二年前、まだ中学生の頃。
友達が、星になった。
仲が良くて、優しくて、可愛くて、一番の親友が。
喧嘩をした。
放課後の公園。
ブランコが揺れる。
君の長い髪が風になびく。
ただの冗談のつもりで放った言葉が、君には重く突き刺さった。
「紬(つむぎ)なんて嫌い」
クリクリな目が私を真っ直ぐ見据える。
「私も祈莉(いのり)のことなんて、」
喉が熱くなって、思わず声を荒げる。
これ以上は言ってはいけない。
そう分かっていても、止められなかった。
「嫌い」
そう言い放ったとき、一瞬、君は顔を歪めて、泣きそうになった。
そして君は息を吸い、はあ、と吐いて目を伏せた。
そのまま君は怒って帰ってしまった。
緑の木々が揺れる中、私だけがただ呆然と君の背中を見つめた。
嘘だよ、ごめんね。
待って。
なんて、追いかける勇気も、謝る行動力も、私にはない。
ただ君の後ろ姿に手を伸ばし、ゆっくりと下ろす。
近くのパン屋の甘い香りにひとり、包まれる。
明日になったら謝ろう。
そして、駅の近くの祈莉の好きなパン屋で、彼女の好きなメロンパンを買おう。
そう思い、一人分の影が伸びる中、足を進めた。
次の日の朝、待ち合わせ場所に、君はいなかった。
久しぶりに訪れた一人の登校時間。
君に謝る言葉を考えながら足を進めた。
ごめんね、大好き。
そう言うと決めて入った教室。
ホームルームが始まっても君は現れなくて。
その日の交通事故で、君が帰らぬ人となった。
それからの日々は、心にぽっかり穴が空いたように静かだった。
葬儀の張り詰めた空気の中、ただ立ち尽くしていた。
こうなると分かっていれば。
あの放課後、夕焼けの中で、君の柔らかくて白い手首を強く掴んで引き止めていたら。
何度巻き戻せない時間を呪っただろう。
こんなに苦しいのなら、最初から喧嘩なんてしなければよかった。
ううん――いっそ、君と出会わなければ、仲良くなんてならなければ、こんなに胸を引きちぎられるような思いをせずに済んだのに。
君の笑顔が忘れられない。
ごめんじゃなくて、ありがとうだよ、という君の口癖も、口元を隠す笑い方も、忘れられない。
もし知っていれば、分かっていれば、こんなに悲しくないだろうか。
楽に、なれるだろうか。
だから、願った。
遠くに消えていく雲を、優しく撫でる風を浴びながら、目を閉じる。
「命の、限りを、知りたい」
絞り出すような私の願いに、神様が呆れたのだろうか。 恐る恐る目を開けると、世界から鮮やかな色彩が失われていた。アスファルトも、空も、校舎も、すべてが冷たいモノクローム。 だけど、奇妙なことに、雑踏の中でぽつり、ぽつりと、異常なほど鮮烈に「色」を纏って浮き上がって見える人がいた。 ――それは、明日、この世界から消える人たちの色だった。
私は知っている。
色が付いたら、もう終わりだと。
だから、人と関わらない。
いついなくなるか分からないから。
立ち直れないから。
余命一日を、考えないために。
この色を見ないために。
何も、知らないために。
朝日の下、駅まで歩く。
人が少ない早めの時間に家を出る。
すれ違う人の中に、色付きを感じる。
明日を生きられない人が、いる。
明日を迎えられない人が、いる。
その事実に目を背けたくて、俯く。
肩に刺激を感じる。
どん。
「すみませんっ」
「すまない」
反射的に顔を上げる。
スーツ姿のおじさんが心配そうに覗く。
色が、ある。
淡くもしっかりとした、終わりの色が。
禍々しい濃い赤色、紅だろうか。
視力が奪われそうなほどに激しい色。
そんな色から、黄色、緑色、青色、紺色、と絶え間なく変化し続ける色。
はっとして口元を抑え、駅まで小走りになる。
また、見てしまった。
見たくないのに。
何度見ても、慣れることなんてなかった。
毎回毎回、私には何も出来ないのに、何か出来ないかと考えを巡らせて。
その度に、自分の無力さに絶望して。
自分のローファーの先を眺めながら、足を進める。
見なければ、知らなくて済む。
駅の改札を通って、足を止める。
顔を上げて、電光掲示板を見上げる。
あと、七分。
視線をローファーの先に戻そうとしたとき、少し前を歩く制服姿の男の子に目が止まった。
色が無い。
なのに、浮き上がって見える。
存在感がある。
安全だ。
この人は、明日も生きる。
彼だけが、色付く世界の中で、明日を持っているように見えた。
少し歩いて、彼のとなりに並ぶ。
柔らかな日差しが木の葉を照らしている。
きっと、今日は澄み切った青空なんだろう。
葉っぱの緑はこれでもかと輝いて、太陽の光は燦燦と降り注ぎ、世界をワントーン明るくしているのだろう。
そんな何気ない景色を見ながら、電車を待った。
電車が来て、男の子が乗り込む。
そのとき、彼のポケットからハンカチが落ちた。
取るか迷う。
また、人と関わらないといけなくなる。
でも、祈莉なら、きっと。
さっと腰をおろし、それを手に取って、彼に差し出す。
いおり、と筆記体で刺繍がしてあった。
俯きながら
「あの、落としました」
そう言うと、彼は振り向き、
「え、ありがとう!」
その優しい声に顔を上げた。
君は口に手を添えて、首を傾けた。
その親しみやすそうな仕草に気持ちが落ち着く。
良かった、怖そうな人じゃなくて。
大きな目と、柔らかな肌が印象的で、優しい雰囲気をまとっていた。
ガタゴトと鳴らす電車に揺られながら、君と少しだけ、言葉を交わす。
彼の名前は、森宮 依緒莉(もりみや いおり)というらしい。
私と同じ高校二年生。
彼は、私の高校の最寄り駅の、ひとつ手前の駅の近くの高校に通っているらしい。
ふと君に尋ねられた。
「いつも、この時間なの?」
それは、人混みで色を見るのが嫌だから。
でも、そんなこと言えるはずもなく、
「えっと、人が多いの苦手なんです。」
そう呟くと、
「俺も同じ!あと、同い年だしタメでいいよ。」
と言ってきた。
人と何度も言葉を交わすのなんて久しぶりで、なんだか落ち着かない。
「は、はい」
そうしどろもどろに応えると、
「はいじゃなくて?」
と君は私の顔を覗き込んできて、
「うん」
と伝えると、満足そうに口角を上げた。
車内に君の降りる駅を知らせるアナウンスが響いた。
彼がカバンを肩に持ち直す。
「じゃあ、また明日ね。紬ちゃん」
また明日。
ずっと私が言えない言葉。
早く、返さないと。
だけど、声を出そうとしても、出ない。
「は、」
はい、と言いかけて、君が振り返った。
「うん」
そう首を傾げると、君はひらひらと手を振って階段を登って行った。
次の日の朝は、駅前で君に会った。
私を見つけると、
「おはよ!」
と笑いかけてきて、
「お、おはよ」
と応える。
駅までの道のりを歩く。
視界の端に淡い色付きを感じて、俯く。
目をきつく瞑り、また開く。
はあ、とため息が漏れた。
その時、カタッと小さな音がして、アスファルトに目を向ける。
足元にリップクリームが転がってきた。
すぐ前の中学生くらいの女の子の鞄からリップクリームが落ちたようだ。
森宮くんはすぐにそれを拾い、女の子に小走りで追いついて、声をかけた。
本当に親切で、社交的な人だ。
女の子は、すみません、と頭を下げる。
君は、
「すみませんじゃなくて、ありがとう、ですよ」
と口元に手を当てふんわりと笑った。
そのセリフに胸が跳ねる。
そのセリフは、私の親友の口癖。
拾う優しさにも、笑い方にも、祈莉が重なる。
考えすぎだ。
もう、祈莉はいないのだから。
君が生きているなんてそんな都合のいいことはない。
そうは分かっていても、会いたくなった。
その後も、君と学校へと向かった。
でも、胸の中のもやもやは、消えなかった。
放課後の委員会集会。
夕焼けに染まる図書室の少し錆びた椅子に座る。
隣には同じクラスの仲良くない訳ではない女の子。
たしか、のんちゃんという名前だった。
授業の小テストの愚痴や、明日の時間割などどうでもいい話をしていたら、委員長が号令をかけた。
普段の委員会活動の話が終わったあと、委員長は、えー、と少し呟いて、
「新しい図書委員の活動として、高校の近くの病院の小児病棟で絵本の読み聞かせを行います。二人、誰か行きたい人はいませんか。」
と言った瞬間、空気が一変した。
近くでは、めんどくさー、や、行く?と聞く女の子に首を大きく振る女の子。
「行きたくない」の空気になっていた。
私もそうだ。
病院なんて、色付きが多いに決まっている。
そう思い、誰かが手を上げるのを待つ。
しばらくしても、沈黙が続くばかりで、委員長の、誰かやってくれませんかー、という声だけが耳に届く。
祈莉が一緒なら、二人で一緒に手を挙げたんだろうな。
そう思った。
気が付いたら、手を挙げていた。
わっと歓声が上がる。
それを見てすぐに隣ののんちゃんが手を挙げてくれた。
委員長はぱっと笑って、
「じゃあ二年八組の二人でお願いします。ありがとうね。」
と言った。
二人で頷く。
夕日がさっきよりも赤く、図書室の壁を照らした。
学校を終えて、電車に乗り込む。
疲れがどっときて、ドアにもたれる。
次の駅で乗ってきたのは、君だった。
「あ、紬ちゃんじゃん」
そう笑いかける君。
人懐っこく笑ってそばに来た。
「森宮くん」
君も電車のドアのそばに立つ。
君は窓の外を見ながら、
「今日満月かな」
なんて聞いてきて、
ふと、夜空に目を向ける。
その時、高いマンションが月を隠した。
「あ、見えなくなっちゃったね」
振り返って、後ろにいる君を笑顔で見る。
その時、視界の端に、淡く色が滲んだ。
知らない人が、笑っていた。
明日死ぬ人の顔とは思えなかった。
目が、勝手に下を向く。
息が浅くなる。
苦しくて、何も出来なくて。
あの日から、何も、変わっていない。
はあ、はあ、と肩で息をする。
「どうかした?」
君は大きな目を少し細めて、私の顔を真っ直ぐに見た。
声が出ない。
やっぱり、顔を上げてはだめだ。
下を向いたまま、大丈夫、と呟く。
電車をおりると、近くのパン屋の香りが鼻先に触れた。
今は、嗅ぎたくない。
思い出してしまうから。
あの色を、あの日の苦しみを、君を。
でも、口からは
「いい匂い」
自然と声が漏れた。
君はすんすんと鼻を鳴らして
「近くのパン屋か。あそこのメロンパン美味いんだよな。今から一緒に行かない?」
と首を傾げた。
祈莉がいなくなってから、あのパン屋には行けないでいる。
でも、今、行きたい、と思った。
「うん、行きたい。」
君は、大きく頷いて、足を進めた。
その後ろを追う。
「紬ちゃんって、メロンパン好き?」
不意に聞かれて、少しだけ考える。
なんと答えたらいいだろう。
「……普通かな」
本当は好きだ。
でも、それは祈莉と食べたメロンパンだからだ。
パン屋に近づく度に、匂いが強くなって、隣に祈莉がいた日々を思い出す。
パン屋に入ると、パンの並び方や雰囲気があの頃とあまり変わらなくて、懐かしさが込み上げる。
君は、メロンパンをトレーに乗せ、なんか食う?と聞いてきた。
メロンパンを、食べたい。
あの子の隣で食べた、思い出の味を、また噛み締めたい。
「私も、メロンパンで」
と言うと、君はもうひとつメロンパンを乗せた。
そのまま公園へと歩いた。
祈莉と最後の時を過ごした、あの公園へ。
坂道を登って、一本道をしばらく歩く。
見慣れた看板が見えた。
錆びたブランコに二人座り、メロンパンを出す。
カサカサとビニールをめくり、一口、また一口と頬張る。
なぜか、ブランコの軋む音が聞こえた。
隣を見ると、ブランコを漕ぐ君が、あの日の祈莉とそっくりで。
足をぐんぐんと力強く動かし、空に飛んでいきそうなほど高いところまで、あっという間に舞っている。
鼻から抜ける甘みに、涙が込み上げてきた。
月を見るふりをして、天を仰ぎ、何とか落ち着かせる。
本当に、綺麗な満月だ。
ふっと息をつく。
しっとりとしたメロンパンの欠片を、口の中で転がす。
すうっと息を吸うと、パンの甘い香りと、緑の匂い。
メロンパンに目を落とす。
変わらずにモノクロだけど、思い出だけで、美味しい。
最近は、色がない食べ物ばかりで、大好きなミートソースパスタも、灰色の砂利を食べているように感じていた。
このメロンパンは、久しぶりに食べた人間の食べ物のようだ。
味は変わらないのに、色がないだけで、こんなに気持ちが違うなんて。
もし、色が見えていたら、このメロンパンももっと美味しいんだろうな。
でも、私の頬を落とすには十分なほど美味しい。
なんで、こんなに美味しいんだろう。
そんな私の心を読んだように、
「メロンパンってさ、なんでこんなに美味いんだろうね」
と森宮くんが笑う。
君の髪が揺れる。
私は少しだけ視線を落とした。
昔、放課後の帰り道。
祈莉と半分こして食べたメロンパンを思い出す。
給食で残したパンの残りを二人で食べ切ったんだ。
あの子は、メロンパンの皮を剥いで食べる、変な食べ方をしていた。
一緒に食べる度に、変なの、って笑って、これが一番美味しいんだよ?と私に勧めてきたんだっけ。
「……そうだね」
君のメロンパンを見ると、皮が剥がれていた。
君も、皮から食べている。
はあ、なんでこんなに重なるんだろう。
ふっと笑みがこぼれる。
「変な食べ方」
いつの間にか声が出ていた。
君は口元に手を当てながら笑って、
「こうやって食べるのがいちばん美味いんだよ」
そのセリフまで、あの日々と重なった。
笑いが込み上げてきて、久しぶりに声を出して笑いこける。
人と関わるのって、こんなに楽しかったっけ。
勝手に避けてきたんだ。
明日を恐がって。
でも、今日が、ある。
いつかは来るその日まで、誰かの隣でこんな風に、昔を懐かしみながら笑いたい。
すごく大切なことに気付かされた気がする。
「そろそろ帰るか」
トスットスッと足を地面と擦らせる音が耳に届く。
君は、ブランコから軽々とジャンプして、私の方へ振り返った。
うん、と呟き、メロンパンの袋をカバンに入れる。
君は、私の家まで送ってくれた。
「また明日ね、紬ちゃん」
また明日、と言おうとする。
だけど、喉に蓋がしまったみたいに声が出せない。
まだ、怖いみたいだ。
絞り出したかすかすの声で、
「またね、森宮くん」
と手を振る。
またね、と言えただけで、私は嬉しかった。
少し、前を向けた。
ドアに手をかける。
ご飯を食べて、お風呂に入って、ベッドに潜る。
少しして、少し気になることがあった。
依緒莉。
祈莉。
似てる。
糸が一本に繋がったようで、息を呑む。
今思うと、君の好きなパンも、食べ方も、笑い方も、全部、全部、あの子と同じ。
もしかしてと思い、体を縮こませる。
そんなことはありえない。
そんな都合のいい解釈をする自分が醜くてしょうがない。
でも、考えずにはいられない。
君は、もしかして祈莉なの?
確かめないと。
祈莉なら、伝えたいことはたくさんあるから。
そして、目を瞑るといつの間にか眠っていた。
次の日の朝、駅に着くと君がいた。
君の顔を見るだけで、頬が緩む。
その瞬間、君に、色が付いた。
目を疑った。
見間違いであって欲しくて、何度も何度も目を擦る。
それでも君の色は消えなかった。
なぜかこぼれたのは、下手くそな笑みだった。
君も、いなくなっちゃうんだね。
さっきまで自然に笑えていたのに、笑い方が分からない。
私、どうやって笑ってたっけ。
手で口角をしっかりと上げる。
足をゆっくりと進めて、できる限りの笑顔で、おはよ、と声をかけると、君は勢いよく振り向いて、おはよって返してきた。
「あの、今日の放課後、あの公園で会える?」
そう聞くと、
「いいよ」
と、祈莉と同じ笑い方で頷いた。
それからは放課後までずっと上の空で、授業にはもちろん集中出来ないし、先生が話したことも、頭に残っていない。
ずっと君のことばかり考えている。
放課後の公園。
入口の大きな木の下に立つ。
涼しい夕風が吹く中、顔をしっかりと上げ、前を向く。
君はあの日の祈莉のようにブランコをこいでいた。
ゆっくりと、この前よりもかなり低い位置で。
その背中に、
「ねえ、祈莉」
そう声をかける。
君は何も言わずに、足を動かしている。
「祈莉、なんでしょ?」
そう発した時、君は足を止めて、ブランコから立ち上がった。
その後にゆっくりと振り返った。
その目は涙で揺れていて。
「あ、やっと、ばれた」
といつものように、昔の祈莉のように笑った。
そして、君は、私の方へ歩み寄ってきた。
本当は君のはずなのに、祈莉にしか見えない。
森宮くんが、長い髪、クリクリな目、柔らかな肌を持った祈莉に見える。
祈莉は、ふふっと笑って口を開いた。
「おそーい」
にこっと首を傾げて笑う。
つられて私の口角も緩む。
「ごめん」
そして、君の笑顔はぐしゃっと崩壊して、大粒の涙を流し始めた。
「……酷いよ紬。あの日、私は振り返ったのに、もう下向いちゃってるんだもん。ばーか。」
胸がつまった。
はっとした。
私が手を伸ばし、視線とともに下ろした時に、祈莉はこっちを見ていたんだ。
もう少し、長く、君を見ていればよかった。
「祈莉こそ、私も手を伸ばしてたんだよ?」
そう告げると、君は間髪入れずに
「いや、追いかけてよ」
と突っ込んできた。
テンポが懐かしくて、私も泣きそうだ。
「たしかに」
と笑う。
君は話し続ける。
「紬なら、追いかけてくれると思ったのにさあ。パン屋にでもよって謝ろうと思った朝には車に引かれるし。本当に最悪だったんだよー。」
「私も!私もパン屋に行くつもりだったんだよ!」
そう言うと、
「どっちも追いかけてないのに、考えてる仲直りの仕方が一緒とかすごすぎるね」
と君が笑った。
「ほんとだ」
と私も笑う。
祈莉に伝えたいことがあったんだった。
「祈莉。私、新しいことに挑戦するの!病院に読み聞かせに行くから。立候補したんだよ。祈莉のおかげで勇気が出たの。」
祈莉は笑って、
「へえ、いいじゃん。頑張ってね。病院って紬の高校の近くの?」
「うん、そうだけど、」
そう言うと、
「なら、もうすぐ会えるよ。」
と呟いた。
どういう意味か分からなかった。
どういうこと、と聞こうとしたけど、君の声に遮られる。
「でも!」
君が声を大きくして言い放った。
「でもね、一番最悪だったのは、私が死んだ後、紬は、命の限りを知りたい、なんて願ったこと。」
ビクッと背中が震える。
「願ってどうするんだろうと思ったら、人と必要以上に関わらなくなるし、全然笑わないし。そんなの、我慢できないでしょ?本当に何も出来なくって苦しかったんだから。」
そこで君はわざと頬をふくらませた。
でも、すぐに笑って、後ろを向いた。
「そんな私の惨めさを見兼ねて、神様は奇跡をくれたみたい。依緒莉くんね、私の事故の時、一番に助けようとしてくれたの。救急車呼んだりね。だから、お礼、言いに行こうって思ったら、彼、ちょっとね。魂の隙間を見つけたの。だから、神様が紬を救いに行かせてくれたみたい。私……依緒莉くんの体を借りて、」
そして、君は目を伏せて、短く息を吸った。
「救いに来たよ、紬。」
その後に君は後ろを向いて、大きく息を吸って、勢いよく振り返った。
一瞬見えた君の顔は、弾けるように笑っていた。
その勢いで髪が顔にかかり、表情が見えなくなる。
その時、勢いよく風が吹いた。
君のサラサラの髪が風で元の位置に戻っていた。
次の瞬間覗いた君の顔は涙でぐしゃぐしゃだ。
声が出なくて、
「ごめん、」
と掠れた声が宙を漂う。
深呼吸をして、
「本当にごめん、今まで、ずっと本当に。」
君はすぐ
「いいよ」
そう呟いた。
「あなたの、祈莉のおかげで、明日が分からない美しさを知れたよ。明日が分からないから、私は今日の尊さを知った。すごいでしょ?……いや、すごいね、祈莉。」
そう首を傾げる。
君はゆっくりと頷き、
「それは、私じゃなくて、紬が、頑張ったんだよ。なら、もう、大丈夫だね」
呟いたあと、君は透明になっていく。
指先が、足が、どんどん、どんどん。
涙が、今まで我慢した分、全部が溢れてく。
「待って、ねえ、お願い待って」
君に伸ばした手は、宙を掠めた気がした。
でも、確かに。
今度は手首を掴んでいた。
足に力が入らなくて、座り込む。
地面の砂が涙で滲む。
「なあに」
頭上から降ってきた声に、顔をあげる。
「ごめん、本当にごめん、祈莉。」
そう言うと、君はにこっと笑って、
「ごめんじゃなくて、」
と手を差し伸べてくれた。
「……ありがとう」
と発して、手を取る。
「私と出会ってくれて、親友になってくれて、また、逢いに来てくれて、本当にありがとう。祈莉、大好き。」
ふたりで見つめ合う。
君は頷いて、
「私こそ、ありがとう、大好きだよ、紬。」
君が眩しく輝いた。
反射的に目を閉じる。
しばらくして、目を開けた。
そこに、君はもういなかった。
その代わりに、色が戻っていた。
宵の淡いピンクと紺の空。
錆びている青と黄色のブランコや滑り台。
懐かしい。
あの日も、こんな空だった。
甘い香りが鼻を燻る。
胸いっぱいに息を吸い込み、私は公園をあとにした。
翌朝、いつも通り学校へと行く。
顔を上げて、世界に輝きを感じながら。
今日は、午前授業で、放課後に図書委員の仕事で、近くの病院の小児病棟に読み聞かせに行く日だ。
午前授業はあっという間に終わった。
のんちゃんと昼ごはんを食べる。
いつも一人で食べていたら、ご飯に誘ってくれた。
のんちゃんは三人組だから、迷惑かもしれない。
邪魔じゃないかな、って呟いてしまって、なわけ!って言ってくれた。
のんちゃんの友達もいい人達で、話が弾んだ。
祈莉のことを思い出して、あの日々のように、大きめのリアクションを取ったり、少しおどけてみせたり。お弁当箱を空にするのに、いつもよりうんと時間がかかった。
病院の自動ドアをくぐり、地図を持ったのんちゃんに着いていく。
途中で迷ってしまって、職員の人を探す。
そこで、お医者さんがたくさん集まっている、たしか医局だっけ。そんな場所を見つけた。
のんちゃんが聞きに行ってくれて、あっちだってと道を指さしてくれた。
歩いている途中、のんちゃんは、え、と呟いた。
「どうしたの?」
と尋ねると、
「いや、中学の頃の知り合いに似てるだけだと思うけど」
そう言って、集中治療室、と書いてある部屋の名札を見た。
「やっぱり、依緒莉だ。」
という声が聞こえて、依緒莉?もしかして。
私も部屋に近づく。
その中には、たくさんの医療器具に囲まれてベッドにぐったりと横たわり、深刻そうな顔をしたお医者さんと話す森宮くんの姿。
「森宮くん」
と自然と口に出た。
――森宮くん。集中治療室ってことは、ずっと意識が戻っていなかったの……? だとしたら、その魂の隙間に、祈莉が滑り込んで私に会いに来てくれたんだ。
自分の体が大変なときなのに、祈莉に場所を貸してくれて、私を救ってくれて、ありがとう。森宮くん。
そんなことを考えていたら、
「え?知り合いなの?」
とのんちゃんは驚いたような顔をした。
「うーん、一方的なもの、かな。」
と返したら、
「え、なになにー、一目惚れですかー。」
とにやにやしてきた。
ふっと笑って
「そんなんじゃないから。」
そう言うと、
「あやしー」
ってわざとらしく顎に手を当てている。
二人で笑って、図書室へと足を進めた。
小児病棟の子供たちはみんな元気そうだった。
車椅子に乗っていたり、点滴を手で押している子もいるけれど、みんなが希望を抱えたような眩しい笑顔だった。
思ったよりも楽しくて、のんちゃんとも距離が縮まった。
二週間くらい経った頃。
駅に入ったとき、前の人のポケットから、ハンカチが落ちた。
そのハンカチを拾う。
目を落とすと、息が、止まった。
水色の、ハンカチ。
筆記体で、依緒莉、と書いてある。
どくどく、と胸が騒ぐ。
依緒莉、くん。
本物なの。
学校に戻ってこれたんだ。
風が背中を押す。
手が、微かに震える。
前を向くと、依緒莉くんの後ろ姿が見える。
今まで会っていたのは、祈莉。
だけど、その後ろ姿で安心してしまう。
彼はもうホームへの階段を登っている。
小走りで追いつき、
「あの、落としましたよ」
とハンカチを差し出した。
「ありがとうございます。」
と君がハンカチを受け取る。
君は、驚いたような顔をして、私を見つめたまま、何も動かなかった。
「えっと、どうかしましたか?」
と聞くと、
「あのー、僕、この前まで入院しててねむってたんですけど、」
知ってますなんて言えなくて、続きを待つ。
「夢を、見てたんです。とても長い。夕焼けの中、女の子とメロンパンを分ける約束をしてたような。その人にそっくりなんです。あなたが、」
そう言われて、目尻が少し潤うほど嬉しくて、黙ってしまった。
「って急にごめんなさい。忘れてください。」
と、人懐っこく笑った。
今まで私といた君は、確かに祈莉だった。
そのはずなのに、笑い方は変わらなくて、少しくすぐったい。
ちょうどよく来た電車に乗り込む。
君の最寄り駅へと着く少し前も、君は私に話しかけてきた。
「また、逢えますか?お礼に近くのパン屋さんのパン奢らせてください!あそこのメロンパンまじで美味しいんですよ。僕、森宮です。」
と。
パンが好きな祈莉を思い出す。
ふっと笑みがこぼれる。
「いつも同じ時間に乗っているんだから、明日もきっと。私、紬です。」
柔らかに応えると、君は穏やかに微笑んで、
「よかった。それじゃあ、また明日。紬さん。」
と電車をおりようとした。
今まで言えなかった言葉。
でも、今なら言える。
君の背中をまっすぐに見ると、自然に頬が緩む。
すうっと大きく息を吸う。
喉の蓋はもうない。
「うん、森宮くん。また、明日」
やっと、言えた。
柔らかな風が頬を撫でる。
あの日、未来を知っていれば、後悔しなかったわけではない。
でも今は、
明日を知らないまま、
誰かに、また明日、と言える。
明日が来るかどうかなんて、誰にも分からない。
でも今は――
分からない明日が、恐くない。
それだけで、
私はもう、願わなくてよかった。
あの日はごめん、じゃなくて、
今まで、ありがとう、祈莉。
そう心の中で呟き、新しい世界へと一歩を踏み出す。
明日が分からない世界で、私は初めて今日を生きる。
友達が、星になった。
仲が良くて、優しくて、可愛くて、一番の親友が。
喧嘩をした。
放課後の公園。
ブランコが揺れる。
君の長い髪が風になびく。
ただの冗談のつもりで放った言葉が、君には重く突き刺さった。
「紬(つむぎ)なんて嫌い」
クリクリな目が私を真っ直ぐ見据える。
「私も祈莉(いのり)のことなんて、」
喉が熱くなって、思わず声を荒げる。
これ以上は言ってはいけない。
そう分かっていても、止められなかった。
「嫌い」
そう言い放ったとき、一瞬、君は顔を歪めて、泣きそうになった。
そして君は息を吸い、はあ、と吐いて目を伏せた。
そのまま君は怒って帰ってしまった。
緑の木々が揺れる中、私だけがただ呆然と君の背中を見つめた。
嘘だよ、ごめんね。
待って。
なんて、追いかける勇気も、謝る行動力も、私にはない。
ただ君の後ろ姿に手を伸ばし、ゆっくりと下ろす。
近くのパン屋の甘い香りにひとり、包まれる。
明日になったら謝ろう。
そして、駅の近くの祈莉の好きなパン屋で、彼女の好きなメロンパンを買おう。
そう思い、一人分の影が伸びる中、足を進めた。
次の日の朝、待ち合わせ場所に、君はいなかった。
久しぶりに訪れた一人の登校時間。
君に謝る言葉を考えながら足を進めた。
ごめんね、大好き。
そう言うと決めて入った教室。
ホームルームが始まっても君は現れなくて。
その日の交通事故で、君が帰らぬ人となった。
それからの日々は、心にぽっかり穴が空いたように静かだった。
葬儀の張り詰めた空気の中、ただ立ち尽くしていた。
こうなると分かっていれば。
あの放課後、夕焼けの中で、君の柔らかくて白い手首を強く掴んで引き止めていたら。
何度巻き戻せない時間を呪っただろう。
こんなに苦しいのなら、最初から喧嘩なんてしなければよかった。
ううん――いっそ、君と出会わなければ、仲良くなんてならなければ、こんなに胸を引きちぎられるような思いをせずに済んだのに。
君の笑顔が忘れられない。
ごめんじゃなくて、ありがとうだよ、という君の口癖も、口元を隠す笑い方も、忘れられない。
もし知っていれば、分かっていれば、こんなに悲しくないだろうか。
楽に、なれるだろうか。
だから、願った。
遠くに消えていく雲を、優しく撫でる風を浴びながら、目を閉じる。
「命の、限りを、知りたい」
絞り出すような私の願いに、神様が呆れたのだろうか。 恐る恐る目を開けると、世界から鮮やかな色彩が失われていた。アスファルトも、空も、校舎も、すべてが冷たいモノクローム。 だけど、奇妙なことに、雑踏の中でぽつり、ぽつりと、異常なほど鮮烈に「色」を纏って浮き上がって見える人がいた。 ――それは、明日、この世界から消える人たちの色だった。
私は知っている。
色が付いたら、もう終わりだと。
だから、人と関わらない。
いついなくなるか分からないから。
立ち直れないから。
余命一日を、考えないために。
この色を見ないために。
何も、知らないために。
朝日の下、駅まで歩く。
人が少ない早めの時間に家を出る。
すれ違う人の中に、色付きを感じる。
明日を生きられない人が、いる。
明日を迎えられない人が、いる。
その事実に目を背けたくて、俯く。
肩に刺激を感じる。
どん。
「すみませんっ」
「すまない」
反射的に顔を上げる。
スーツ姿のおじさんが心配そうに覗く。
色が、ある。
淡くもしっかりとした、終わりの色が。
禍々しい濃い赤色、紅だろうか。
視力が奪われそうなほどに激しい色。
そんな色から、黄色、緑色、青色、紺色、と絶え間なく変化し続ける色。
はっとして口元を抑え、駅まで小走りになる。
また、見てしまった。
見たくないのに。
何度見ても、慣れることなんてなかった。
毎回毎回、私には何も出来ないのに、何か出来ないかと考えを巡らせて。
その度に、自分の無力さに絶望して。
自分のローファーの先を眺めながら、足を進める。
見なければ、知らなくて済む。
駅の改札を通って、足を止める。
顔を上げて、電光掲示板を見上げる。
あと、七分。
視線をローファーの先に戻そうとしたとき、少し前を歩く制服姿の男の子に目が止まった。
色が無い。
なのに、浮き上がって見える。
存在感がある。
安全だ。
この人は、明日も生きる。
彼だけが、色付く世界の中で、明日を持っているように見えた。
少し歩いて、彼のとなりに並ぶ。
柔らかな日差しが木の葉を照らしている。
きっと、今日は澄み切った青空なんだろう。
葉っぱの緑はこれでもかと輝いて、太陽の光は燦燦と降り注ぎ、世界をワントーン明るくしているのだろう。
そんな何気ない景色を見ながら、電車を待った。
電車が来て、男の子が乗り込む。
そのとき、彼のポケットからハンカチが落ちた。
取るか迷う。
また、人と関わらないといけなくなる。
でも、祈莉なら、きっと。
さっと腰をおろし、それを手に取って、彼に差し出す。
いおり、と筆記体で刺繍がしてあった。
俯きながら
「あの、落としました」
そう言うと、彼は振り向き、
「え、ありがとう!」
その優しい声に顔を上げた。
君は口に手を添えて、首を傾けた。
その親しみやすそうな仕草に気持ちが落ち着く。
良かった、怖そうな人じゃなくて。
大きな目と、柔らかな肌が印象的で、優しい雰囲気をまとっていた。
ガタゴトと鳴らす電車に揺られながら、君と少しだけ、言葉を交わす。
彼の名前は、森宮 依緒莉(もりみや いおり)というらしい。
私と同じ高校二年生。
彼は、私の高校の最寄り駅の、ひとつ手前の駅の近くの高校に通っているらしい。
ふと君に尋ねられた。
「いつも、この時間なの?」
それは、人混みで色を見るのが嫌だから。
でも、そんなこと言えるはずもなく、
「えっと、人が多いの苦手なんです。」
そう呟くと、
「俺も同じ!あと、同い年だしタメでいいよ。」
と言ってきた。
人と何度も言葉を交わすのなんて久しぶりで、なんだか落ち着かない。
「は、はい」
そうしどろもどろに応えると、
「はいじゃなくて?」
と君は私の顔を覗き込んできて、
「うん」
と伝えると、満足そうに口角を上げた。
車内に君の降りる駅を知らせるアナウンスが響いた。
彼がカバンを肩に持ち直す。
「じゃあ、また明日ね。紬ちゃん」
また明日。
ずっと私が言えない言葉。
早く、返さないと。
だけど、声を出そうとしても、出ない。
「は、」
はい、と言いかけて、君が振り返った。
「うん」
そう首を傾げると、君はひらひらと手を振って階段を登って行った。
次の日の朝は、駅前で君に会った。
私を見つけると、
「おはよ!」
と笑いかけてきて、
「お、おはよ」
と応える。
駅までの道のりを歩く。
視界の端に淡い色付きを感じて、俯く。
目をきつく瞑り、また開く。
はあ、とため息が漏れた。
その時、カタッと小さな音がして、アスファルトに目を向ける。
足元にリップクリームが転がってきた。
すぐ前の中学生くらいの女の子の鞄からリップクリームが落ちたようだ。
森宮くんはすぐにそれを拾い、女の子に小走りで追いついて、声をかけた。
本当に親切で、社交的な人だ。
女の子は、すみません、と頭を下げる。
君は、
「すみませんじゃなくて、ありがとう、ですよ」
と口元に手を当てふんわりと笑った。
そのセリフに胸が跳ねる。
そのセリフは、私の親友の口癖。
拾う優しさにも、笑い方にも、祈莉が重なる。
考えすぎだ。
もう、祈莉はいないのだから。
君が生きているなんてそんな都合のいいことはない。
そうは分かっていても、会いたくなった。
その後も、君と学校へと向かった。
でも、胸の中のもやもやは、消えなかった。
放課後の委員会集会。
夕焼けに染まる図書室の少し錆びた椅子に座る。
隣には同じクラスの仲良くない訳ではない女の子。
たしか、のんちゃんという名前だった。
授業の小テストの愚痴や、明日の時間割などどうでもいい話をしていたら、委員長が号令をかけた。
普段の委員会活動の話が終わったあと、委員長は、えー、と少し呟いて、
「新しい図書委員の活動として、高校の近くの病院の小児病棟で絵本の読み聞かせを行います。二人、誰か行きたい人はいませんか。」
と言った瞬間、空気が一変した。
近くでは、めんどくさー、や、行く?と聞く女の子に首を大きく振る女の子。
「行きたくない」の空気になっていた。
私もそうだ。
病院なんて、色付きが多いに決まっている。
そう思い、誰かが手を上げるのを待つ。
しばらくしても、沈黙が続くばかりで、委員長の、誰かやってくれませんかー、という声だけが耳に届く。
祈莉が一緒なら、二人で一緒に手を挙げたんだろうな。
そう思った。
気が付いたら、手を挙げていた。
わっと歓声が上がる。
それを見てすぐに隣ののんちゃんが手を挙げてくれた。
委員長はぱっと笑って、
「じゃあ二年八組の二人でお願いします。ありがとうね。」
と言った。
二人で頷く。
夕日がさっきよりも赤く、図書室の壁を照らした。
学校を終えて、電車に乗り込む。
疲れがどっときて、ドアにもたれる。
次の駅で乗ってきたのは、君だった。
「あ、紬ちゃんじゃん」
そう笑いかける君。
人懐っこく笑ってそばに来た。
「森宮くん」
君も電車のドアのそばに立つ。
君は窓の外を見ながら、
「今日満月かな」
なんて聞いてきて、
ふと、夜空に目を向ける。
その時、高いマンションが月を隠した。
「あ、見えなくなっちゃったね」
振り返って、後ろにいる君を笑顔で見る。
その時、視界の端に、淡く色が滲んだ。
知らない人が、笑っていた。
明日死ぬ人の顔とは思えなかった。
目が、勝手に下を向く。
息が浅くなる。
苦しくて、何も出来なくて。
あの日から、何も、変わっていない。
はあ、はあ、と肩で息をする。
「どうかした?」
君は大きな目を少し細めて、私の顔を真っ直ぐに見た。
声が出ない。
やっぱり、顔を上げてはだめだ。
下を向いたまま、大丈夫、と呟く。
電車をおりると、近くのパン屋の香りが鼻先に触れた。
今は、嗅ぎたくない。
思い出してしまうから。
あの色を、あの日の苦しみを、君を。
でも、口からは
「いい匂い」
自然と声が漏れた。
君はすんすんと鼻を鳴らして
「近くのパン屋か。あそこのメロンパン美味いんだよな。今から一緒に行かない?」
と首を傾げた。
祈莉がいなくなってから、あのパン屋には行けないでいる。
でも、今、行きたい、と思った。
「うん、行きたい。」
君は、大きく頷いて、足を進めた。
その後ろを追う。
「紬ちゃんって、メロンパン好き?」
不意に聞かれて、少しだけ考える。
なんと答えたらいいだろう。
「……普通かな」
本当は好きだ。
でも、それは祈莉と食べたメロンパンだからだ。
パン屋に近づく度に、匂いが強くなって、隣に祈莉がいた日々を思い出す。
パン屋に入ると、パンの並び方や雰囲気があの頃とあまり変わらなくて、懐かしさが込み上げる。
君は、メロンパンをトレーに乗せ、なんか食う?と聞いてきた。
メロンパンを、食べたい。
あの子の隣で食べた、思い出の味を、また噛み締めたい。
「私も、メロンパンで」
と言うと、君はもうひとつメロンパンを乗せた。
そのまま公園へと歩いた。
祈莉と最後の時を過ごした、あの公園へ。
坂道を登って、一本道をしばらく歩く。
見慣れた看板が見えた。
錆びたブランコに二人座り、メロンパンを出す。
カサカサとビニールをめくり、一口、また一口と頬張る。
なぜか、ブランコの軋む音が聞こえた。
隣を見ると、ブランコを漕ぐ君が、あの日の祈莉とそっくりで。
足をぐんぐんと力強く動かし、空に飛んでいきそうなほど高いところまで、あっという間に舞っている。
鼻から抜ける甘みに、涙が込み上げてきた。
月を見るふりをして、天を仰ぎ、何とか落ち着かせる。
本当に、綺麗な満月だ。
ふっと息をつく。
しっとりとしたメロンパンの欠片を、口の中で転がす。
すうっと息を吸うと、パンの甘い香りと、緑の匂い。
メロンパンに目を落とす。
変わらずにモノクロだけど、思い出だけで、美味しい。
最近は、色がない食べ物ばかりで、大好きなミートソースパスタも、灰色の砂利を食べているように感じていた。
このメロンパンは、久しぶりに食べた人間の食べ物のようだ。
味は変わらないのに、色がないだけで、こんなに気持ちが違うなんて。
もし、色が見えていたら、このメロンパンももっと美味しいんだろうな。
でも、私の頬を落とすには十分なほど美味しい。
なんで、こんなに美味しいんだろう。
そんな私の心を読んだように、
「メロンパンってさ、なんでこんなに美味いんだろうね」
と森宮くんが笑う。
君の髪が揺れる。
私は少しだけ視線を落とした。
昔、放課後の帰り道。
祈莉と半分こして食べたメロンパンを思い出す。
給食で残したパンの残りを二人で食べ切ったんだ。
あの子は、メロンパンの皮を剥いで食べる、変な食べ方をしていた。
一緒に食べる度に、変なの、って笑って、これが一番美味しいんだよ?と私に勧めてきたんだっけ。
「……そうだね」
君のメロンパンを見ると、皮が剥がれていた。
君も、皮から食べている。
はあ、なんでこんなに重なるんだろう。
ふっと笑みがこぼれる。
「変な食べ方」
いつの間にか声が出ていた。
君は口元に手を当てながら笑って、
「こうやって食べるのがいちばん美味いんだよ」
そのセリフまで、あの日々と重なった。
笑いが込み上げてきて、久しぶりに声を出して笑いこける。
人と関わるのって、こんなに楽しかったっけ。
勝手に避けてきたんだ。
明日を恐がって。
でも、今日が、ある。
いつかは来るその日まで、誰かの隣でこんな風に、昔を懐かしみながら笑いたい。
すごく大切なことに気付かされた気がする。
「そろそろ帰るか」
トスットスッと足を地面と擦らせる音が耳に届く。
君は、ブランコから軽々とジャンプして、私の方へ振り返った。
うん、と呟き、メロンパンの袋をカバンに入れる。
君は、私の家まで送ってくれた。
「また明日ね、紬ちゃん」
また明日、と言おうとする。
だけど、喉に蓋がしまったみたいに声が出せない。
まだ、怖いみたいだ。
絞り出したかすかすの声で、
「またね、森宮くん」
と手を振る。
またね、と言えただけで、私は嬉しかった。
少し、前を向けた。
ドアに手をかける。
ご飯を食べて、お風呂に入って、ベッドに潜る。
少しして、少し気になることがあった。
依緒莉。
祈莉。
似てる。
糸が一本に繋がったようで、息を呑む。
今思うと、君の好きなパンも、食べ方も、笑い方も、全部、全部、あの子と同じ。
もしかしてと思い、体を縮こませる。
そんなことはありえない。
そんな都合のいい解釈をする自分が醜くてしょうがない。
でも、考えずにはいられない。
君は、もしかして祈莉なの?
確かめないと。
祈莉なら、伝えたいことはたくさんあるから。
そして、目を瞑るといつの間にか眠っていた。
次の日の朝、駅に着くと君がいた。
君の顔を見るだけで、頬が緩む。
その瞬間、君に、色が付いた。
目を疑った。
見間違いであって欲しくて、何度も何度も目を擦る。
それでも君の色は消えなかった。
なぜかこぼれたのは、下手くそな笑みだった。
君も、いなくなっちゃうんだね。
さっきまで自然に笑えていたのに、笑い方が分からない。
私、どうやって笑ってたっけ。
手で口角をしっかりと上げる。
足をゆっくりと進めて、できる限りの笑顔で、おはよ、と声をかけると、君は勢いよく振り向いて、おはよって返してきた。
「あの、今日の放課後、あの公園で会える?」
そう聞くと、
「いいよ」
と、祈莉と同じ笑い方で頷いた。
それからは放課後までずっと上の空で、授業にはもちろん集中出来ないし、先生が話したことも、頭に残っていない。
ずっと君のことばかり考えている。
放課後の公園。
入口の大きな木の下に立つ。
涼しい夕風が吹く中、顔をしっかりと上げ、前を向く。
君はあの日の祈莉のようにブランコをこいでいた。
ゆっくりと、この前よりもかなり低い位置で。
その背中に、
「ねえ、祈莉」
そう声をかける。
君は何も言わずに、足を動かしている。
「祈莉、なんでしょ?」
そう発した時、君は足を止めて、ブランコから立ち上がった。
その後にゆっくりと振り返った。
その目は涙で揺れていて。
「あ、やっと、ばれた」
といつものように、昔の祈莉のように笑った。
そして、君は、私の方へ歩み寄ってきた。
本当は君のはずなのに、祈莉にしか見えない。
森宮くんが、長い髪、クリクリな目、柔らかな肌を持った祈莉に見える。
祈莉は、ふふっと笑って口を開いた。
「おそーい」
にこっと首を傾げて笑う。
つられて私の口角も緩む。
「ごめん」
そして、君の笑顔はぐしゃっと崩壊して、大粒の涙を流し始めた。
「……酷いよ紬。あの日、私は振り返ったのに、もう下向いちゃってるんだもん。ばーか。」
胸がつまった。
はっとした。
私が手を伸ばし、視線とともに下ろした時に、祈莉はこっちを見ていたんだ。
もう少し、長く、君を見ていればよかった。
「祈莉こそ、私も手を伸ばしてたんだよ?」
そう告げると、君は間髪入れずに
「いや、追いかけてよ」
と突っ込んできた。
テンポが懐かしくて、私も泣きそうだ。
「たしかに」
と笑う。
君は話し続ける。
「紬なら、追いかけてくれると思ったのにさあ。パン屋にでもよって謝ろうと思った朝には車に引かれるし。本当に最悪だったんだよー。」
「私も!私もパン屋に行くつもりだったんだよ!」
そう言うと、
「どっちも追いかけてないのに、考えてる仲直りの仕方が一緒とかすごすぎるね」
と君が笑った。
「ほんとだ」
と私も笑う。
祈莉に伝えたいことがあったんだった。
「祈莉。私、新しいことに挑戦するの!病院に読み聞かせに行くから。立候補したんだよ。祈莉のおかげで勇気が出たの。」
祈莉は笑って、
「へえ、いいじゃん。頑張ってね。病院って紬の高校の近くの?」
「うん、そうだけど、」
そう言うと、
「なら、もうすぐ会えるよ。」
と呟いた。
どういう意味か分からなかった。
どういうこと、と聞こうとしたけど、君の声に遮られる。
「でも!」
君が声を大きくして言い放った。
「でもね、一番最悪だったのは、私が死んだ後、紬は、命の限りを知りたい、なんて願ったこと。」
ビクッと背中が震える。
「願ってどうするんだろうと思ったら、人と必要以上に関わらなくなるし、全然笑わないし。そんなの、我慢できないでしょ?本当に何も出来なくって苦しかったんだから。」
そこで君はわざと頬をふくらませた。
でも、すぐに笑って、後ろを向いた。
「そんな私の惨めさを見兼ねて、神様は奇跡をくれたみたい。依緒莉くんね、私の事故の時、一番に助けようとしてくれたの。救急車呼んだりね。だから、お礼、言いに行こうって思ったら、彼、ちょっとね。魂の隙間を見つけたの。だから、神様が紬を救いに行かせてくれたみたい。私……依緒莉くんの体を借りて、」
そして、君は目を伏せて、短く息を吸った。
「救いに来たよ、紬。」
その後に君は後ろを向いて、大きく息を吸って、勢いよく振り返った。
一瞬見えた君の顔は、弾けるように笑っていた。
その勢いで髪が顔にかかり、表情が見えなくなる。
その時、勢いよく風が吹いた。
君のサラサラの髪が風で元の位置に戻っていた。
次の瞬間覗いた君の顔は涙でぐしゃぐしゃだ。
声が出なくて、
「ごめん、」
と掠れた声が宙を漂う。
深呼吸をして、
「本当にごめん、今まで、ずっと本当に。」
君はすぐ
「いいよ」
そう呟いた。
「あなたの、祈莉のおかげで、明日が分からない美しさを知れたよ。明日が分からないから、私は今日の尊さを知った。すごいでしょ?……いや、すごいね、祈莉。」
そう首を傾げる。
君はゆっくりと頷き、
「それは、私じゃなくて、紬が、頑張ったんだよ。なら、もう、大丈夫だね」
呟いたあと、君は透明になっていく。
指先が、足が、どんどん、どんどん。
涙が、今まで我慢した分、全部が溢れてく。
「待って、ねえ、お願い待って」
君に伸ばした手は、宙を掠めた気がした。
でも、確かに。
今度は手首を掴んでいた。
足に力が入らなくて、座り込む。
地面の砂が涙で滲む。
「なあに」
頭上から降ってきた声に、顔をあげる。
「ごめん、本当にごめん、祈莉。」
そう言うと、君はにこっと笑って、
「ごめんじゃなくて、」
と手を差し伸べてくれた。
「……ありがとう」
と発して、手を取る。
「私と出会ってくれて、親友になってくれて、また、逢いに来てくれて、本当にありがとう。祈莉、大好き。」
ふたりで見つめ合う。
君は頷いて、
「私こそ、ありがとう、大好きだよ、紬。」
君が眩しく輝いた。
反射的に目を閉じる。
しばらくして、目を開けた。
そこに、君はもういなかった。
その代わりに、色が戻っていた。
宵の淡いピンクと紺の空。
錆びている青と黄色のブランコや滑り台。
懐かしい。
あの日も、こんな空だった。
甘い香りが鼻を燻る。
胸いっぱいに息を吸い込み、私は公園をあとにした。
翌朝、いつも通り学校へと行く。
顔を上げて、世界に輝きを感じながら。
今日は、午前授業で、放課後に図書委員の仕事で、近くの病院の小児病棟に読み聞かせに行く日だ。
午前授業はあっという間に終わった。
のんちゃんと昼ごはんを食べる。
いつも一人で食べていたら、ご飯に誘ってくれた。
のんちゃんは三人組だから、迷惑かもしれない。
邪魔じゃないかな、って呟いてしまって、なわけ!って言ってくれた。
のんちゃんの友達もいい人達で、話が弾んだ。
祈莉のことを思い出して、あの日々のように、大きめのリアクションを取ったり、少しおどけてみせたり。お弁当箱を空にするのに、いつもよりうんと時間がかかった。
病院の自動ドアをくぐり、地図を持ったのんちゃんに着いていく。
途中で迷ってしまって、職員の人を探す。
そこで、お医者さんがたくさん集まっている、たしか医局だっけ。そんな場所を見つけた。
のんちゃんが聞きに行ってくれて、あっちだってと道を指さしてくれた。
歩いている途中、のんちゃんは、え、と呟いた。
「どうしたの?」
と尋ねると、
「いや、中学の頃の知り合いに似てるだけだと思うけど」
そう言って、集中治療室、と書いてある部屋の名札を見た。
「やっぱり、依緒莉だ。」
という声が聞こえて、依緒莉?もしかして。
私も部屋に近づく。
その中には、たくさんの医療器具に囲まれてベッドにぐったりと横たわり、深刻そうな顔をしたお医者さんと話す森宮くんの姿。
「森宮くん」
と自然と口に出た。
――森宮くん。集中治療室ってことは、ずっと意識が戻っていなかったの……? だとしたら、その魂の隙間に、祈莉が滑り込んで私に会いに来てくれたんだ。
自分の体が大変なときなのに、祈莉に場所を貸してくれて、私を救ってくれて、ありがとう。森宮くん。
そんなことを考えていたら、
「え?知り合いなの?」
とのんちゃんは驚いたような顔をした。
「うーん、一方的なもの、かな。」
と返したら、
「え、なになにー、一目惚れですかー。」
とにやにやしてきた。
ふっと笑って
「そんなんじゃないから。」
そう言うと、
「あやしー」
ってわざとらしく顎に手を当てている。
二人で笑って、図書室へと足を進めた。
小児病棟の子供たちはみんな元気そうだった。
車椅子に乗っていたり、点滴を手で押している子もいるけれど、みんなが希望を抱えたような眩しい笑顔だった。
思ったよりも楽しくて、のんちゃんとも距離が縮まった。
二週間くらい経った頃。
駅に入ったとき、前の人のポケットから、ハンカチが落ちた。
そのハンカチを拾う。
目を落とすと、息が、止まった。
水色の、ハンカチ。
筆記体で、依緒莉、と書いてある。
どくどく、と胸が騒ぐ。
依緒莉、くん。
本物なの。
学校に戻ってこれたんだ。
風が背中を押す。
手が、微かに震える。
前を向くと、依緒莉くんの後ろ姿が見える。
今まで会っていたのは、祈莉。
だけど、その後ろ姿で安心してしまう。
彼はもうホームへの階段を登っている。
小走りで追いつき、
「あの、落としましたよ」
とハンカチを差し出した。
「ありがとうございます。」
と君がハンカチを受け取る。
君は、驚いたような顔をして、私を見つめたまま、何も動かなかった。
「えっと、どうかしましたか?」
と聞くと、
「あのー、僕、この前まで入院しててねむってたんですけど、」
知ってますなんて言えなくて、続きを待つ。
「夢を、見てたんです。とても長い。夕焼けの中、女の子とメロンパンを分ける約束をしてたような。その人にそっくりなんです。あなたが、」
そう言われて、目尻が少し潤うほど嬉しくて、黙ってしまった。
「って急にごめんなさい。忘れてください。」
と、人懐っこく笑った。
今まで私といた君は、確かに祈莉だった。
そのはずなのに、笑い方は変わらなくて、少しくすぐったい。
ちょうどよく来た電車に乗り込む。
君の最寄り駅へと着く少し前も、君は私に話しかけてきた。
「また、逢えますか?お礼に近くのパン屋さんのパン奢らせてください!あそこのメロンパンまじで美味しいんですよ。僕、森宮です。」
と。
パンが好きな祈莉を思い出す。
ふっと笑みがこぼれる。
「いつも同じ時間に乗っているんだから、明日もきっと。私、紬です。」
柔らかに応えると、君は穏やかに微笑んで、
「よかった。それじゃあ、また明日。紬さん。」
と電車をおりようとした。
今まで言えなかった言葉。
でも、今なら言える。
君の背中をまっすぐに見ると、自然に頬が緩む。
すうっと大きく息を吸う。
喉の蓋はもうない。
「うん、森宮くん。また、明日」
やっと、言えた。
柔らかな風が頬を撫でる。
あの日、未来を知っていれば、後悔しなかったわけではない。
でも今は、
明日を知らないまま、
誰かに、また明日、と言える。
明日が来るかどうかなんて、誰にも分からない。
でも今は――
分からない明日が、恐くない。
それだけで、
私はもう、願わなくてよかった。
あの日はごめん、じゃなくて、
今まで、ありがとう、祈莉。
そう心の中で呟き、新しい世界へと一歩を踏み出す。
明日が分からない世界で、私は初めて今日を生きる。

