神「ああ」
晴香「家族も、町の人も困ってるから」
蛇神「その通りだ」
晴香「私は、お姉ちゃんを助けに行くの」
自分へ言い聞かせるように口にする。
蛇神の口元が歪む。
蛇神「実に優しい妹だ」
晴香は、蛇神の手を取る。
【龍神社・池】
誰もいない夜の境内。
雲一つなかった空へ、突如黒い雲が集まる。
龍神社の池だけを囲むように、赤黒い雷が走る。
水面に金色の蛇の目が浮かび上がる。
蛇神と晴香が、池のほとりに立っている。
晴香「ここから行くの?」
蛇神「ああ」
蛇神が眼帯へ触れる。
眼帯の下から漏れた金色の光が、池へ注がれる。
水面が二つに割れる。
その奥に、青白く輝く龍国の景色が現れる。
蛇神「行こう」
晴香は一度だけ、背後の神社を振り返る。
母も父も、晴香がここにいることを知らない。
けれど、今まで選ばれるのはいつも自分だった。
龍神も、会えばきっと気づく。
雫ではなく、自分の方がふさわしいのだと。
晴香「待ってて、お姉ちゃん」
晴香は蛇神とともに、割れた水面へ足を踏み入れる。
【龍国・古い社】
龍神の腕の中。
雫が、何かに気づいたように顔を上げる。
雫「……雨が」
窓の外。
穏やかに降っていた雨が、突然止まる。
代わりに、遠くの空が赤黒く光った。
地面が大きく揺れる。
祭壇の鈴が激しく鳴り始める。
ちりん。
ちりん。
ちりん。
龍神が雫を背へ庇い、立ち上がる。
穏やかだった表情が、一瞬で神のものへ変わる。
龍神「この気配は……」
金色の瞳が鋭く細められる。
龍神「まさか」
【龍国・干上がった蓮池】
水の戻り始めていた蓮池。
中央の水面が、赤黒く染まる。
巨大な蛇の影が水中を這い、辺りの蓮が次々と枯れていく。
空間に亀裂が走る。
朱色の羽根と、黒い蛇の鱗が舞う。
亀裂の向こうから、一人の少女が姿を現す。
雫と同じ顔。
朱色の羽根を髪へ挿した晴香。
その背後に、眼帯をした男が立っている。
晴香は初めて見る龍国を見回し、微笑む。
晴香「やっと会える」
雫を抱いていた龍神の姿を思い浮かべる。
晴香「今度は、私を選んでもらうから」



