雨童の嫁入り~雨女と蔑まれた双子の姉は、龍神に唯一の花嫁として望まれる~

【水殿・雫の部屋・朝】
 静かな雨音。
 窓の外で、雨粒が蓮の葉を叩いている。
 雫はその音に導かれるように、ゆっくりと目を開く。

 青い天蓋。
 水面を思わせる薄布。
 見慣れない天井をしばらく眺めたあと、昨日の出来事が一気に蘇ってくる。

 修学旅行。
 龍神社の池。
 銀髪の男。

『私の雨嫁』

 雫は寝台の上で体を起こす。

雫「夢……じゃなかった」

 自分の声だけが、広い部屋に小さく響く。
 寝台の脇には、昨夜着ていた制服が綺麗に畳まれていた。

 窓辺へ近づく。
 外では、細く柔らかな雨が降っている。

 昨日まで泥の底を見せていた蓮池には水が戻り始め、萎れていた葉も少しだけ持ち上がっていた。
 その景色を見ていると、胸の奥が微かに疼く。

 知らない場所のはずなのに。
 なぜか、ひどく懐かしい。

雫モノローグ「私、ここに来たことがあるの……?」

 戸を叩く音。

侍女「雨嫁様。お目覚めでしょうか」

雫「……はい」

 戸が開き、二人の侍女が入ってくる。
 一人は着替えを抱え、もう一人は湯気の立つ桶を持っていた。

侍女「お加減はいかがでございますか」
雫「大丈夫です」
侍女「龍神様が、朝餉を共にしたいとお待ちです」
雫「龍神様が?」
侍女「はい。随分と早くからお越しでございます」

 侍女の一人が、嬉しそうに目を細める。

侍女「雨嫁様がお目覚めになるまで、何度もこちらをご覧になっておりました」
雫「……何度も?」
侍女「龍神様があのように落ち着かないご様子を見せられるのは、初めてでございます」

 雫の胸が、僅かに鳴る。
 けれど昨日、人々が自分へ向けた期待の眼差しを思い出し、すぐに気持ちを押し込める。

雫モノローグ「きっと、雨が止まってしまわないか心配なだけ」

【水殿・大広間】
 白い柱が並ぶ広間。
 床の中央には細い水路が通り、透明な水の中を小さな金色の魚が泳いでいる。

 奥の席に龍神が座っていた。
 雫が入ってくると、すぐに顔を上げる。

龍神「よく眠れたか」
雫「……普通です」
龍神「そうか」

 短い会話のあと、微妙な沈黙が流れる。
 雫は龍神の向かいへ座る。
 卓上には、色鮮やかな朝食が並んでいる。

 艶のある白米。
 香ばしく焼かれた川魚。
 薄く切った根菜の煮物。
 蓮の実が浮かぶ澄んだ汁。

 けれど雫は、箸を取らない。
 昨夜からほとんど何も食べていないはずなのに、食欲が湧かなかった。

 龍神が雫の手元を見る。

龍神「口に合わぬか」
雫「そうじゃないです」
龍神「ならば、何だ」

 雫は膝の上で指を組む。

雫「聞きたいことがあります」
龍神「申してみよ」

 雫は真っ直ぐに龍神を見る。

雫「どうして、私だったんですか」

 龍神の金色の瞳が僅かに揺れる。

雫「私をここへ連れてきた理由です」
雫「この国に雨が必要だからですか」

 龍神はしばらく答えない。
 水路を流れる水の音だけが響く。

龍神「……雨を呼ぶ力があったからだ」
雫「……やっぱり、そうなんですね」

 胸の奥が冷えていく。
 わかっていたはずなのに、龍神の口から聞くと苦しかった。

 雫は視線を落とす。

雫「それなら、私じゃなくても」
龍神「だが、それだけではない」

 雫が顔を上げる。

龍神「お前だから呼んだ」
雫「意味がわかりません」
龍神「そうだろうな」
雫「では、説明してください」
龍神「今はまだ話せぬ」
雫「なぜ……?」

 雫の声に、苛立ちが混じる。

雫「雨を降らせるために知らない国へ連れてきておいて、理由は話せないんですか」
龍神「雫」
雫「私のことを知っているような言い方をするのに、何も教えてくれない」

 龍神は言葉を失う。
 雫を見つめる表情は、責められて怒っているようには見えない。
 むしろ、泣き出すのを堪えているようだった。

龍神「話したところで、今のお前には信じてもらえぬだろう」
雫「信じるかどうかは、私が決めます」
龍神「思い出すことが、お前を苦しめるかもしれぬ」
雫「思い出す……?」

 龍神は、これ以上口にしてしまわないように唇を閉じる。
 雫が問い返そうとした時、龍神は箸を取り、焼き魚を一口大に分けた。

龍神「まずは食べよ」
雫「話を逸らさないでください」
龍神「腹が減っていては、よい考えも浮かばぬ」
雫「食欲がありません」

 龍神は少し考え、蓮の実が入った汁椀を雫の前へ寄せる。

龍神「これは好んでいた」
雫「……誰が?」

 龍神の手が止まる。

龍神「いや」

 僅かな間。

龍神「人の口にも合うと聞いた」

 雫は訝しげに龍神を見る。
 それでも、湯気とともに漂う優しい香りに誘われ、椀を手に取る。

 一口飲む。
 柔らかな甘みが舌に広がった瞬間、胸の奥に不思議な懐かしさが込み上げる。
 雫の目から、理由もなく涙が一粒落ちた。

龍神「雫?」
雫「……わかりません」

 雫は慌てて頬を拭う。

雫「どうして、こんな」

 龍神は手を伸ばしかける。
 けれど触れることを躊躇い、その手を静かに下ろした。

【水殿・庭園】
 朝食を終えた雫は、一人で庭園を歩いている。
 考えたいことが多すぎて、部屋に戻る気にはなれなかった。

 雨に濡れた白い石畳。
 水が戻り始めた小川。
 昨日までは枯れかけていた木々にも、鮮やかな緑が蘇りつつある。

 庭園の中央には、大きな蓮池がある。
 まだ水位は低いものの、桃色の花がいくつか開いていた。

 雫は池の縁にしゃがむ。
 花びらの上に溜まった雨粒が、ころりと水面へ落ちる。

少年「雨嫁様!」

 背後から元気な声。
 雫が振り返ると、昨日雨の中を駆け回っていた少年が立っていた。
 両手に、小さな桃色の蓮を抱えている。

少年「これ、あげる!」
雫「私に?」
少年「うん! 昨日まで蕾だったのに、雨嫁様が来たら咲いた!」

 少年は満面の笑みで、雫へ花を差し出す。
 雫は戸惑いながらも受け取る。

雫「ありがとう。綺麗だね」
少年「雨嫁様が咲かせたんだよ!」

 その言葉に、雫の笑顔が僅かに曇る。
 少年は気づかず、池を指さす。

少年「雨嫁様が来てから、お母さんが笑うようになった!」
雫「お母さん?」
少年「水がなくて、ずっと泣いてたんだ。でも昨日は、雨の中でいっぱい笑ってた」

 少年は雫を見上げる。

少年「だから、ありがとう!」

 雫は目を瞬く。
 雨を降らせたことを責められたことは、数えきれないほどある。
 けれど正面から感謝されたことは、一度もなかった。

雫「……どういたしまして」

 雫は花を胸元で抱える。
 少年が嬉しそうに笑う。

 その時。
 風が吹き抜けた。
 蓮の葉が一斉に揺れ、水面に細かな波が立つ。

『りゅうさまー!』

 高く弾む、幼い声。

雫「……え?」

 雫は振り返る。
 桃色の着物を着た小さな少女が、雫の横を駆け抜けていく。
 少女の体は淡く透けている。
 そのまま雫の体をすり抜け、蓮池の向こうへ走っていく。

雫「待って……!」

 視界が白く弾けた。

【記憶の断片】
 今よりも水に満ちた蓮池。
 眩しいほどの青空。
 桃色の着物を着た幼い少女が、裸足で石畳を走っている。

少女『りゅうさまー!』

 池のほとりに立つ銀髪の青年。
 今より少し若い龍神が振り返る。
 少女は勢いよく飛びつき、龍神が慣れた様子で抱き留める。

龍神『また泥だらけではないか』
少女『あめがふったから、たのしかったのですー』
龍神『雨童であるお前には、泥遊びも雨遊びか』

 龍神の声は呆れている。
 けれど、その眼差しは底抜けに優しい。
 少女が龍神の首へ抱きつき、嬉しそうに笑う。

【庭園・現在】
雫「っ、痛……!」

 頭の奥を鋭い痛みが貫く。
 雫は額を押さえ、体をふらつかせる。

少年「雨嫁様!?」

 足元の感覚が消える。
 池へ倒れ込みそうになった雫の体を、伸びてきた腕が抱き留める。

龍神「雫!」

 龍神が雫を胸元へ引き寄せる。
 少年が驚いて固まっている。

龍神「人を呼んでくれ」
少年「は、はい!」

 少年が走り去る。
 龍神は雫の頬へ手を添える。

龍神「何を見た」
雫「女の子が……」

龍神の瞳が大きく揺れる。

雫「小さな女の子が、龍神様に抱きついていて」
龍神「……」
雫「雨童って呼ばれていました」

 龍神の腕に力が入る。
 壊れ物を守るように、雫を強く抱き寄せる。

雫「龍神様?」
龍神「もうよい。今は思い出すな」
雫「でも、あの子は誰なんですか」
龍神「雫」
雫「私と、どんな関係があるんですか」

 龍神は答えない。
 雫の頭を自分の胸元へ抱え込み、視界を遮る。
 心臓の音が聞こえる。

 神なのに。
 龍神の鼓動は、恐れているかのように速かった。

【古い社・夕刻】
 水殿の奥。
 今は誰も立ち入らない、古びた小さな社。
 龍神は一人で、その戸を開く。

 薄暗い室内。
 小さな祭壇の上には、子供用の品々が置かれている。

 銀色の鈴。
 桃色の組紐がついた髪飾り。
 泥の跡が残る小さな草履。
 龍神は祭壇の前へ膝をつく。

 鈴を手に取る。
 ちりん。
 乾いた音が、静かな社に響く。

龍神「もう少し」

 龍神の指が、小さな鈴を包む。

龍神「もう少しだけ、待っていてくれ」

 金色の瞳に、深い後悔が滲む。

龍神「雨童」

【蛇神の祠】
 同じ頃。
 暗い祠の床を、無数の蛇が這っている。
 黒髪の男は、石造りの椅子へ深く腰かけている。
 男の前に、蛇の鱗を持つ配下が跪く。

配下「蛇神様。龍神が人の娘を花嫁として迎えたとの報せが」

蛇神「知っている」
配下「やはり、あの娘が雨童なのでしょうか」
蛇神「だろうな」

 蛇神は、黒い眼帯の上から片目を撫でる。
 爪の先が、眼帯の縁をなぞる。

蛇神「殺してやったというのに」

 口元が歪む。

蛇神「再び現れるとは、生まれ変わっても忌々しい娘だ」
配下「今度こそ、魂まで消してしまわれますか」
蛇神「急ぐな」

 蛇神の眼帯の隙間から、金色の光が漏れる。

蛇神「龍神は、ようやく手に戻った娘を失うことを何より恐れている」
配下「では」
蛇神「奪うならば、最も幸福になった瞬間がよい」

 蛇神は楽しげに笑う。

蛇神「同じ絶望を、もう一度味わわせてやる」

【過去の記憶】
 雨上がりの蓮池。
 幼い雨童が、龍神の膝の上に座っている。
 小さな手で、龍神の長い銀髪を弄んでいる。

雨童『わらし、おおきくなったら』

 雨童が龍神を見上げる。

雨童『かみさまのおよめさまになるー』

 満面の笑み。
 龍神は困ったように眉を下げる。

龍神『童を嫁にはできぬ』
雨童『えー』

 雨童が不満そうに頬を膨らませる。

龍神『だから、待っていてやる』
雨童『ほんとう?』
龍神『ああ。早く大きくおなり』
雨童『おおきくなったら、およめさまにしてくれる?』

 龍神は少し笑い、雨童の頭を撫でる。

龍神『その時も同じことを言うなら、考えよう』
雨童『やくそくだよ!?』
龍神『約束だ』

 雨童が歓声を上げ、龍神へ抱きつく。
 龍神はその小さな体を抱き上げる。
 蓮池の上に、二人の笑い声が響く。

【水殿・雫の部屋・夜】
 雫は寝台の上で眠っている。
 窓の外では、昼よりも少し強い雨が降っていた。
 眉を寄せ、苦しそうに寝返りを打つ。

【夢】
 満開の蓮池。
 桃色の着物を着た少女が、一人で池を眺めている。
 その後ろ姿に、雫は近づく。

雫「あなたは誰?」

 少女がゆっくりと振り返る。
 幼い顔。
 丸い瞳。
 けれど、その顔立ちは雫によく似ている。

少女『やっとあえた』
雫「私に……?」

 少女が笑う。

少女『りゅうさまにも』

 少女の瞳から、涙が零れる。

少女『やっと、あえた』

 少女の姿と雫の姿が重なる。

【水殿・雫の部屋】
雫「っ……!」

 雫が飛び起きる。
 激しく胸が鳴っている。
 頬を、一筋の涙が伝う。

雫「今の子……」

 胸元を強く押さえる。

雫「私……?」

 雨脚が強くなる。
 窓を打つ雨音に気づき、部屋の戸が勢いよく開く。
 龍神が入ってくる。

龍神「雫!」

 雫は龍神の姿を見つめる。
 考えるより先に、唇が動いた。

雫「……りゅうさま」

 龍神が息を呑む。
 雫自身も、自分が口にした呼び名に目を見開く。

 雨音だけが、二人の間に響く。
 龍神の金色の瞳が、泣きそうに揺れた。