【水殿・雫の部屋・朝】
静かな雨音。
窓の外で、雨粒が蓮の葉を叩いている。
雫はその音に導かれるように、ゆっくりと目を開く。
青い天蓋。
水面を思わせる薄布。
見慣れない天井をしばらく眺めたあと、昨日の出来事が一気に蘇ってくる。
修学旅行。
龍神社の池。
銀髪の男。
『私の雨嫁』
雫は寝台の上で体を起こす。
雫「夢……じゃなかった」
自分の声だけが、広い部屋に小さく響く。
寝台の脇には、昨夜着ていた制服が綺麗に畳まれていた。
窓辺へ近づく。
外では、細く柔らかな雨が降っている。
昨日まで泥の底を見せていた蓮池には水が戻り始め、萎れていた葉も少しだけ持ち上がっていた。
その景色を見ていると、胸の奥が微かに疼く。
知らない場所のはずなのに。
なぜか、ひどく懐かしい。
雫モノローグ「私、ここに来たことがあるの……?」
戸を叩く音。
侍女「雨嫁様。お目覚めでしょうか」
雫「……はい」
戸が開き、二人の侍女が入ってくる。
一人は着替えを抱え、もう一人は湯気の立つ桶を持っていた。
侍女「お加減はいかがでございますか」
雫「大丈夫です」
侍女「龍神様が、朝餉を共にしたいとお待ちです」
雫「龍神様が?」
侍女「はい。随分と早くからお越しでございます」
侍女の一人が、嬉しそうに目を細める。
侍女「雨嫁様がお目覚めになるまで、何度もこちらをご覧になっておりました」
雫「……何度も?」
侍女「龍神様があのように落ち着かないご様子を見せられるのは、初めてでございます」
雫の胸が、僅かに鳴る。
けれど昨日、人々が自分へ向けた期待の眼差しを思い出し、すぐに気持ちを押し込める。
雫モノローグ「きっと、雨が止まってしまわないか心配なだけ」
【水殿・大広間】
白い柱が並ぶ広間。
床の中央には細い水路が通り、透明な水の中を小さな金色の魚が泳いでいる。
奥の席に龍神が座っていた。
雫が入ってくると、すぐに顔を上げる。
龍神「よく眠れたか」
雫「……普通です」
龍神「そうか」
短い会話のあと、微妙な沈黙が流れる。
雫は龍神の向かいへ座る。
卓上には、色鮮やかな朝食が並んでいる。
艶のある白米。
香ばしく焼かれた川魚。
薄く切った根菜の煮物。
蓮の実が浮かぶ澄んだ汁。
けれど雫は、箸を取らない。
昨夜からほとんど何も食べていないはずなのに、食欲が湧かなかった。
龍神が雫の手元を見る。
龍神「口に合わぬか」
雫「そうじゃないです」
龍神「ならば、何だ」
雫は膝の上で指を組む。
雫「聞きたいことがあります」
龍神「申してみよ」
雫は真っ直ぐに龍神を見る。
雫「どうして、私だったんですか」
龍神の金色の瞳が僅かに揺れる。
雫「私をここへ連れてきた理由です」
雫「この国に雨が必要だからですか」
龍神はしばらく答えない。
水路を流れる水の音だけが響く。
龍神「……雨を呼ぶ力があったからだ」
雫「……やっぱり、そうなんですね」
胸の奥が冷えていく。
わかっていたはずなのに、龍神の口から聞くと苦しかった。
雫は視線を落とす。
雫「それなら、私じゃなくても」
龍神「だが、それだけではない」
雫が顔を上げる。
龍神「お前だから呼んだ」
雫「意味がわかりません」
龍神「そうだろうな」
雫「では、説明してください」
龍神「今はまだ話せぬ」
雫「なぜ……?」
雫の声に、苛立ちが混じる。
雫「雨を降らせるために知らない国へ連れてきておいて、理由は話せないんですか」
龍神「雫」
雫「私のことを知っているような言い方をするのに、何も教えてくれない」
龍神は言葉を失う。
雫を見つめる表情は、責められて怒っているようには見えない。
むしろ、泣き出すのを堪えているようだった。
龍神「話したところで、今のお前には信じてもらえぬだろう」
雫「信じるかどうかは、私が決めます」
龍神「思い出すことが、お前を苦しめるかもしれぬ」
雫「思い出す……?」
龍神は、これ以上口にしてしまわないように唇を閉じる。
雫が問い返そうとした時、龍神は箸を取り、焼き魚を一口大に分けた。
龍神「まずは食べよ」
雫「話を逸らさないでください」
龍神「腹が減っていては、よい考えも浮かばぬ」
雫「食欲がありません」
龍神は少し考え、蓮の実が入った汁椀を雫の前へ寄せる。
龍神「これは好んでいた」
雫「……誰が?」
龍神の手が止まる。
龍神「いや」
僅かな間。
龍神「人の口にも合うと聞いた」
雫は訝しげに龍神を見る。
それでも、湯気とともに漂う優しい香りに誘われ、椀を手に取る。
一口飲む。
柔らかな甘みが舌に広がった瞬間、胸の奥に不思議な懐かしさが込み上げる。
雫の目から、理由もなく涙が一粒落ちた。
龍神「雫?」
雫「……わかりません」
雫は慌てて頬を拭う。
雫「どうして、こんな」
龍神は手を伸ばしかける。
けれど触れることを躊躇い、その手を静かに下ろした。
【水殿・庭園】
朝食を終えた雫は、一人で庭園を歩いている。
考えたいことが多すぎて、部屋に戻る気にはなれなかった。
雨に濡れた白い石畳。
水が戻り始めた小川。
昨日までは枯れかけていた木々にも、鮮やかな緑が蘇りつつある。
庭園の中央には、大きな蓮池がある。
まだ水位は低いものの、桃色の花がいくつか開いていた。
雫は池の縁にしゃがむ。
花びらの上に溜まった雨粒が、ころりと水面へ落ちる。
少年「雨嫁様!」
背後から元気な声。
雫が振り返ると、昨日雨の中を駆け回っていた少年が立っていた。
両手に、小さな桃色の蓮を抱えている。
少年「これ、あげる!」
雫「私に?」
少年「うん! 昨日まで蕾だったのに、雨嫁様が来たら咲いた!」
少年は満面の笑みで、雫へ花を差し出す。
雫は戸惑いながらも受け取る。
雫「ありがとう。綺麗だね」
少年「雨嫁様が咲かせたんだよ!」
その言葉に、雫の笑顔が僅かに曇る。
少年は気づかず、池を指さす。
少年「雨嫁様が来てから、お母さんが笑うようになった!」
雫「お母さん?」
少年「水がなくて、ずっと泣いてたんだ。でも昨日は、雨の中でいっぱい笑ってた」
少年は雫を見上げる。
少年「だから、ありがとう!」
雫は目を瞬く。
雨を降らせたことを責められたことは、数えきれないほどある。
けれど正面から感謝されたことは、一度もなかった。
雫「……どういたしまして」
雫は花を胸元で抱える。
少年が嬉しそうに笑う。
その時。
風が吹き抜けた。
蓮の葉が一斉に揺れ、水面に細かな波が立つ。
『りゅうさまー!』
高く弾む、幼い声。
雫「……え?」
雫は振り返る。
桃色の着物を着た小さな少女が、雫の横を駆け抜けていく。
少女の体は淡く透けている。
そのまま雫の体をすり抜け、蓮池の向こうへ走っていく。
雫「待って……!」
視界が白く弾けた。
【記憶の断片】
今よりも水に満ちた蓮池。
眩しいほどの青空。
桃色の着物を着た幼い少女が、裸足で石畳を走っている。
少女『りゅうさまー!』
池のほとりに立つ銀髪の青年。
今より少し若い龍神が振り返る。
少女は勢いよく飛びつき、龍神が慣れた様子で抱き留める。
龍神『また泥だらけではないか』
少女『あめがふったから、たのしかったのですー』
龍神『雨童であるお前には、泥遊びも雨遊びか』
龍神の声は呆れている。
けれど、その眼差しは底抜けに優しい。
少女が龍神の首へ抱きつき、嬉しそうに笑う。
【庭園・現在】
雫「っ、痛……!」
頭の奥を鋭い痛みが貫く。
雫は額を押さえ、体をふらつかせる。
少年「雨嫁様!?」
足元の感覚が消える。
池へ倒れ込みそうになった雫の体を、伸びてきた腕が抱き留める。
龍神「雫!」
龍神が雫を胸元へ引き寄せる。
少年が驚いて固まっている。
龍神「人を呼んでくれ」
少年「は、はい!」
少年が走り去る。
龍神は雫の頬へ手を添える。
龍神「何を見た」
雫「女の子が……」
龍神の瞳が大きく揺れる。
雫「小さな女の子が、龍神様に抱きついていて」
龍神「……」
雫「雨童って呼ばれていました」
龍神の腕に力が入る。
壊れ物を守るように、雫を強く抱き寄せる。
雫「龍神様?」
龍神「もうよい。今は思い出すな」
雫「でも、あの子は誰なんですか」
龍神「雫」
雫「私と、どんな関係があるんですか」
龍神は答えない。
雫の頭を自分の胸元へ抱え込み、視界を遮る。
心臓の音が聞こえる。
神なのに。
龍神の鼓動は、恐れているかのように速かった。
【古い社・夕刻】
水殿の奥。
今は誰も立ち入らない、古びた小さな社。
龍神は一人で、その戸を開く。
薄暗い室内。
小さな祭壇の上には、子供用の品々が置かれている。
銀色の鈴。
桃色の組紐がついた髪飾り。
泥の跡が残る小さな草履。
龍神は祭壇の前へ膝をつく。
鈴を手に取る。
ちりん。
乾いた音が、静かな社に響く。
龍神「もう少し」
龍神の指が、小さな鈴を包む。
龍神「もう少しだけ、待っていてくれ」
金色の瞳に、深い後悔が滲む。
龍神「雨童」
【蛇神の祠】
同じ頃。
暗い祠の床を、無数の蛇が這っている。
黒髪の男は、石造りの椅子へ深く腰かけている。
男の前に、蛇の鱗を持つ配下が跪く。
配下「蛇神様。龍神が人の娘を花嫁として迎えたとの報せが」
蛇神「知っている」
配下「やはり、あの娘が雨童なのでしょうか」
蛇神「だろうな」
蛇神は、黒い眼帯の上から片目を撫でる。
爪の先が、眼帯の縁をなぞる。
蛇神「殺してやったというのに」
口元が歪む。
蛇神「再び現れるとは、生まれ変わっても忌々しい娘だ」
配下「今度こそ、魂まで消してしまわれますか」
蛇神「急ぐな」
蛇神の眼帯の隙間から、金色の光が漏れる。
蛇神「龍神は、ようやく手に戻った娘を失うことを何より恐れている」
配下「では」
蛇神「奪うならば、最も幸福になった瞬間がよい」
蛇神は楽しげに笑う。
蛇神「同じ絶望を、もう一度味わわせてやる」
【過去の記憶】
雨上がりの蓮池。
幼い雨童が、龍神の膝の上に座っている。
小さな手で、龍神の長い銀髪を弄んでいる。
雨童『わらし、おおきくなったら』
雨童が龍神を見上げる。
雨童『かみさまのおよめさまになるー』
満面の笑み。
龍神は困ったように眉を下げる。
龍神『童を嫁にはできぬ』
雨童『えー』
雨童が不満そうに頬を膨らませる。
龍神『だから、待っていてやる』
雨童『ほんとう?』
龍神『ああ。早く大きくおなり』
雨童『おおきくなったら、およめさまにしてくれる?』
龍神は少し笑い、雨童の頭を撫でる。
龍神『その時も同じことを言うなら、考えよう』
雨童『やくそくだよ!?』
龍神『約束だ』
雨童が歓声を上げ、龍神へ抱きつく。
龍神はその小さな体を抱き上げる。
蓮池の上に、二人の笑い声が響く。
【水殿・雫の部屋・夜】
雫は寝台の上で眠っている。
窓の外では、昼よりも少し強い雨が降っていた。
眉を寄せ、苦しそうに寝返りを打つ。
【夢】
満開の蓮池。
桃色の着物を着た少女が、一人で池を眺めている。
その後ろ姿に、雫は近づく。
雫「あなたは誰?」
少女がゆっくりと振り返る。
幼い顔。
丸い瞳。
けれど、その顔立ちは雫によく似ている。
少女『やっとあえた』
雫「私に……?」
少女が笑う。
少女『りゅうさまにも』
少女の瞳から、涙が零れる。
少女『やっと、あえた』
少女の姿と雫の姿が重なる。
【水殿・雫の部屋】
雫「っ……!」
雫が飛び起きる。
激しく胸が鳴っている。
頬を、一筋の涙が伝う。
雫「今の子……」
胸元を強く押さえる。
雫「私……?」
雨脚が強くなる。
窓を打つ雨音に気づき、部屋の戸が勢いよく開く。
龍神が入ってくる。
龍神「雫!」
雫は龍神の姿を見つめる。
考えるより先に、唇が動いた。
雫「……りゅうさま」
龍神が息を呑む。
雫自身も、自分が口にした呼び名に目を見開く。
雨音だけが、二人の間に響く。
龍神の金色の瞳が、泣きそうに揺れた。
静かな雨音。
窓の外で、雨粒が蓮の葉を叩いている。
雫はその音に導かれるように、ゆっくりと目を開く。
青い天蓋。
水面を思わせる薄布。
見慣れない天井をしばらく眺めたあと、昨日の出来事が一気に蘇ってくる。
修学旅行。
龍神社の池。
銀髪の男。
『私の雨嫁』
雫は寝台の上で体を起こす。
雫「夢……じゃなかった」
自分の声だけが、広い部屋に小さく響く。
寝台の脇には、昨夜着ていた制服が綺麗に畳まれていた。
窓辺へ近づく。
外では、細く柔らかな雨が降っている。
昨日まで泥の底を見せていた蓮池には水が戻り始め、萎れていた葉も少しだけ持ち上がっていた。
その景色を見ていると、胸の奥が微かに疼く。
知らない場所のはずなのに。
なぜか、ひどく懐かしい。
雫モノローグ「私、ここに来たことがあるの……?」
戸を叩く音。
侍女「雨嫁様。お目覚めでしょうか」
雫「……はい」
戸が開き、二人の侍女が入ってくる。
一人は着替えを抱え、もう一人は湯気の立つ桶を持っていた。
侍女「お加減はいかがでございますか」
雫「大丈夫です」
侍女「龍神様が、朝餉を共にしたいとお待ちです」
雫「龍神様が?」
侍女「はい。随分と早くからお越しでございます」
侍女の一人が、嬉しそうに目を細める。
侍女「雨嫁様がお目覚めになるまで、何度もこちらをご覧になっておりました」
雫「……何度も?」
侍女「龍神様があのように落ち着かないご様子を見せられるのは、初めてでございます」
雫の胸が、僅かに鳴る。
けれど昨日、人々が自分へ向けた期待の眼差しを思い出し、すぐに気持ちを押し込める。
雫モノローグ「きっと、雨が止まってしまわないか心配なだけ」
【水殿・大広間】
白い柱が並ぶ広間。
床の中央には細い水路が通り、透明な水の中を小さな金色の魚が泳いでいる。
奥の席に龍神が座っていた。
雫が入ってくると、すぐに顔を上げる。
龍神「よく眠れたか」
雫「……普通です」
龍神「そうか」
短い会話のあと、微妙な沈黙が流れる。
雫は龍神の向かいへ座る。
卓上には、色鮮やかな朝食が並んでいる。
艶のある白米。
香ばしく焼かれた川魚。
薄く切った根菜の煮物。
蓮の実が浮かぶ澄んだ汁。
けれど雫は、箸を取らない。
昨夜からほとんど何も食べていないはずなのに、食欲が湧かなかった。
龍神が雫の手元を見る。
龍神「口に合わぬか」
雫「そうじゃないです」
龍神「ならば、何だ」
雫は膝の上で指を組む。
雫「聞きたいことがあります」
龍神「申してみよ」
雫は真っ直ぐに龍神を見る。
雫「どうして、私だったんですか」
龍神の金色の瞳が僅かに揺れる。
雫「私をここへ連れてきた理由です」
雫「この国に雨が必要だからですか」
龍神はしばらく答えない。
水路を流れる水の音だけが響く。
龍神「……雨を呼ぶ力があったからだ」
雫「……やっぱり、そうなんですね」
胸の奥が冷えていく。
わかっていたはずなのに、龍神の口から聞くと苦しかった。
雫は視線を落とす。
雫「それなら、私じゃなくても」
龍神「だが、それだけではない」
雫が顔を上げる。
龍神「お前だから呼んだ」
雫「意味がわかりません」
龍神「そうだろうな」
雫「では、説明してください」
龍神「今はまだ話せぬ」
雫「なぜ……?」
雫の声に、苛立ちが混じる。
雫「雨を降らせるために知らない国へ連れてきておいて、理由は話せないんですか」
龍神「雫」
雫「私のことを知っているような言い方をするのに、何も教えてくれない」
龍神は言葉を失う。
雫を見つめる表情は、責められて怒っているようには見えない。
むしろ、泣き出すのを堪えているようだった。
龍神「話したところで、今のお前には信じてもらえぬだろう」
雫「信じるかどうかは、私が決めます」
龍神「思い出すことが、お前を苦しめるかもしれぬ」
雫「思い出す……?」
龍神は、これ以上口にしてしまわないように唇を閉じる。
雫が問い返そうとした時、龍神は箸を取り、焼き魚を一口大に分けた。
龍神「まずは食べよ」
雫「話を逸らさないでください」
龍神「腹が減っていては、よい考えも浮かばぬ」
雫「食欲がありません」
龍神は少し考え、蓮の実が入った汁椀を雫の前へ寄せる。
龍神「これは好んでいた」
雫「……誰が?」
龍神の手が止まる。
龍神「いや」
僅かな間。
龍神「人の口にも合うと聞いた」
雫は訝しげに龍神を見る。
それでも、湯気とともに漂う優しい香りに誘われ、椀を手に取る。
一口飲む。
柔らかな甘みが舌に広がった瞬間、胸の奥に不思議な懐かしさが込み上げる。
雫の目から、理由もなく涙が一粒落ちた。
龍神「雫?」
雫「……わかりません」
雫は慌てて頬を拭う。
雫「どうして、こんな」
龍神は手を伸ばしかける。
けれど触れることを躊躇い、その手を静かに下ろした。
【水殿・庭園】
朝食を終えた雫は、一人で庭園を歩いている。
考えたいことが多すぎて、部屋に戻る気にはなれなかった。
雨に濡れた白い石畳。
水が戻り始めた小川。
昨日までは枯れかけていた木々にも、鮮やかな緑が蘇りつつある。
庭園の中央には、大きな蓮池がある。
まだ水位は低いものの、桃色の花がいくつか開いていた。
雫は池の縁にしゃがむ。
花びらの上に溜まった雨粒が、ころりと水面へ落ちる。
少年「雨嫁様!」
背後から元気な声。
雫が振り返ると、昨日雨の中を駆け回っていた少年が立っていた。
両手に、小さな桃色の蓮を抱えている。
少年「これ、あげる!」
雫「私に?」
少年「うん! 昨日まで蕾だったのに、雨嫁様が来たら咲いた!」
少年は満面の笑みで、雫へ花を差し出す。
雫は戸惑いながらも受け取る。
雫「ありがとう。綺麗だね」
少年「雨嫁様が咲かせたんだよ!」
その言葉に、雫の笑顔が僅かに曇る。
少年は気づかず、池を指さす。
少年「雨嫁様が来てから、お母さんが笑うようになった!」
雫「お母さん?」
少年「水がなくて、ずっと泣いてたんだ。でも昨日は、雨の中でいっぱい笑ってた」
少年は雫を見上げる。
少年「だから、ありがとう!」
雫は目を瞬く。
雨を降らせたことを責められたことは、数えきれないほどある。
けれど正面から感謝されたことは、一度もなかった。
雫「……どういたしまして」
雫は花を胸元で抱える。
少年が嬉しそうに笑う。
その時。
風が吹き抜けた。
蓮の葉が一斉に揺れ、水面に細かな波が立つ。
『りゅうさまー!』
高く弾む、幼い声。
雫「……え?」
雫は振り返る。
桃色の着物を着た小さな少女が、雫の横を駆け抜けていく。
少女の体は淡く透けている。
そのまま雫の体をすり抜け、蓮池の向こうへ走っていく。
雫「待って……!」
視界が白く弾けた。
【記憶の断片】
今よりも水に満ちた蓮池。
眩しいほどの青空。
桃色の着物を着た幼い少女が、裸足で石畳を走っている。
少女『りゅうさまー!』
池のほとりに立つ銀髪の青年。
今より少し若い龍神が振り返る。
少女は勢いよく飛びつき、龍神が慣れた様子で抱き留める。
龍神『また泥だらけではないか』
少女『あめがふったから、たのしかったのですー』
龍神『雨童であるお前には、泥遊びも雨遊びか』
龍神の声は呆れている。
けれど、その眼差しは底抜けに優しい。
少女が龍神の首へ抱きつき、嬉しそうに笑う。
【庭園・現在】
雫「っ、痛……!」
頭の奥を鋭い痛みが貫く。
雫は額を押さえ、体をふらつかせる。
少年「雨嫁様!?」
足元の感覚が消える。
池へ倒れ込みそうになった雫の体を、伸びてきた腕が抱き留める。
龍神「雫!」
龍神が雫を胸元へ引き寄せる。
少年が驚いて固まっている。
龍神「人を呼んでくれ」
少年「は、はい!」
少年が走り去る。
龍神は雫の頬へ手を添える。
龍神「何を見た」
雫「女の子が……」
龍神の瞳が大きく揺れる。
雫「小さな女の子が、龍神様に抱きついていて」
龍神「……」
雫「雨童って呼ばれていました」
龍神の腕に力が入る。
壊れ物を守るように、雫を強く抱き寄せる。
雫「龍神様?」
龍神「もうよい。今は思い出すな」
雫「でも、あの子は誰なんですか」
龍神「雫」
雫「私と、どんな関係があるんですか」
龍神は答えない。
雫の頭を自分の胸元へ抱え込み、視界を遮る。
心臓の音が聞こえる。
神なのに。
龍神の鼓動は、恐れているかのように速かった。
【古い社・夕刻】
水殿の奥。
今は誰も立ち入らない、古びた小さな社。
龍神は一人で、その戸を開く。
薄暗い室内。
小さな祭壇の上には、子供用の品々が置かれている。
銀色の鈴。
桃色の組紐がついた髪飾り。
泥の跡が残る小さな草履。
龍神は祭壇の前へ膝をつく。
鈴を手に取る。
ちりん。
乾いた音が、静かな社に響く。
龍神「もう少し」
龍神の指が、小さな鈴を包む。
龍神「もう少しだけ、待っていてくれ」
金色の瞳に、深い後悔が滲む。
龍神「雨童」
【蛇神の祠】
同じ頃。
暗い祠の床を、無数の蛇が這っている。
黒髪の男は、石造りの椅子へ深く腰かけている。
男の前に、蛇の鱗を持つ配下が跪く。
配下「蛇神様。龍神が人の娘を花嫁として迎えたとの報せが」
蛇神「知っている」
配下「やはり、あの娘が雨童なのでしょうか」
蛇神「だろうな」
蛇神は、黒い眼帯の上から片目を撫でる。
爪の先が、眼帯の縁をなぞる。
蛇神「殺してやったというのに」
口元が歪む。
蛇神「再び現れるとは、生まれ変わっても忌々しい娘だ」
配下「今度こそ、魂まで消してしまわれますか」
蛇神「急ぐな」
蛇神の眼帯の隙間から、金色の光が漏れる。
蛇神「龍神は、ようやく手に戻った娘を失うことを何より恐れている」
配下「では」
蛇神「奪うならば、最も幸福になった瞬間がよい」
蛇神は楽しげに笑う。
蛇神「同じ絶望を、もう一度味わわせてやる」
【過去の記憶】
雨上がりの蓮池。
幼い雨童が、龍神の膝の上に座っている。
小さな手で、龍神の長い銀髪を弄んでいる。
雨童『わらし、おおきくなったら』
雨童が龍神を見上げる。
雨童『かみさまのおよめさまになるー』
満面の笑み。
龍神は困ったように眉を下げる。
龍神『童を嫁にはできぬ』
雨童『えー』
雨童が不満そうに頬を膨らませる。
龍神『だから、待っていてやる』
雨童『ほんとう?』
龍神『ああ。早く大きくおなり』
雨童『おおきくなったら、およめさまにしてくれる?』
龍神は少し笑い、雨童の頭を撫でる。
龍神『その時も同じことを言うなら、考えよう』
雨童『やくそくだよ!?』
龍神『約束だ』
雨童が歓声を上げ、龍神へ抱きつく。
龍神はその小さな体を抱き上げる。
蓮池の上に、二人の笑い声が響く。
【水殿・雫の部屋・夜】
雫は寝台の上で眠っている。
窓の外では、昼よりも少し強い雨が降っていた。
眉を寄せ、苦しそうに寝返りを打つ。
【夢】
満開の蓮池。
桃色の着物を着た少女が、一人で池を眺めている。
その後ろ姿に、雫は近づく。
雫「あなたは誰?」
少女がゆっくりと振り返る。
幼い顔。
丸い瞳。
けれど、その顔立ちは雫によく似ている。
少女『やっとあえた』
雫「私に……?」
少女が笑う。
少女『りゅうさまにも』
少女の瞳から、涙が零れる。
少女『やっと、あえた』
少女の姿と雫の姿が重なる。
【水殿・雫の部屋】
雫「っ……!」
雫が飛び起きる。
激しく胸が鳴っている。
頬を、一筋の涙が伝う。
雫「今の子……」
胸元を強く押さえる。
雫「私……?」
雨脚が強くなる。
窓を打つ雨音に気づき、部屋の戸が勢いよく開く。
龍神が入ってくる。
龍神「雫!」
雫は龍神の姿を見つめる。
考えるより先に、唇が動いた。
雫「……りゅうさま」
龍神が息を呑む。
雫自身も、自分が口にした呼び名に目を見開く。
雨音だけが、二人の間に響く。
龍神の金色の瞳が、泣きそうに揺れた。



