【新幹線・車内】
窓を叩きつけるような豪雨。
灰色に濁った空の下、無数の雨粒が斜めに流れ、車窓の向こうの景色を塗り潰している。昼前だというのに外は薄暗く、遠くの山並みも、すぐそばを通り過ぎる建物も、白い雨煙の中へ消えていく。
修学旅行中の生徒たちが乗る車内では、スマートフォンの警報音が次々と鳴った。
画面に表示されているのは、『線状降水帯発生』の文字。
新幹線の電光掲示板にも、赤い文字が流れる。
『大雨特別警報が発表されています。今後の運行情報にご注意ください』
生徒A「うわ……」
生徒B「また?」
生徒C「マジかよ。さっきまで小雨だったじゃん」
車内のざわめきが大きくなる。
誰かが窓の外を撮影し、天気図の画面と並べて友人に見せる。
生徒D「見て。雨雲、新幹線についてきてない?」
生徒B「やば。ホラーじゃん」
生徒A「いや、原因わかってるでしょ」
その言葉を合図にしたように、いくつもの視線が一箇所へ集まった。
窓際の二人掛け座席。
隣の席だけが空いたままになっている場所で、雨宮雫は膝の上に両手を置き、小さく身を縮めている。
制服のスカートを握った指先が白くなっていた。
雫モノローグ「また、私のせいになった」
雫が雨を望んだわけではない。
朝、家を出たときには薄い雲が広がっているだけだった。天気予報にも、小さな傘の印さえなかった。
それでも、新幹線が進むにつれて雨は強くなった。
まるで雫を追いかけているかのように。
【過去回想】
小学校の運動会。
色とりどりの万国旗が激しい雨に打たれ、校庭には大きな水溜まりができている。
『本日の運動会は延期します』
校内放送を聞いた児童たちが、教室で不満の声を上げる。
クラスメイト「また雨宮さんがいるからじゃん」
遠足の日。
土砂降りの中、傘を差して駅へ引き返す児童たち。
クラスメイト「雨女、来ないでよ」
文化祭。
強風を伴う雨で屋外企画がすべて中止になり、廊下に運び込まれる濡れた看板。
入学式も、卒業式も雨。
誕生日に家族で出かけた遊園地も、突然の雷雨で閉園となった。
ランドセルを背負った幼い雫が、玄関先で濡れた靴を見つめている。
雫「ごめんなさい……」
母「また雨……」
母は窓の外を見たまま、雫には顔を向けない。
父「どうして、雫がいる日はこうなるんだ」
晴香が母の袖をつかむ。
晴香「せっかく楽しみにしてたのに」
母「晴香は悪くないわ」
母は晴香の頭だけを撫でる。
雫には、誰も触れない。
クラスメイト「雨女」
クラスメイト「災い」
クラスメイト「今度の行事、休んでよ」
雫モノローグ「私がいると雨が降る」
雫モノローグ「ずっと、そう言われ続けてきた」
【新幹線・車内】
教師が慌ただしく通路を進んでくる。
手には、旅行会社から渡されたらしい資料とスマートフォン。
担任「みんな、静かにしてください。予定変更です」
ざわめきが止まる。
担任「豪雨の影響で、駅から昼食会場までの道路が通行止めになりました。予約していた店には行けません」
生徒たち「えー!」
生徒A「嘘でしょ!?」
生徒B「今日の昼、一番楽しみにしてたのに!」
担任「昼食は、駅で受け取る駅弁に変更します」
悲鳴にも似たブーイングが車内に広がる。
生徒C「京都の湯豆腐御膳、写真まで調べたのに」
生徒D「駅弁なんて帰りでも食べられるじゃん」
生徒B「最悪」
生徒A「まあ、雨だからね」
生徒Aが、わざとらしく雫へ視線を向ける。
生徒A「誰かさんのおかげで」
周囲から小さな笑いが漏れる。
雫は俯いたまま、窓に流れる雨粒を見つめる。
雫モノローグ「私だって、楽しみにしていた」
どんな料理が出るのか、昨夜こっそり店の公式サイトを見た。
湯気の立つ湯豆腐。季節の野菜を使った炊き合わせ。小さな器に盛られた胡麻豆腐。
けれど、そんなことを口にすれば、さらに笑われるだけだ。
【駅弁配布後・車内】
車内に、醤油と揚げ物の匂いが広がっている。
生徒たちは座席を向かい合わせにし、友人同士で駅弁を見せ合っていた。
晴香の周囲には、何人もの女子が集まっている。
雫とよく似た顔。
けれど晴香の髪は明るく巻かれ、頬には薄い桃色が差している。制服の着こなしも華やかで、いつも誰かの輪の中心にいる。
生徒A「晴香は悪くないんだからね。海老食べて元気出して?」
女子生徒が、自分の弁当から海老の天ぷらを晴香の容器へ入れる。
晴香「えー、いいの?」
生徒B「私の唐揚げもいる?」
晴香「もう、そんなに食べたら太っちゃうよ」
生徒C「晴香は細いから平気だって」
生徒A「むしろ食べなさすぎ!」
晴香「じゃあ、一個だけもらおうかな」
楽しげな笑い声。
箸で唐揚げを受け取る晴香を見て、女子たちが口々に褒める。
生徒A「晴香、ほんといい子だよね」
生徒B「お姉さんがあれなのに」
生徒C「私なら病む。家族旅行も学校行事も、ずっと雨なんでしょ?」
晴香「もう、みんな言いすぎだよ」
晴香は困ったように笑う。
けれど、雫を庇うために声を強めることはない。
生徒A「だって、修学旅行までこれだよ?」
生徒B「晴香が一番かわいそうじゃん」
晴香「まあ……慣れてるから」
生徒C「偉い!」
生徒A「私なら絶対無理」
晴香「仕方ないよ。お姉ちゃんだし」
女子たちは感心したように晴香を見つめる。
その輪から離れた窓際で、雫は配られた駅弁を見下ろしていた。
赤い紐が十字にかけられた包み。
指を紐へかける。
ほどこうとして、動きを止める。
喉の奥が固く詰まり、弁当の匂いだけで胃が重くなった。
雫は紐を握り締める。
指先に食い込むほど強く。
雫モノローグ「私も楽しみにしていた……修学旅行を」
ぽたり。
包み紙の上へ、涙が一粒落ちた。
雫は誰にも見られないよう、急いで袖で頬を拭う。
【龍神社・午後】
新幹線を降りたあとも、雨は弱まらなかった。
生徒たちは傘を寄せ合いながら、修学旅行最初の見学先である龍神社へ向かう。
山の中腹に建つ古い神社。
苔むした石段。
雨に濡れた石灯籠。
巨大な鳥居の奥には、深い緑に覆われた境内が広がっている。
軒先や柱には、波や龍をかたどった彫刻が施されていた。
晴香たちは一つの傘に身を寄せ、楽しげに写真を撮っている。
生徒A「待って、雨すごすぎ。前髪終わった」
晴香「私も巻き取れちゃった」
生徒B「晴香は何しても可愛いから大丈夫」
雫は少し離れたところで、一人傘を差している。
傘の縁から落ちた雨水が、制服の肩を濡らしていた。
鳥居の前では、白い装束をまとった宮司が一行を出迎えている。
宮司「足元が滑りやすくなっております。どうぞお気をつけください」
雫が鳥居をくぐる。
その瞬間。
境内の空気が微かに震えた。
誰も使っていなかった手水舎から、水音がする。
ぽたり。
ぽたり。
乾いていた龍の口から透明な水がこぼれ落ち、やがて細い流れとなって水盤を満たしていく。
生徒C「え、さっき水出てなかったよね?」
生徒D「センサー式?」
生徒たちは不思議そうに手水舎を覗き込む。
宮司だけが、息を呑んで雫を見ている。
宮司「まさか……」
雫はその声に気づかず、傘を閉じて境内へ進んでいく。
社殿の奥。
巨大な龍の像の金色の目に、雨粒が宿った。
【境内見学】
教師の説明を聞きながら、生徒たちは境内を見て回る。
晴香の周囲には、相変わらず女子たちが集まっている。
社務所の前に並ぶ、恋愛成就のお守り。
生徒A「晴香、これ買いなよ」
晴香「恋愛成就?」
生徒B「絶対すぐ彼氏できるって」
生徒C「晴香なら龍神様にも気に入られそう」
晴香「もう、みんな気が早いんだから」
晴香が笑うと、周囲もつられて笑う。
雫は少し離れた場所から、その様子を見ていた。
同じ顔。
同じ日に生まれた双子。
それなのに、晴香の周りにはいつも人がいる。
雫の隣には、誰も来ない。
雫は笑い声を背に、その場を離れる。
【神社裏の池・夕暮れ】
境内の奥へ進むにつれ、人の声が遠ざかっていく。
雨に濡れた木々の匂い。
葉から落ちる雫の音。
やがて雫は、古い池のほとりへ辿り着く。
灰色の空を映した水面に、雨粒が無数の波紋を作っている。
雫は傘を閉じる。
冷たい雨が髪や頬を濡らしていく。
雫「どうして……」
喉が震える。
雫「私だって……」
握った拳を胸元へ押し当てる。
雫「普通でいたかっただけなのに」
家族に愛されたかった。
晴香と同じように、友達と笑いたかった。
行事を楽しみにしても、責められずに済む自分でいたかった。
雫「私がいなくなれば、みんな喜ぶのかな……」
涙が頬を伝う。
雨に紛れた一粒が、池へ落ちた。
その瞬間。
雫の足元から、青白い光を帯びた波紋が広がる。
雫「……え?」
波紋は池の端まで届き、今度は中心へ向かって戻っていく。
水面が激しく揺れた。
地の底から響くような低い音。
池の中央から巨大な水柱が立ち上がる。
その中で、長い龍の影が身をくねらせた。
雫は足を後ろへ引く。
けれど、逃げることができない。
光に照らされた水柱の中から、一人の男が現れる。
腰まで届く銀色の髪。
雨雲を切り裂く光のような金色の瞳。
白銀の衣に施された、水と龍の刺繍。
人ではないと一目でわかるほど、美しく、神々しい男。
男は雫を見つめた。
驚きも、迷いもない。
長い年月、たった一人を探し続け、ようやく見つけたかのように。
慈しみと、安堵と、痛みにも似た感情を宿した眼差し。
龍神「ようやく見つけた」
雫の胸が強く鳴る。
雫「だれ……?」
龍神はゆっくりと雫へ近づく。
濡れた頬へ手を伸ばし、指先で雨粒を拭う。
龍神「長かった」
その声を聞いた瞬間、雫の胸の奥に説明のつかない懐かしさが広がった。
雫「私を……知ってるの?」
龍神は答えず、雫の膝裏と背中へ腕を回す。
軽々と抱き上げられ、雫は驚いて龍神の胸元へしがみつく。
雫「きゃっ……!」
【池へ続く道】
少し離れた木陰。
忘れ物を取りに戻った晴香が、その光景を見ていた。
池の青白い光。
雫を抱き上げる、美しすぎる男。
雫だけへ注がれる、優しく熱を帯びた眼差し。
晴香は息をすることも忘れ、目を見開く。
晴香「……え?」
龍神は晴香の存在には気づかない。
腕の中の雫だけを見て、淡く微笑む。
龍神「私の雨嫁」
池から溢れた光が二人を包む。
雫が声を上げる間もなく、龍神とともに光の中へ消えていく。
次の瞬間。
池は何事もなかったように静まり返った。
雨音だけが残る。
晴香は、その場から一歩も動けない。
これまで選ばれるのは、いつも自分だった。
家族にも。
友人にも。
誰もが、雫ではなく晴香を選んだ。
けれど、あの神だけは。
晴香ではなく、雫を選んだ。
雨の向こうで、晴香の瞳が大きく揺れた。
窓を叩きつけるような豪雨。
灰色に濁った空の下、無数の雨粒が斜めに流れ、車窓の向こうの景色を塗り潰している。昼前だというのに外は薄暗く、遠くの山並みも、すぐそばを通り過ぎる建物も、白い雨煙の中へ消えていく。
修学旅行中の生徒たちが乗る車内では、スマートフォンの警報音が次々と鳴った。
画面に表示されているのは、『線状降水帯発生』の文字。
新幹線の電光掲示板にも、赤い文字が流れる。
『大雨特別警報が発表されています。今後の運行情報にご注意ください』
生徒A「うわ……」
生徒B「また?」
生徒C「マジかよ。さっきまで小雨だったじゃん」
車内のざわめきが大きくなる。
誰かが窓の外を撮影し、天気図の画面と並べて友人に見せる。
生徒D「見て。雨雲、新幹線についてきてない?」
生徒B「やば。ホラーじゃん」
生徒A「いや、原因わかってるでしょ」
その言葉を合図にしたように、いくつもの視線が一箇所へ集まった。
窓際の二人掛け座席。
隣の席だけが空いたままになっている場所で、雨宮雫は膝の上に両手を置き、小さく身を縮めている。
制服のスカートを握った指先が白くなっていた。
雫モノローグ「また、私のせいになった」
雫が雨を望んだわけではない。
朝、家を出たときには薄い雲が広がっているだけだった。天気予報にも、小さな傘の印さえなかった。
それでも、新幹線が進むにつれて雨は強くなった。
まるで雫を追いかけているかのように。
【過去回想】
小学校の運動会。
色とりどりの万国旗が激しい雨に打たれ、校庭には大きな水溜まりができている。
『本日の運動会は延期します』
校内放送を聞いた児童たちが、教室で不満の声を上げる。
クラスメイト「また雨宮さんがいるからじゃん」
遠足の日。
土砂降りの中、傘を差して駅へ引き返す児童たち。
クラスメイト「雨女、来ないでよ」
文化祭。
強風を伴う雨で屋外企画がすべて中止になり、廊下に運び込まれる濡れた看板。
入学式も、卒業式も雨。
誕生日に家族で出かけた遊園地も、突然の雷雨で閉園となった。
ランドセルを背負った幼い雫が、玄関先で濡れた靴を見つめている。
雫「ごめんなさい……」
母「また雨……」
母は窓の外を見たまま、雫には顔を向けない。
父「どうして、雫がいる日はこうなるんだ」
晴香が母の袖をつかむ。
晴香「せっかく楽しみにしてたのに」
母「晴香は悪くないわ」
母は晴香の頭だけを撫でる。
雫には、誰も触れない。
クラスメイト「雨女」
クラスメイト「災い」
クラスメイト「今度の行事、休んでよ」
雫モノローグ「私がいると雨が降る」
雫モノローグ「ずっと、そう言われ続けてきた」
【新幹線・車内】
教師が慌ただしく通路を進んでくる。
手には、旅行会社から渡されたらしい資料とスマートフォン。
担任「みんな、静かにしてください。予定変更です」
ざわめきが止まる。
担任「豪雨の影響で、駅から昼食会場までの道路が通行止めになりました。予約していた店には行けません」
生徒たち「えー!」
生徒A「嘘でしょ!?」
生徒B「今日の昼、一番楽しみにしてたのに!」
担任「昼食は、駅で受け取る駅弁に変更します」
悲鳴にも似たブーイングが車内に広がる。
生徒C「京都の湯豆腐御膳、写真まで調べたのに」
生徒D「駅弁なんて帰りでも食べられるじゃん」
生徒B「最悪」
生徒A「まあ、雨だからね」
生徒Aが、わざとらしく雫へ視線を向ける。
生徒A「誰かさんのおかげで」
周囲から小さな笑いが漏れる。
雫は俯いたまま、窓に流れる雨粒を見つめる。
雫モノローグ「私だって、楽しみにしていた」
どんな料理が出るのか、昨夜こっそり店の公式サイトを見た。
湯気の立つ湯豆腐。季節の野菜を使った炊き合わせ。小さな器に盛られた胡麻豆腐。
けれど、そんなことを口にすれば、さらに笑われるだけだ。
【駅弁配布後・車内】
車内に、醤油と揚げ物の匂いが広がっている。
生徒たちは座席を向かい合わせにし、友人同士で駅弁を見せ合っていた。
晴香の周囲には、何人もの女子が集まっている。
雫とよく似た顔。
けれど晴香の髪は明るく巻かれ、頬には薄い桃色が差している。制服の着こなしも華やかで、いつも誰かの輪の中心にいる。
生徒A「晴香は悪くないんだからね。海老食べて元気出して?」
女子生徒が、自分の弁当から海老の天ぷらを晴香の容器へ入れる。
晴香「えー、いいの?」
生徒B「私の唐揚げもいる?」
晴香「もう、そんなに食べたら太っちゃうよ」
生徒C「晴香は細いから平気だって」
生徒A「むしろ食べなさすぎ!」
晴香「じゃあ、一個だけもらおうかな」
楽しげな笑い声。
箸で唐揚げを受け取る晴香を見て、女子たちが口々に褒める。
生徒A「晴香、ほんといい子だよね」
生徒B「お姉さんがあれなのに」
生徒C「私なら病む。家族旅行も学校行事も、ずっと雨なんでしょ?」
晴香「もう、みんな言いすぎだよ」
晴香は困ったように笑う。
けれど、雫を庇うために声を強めることはない。
生徒A「だって、修学旅行までこれだよ?」
生徒B「晴香が一番かわいそうじゃん」
晴香「まあ……慣れてるから」
生徒C「偉い!」
生徒A「私なら絶対無理」
晴香「仕方ないよ。お姉ちゃんだし」
女子たちは感心したように晴香を見つめる。
その輪から離れた窓際で、雫は配られた駅弁を見下ろしていた。
赤い紐が十字にかけられた包み。
指を紐へかける。
ほどこうとして、動きを止める。
喉の奥が固く詰まり、弁当の匂いだけで胃が重くなった。
雫は紐を握り締める。
指先に食い込むほど強く。
雫モノローグ「私も楽しみにしていた……修学旅行を」
ぽたり。
包み紙の上へ、涙が一粒落ちた。
雫は誰にも見られないよう、急いで袖で頬を拭う。
【龍神社・午後】
新幹線を降りたあとも、雨は弱まらなかった。
生徒たちは傘を寄せ合いながら、修学旅行最初の見学先である龍神社へ向かう。
山の中腹に建つ古い神社。
苔むした石段。
雨に濡れた石灯籠。
巨大な鳥居の奥には、深い緑に覆われた境内が広がっている。
軒先や柱には、波や龍をかたどった彫刻が施されていた。
晴香たちは一つの傘に身を寄せ、楽しげに写真を撮っている。
生徒A「待って、雨すごすぎ。前髪終わった」
晴香「私も巻き取れちゃった」
生徒B「晴香は何しても可愛いから大丈夫」
雫は少し離れたところで、一人傘を差している。
傘の縁から落ちた雨水が、制服の肩を濡らしていた。
鳥居の前では、白い装束をまとった宮司が一行を出迎えている。
宮司「足元が滑りやすくなっております。どうぞお気をつけください」
雫が鳥居をくぐる。
その瞬間。
境内の空気が微かに震えた。
誰も使っていなかった手水舎から、水音がする。
ぽたり。
ぽたり。
乾いていた龍の口から透明な水がこぼれ落ち、やがて細い流れとなって水盤を満たしていく。
生徒C「え、さっき水出てなかったよね?」
生徒D「センサー式?」
生徒たちは不思議そうに手水舎を覗き込む。
宮司だけが、息を呑んで雫を見ている。
宮司「まさか……」
雫はその声に気づかず、傘を閉じて境内へ進んでいく。
社殿の奥。
巨大な龍の像の金色の目に、雨粒が宿った。
【境内見学】
教師の説明を聞きながら、生徒たちは境内を見て回る。
晴香の周囲には、相変わらず女子たちが集まっている。
社務所の前に並ぶ、恋愛成就のお守り。
生徒A「晴香、これ買いなよ」
晴香「恋愛成就?」
生徒B「絶対すぐ彼氏できるって」
生徒C「晴香なら龍神様にも気に入られそう」
晴香「もう、みんな気が早いんだから」
晴香が笑うと、周囲もつられて笑う。
雫は少し離れた場所から、その様子を見ていた。
同じ顔。
同じ日に生まれた双子。
それなのに、晴香の周りにはいつも人がいる。
雫の隣には、誰も来ない。
雫は笑い声を背に、その場を離れる。
【神社裏の池・夕暮れ】
境内の奥へ進むにつれ、人の声が遠ざかっていく。
雨に濡れた木々の匂い。
葉から落ちる雫の音。
やがて雫は、古い池のほとりへ辿り着く。
灰色の空を映した水面に、雨粒が無数の波紋を作っている。
雫は傘を閉じる。
冷たい雨が髪や頬を濡らしていく。
雫「どうして……」
喉が震える。
雫「私だって……」
握った拳を胸元へ押し当てる。
雫「普通でいたかっただけなのに」
家族に愛されたかった。
晴香と同じように、友達と笑いたかった。
行事を楽しみにしても、責められずに済む自分でいたかった。
雫「私がいなくなれば、みんな喜ぶのかな……」
涙が頬を伝う。
雨に紛れた一粒が、池へ落ちた。
その瞬間。
雫の足元から、青白い光を帯びた波紋が広がる。
雫「……え?」
波紋は池の端まで届き、今度は中心へ向かって戻っていく。
水面が激しく揺れた。
地の底から響くような低い音。
池の中央から巨大な水柱が立ち上がる。
その中で、長い龍の影が身をくねらせた。
雫は足を後ろへ引く。
けれど、逃げることができない。
光に照らされた水柱の中から、一人の男が現れる。
腰まで届く銀色の髪。
雨雲を切り裂く光のような金色の瞳。
白銀の衣に施された、水と龍の刺繍。
人ではないと一目でわかるほど、美しく、神々しい男。
男は雫を見つめた。
驚きも、迷いもない。
長い年月、たった一人を探し続け、ようやく見つけたかのように。
慈しみと、安堵と、痛みにも似た感情を宿した眼差し。
龍神「ようやく見つけた」
雫の胸が強く鳴る。
雫「だれ……?」
龍神はゆっくりと雫へ近づく。
濡れた頬へ手を伸ばし、指先で雨粒を拭う。
龍神「長かった」
その声を聞いた瞬間、雫の胸の奥に説明のつかない懐かしさが広がった。
雫「私を……知ってるの?」
龍神は答えず、雫の膝裏と背中へ腕を回す。
軽々と抱き上げられ、雫は驚いて龍神の胸元へしがみつく。
雫「きゃっ……!」
【池へ続く道】
少し離れた木陰。
忘れ物を取りに戻った晴香が、その光景を見ていた。
池の青白い光。
雫を抱き上げる、美しすぎる男。
雫だけへ注がれる、優しく熱を帯びた眼差し。
晴香は息をすることも忘れ、目を見開く。
晴香「……え?」
龍神は晴香の存在には気づかない。
腕の中の雫だけを見て、淡く微笑む。
龍神「私の雨嫁」
池から溢れた光が二人を包む。
雫が声を上げる間もなく、龍神とともに光の中へ消えていく。
次の瞬間。
池は何事もなかったように静まり返った。
雨音だけが残る。
晴香は、その場から一歩も動けない。
これまで選ばれるのは、いつも自分だった。
家族にも。
友人にも。
誰もが、雫ではなく晴香を選んだ。
けれど、あの神だけは。
晴香ではなく、雫を選んだ。
雨の向こうで、晴香の瞳が大きく揺れた。



