【水の回廊】
眩しい光に包まれ、雫は反射的に目を閉じる。
耳元で響いていた激しい雨音が、遠ざかっていく。
代わりに聞こえてきたのは、水が静かに流れる音だった。
恐る恐る目を開く。
そこは、先ほどまでいた神社の池ではない。
青白い光を放つ水路が、暗闇の中をどこまでも延びている。
頭上には無数の水晶が垂れ下がり、内側から淡く光っていた。水面に映り込んだ灯りが揺れ、辺り一面を幻想的に照らしている。
雫は、自分がまだ銀髪の男に抱き上げられていることに気づく。
雫「……ここ、どこ……?」
男は足を止めることなく、青白い空間を進んでいく。
龍神「龍神である私が統べる国、龍国へ続く道だ」
雫「……りゅうこく?」
龍神「人の世とは水境によって隔てられた、我ら神々と眷属が暮らす国だ」
雫は周囲を見回す。
水路の中を歩いているのだと思っていた。
けれど、足元をよく見ると、龍神の足は地面にも水面にも触れていない。
雫を抱えたまま、何もない空中を歩いている。
雫「お、降ろしてください!」
龍神「嫌だ」
あまりに迷いのない返答に、雫は目を瞬く。
雫「なんで!?」
龍神「離したら逃げるだろう」
雫「逃げます!」
龍神「正直でよろしい」
雫「知らない人にいきなり連れてこられたら、普通は逃げます!」
龍神「知らない人、か……」
龍神は少しだけ目を伏せる。
金色の瞳に一瞬、寂しげな色が浮かんだ。
しかし雫がそれに気づくより早く、龍神は前方へ視線を戻す。
龍神「それでも、今は降ろせぬ」
雫「どうしてですか!」
龍神「ここで降ろせば、お前は真っ逆さまだぞ」
雫「へぁっ!?」
雫は反射的に足元を覗き込む。
青白い水路だと思っていたものは、遥か下に流れる巨大な川だった。
二人がいるのは雲よりも高い空中。
足元には何もない。
雫の顔から血の気が引く。
慌てて龍神の首へ腕を回し、胸元へしがみつく。
雫「む、無理! 落ちる! 落ちます!」
龍神「落とさぬ」
雫「絶対ですか!?」
龍神「ああ」
龍神は、しがみつく雫を見下ろす。
口元にほんの少し笑みが浮かんだ。
龍神「ふっ。相変わらずで、少し安心した」
雫「……相変わらず?」
雫が顔を上げる。
けれど龍神は答えず、空の先を見つめている。
雫の胸の奥で、小さな違和感が残った。
【龍国への門】
やがて、二人の前に巨大な門が現れる。
空中に浮かぶ白い門。
柱には、水の中を泳ぐ龍の姿が精巧に彫られている。
龍神が近づくと、閉ざされていた扉が音もなく開いた。
強い光が溢れる。
雫は眩しさに目を細める。
光の向こうに広がっていたのは、見たこともない異世界だった。
白くそびえる宮殿。
水路によって結ばれた街。
遠くには青い山々と、幾重にも重なる滝。
本来なら、水に満ちた美しい国なのだろう。
けれど、今の姿は雫が想像した神の国とは大きく違っていた。
雫「これ……」
大地には深い亀裂が走っている。
川底は露出し、わずかな水が細く流れるだけ。
庭園に作られた蓮池も干上がり、枯れた葉が泥の上に折り重なっている。
街の建物には輝きがなく、道を歩く人々の顔にも疲労が滲んでいた。
雫「……龍神って、水の神様なのに?」
龍神「だから困っている」
雫「どういうこと?」
龍神「水の神だからといって、何もない場所から無限に水を生み出せるわけではない。天と地を巡る水の流れが絶たれれば、私の力だけでは国全体を潤せぬ」
龍神の声が低くなる。
龍神「長い間、この国には雨が降っていない」
雫は眼下の街を見下ろす。
龍神の国と聞いて、豪華で豊かな場所を想像していた。
けれど、目の前にあるのは、雨を待ち続けて疲れ果てた国だった。
【水殿・屋上】
龍神は、街の中央に建つ大きな宮殿へ向かう。
水をかたどった屋根飾り。
龍の彫刻が巻きついた白い柱。
宮殿の屋上へ降り立つと、龍神は雫を壊れ物のようにそっと地面へ降ろした。
ようやく足が床に触れ、雫は小さく息を吐く。
雫「本当に落とさなかった……」
龍神「落とさぬと言っただろう」
雫「だって、急に池から出てきた人の言うことなんて……」
龍神「神だ」
雫「神様でも、信用できるかは別です」
龍神「手厳しいな」
龍神が苦笑する。
その時。
雫の頬に、冷たいものが触れた。
雫「……え?」
空を見上げる。
灰色がかった雲から、一粒の雨が落ちてくる。
ぽつり。
もう一粒。
ぽたり。
白い床へ丸い染みが広がる。
龍神も、ゆっくりと空を仰ぐ。
龍神「雨だ」
その声音は、雫が初めて聞くほど震えていた。
雨粒は少しずつ数を増やし、やがて優しい霧雨となって龍国全体を包んでいく。
【龍国の街】
道を歩いていた民たちが足を止める。
頬に触れた雨粒を、信じられないように指でなぞる老人。
老人「雨だ……」
水瓶を抱えていた女が空を見上げる。
女「雨が降っている……!」
子供たちが歓声を上げ、両手を広げながら雨の中へ駆け出していく。
子供「ほんとだ!」
子供「冷たい!」
子供「雨だー!」
窓という窓が開き、人々が顔を覗かせる。
雨に濡れることも構わず、通りへ飛び出してくる。
枯れた大地が、雨を吸い込んでいく。
ひび割れていた土が少しずつ湿り、乾ききっていた草木が雨粒を受けて揺れる。
細かった川の流れが、わずかに勢いを取り戻す。
遠くに見える蓮池にも水が溜まり始め、泥の中で閉じていた蕾がゆっくりと頭を持ち上げる。
人々は空と、水殿の屋上に立つ雫を交互に見る。
民「雨嫁様だ!」
民「龍神様が、ついに花嫁を見つけてくださった!」
民「雨嫁様が雨を連れてきてくださったぞ!」
人々が次々とその場に膝をつく。
両手を合わせ、涙を流す者もいる。
民「ありがたや……!」
民「これで国が救われる!」
民「雨嫁様、どうか我らに雨を!」
四方から向けられる期待に満ちた視線。
雫は圧倒され、一歩後ずさる。
現代では、雫が雨を連れてくるたびに嫌な顔をされた。
傘を差しながら睨まれた。
行事が中止になるたび、謝るよう求められた。
ここでは、同じ雨を見て、人々が笑っている。
涙を流して喜んでいる。
雫モノローグ「なに、これ……?」
嬉しいはずだった。
自分の雨で、誰かが救われている。
初めて雨を喜んでもらえた。
それなのに。
雫の胸は、細い糸で締めつけられたように苦しい。
一人の幼い子供が、母親の手を引いて雫を指さす。
子供「お母さん、あの人がいれば、ずっと雨が降るの?」
母親「こら。雨嫁様を指さしてはいけません」
子供「雨を出す人なんでしょ?」
子供に悪意はない。
純粋な期待に満ちた目で、雫を見上げている。
雫の表情が僅かに曇る。
雫モノローグ「みんな、喜んでいるのに」
雫モノローグ「どうして私は、苦しいんだろう」
龍神が、雫の前へ一歩出る。
民たちから隠すように立ち、その視線を遮った。
龍神「今日はここまでだ」
民「ですが、龍神様――」
龍神「雨嫁は人の世から来たばかりだ。休ませる」
静かな声だった。
けれど逆らうことを許さない威厳がある。
人々は一斉に頭を下げる。
民「承知いたしました」
龍神は雫を振り返る。
龍神「行こう」
雫「どこへ?」
龍神「お前の部屋だ」
雫「私の部屋があるの?」
龍神「長く待っていたからな」
その言葉に、雫は思わず龍神を見る。
けれど龍神は、それ以上何も説明しなかった。
【水殿・雫の部屋】
広い部屋。
壁には水面を思わせる青い布が垂れ、窓の外には雨に濡れる蓮池が広がっている。
柔らかな寝台。
水晶の灯り。
花の香りが漂う湯殿。
部屋へ通された雫の前に、数人の侍女が並んで頭を下げる。
侍女「お待ち申し上げておりました、雨嫁様」
雫「待ってた……?」
侍女「どうぞ、こちらへ」
返事をする間もなく、雫は侍女たちに囲まれる。
冷えた体を温かい湯で洗われ、濡れた制服から着物へ着替えさせられる。
白を基調とした柔らかな着物。
裾には銀糸で雨粒と蓮の花が刺繍されている。
長い髪も丁寧に乾かされ、淡い水色の組紐で結い上げられた。
鏡に映る自分は、今朝までの雫とは別人のようだった。
侍女「お支度ができました」
侍女が満足そうに微笑む。
侍女「よくお似合いでございます、雨嫁様」
雫「……また、その呼び方」
侍女「お気に召しませんか?」
雫「まだ、花嫁になるって決めてません」
侍女たちが顔を見合わせる。
困ったように眉を下げるものの、誰も怒りはしない。
侍女「龍神様がどれほど長く、雨嫁様をお待ちになっていたか……」
雫「私を?」
侍女「はい」
雫「どうして?」
雫が尋ねた瞬間、年長の侍女が他の者を制するように視線を向ける。
侍女「それは、龍神様ご自身からお聞きになるべきかと存じます」
侍女たちは一礼し、部屋から出ていく。
扉が閉まり、雫は一人になる。
【水殿・夜】
窓の外では、まだ静かな雨が降っている。
水面に幾重もの波紋が広がり、開きかけた蓮の花が淡い光をまとっていた。
雫は窓辺に座り、膝を抱える。
現代では、雨女と呼ばれた。
ここでは、雨嫁と呼ばれる。
雫モノローグ「ここでは、私を必要としてくれるの……?」
人々が雫を見上げた顔を思い出す。
喜び。
感謝。
そして、雨への期待。
雫「それでも……」
雫は膝へ顔を伏せる。
雫「結局、どこへ行っても、見られているのは私じゃない」
声が震える。
雫「雨だけなんだ」
【部屋の外】
襖の向こう。
雫の様子を見に来ていた龍神が、静かに立っている。
手には、温かな湯気が立つ椀。
人の世から来た雫でも口にしやすいようにと用意させた、素朴な粥だった。
龍神は雫の言葉を聞き、襖へ伸ばしかけた手を止める。
龍神「……そうか」
金色の瞳を伏せる。
龍神「雨だけではない」
小さく呟く。
龍神「私は……」
その先を言葉にできないまま、龍神は椀を侍女へ渡す。
龍神「冷めぬうちに、あの子へ」
侍女「龍神様からだとお伝えいたしますか?」
龍神は少し迷う。
龍神「いや」
雫の部屋をもう一度見つめる。
龍神「今は、休ませてやれ」
【龍国から離れた祠】
龍神の宮殿から遠く離れた、深い森。
雨の届かない洞窟の奥に、古びた祠がある。
柱には無数の蛇が絡みつき、床には脱ぎ捨てられた蛇の皮が重なっている。
暗闇の中。
一人の男が目を開く。
濡れたように艶のある黒髪。
片目を覆う黒い眼帯。
白い頬には、人ならざる美しさと冷たさが宿っている。
男の足元で、一匹の蛇が鎌首をもたげる。
蛇の瞳に、水殿へ降る雨の光景が映り込んでいた。
男「見つかったか」
男は眼帯の上から片目を押さえる。
男「雨童」
眼帯の隙間から、金色の光が漏れる。
縦に裂けた蛇の瞳。
かつて奪われた片目の傷が、鈍く疼く。
男「殺してやったというのに」
男の口元に、歪んだ笑みが浮かぶ。
男「また龍神のもとへ戻るとはな」
周囲の蛇たちが一斉に身をくねらせる。
男は龍国の方角を見つめ、憎悪を滲ませる。
男「龍神め……」
暗い祠の中。
金色の蛇の目だけが、妖しく輝いた。
眩しい光に包まれ、雫は反射的に目を閉じる。
耳元で響いていた激しい雨音が、遠ざかっていく。
代わりに聞こえてきたのは、水が静かに流れる音だった。
恐る恐る目を開く。
そこは、先ほどまでいた神社の池ではない。
青白い光を放つ水路が、暗闇の中をどこまでも延びている。
頭上には無数の水晶が垂れ下がり、内側から淡く光っていた。水面に映り込んだ灯りが揺れ、辺り一面を幻想的に照らしている。
雫は、自分がまだ銀髪の男に抱き上げられていることに気づく。
雫「……ここ、どこ……?」
男は足を止めることなく、青白い空間を進んでいく。
龍神「龍神である私が統べる国、龍国へ続く道だ」
雫「……りゅうこく?」
龍神「人の世とは水境によって隔てられた、我ら神々と眷属が暮らす国だ」
雫は周囲を見回す。
水路の中を歩いているのだと思っていた。
けれど、足元をよく見ると、龍神の足は地面にも水面にも触れていない。
雫を抱えたまま、何もない空中を歩いている。
雫「お、降ろしてください!」
龍神「嫌だ」
あまりに迷いのない返答に、雫は目を瞬く。
雫「なんで!?」
龍神「離したら逃げるだろう」
雫「逃げます!」
龍神「正直でよろしい」
雫「知らない人にいきなり連れてこられたら、普通は逃げます!」
龍神「知らない人、か……」
龍神は少しだけ目を伏せる。
金色の瞳に一瞬、寂しげな色が浮かんだ。
しかし雫がそれに気づくより早く、龍神は前方へ視線を戻す。
龍神「それでも、今は降ろせぬ」
雫「どうしてですか!」
龍神「ここで降ろせば、お前は真っ逆さまだぞ」
雫「へぁっ!?」
雫は反射的に足元を覗き込む。
青白い水路だと思っていたものは、遥か下に流れる巨大な川だった。
二人がいるのは雲よりも高い空中。
足元には何もない。
雫の顔から血の気が引く。
慌てて龍神の首へ腕を回し、胸元へしがみつく。
雫「む、無理! 落ちる! 落ちます!」
龍神「落とさぬ」
雫「絶対ですか!?」
龍神「ああ」
龍神は、しがみつく雫を見下ろす。
口元にほんの少し笑みが浮かんだ。
龍神「ふっ。相変わらずで、少し安心した」
雫「……相変わらず?」
雫が顔を上げる。
けれど龍神は答えず、空の先を見つめている。
雫の胸の奥で、小さな違和感が残った。
【龍国への門】
やがて、二人の前に巨大な門が現れる。
空中に浮かぶ白い門。
柱には、水の中を泳ぐ龍の姿が精巧に彫られている。
龍神が近づくと、閉ざされていた扉が音もなく開いた。
強い光が溢れる。
雫は眩しさに目を細める。
光の向こうに広がっていたのは、見たこともない異世界だった。
白くそびえる宮殿。
水路によって結ばれた街。
遠くには青い山々と、幾重にも重なる滝。
本来なら、水に満ちた美しい国なのだろう。
けれど、今の姿は雫が想像した神の国とは大きく違っていた。
雫「これ……」
大地には深い亀裂が走っている。
川底は露出し、わずかな水が細く流れるだけ。
庭園に作られた蓮池も干上がり、枯れた葉が泥の上に折り重なっている。
街の建物には輝きがなく、道を歩く人々の顔にも疲労が滲んでいた。
雫「……龍神って、水の神様なのに?」
龍神「だから困っている」
雫「どういうこと?」
龍神「水の神だからといって、何もない場所から無限に水を生み出せるわけではない。天と地を巡る水の流れが絶たれれば、私の力だけでは国全体を潤せぬ」
龍神の声が低くなる。
龍神「長い間、この国には雨が降っていない」
雫は眼下の街を見下ろす。
龍神の国と聞いて、豪華で豊かな場所を想像していた。
けれど、目の前にあるのは、雨を待ち続けて疲れ果てた国だった。
【水殿・屋上】
龍神は、街の中央に建つ大きな宮殿へ向かう。
水をかたどった屋根飾り。
龍の彫刻が巻きついた白い柱。
宮殿の屋上へ降り立つと、龍神は雫を壊れ物のようにそっと地面へ降ろした。
ようやく足が床に触れ、雫は小さく息を吐く。
雫「本当に落とさなかった……」
龍神「落とさぬと言っただろう」
雫「だって、急に池から出てきた人の言うことなんて……」
龍神「神だ」
雫「神様でも、信用できるかは別です」
龍神「手厳しいな」
龍神が苦笑する。
その時。
雫の頬に、冷たいものが触れた。
雫「……え?」
空を見上げる。
灰色がかった雲から、一粒の雨が落ちてくる。
ぽつり。
もう一粒。
ぽたり。
白い床へ丸い染みが広がる。
龍神も、ゆっくりと空を仰ぐ。
龍神「雨だ」
その声音は、雫が初めて聞くほど震えていた。
雨粒は少しずつ数を増やし、やがて優しい霧雨となって龍国全体を包んでいく。
【龍国の街】
道を歩いていた民たちが足を止める。
頬に触れた雨粒を、信じられないように指でなぞる老人。
老人「雨だ……」
水瓶を抱えていた女が空を見上げる。
女「雨が降っている……!」
子供たちが歓声を上げ、両手を広げながら雨の中へ駆け出していく。
子供「ほんとだ!」
子供「冷たい!」
子供「雨だー!」
窓という窓が開き、人々が顔を覗かせる。
雨に濡れることも構わず、通りへ飛び出してくる。
枯れた大地が、雨を吸い込んでいく。
ひび割れていた土が少しずつ湿り、乾ききっていた草木が雨粒を受けて揺れる。
細かった川の流れが、わずかに勢いを取り戻す。
遠くに見える蓮池にも水が溜まり始め、泥の中で閉じていた蕾がゆっくりと頭を持ち上げる。
人々は空と、水殿の屋上に立つ雫を交互に見る。
民「雨嫁様だ!」
民「龍神様が、ついに花嫁を見つけてくださった!」
民「雨嫁様が雨を連れてきてくださったぞ!」
人々が次々とその場に膝をつく。
両手を合わせ、涙を流す者もいる。
民「ありがたや……!」
民「これで国が救われる!」
民「雨嫁様、どうか我らに雨を!」
四方から向けられる期待に満ちた視線。
雫は圧倒され、一歩後ずさる。
現代では、雫が雨を連れてくるたびに嫌な顔をされた。
傘を差しながら睨まれた。
行事が中止になるたび、謝るよう求められた。
ここでは、同じ雨を見て、人々が笑っている。
涙を流して喜んでいる。
雫モノローグ「なに、これ……?」
嬉しいはずだった。
自分の雨で、誰かが救われている。
初めて雨を喜んでもらえた。
それなのに。
雫の胸は、細い糸で締めつけられたように苦しい。
一人の幼い子供が、母親の手を引いて雫を指さす。
子供「お母さん、あの人がいれば、ずっと雨が降るの?」
母親「こら。雨嫁様を指さしてはいけません」
子供「雨を出す人なんでしょ?」
子供に悪意はない。
純粋な期待に満ちた目で、雫を見上げている。
雫の表情が僅かに曇る。
雫モノローグ「みんな、喜んでいるのに」
雫モノローグ「どうして私は、苦しいんだろう」
龍神が、雫の前へ一歩出る。
民たちから隠すように立ち、その視線を遮った。
龍神「今日はここまでだ」
民「ですが、龍神様――」
龍神「雨嫁は人の世から来たばかりだ。休ませる」
静かな声だった。
けれど逆らうことを許さない威厳がある。
人々は一斉に頭を下げる。
民「承知いたしました」
龍神は雫を振り返る。
龍神「行こう」
雫「どこへ?」
龍神「お前の部屋だ」
雫「私の部屋があるの?」
龍神「長く待っていたからな」
その言葉に、雫は思わず龍神を見る。
けれど龍神は、それ以上何も説明しなかった。
【水殿・雫の部屋】
広い部屋。
壁には水面を思わせる青い布が垂れ、窓の外には雨に濡れる蓮池が広がっている。
柔らかな寝台。
水晶の灯り。
花の香りが漂う湯殿。
部屋へ通された雫の前に、数人の侍女が並んで頭を下げる。
侍女「お待ち申し上げておりました、雨嫁様」
雫「待ってた……?」
侍女「どうぞ、こちらへ」
返事をする間もなく、雫は侍女たちに囲まれる。
冷えた体を温かい湯で洗われ、濡れた制服から着物へ着替えさせられる。
白を基調とした柔らかな着物。
裾には銀糸で雨粒と蓮の花が刺繍されている。
長い髪も丁寧に乾かされ、淡い水色の組紐で結い上げられた。
鏡に映る自分は、今朝までの雫とは別人のようだった。
侍女「お支度ができました」
侍女が満足そうに微笑む。
侍女「よくお似合いでございます、雨嫁様」
雫「……また、その呼び方」
侍女「お気に召しませんか?」
雫「まだ、花嫁になるって決めてません」
侍女たちが顔を見合わせる。
困ったように眉を下げるものの、誰も怒りはしない。
侍女「龍神様がどれほど長く、雨嫁様をお待ちになっていたか……」
雫「私を?」
侍女「はい」
雫「どうして?」
雫が尋ねた瞬間、年長の侍女が他の者を制するように視線を向ける。
侍女「それは、龍神様ご自身からお聞きになるべきかと存じます」
侍女たちは一礼し、部屋から出ていく。
扉が閉まり、雫は一人になる。
【水殿・夜】
窓の外では、まだ静かな雨が降っている。
水面に幾重もの波紋が広がり、開きかけた蓮の花が淡い光をまとっていた。
雫は窓辺に座り、膝を抱える。
現代では、雨女と呼ばれた。
ここでは、雨嫁と呼ばれる。
雫モノローグ「ここでは、私を必要としてくれるの……?」
人々が雫を見上げた顔を思い出す。
喜び。
感謝。
そして、雨への期待。
雫「それでも……」
雫は膝へ顔を伏せる。
雫「結局、どこへ行っても、見られているのは私じゃない」
声が震える。
雫「雨だけなんだ」
【部屋の外】
襖の向こう。
雫の様子を見に来ていた龍神が、静かに立っている。
手には、温かな湯気が立つ椀。
人の世から来た雫でも口にしやすいようにと用意させた、素朴な粥だった。
龍神は雫の言葉を聞き、襖へ伸ばしかけた手を止める。
龍神「……そうか」
金色の瞳を伏せる。
龍神「雨だけではない」
小さく呟く。
龍神「私は……」
その先を言葉にできないまま、龍神は椀を侍女へ渡す。
龍神「冷めぬうちに、あの子へ」
侍女「龍神様からだとお伝えいたしますか?」
龍神は少し迷う。
龍神「いや」
雫の部屋をもう一度見つめる。
龍神「今は、休ませてやれ」
【龍国から離れた祠】
龍神の宮殿から遠く離れた、深い森。
雨の届かない洞窟の奥に、古びた祠がある。
柱には無数の蛇が絡みつき、床には脱ぎ捨てられた蛇の皮が重なっている。
暗闇の中。
一人の男が目を開く。
濡れたように艶のある黒髪。
片目を覆う黒い眼帯。
白い頬には、人ならざる美しさと冷たさが宿っている。
男の足元で、一匹の蛇が鎌首をもたげる。
蛇の瞳に、水殿へ降る雨の光景が映り込んでいた。
男「見つかったか」
男は眼帯の上から片目を押さえる。
男「雨童」
眼帯の隙間から、金色の光が漏れる。
縦に裂けた蛇の瞳。
かつて奪われた片目の傷が、鈍く疼く。
男「殺してやったというのに」
男の口元に、歪んだ笑みが浮かぶ。
男「また龍神のもとへ戻るとはな」
周囲の蛇たちが一斉に身をくねらせる。
男は龍国の方角を見つめ、憎悪を滲ませる。
男「龍神め……」
暗い祠の中。
金色の蛇の目だけが、妖しく輝いた。



